2000万円足りない人の、とりあえずの500万円 佐藤治彦

2020.11.7

13松田先生の分厚い手紙

 

 若い時の過ちや失敗の多くは仕方ないとしても、年齢を重ねてからの過ちは本当にダメージが大きい。今から10年と少し前の秋にしてしまった失敗は取り返しがつかない。私の心の傷として残っているものです。

 この連載の趣旨とは違うのですが、担当の編集者のAさんが、佐藤さんの好きなことを書いていいといつも言ってくれるので、今回はそれに甘えたいと思います。私の心の傷を今回は書きたいと思います。読んでいただいてもすぐに経済的に得することはありません。それでもいいよ、読んでみると思ってくださると嬉しいです。

 今から子どもの頃の自分を思い返すと赤面するというか、本当に困った子どもだったなあと思うのです。個性が強いというレベルの問題ではなく、もしも僕が周りにもうひとり僕がいたら殴ってやりたくなると思うのです。自己主張が強く、生意気で、周りの空気を全く読まない。それでいて、子どもの割に権利意識が強く、成績もそこそこよい。なんでも自分でやりたがる。失敗したり負けたりすると他人がいようが声を上げて思いを発散させる。高度成長期の45人も子どもがいる小学5年、6年のクラスにそんな子どもがひとりでもいたら、担任の先生はどんなに大変でしょう。

 僕は前の年の小4の時の学芸会でやらかしてしまっていました。

 300人くらいの小学4年生と父兄が体育館に集まり、3時間以上も続く学芸会の総合司会に手を上げてさせてもらうことになりました。

 子どもの司会というのは、次は「4年2組アリババと40人の盗賊です」。こう一言だけ話して引っ込むのが仕事です。ところが、僕の司会は違っていた。マイクを持ちながら、いったいどんな話なんでしょうかね、楽しみですね。などと舞台転換の間をつなごうとする司会です。幕の裏で大道具を運ぶ音がすると、ちょこっと覗いて、すごい美術が運び込まれています! うぉっ! などと余計なことを山ほどいう。もちろん、それが会場の父兄や子ども達には受けるのです。そのうち、会場の同級生、つまり子どもたちにインタビューしたり、みんなで歌う時間にまで、ひとり舞台の上で山本直純という当時有名な指揮者の真似をして、歌いながら指揮をしたりした。「真っ赤な秋」でした。会場の雰囲気はいいのですが、先生の中には、目立ちすぎの僕に腹を立てて、ジェスチャーで止めろ、いますぐやめ、と合図を送る先生もいました。特に目立ちたがり屋の音楽の先生は怒っていました。僕は無視をして最後まで司会を楽しんだ。きっと問題児として烙印を押された一日となったはずでした。

 そんな僕を拾ってくれたのが、小学56年の担任だった松田邦雄先生です。4年の終わりのクラス分けの時に、どの先生も、あの佐藤治彦だけは嫌だと言っていたのを、変わった子どもだけどと拾ってくれたと思うのです。僕が担任なら絶対にお断りです。他の子どもの何人分もの手間がかかります。そんな僕を拾ってくれたのです。

 松田先生は、自分のクラスを松の子学級と言っていて、僕らは松の子10世でした。ちょうど担任10回目の生徒ということです。昆虫、それも蝶々が大好きな先生で、1970年代の初めで、まだ海外旅行が珍しい時代に、夏休みにはニューギニアまで蝶々の採集に出かけたりしていた先生です。秋になると、それをクラスに持ってきてくれて、見たことのない大きな極彩色の蝶々を見せてくれた。その松田先生に今から思うと、本当に素晴らしい2年間を作ってもらったと思うのです。例えば、松の子学級にはクラスの歌があり、毎朝みんなで合唱します。それはクラスの中で作詞作曲したい人が作ってみんなで投票で決めるのです。もちろん、僕も作った。ひどい歌です。前進だ~~! っていう掛け声みたいな歌詞で始まる軍歌みたいな歌です。候補は2曲あって、24票対22票で負けた。たった2票で負けて落ち込んでいると、松田先生は、佐藤くんの歌も一緒に歌おうと、2年間、毎朝2曲歌ってくれたのです。

 社会に対する意識を高めるためか、子どもたちに自分で新聞を作っていいよとガリ版刷りの新聞の発行をさせてくれました。僕は毎週出しました。汚い字で読みにくかったと思うのですが、毎日小学生新聞からの抜粋と、自分で漫画を描いて発行した。2年間で60回くらい出した。

