戦争と移民とバスタオル 安田浩一・金井真紀

2021.3.25

11神奈川/寒川篇2・相模海軍工廠の毒ガス爆弾

 

 

▽金井真紀

 

 

液体毒ガス兵器「イペリット」

「かつて寒川にあった相模海軍工廠で、毒ガスをつくっていたと聞きました。それに関連する資料はありますか?」
 安田さんとわたしが寒川文書館に勢いよく飛び込むと、館長の髙木秀彰さんが穏やかな表情で応対してくれた。
「ええ、ひと通りの資料は揃っていますよ」
 閲覧室にほかの利用者はいなかった。窓から冬晴れの空が見えた。向かい合って座ると髙木さんは、「あのう、最初にちょっとお伝えしておきますけれども……」と断って、ご自身は「毒ガス」ということばの取り扱いについて気をつけているのだと語った。
 寒川町で毒ガスをつくっていた、と大雑把に言うことを嫌がる町民がいる。たしかに「毒ガス」ってずいぶんざっくりしているし、得体が知れなくて怖い。だから髙木さんたちは「イペリット」などと具体的な名称を言うように心がけているのだとか。
 相模海軍工廠でつくられていた「毒ガス」の正体はイペリット。その呼称はベルギーの都市イーペルに由来する。第一次大戦の激戦地で、ドイツ軍が初めてこの化学兵器を使った場所がイーペルなのだ。このイペリット、「ガス」といいながら常温では液体で、触れると皮膚がただれ、吸い込むと気管支や肺にひどいダメージを受ける。主な使用法は、砲弾に詰めて空中で爆発させ、その恐ろしい液体を空からばらまくというもの。風上でこの兵器を使えば、風下の広い範囲に甚大な被害が出る。市民が巻き込まれると、とんでもなく悲惨なことになる。それで第一次大戦後、化学兵器の使用は国際協定(ジュネーブ議定書、1925年)で禁じられたのだった。にもかかわらず、日本軍はこそこそ隠れてイペリット爆弾を製造していた。
「戦時中、陸軍は広島県の大久野島(おおくのじま)という離島でイペリットをつくっていました。当時、大久野島は日本地図から消されていた。それくらい極秘事項でした。一方、海軍がイペリットを製造していたのが寒川。やはり徹底的に秘密にされていて、ようやく真相が語られるようになったのは戦後ずいぶん経ってからでした」
 相模海軍工廠では、1941(昭和16)年から1944(同19)年までの4年間で約500トン、砲弾にして約4万3000発のイペリット爆弾が製造されていたことが判明している。
「多いときには3000人が働いていたようです」
 髙木さんはそう言いながら、冊子を出してきた。寒川町では1985(昭和61)年に寒川町史編纂事業がスタート。若き日の髙木さんは、先輩とともにかつて海軍工廠で働いた人を訪ね、丁寧な聞き取り調査を行ってきた。その成果がこの冊子「寒川町史研究」に収録されている。

 

「白紙」で徴用された若者たち

 まず驚くのは、相模海軍工廠で働いていた人の幅広さだ。薬学を学んだ技術者、全国各地から徴用されてきた男性、近隣の町ごとに集められ「女子挺身隊」と呼ばれた若い女性、高等女学校や旧制中学ごとに集められた勤労動員学徒、それに朝鮮半島出身の徴用工もいた。
「イペリット原液の製造と砲弾への充塡がもっとも危険な作業でした。それは徴用工員が当たっていたようです」
 と髙木さん。
 日本政府は1938(昭和13)年に国家総動員法を、翌39年に国民徴用令を公布して、軍需産業に携わる国内外の労働力として職業・年齢・性別を問わない国民の徴用を可能とした。戦況が厳しくなると、若い独身者はもちろん、年かさの既婚者もどんどん徴用された。
 わたしはこれまで、「赤紙」と呼ばれる召集令状が届いて軍隊に入らなければならなかった人の話を聞いたり読んだりするたびに、あぁ、もし自分だったらどれだけ絶望するだろうかと暗い気持ちになった。戦地に行って、上官に殴られ、食糧の補給もなく、なにより敵を殺さなければならない。まわりの人は出征おめでとう! とかバンザーイ! とか言うだろうが、これほどめでたくないことってあるだろうか。
 だが今回、「白紙(しらがみ)」が届いて徴用されるのもつらいことだと思い知った。限りある人生の時間を奪われ、軍施設などで寮生活を強いられ、慣れない作業に従事させられる。多くは人殺しの道具をつくるのだ。相模海軍工廠でつくっていたのは、イペリット爆弾のほかに焼夷弾や三式弾といった火工兵器、防毒マスクや除毒剤。物資が不足してくると、こんにゃく糊と和紙を使った風船爆弾なんてものまでつくらされた。そして、無事に帰れる保証はない。

