猫と詩人 佐々木幹郎

2019.9.5

21その手を噛むよ!

 

 冷蔵庫の扉を開けると、いつのまにか足元に、先程までコピー機の上で寝ていたはずのツイラク・ミーちゃんが坐っている。扉が開く音に気づいて、何か食べ物をもらえると思ったのだ。何もないよ、今日は。と言っても、その場を動かない。しかたがないので、料理用のカツオブシの小さな袋を開けて、皿に入れて出すと、またたくまに舐めてしまう。「猫にカツオブシ」という諺があるが、どうしてこんなにカツオブシが好きなんだろう。
 リビングルームで遅い朝食兼昼食をとっていると、隣の書斎のドアを首で押し開けて、眠そうなミーちゃんが顔を出す。わたしが坐っている椅子の足元で、しばらくぼんやり、閉じたままの玄関のドアの方向を見ている。外出したいのだろうか、と思う。そのうち、いつのまにか、わたしの動いている口元をじっと見上げている猫の両眼に出合う。そのマスカット色のふたつの瞳を見ていると、彼女が外出する前に、また、何か食べ物をあげずにはいられないではないか。
 と思えば、椅子に坐ったわたしのふくら脛に、尻尾をわずかに巻きつけてくる。あるいは、額をこすりつけてくる。ミーちゃんのニンゲンに対する最大の親愛の情の示し方だ。空気のカタマリのように、いまここにいるよ、というサインだ。
 椅子から手が届く限り、彼女のアタマを触り、背中を触る。両眼を閉じて、小さく喉をゴロゴロと鳴らしている。こちらが飽きて手の動きを止めると、垂れ下がったわたしの手に右の頰をこすりつけ、次に左の頰をこすりつける。自分の匂いをわたしの手につけているのだ。なんどもそれを繰り返すので、いい加減にしなさい、とミーちゃんの尻尾をつかんで引っ張ってやる。彼女は前足の爪で床をつかんで、逃げ出そうとする。そして、いきなりふり返って、わたしの手を噛む。おお、獣! 

 

ああ ちっちゃな赤狐
赤 あか まっかっか
なぜか おまえは 今も気づいていない
どんなに遠くまで逃げても
おまえがたどりつくのは
結局 毛皮屋の店先


わたしたち詩人だって
おまえとかわりはしない
ジョン・ベリマンのいうのには
ゴットフリート・ベン曰く
詩人の僕ら 皮膚を壁紙に使う
そして結局 負けるのが定め

でも これは毛皮屋への警告
汝 心せよ
今 手の中にいるのは
おとなしい野兎なんかじゃない
山から下りてきた
赤毛の狐
餌をくれる手を
噛むんだよ わたしは
(ヌーラ・ニー・ゴーノル「狐」、大野光子訳)

 

 アイルランドの詩人ヌーラ・ニー・ゴーノルが猫好きであることは、第14回「アイルランドの猫」でも紹介したが、彼女が狐について書いた詩である。小さな赤狐はどんなに逃げても毛皮屋につかまって、その皮を店先に吊るされる。詩人も一緒。 自分の皮膚を壁紙にするように、皮膚に詩を書く。そのことによって、この世に勝つわけではないけれど。でも、世の中の毛皮屋(あるいは権力者たち)よ、注意しなさい。あなたたちが餌をやって、手なづけたと思っている赤狐は、その手をいきなり、噛むよ!
 ヌーラは小さいころ赤毛だったため、からかわれることが多かった。冒頭の二行はアイルランドの童謡から取られている。「ああ ちっちゃな赤狐/赤 あか まっかっか」という歌をうたって、仲間からいじめられたらしい。わたしはツイラク・ミーちゃんがわたしの手を、半ば本気で噛むとき、この詩の赤狐と一緒だ、と思い返す。
 わたしが子どもの頃、町に「猫取り」がやってきた、という噂が広がるときがあった。その日からしばらく、いっせいに町から猫の姿がなくなることがあった。猫の皮は三味線に使われるらしい、と子どもたちは囁き、わたしたち悪童は、声をかけあって、その怖い「猫取り」を探しに町中を歩き回ったが、ついに見つからなかった。
「猫取り」という言葉は、ドイツのグリム兄弟が伝えた物語「ハーメルンの笛吹き男」と同じように思えた。笛吹き男は、最初はネズミを退治するために町に雇われ、笛を吹いてネズミを誘い、川に溺れさせて退治した。しかし、約束していた報酬がもらえなかったので、今度は笛を吹いて町中の子どもを連れ去り、洞窟に閉じ込めた誘拐犯である。
「猫取り」を怖がりながら、その捕獲の現場を探そうとした子ども時代のわたしは、「ハーメルンの笛吹き男」に誘われたドイツの子どもたちと同じだったかもしれない。笛の音色に魅力を感じただけではなく、恐ろしいものを見たいと思って、ついていったわたしのような子どももいたに違いない。
 日本の三味線は猫皮と犬皮を使っているが、現在は、そのほとんどが海外からの輸入だという。どこの国の猫の皮だろう。可哀そうだが、猫の皮は犬の皮より薄く、三味線はやさしい音色を奏でるのである。

 

(第21回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年9月20日(金)掲載