 松田先生はNHKの教育テレビで理科教室の講師をしばらく勤めたこともあり、クラスの子どもたちが何人か呼ばれて出演する。それにも出してもらったことがあります。生まれて初めて出演するためにテレビ局に出かけ、今と違って本当に手作りで作られていた頃で、出演を楽しむだけでなく、テレビ番組ができる裏側を見せてもらって本当に楽しかった。その日はてこの実験をする子ども役で3シーン出してもらいました。声の出演が今もご活躍の野沢雅子さんで、リハーサルの後で、NHKの食堂でカレーライスを食べながら、「ゲゲゲの鬼太郎」の話をしたら、大喜びしてくれて色紙にサインをくれました。生まれて初めてハイヤーに乗ったのもその日で、帰りがけにもらったNHKのロゴ入りの立派な文房具セットは大切に中学卒業までそばに置き、いつかこの世界で働く人間になりたいと決意したものです。

 僕は成績が良かったので、授業の多くはもうわかっていることばかりです。特に学習塾に通い中学受験をしようと思っていたので、松田先生が次にどんな説明をするのかもわかっていて、先回りして一番後ろの席から小声で、こんなこと言うよ、ああ説明するよって、推理小説の犯人やトリックを先回りして言うような子どもだったのです。そんな僕を叱りもしませんでした。先生は授業が本当にやりにくかったと思います。

 松田先生に叱られたことは本当に数少ないです。

 僕は小学6年生の前半だと思うのですが放送委員会に属していて、週に一度ほどお昼の放送の担当をしていました。家にあるクラシックのレコードや、ディズニーのお話のレコードを持ってきて、かけていた。オープニングの後には、「今日はチャイコフスキーのくるみ割り人形です」とか、「今日はダンボの前半です」と話してレコードをかけるわけです。ところが、ずーっと続けているとネタがなくなってくる。同じレコードをもう2回もかけている。さてどうしたらいいものか? 困ってしまいました。そこで、僕はある時、父親が持っていた軍歌のソノシートを持っていき、お昼の放送でこうやったのです。「今日はいつもとちょっと違ったものを紹介します。パチンコ屋さんから流れてきて知ってる人も多いと思います。ではお聞きください。軍艦マーチです!」とやったのです。音楽が流れて1分と少しのところで、松田先生が放送室に飛び込んできた。靴を脱いでスリッパにしなくてはいけない放送室に入ってきて、大声で「すぐにヤメろ!」と言って放送は中断された。針が跳ぶ音でその日のお昼の放送は終わったのです。僕はピンタもされました。松田先生が僕に手を挙げたのはこの時だけです。

 松田先生は哀しそうな顔をして、「ジャンボ、よく考えろ!」と言った。ジャンボというのは僕のニックネームで、5年生の初めに背も高く太り気味だった僕のことを、松田先生がそう名付けてくれて、学年中に広まったあだ名で、学年全員が僕のことをジャンボと呼んでいました。

 いつも優しい松田先生が鬼の形相で飛び込んできてピンタして放送を中断させた。よほどのことをしてしまったのだと僕は思ったのです。今から思うと松田先生は戦争時代のことを知っている先生です。子どもたちに、戦争だけは経験させたくない。戦争で死ぬような世の中にしたくない。そういう思いで教師をしている先生なのです。放課後、職員室に謝りに行きました。そして、どう赦してもらったのか、僕がどうなったか覚えていません。

 叱られたことがもう一つあります。先に書いたように、僕はガリ版刷りの新聞を出していた。毎日小学生新聞で気になった記事を自分なりに書き直しているものが多いので、経済や社会に関することも書いているわけです。松田先生は、僕のような問題児もクラスに入れた。他にもいろんなタイプの子どもがいて、すごく成績の悪い子もいるわけです。そういう子どもが思い切って新聞を出したことがあって、それはA4のわら半紙に50文字くらいしか書いていない落書きみたいなものでした。それを僕は馬鹿にした。そしたら、松田先生にこっぴどく叱られた。松田先生は、そういうことは絶対に見逃さない。許さなかった。クラスには一人、少し知恵遅れの子もいて、いつも小さくなって生きていました。そのクラスメイトをいじめたりすると心から叱る。逆に優しくすると、嬉しそうな顔をしてるそんな先生でした。

 こんなこともありました。僕は運動は苦手でなかなか25メートル泳げなかった。松田先生は応援はするが、しごいて泳げるように無理くりさせることは一切しない。それでも、僕は「ポセイドンアドベンチャー」という豪華客船が海原でひっくり返り、生き残った乗客が必死のサバイバルをするという映画をみて、泳げないといざという時に死ぬしかないんだと悟ってから、なんとかここはクリアしないといけないと必死だったのです。問題は明らかでした。息継ぎがうまくできないから10メートルくらいで立つしかなかったのです。泳ぐ動作に息継ぎを同時することができなかったわけです。そこで、僕は夏に豊島園(2020年秋に閉園したのでご存知でしょう)流れるプールに出かけて練習しました。そこでなら、体は流れているので、大して泳がなくても流れに体を任せ、息継ぎだけ練習して、息継ぎができるようになってから、本格的に腕をかきバタ足で進む泳ぎを加えるという練習をしてみたのです。あっという間に泳げるようになった。夏休みが開けると僕は25メートル泳げるようになっていて、松田先生は本当に喜んでくれて、年賀状に本当によくやったと書いてくれたものです。僕が今でも近くのジムに週に2回泳ぎに行くのも、それぞれの子どもの能力が育つのを遠くからじっくり見守る。そんな松田先生の教育方針のおかげだと思うのです。