 

第二工場での恐ろしい労働実態

 徴用工として相模海軍工廠に送られ、イペリット爆弾をつくる部署に配属された河中修厂(しゅうえい)さんの話が壮絶だ。
 1924(大正13)年、福井県の大工さんの家に生まれた河中さんは、高等小学校卒業後に上京し、東京・神田の金物商に勤めた。金物をリヤカーに積んで、それを自転車で引いて、都内を元気よく走り回っていた。戦局が悪化していた1944(昭和19)年6月に徴用された。19歳だった。配属されたのは相模海軍工廠の第二工場。以下「寒川町史研究」第8号(1995年)より引く。

 作業はこういうことをしていました。第一工場からパイプで原液を送っていったものを、タンクのなかへ入れる。そのさい、四メートル四方のガラスでぜんぶ仕切った作業場があるのですが、そこに穴が二つあるんです。その穴に手袋をした手をいれ、防毒用のマスクをして、完全にゴムガッパを被って爆弾の信管にイペリットの原液を詰めるわけです。五〇センチメートルの高さに、直径三〇センチの真ん中にイペリットを詰めるようになっていたのです。この原液をいれる作業は三〇分やって、一時間休みというサイクルでやっていました。(中略)
 夏の暑いときに、汗がでるでしょう。ところがもう悪いことというか、自分の体を守らなければいけないのに、防毒面のところに一円ほどの小さい玉を一つ入れるんです。そうすると、そこから通気がいくらか入るものだから、楽なんです。それをしたら自分が肺をやられるのもわかっているんですが。やっぱり暑くてたいへんだから。それで吸い込んで、要領の悪いのは、僕らのように働いているうちに、五人も六人も死んでいます。

 河中さんが相模海軍工廠にいたのは1年ほど。その間だけで5、6人の死者を見たというのだ。当然、亡くなった人のことはどこにも記録されていない。

 工廠内の運動場で、いろいろな体操などをして、解散といってみんな散らばる。ところが僕らが働いていた第二工場と第一工場のものはかけ足ができないんです。ほかの工場のものはみんなかけ足でダーッと散らばるんですけれども。かけ足したらもう咳き込んで、もうそこで一〇分か二〇分、みんな咳が止まらないんです。肺をやられてしまっているものだから。

 1945(昭和20)年5月、河中さんは軍に入隊するため寒川を離れる。ところが石川県の小松海兵隊に入隊直後、雨の中で作業をしたら3日間40度の高熱が続いて病院送りになってしまう。イペリットを吸い込んだ後遺症だった。そしてほどなく終戦を迎える。
 戦後、河中さんの体が元に戻ることはなかった。家業を継いで大工さんになったが、土壁を解体するときに埃を吸うと咳が止まらなくなった。雨が降ると高熱が出た。徴用される前は、荷物満載のリヤカーをつけた自転車を元気よく漕いでいたのに、その後の生涯で走ることは二度と叶わなかった。

 

東北や朝鮮出身者も危険な現場へ

「第二工場では、やばいものをつくっている」という噂は、海軍工廠に勤めていた人はみんな耳にしていた。「寒川町史研究」に収録された聞き書きや座談会の中でも、再三そのことが語られる。

●第二工場の人は顔が黒くただれてボコボコで、目は真っ赤に充血していた。
●耳が溶けたり、鼻が半分だめになったりした人もいた。
●第二工場で作業をする人が休憩で日向ぼっこしていると、風が吹くだけで(毒ガスの)匂いがした。近くを通ると目がしょぼしょぼした。
●運動場に集合するときも、第二工場の人は全力で走ることができず、少し動くだけで咳き込んで、血を吐いていた。

