猫と詩人 佐々木幹郎

2018.11.20

05猫が教えてくれること


 猫が教えてくれることのなかで、最も大きなことは、「眠る」ことの大切さである。人生は眠ることに尽きる! と猫は言っている。いや、そんなことを言うはずはないのだが、眠っているときの猫の顔ほど、可愛いものはない。その丸く裂けた口元。ピンクの鼻。両頬から伸びる細い髭たち。あるいは球形となって丸まっている背中。毛に包まれて丸くなっている猫は、生きている人形だ。
 それらの姿が、この世の苦しみや不安など、すべてどうでもよい、ということを教えてくれる。 可愛いね、と思わず声をかける。そのまま顔を近づけ、ミーちゃんのオナカに耳をくっつける。心臓の鼓動が聞こえてくる。人間の鼓動よりもずっと激しい。血の通う音が温かい。そのままミーちゃんの身体の上に、顔を乗せてじっとしていると、彼女は眼を薄く開けて、不思議そうにわたしを見る。何をしているの? 
 そして、ふいに母親のような表情をするのだ。両眼には柔和な慈愛たっぷりな光りがある。彼女はわたしよりもずっと年上なのだ、と錯覚してしまうような。するとわたしは、いつまでたっても駄目な子どもで、こんなふうに母親に甘えているのだと、いつも思ってしまうのだ。
 そこで、子猫が母親のおっぱいを飲むときのように、彼女のオナカに並んでいる小さな乳首を、次々に触る。子猫が何匹もいるように。ミーちゃんはそのわたしの手の甲をザラザラした舌で、何度も何度も舐めてくる。まるで自分の生んだ子猫の毛を舐めるような優しさで。それが、彼女のわたしへの愛情の表現なのである。わたしが手を離すと、そのまま自分の毛を舐め続ける。
 それからゆっくり寝返りを打って、再び眠りだす。今度は手足を紐のように長く伸ばして、ディープ・スリープに入る。たとえいま、世界中が壊れてもよろしい。眠ることはすべてに優先する。

IMG_3010
 ツイラク・ミーちゃんは、いつも寝ている。二十四時間のうち二十時間は寝ているのではないだろうか。外へ出て歩き回るのは、一日わずか四時間くらい。
 そんな日常生活をニンゲンが続けたら、足腰が弱るではないか。寝たきり老人になるではないか、というふうに考えてしまうのは、わたしがいつもパソコンの前に座っていて、そのおかげで足腰が弱い老人になったからだろうか。
 それにしても、猫はいくら寝続けても足腰が弱らないのはなぜなのか。寝ているミーちゃんの後ろ足の筋肉を触ってみる。しっかりとたくましい筋肉がある。彼女は、触るな、と言って、足を縮める。
 ツイラク・ミーちゃんがわたしのベッドの上で、両手を前に伸ばし、両足を後ろに伸ばし、おまけに尻尾も一直線に伸ばして「紐」になっているとき、ストレスがまったくない、ということを全身で伝えている。未来のことなんて考えない。もちろん過去のことなど忘れている。いま、だけがある。しかし、そもそも猫には時間なんかないのである。
 なぜニンゲンは、時計を中心とした「時間」なんてものを大切にするようになったんだろう?

  菜の花や月は東に日は西に

 与謝蕪村の有名な俳句を思い出す。菜の花が黄色く咲き乱れる夕暮れ、東に月が昇る。西に夕陽が沈む。近世の農民たちは時計など持っていなかった。月が昇り太陽が沈むのを見て、農作業をやめた。そのときの菜の花の美しさ。
 そうだ、猫はいつも、この菜の花の位置で眠っているのだ。蕪村と同時代にこんな俚謡もあった。

  月は東にすばるは西に
  いとし殿御(とのご)は真ん中に

 『山家鳥虫歌(さんかちょうちゅうか)』という近世の俚謡集にある盆踊り唄だ。東に月が昇ってきたとき、西に「すばる」星が昇り、その真ん中で恋しいオトコが夕暮れのなかでシルエットになっている。なんという雄大な、オンナからうたわれた恋愛歌だろう。おそらく蕪村の菜の花の句は、この俚謡を踏まえている。
 ともかく、突然、蕪村の句を出してきたのは、菜の花の位置に恋しいもの(猫)がいる、とわたしは言いたかっただけなのだ。
  ニンゲンはどうして、時間なんかに追われて、いつもストレスをためているのだ? 

 

(第5回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年12月5日(水)掲載