 いろいろと考えると、今の僕を形成している、いろんなきっかけがあの小5と小6の2年間にあったのです。そこで芽を潰さないでくれた。でも人としてやってはいけないことだけは、ピシッと叩き込んでくれた。それが松の子学級でした。

 僕は31歳の時に放送作家の見習いのようなことから放送業界に入り、すぐに出る側に変わりました。モノを書くようにもなりました。そうして生きてきました。人生ですからいろんなことがありました。自分で満足できない部分や、後悔も山ほどあります。でも、何とか生きてきました。放送に出るようになって、いろんな人が声をかけてくるようになった。たいてい興味本位で人の生活に土足で踏み込むようなことを聞いてくる人も少なくない。いろんなことを値踏みもされる。その度に嫌な思いをします。まあ、放送に出るっていのはそういうことだろうと受け入れてはいますが、いい気分ではありません。それが同窓会でも同じで、楽しい気分で帰ったことはなかったのです。

 今から20年ほど前から、何回か松の子学級の同窓会のお知らせが来るようになりました。考えてみると卒業してから、お世話になった松田先生に年賀状も出さないままでしたし、引っ越しもしていましたから、僕の住所も分からなかったのだと思います。それに、小学校時代の同級生にあったらどんな顔をすればいいのかも分からない。小学5年生から高校卒業まで密かに思っていた女の子がどうなっているかには興味はあったのですが、毎回欠席しました。

 それがある同窓会の連絡のときに分厚い松田先生の手紙が入っていました。僕がテレビやラジオなどで活躍しているのを心から喜んでいる。会いたいから、都合をつけて出てくれないか? もう高齢なのでいつまで同窓会をできるか分からないとも書いてあったのです。小学生の頃を思い出し、胸が熱くなりました。それでも、僕は欠席したのです。却って、その手紙が重かったのかもしれません。また、当時はそれ以前と比べると放送に出る頻度も減っていて、街を歩いているときに、見知らぬ人から、「この頃出ないねえ」なんて嫌味を言われたりして、うんざりしていた頃なのです。私生活でもいろんなことがあった。だから、あまり人前に出たくない時期だったことも影響していると思います。僕が小学生の時の同窓会に出たら、どういう状態になるのかも十分に予想できて、面倒だなとも思ったのです。先生の思いよりも、僕は自分のことを優先したのです。

 40代の終わりの話です。

 それから同窓会の連絡は来なくなりました。あれから、もう10年以上経ちます。僕は本当に酷いことしたと思うのです。あれほどお世話になった恩師が、自ら会いたいと丁寧な手紙をくれたのに、断った。若い頃の失敗や間違いではありません。もう齢を重ねた後に人の心を踏みにじるようなことをしてしまったのです。申し訳ない気持ちでいっぱいです。今では、先生が生きておられるのか、元気でおられるのか、分かりません。

 松田先生、松田邦雄先生。お元気でしょうか?

 僕は先生からお誘いがあったのに、同窓会の出席を断ってしまって、心から後悔しています。どんなことがあっても出席するべきだった。小学生の時に、クラスメイトにもあんなに迷惑をかけたのだから、少しくらい嫌なことがあっても笑って受け流せばいいだけでした。それよりも、先生に直にあって当時のお礼を言う機会を逃してしまいました。そんな自分が嫌でたまりません。どうも、あの小学生の自分から僕はあまり成長できていないようです。それが今回のことでよく分かりました。僕は暮らしていけるだけの収入があれば、あとは人に優しく、特に困っている人、弱い人に、社会の光りが当たってない人に心を込めて接すること。そういう人になりたいと思って生きています。そういう気持ちのタネを蒔いてくれたのは、松田先生でした。水をかけてくれ、雑草を抜いてもくれました。自分はいまだに未熟で間違った判断をする。してはいけない判断もするんだと、後悔しながら生きています。

 本当にすみませんでした。そして、本当にありがとうございました。

 会えるものなら、先生に会いたいです。時々先生から頂いた分厚い手紙を思い出して、頭を抱えています。僕は多感な小学5年と6年の時を、松田先生の松の子学級に入れてくれたことを、心から感謝しています。


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(第13回・了)

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2020年12月7日(月)掲載