 誰の目にも、第二工場がまともじゃないことは明らかだったのだ。
 第二工場で働かされたのは、一体どういう人たちだったのだろう。女子挺身隊のメンバーだった女性たちの回想では、秋田や新潟から徴用されてきた人が第二工場でイペリットを製造していたことが語られている(「寒川町史研究」第10号、1997年)
 1985(昭和60)年9月、かつて動員学徒として相模海軍工廠で勤労した学生160人が集まった。その席上で、当時女学生だった主婦がこんな発言をしたという。
「朝鮮半島から来ている少年工の人たちがいた。毒ガス工場にいたのでしょう。初めのうち『おはよう』と無邪気にあいさつしてくれたのが、次第にすれ違っても下を向いたきり。まぶたがはれて、赤黒い顔になって、服もぼろぼろ。娘心に胸が痛んだのが忘れられません」(「寒川町史研究」第6号、1993年)
 ううう、つらい……。相模海軍工廠でイペリット製造に従事したのは、各地からはるばる集められた徴用工だった。作業中の事故で亡くなった人や、共済会病院の寒川分院に送られてそこで亡くなった人の死は、遺族にどういう形で伝えられたのだろうか。戦後、地元に戻って後遺症に苦しんだ人も多かったはずだ。長らく健康調査が行われるわけでもなく、周囲には事情を理解する仲間もいなかった。国の補償に繫がった人はごくわずか、それも戦後50年以上経ってからだ。元に戻らない自分の体と向き合った人たちの孤独を思うと、ことばもない。
 最後に、『花もつぼみも 相模海軍工廠勤労動員学徒の回顧録』(1989年刊)から印象深いエピソードを紹介したい。

男子生徒ばかりの宮前寮に、途中より朝鮮半島からの徴用工が入ってきた。(中略)素足にゴム靴、勿論家からの仕送りの食糧や布団などありようがない。寒さと飢餓感は我々以上である。その様子は見るに耐えぬ程気の毒だった。(中略)それが一日、見違えるばかりに溌剌とした。その日は晴天で、本部前の大運動場で日本の工員とサッカーの対抗試合が行われた。両方とも素人の混成チームだが、蹴球を国技のようにする朝鮮・韓国である。蹴り上げる角度もスピードも違う。一方的に得点を重ねる。その度に肩を抱いて喜ぶ。大差で勝ち、歓呼を爆発させようとしたとき、リーダーの何人かの青年がグラウンドを走り抜けながら、手でそれを抑えた。日本チームに勝ちすぎ、その上今までの鬱憤を晴らすかのように気勢を上げれば、今後の関係が更に悪化すると判断したためのようにおもわれた。僕はこの情景に植民地民族の悲哀と、リーダーの苦衷を知って粛然とした。(豆陽中学・飯田十郎氏の回想より)

 相模海軍工廠で行われたサッカーの日韓戦。ここに出てくる朝鮮半島から連れてこられた徴用工は、はつらつとプレーできたのだから、イペリットの作業をしていた人たちとは別だろう。無事に終戦を迎えることができただろうか。戦後、元気に生きただろうか。ときどき、この日のサッカーの試合のことを思い出しただろうか。

 

57年後に姿を現したイペリット

 髙木さんの説明を聞き、資料をガシガシとコピーさせてもらって、安田さんとわたしは寒川文書館を辞した。
「いまどうなっているのか、ちょっと見にいきましょうか」
「行こう行こう」
 視界の端をコメダ珈琲店の看板がかすめたが、わたしたちはシロノワールの誘惑を物ともせず、南西に向かった。寒川駅前の住宅地を抜けると、広大な工場地帯が広がっていた。
「この辺り一帯が、相模海軍工廠だったわけですね」
 大きな化学工場の先にまた別の化学工場。冬空にそびえる煙突が、白煙をもくもくと吐き出している。通行人の姿は一切なく、時折トラックが行き来するのみ。殺風景な通りをさらに進んでいくと、自動車道路の高架が見えてきた。
「あれが圏央道か!」
 安田さんが声をあげた。
「事件現場はあの道路の下ですね、きっと」
 わたしたちは向かい風に逆らって、ガシガシと歩いた。
 事件が起きたのは、2002(平成14)年9月25日。さがみ縦貫道路(圏央道)の工事現場から液体が入った古いビール瓶が出てきた。掘削作業中だったため、瓶の一部が破損した。すると、その場にいた作業員11人の顔、胸、足などに痛みを伴う水ぶくれができ、喉の痛み、視野狭窄、下痢などの症状が出たのだ。後日、防衛庁の分析で、ビール瓶の中身はイペリットなどであることが判明する。相模海軍工廠の遺物にちがいなかった。
 国土交通省の調査で、現場から毒入り瓶11本を含む約800本が見つかった。環境省は事件の翌年、この場所を旧日本軍の化学兵器が残っている可能性のある「A事案区域」に定めた。地中に遺棄されていたイペリットが、21世紀になって出てくるとは。寒川の戦後はまだ終わっていなかったのだ。もっとも重症だった作業員は、10年余の闘病生活ののちに肺がんを発症して亡くなったという……。
 わたしたちは圏央道の真下までやってきた。
 道路を支える橋脚が等間隔に並んで、枯れ花をつけたセイタカアワダチソウが風に揺れている。
「もう少し北だな、きっと」
 スマートフォンで国土交通省のページを開き、現場写真と実際の風景を見比べながら慎重に進む。
「ここ……ですかね?」
「うん、橋桁の番号も一致してるね」
「背景に写ってる鉄塔やタンクの位置も同じ!」
「ここだね、間違いない!」
 ついにわたしたちはイペリット入りのビール瓶が埋まっていた場所を特定した。一瞬、徳川埋蔵金でも見つけたかのようにはしゃいでしまったが、そのあとスーッと虚しさが押し寄せる。事件から18年、いまさら場所を特定したところでなんの意味もない。
 それでも何かちょっとしたエピソードでも拾えないかと思って、付近の工場の人たちに「2002年9月のことを覚えていますか」と尋ねてみたが、「知りません」の答えばかり。一人だけ、「あぁ、そんなこともありましたっけ」と思い出してくれたおじさんがいたが、話はそれ以上膨らまなかった。あぁ、平成は遠くなりにけり。いわんや昭和をや。わたしたちはなんとなく不完全燃焼の思いを抱えて寒川を後にした。

 


 ところが、話はそこで終わらなかった。なんと昭和の生き証人が見つかったのである。

 

 

 

 

 

▼安田浩一

 

 

生き証人が描いた絵

「確か、こんな形をしていたと思うんですよ」
 石垣肇さん(92歳)はテーブルの上に置かれていた飲食店の宣伝チラシを裏返すと、さらさらとペンを走らせた。チラシ裏の余白に手慣れた感じで描いたのは “ 爆弾 ” の絵だった。
 椀を被せたような先端部から寸胴がつながり、下部に尾翼が取り付けられた、典型的なミサイル形状だ。
「あなたたちが言うところの毒ガス兵器、つまりイペリット爆弾です」
 閑静な住宅街である。真冬の優しい陽射しがリビングを明るく照らしていた。暖気でまどろみを覚える平和な時間帯。その穏やかな空間とはあまりにも不釣り合いな言葉が、ザラザラした感触を伴って耳奥に突き刺さる。
 私たちは会話の接ぎ穂を失う。「そうですか」と頷くしかない。
 90歳を超えてなお、「イペリット爆弾」の残像を抱えているのだ。あの日の少年の網膜に焼き付いた風景が、私たちに迫ってくる。

 

 

 戦時中、寒川にあった相模海軍工廠で毒ガス兵器の製造に従事した人を私たちは探していた。どうしても “ 生き証人 ” の話を聞きたかった。
 当時の状況を記した資料によれば、最盛期の1943年ごろには約3000人の労働者が同工廠で働き、そのうち約300人がイペリット製造に従事していたという。働き盛りの男性の多くが出征しているなか、労働力の確保には苦労したらしい。国内外から徴用工員、動員学徒、女子挺身隊員などを集め、操業が維持されていた。
 戦後70年以上が経過したいま、当時の記憶を持った人は、どれだけ若くとも80代後半ということになる。すでに鬼籍に入った人も少なくない。当然ながら私たちの証言者探しは難航した。各所に問い合わせの電話をかけては「ダメだった」と互いに報告し合う日が続いた。
 風呂をテーマとした企画なのに、気がつけば風呂からどんどん遠ざかっていく。すっかり湯冷めしたからだで暗い森を彷徨っているようなものだった。構うものか。「幻の銭湯」が私たちを毒ガスに導いたのだ。
 わずかな疑念を開き直りで跳ね返しながら、ようやく見つけたのが、石垣さんだった。石垣さんは動員学徒のひとりとして、相模海軍工廠で働き、毒ガス兵器の製造にも関わっていた。


 今年1月、私と金井さんは日野市(東京都)に住む石垣さんを訪ねた。
 92歳という年齢を感じさせることのない人だった。かくしゃくとした立ち居振る舞い。情景の細部まで再現できる記憶力。熱のこもった口調にも淀みがない。
 コロナ禍にあって体調を気遣う私たちに向けて、「体験を伝えることが私の役目」なのだと力強く訴える。

 

 

勤労学徒動員で寒川へ

 石垣さんは伊豆半島の先端に位置する下田(静岡県)の出身だ。戦時中は地元の豆陽中学(現在の県立下田高校)に通っていた。
 終戦前年の1944年、政府は深刻な労働力不足に対する解決策として「緊急学徒勤労動員方策要綱」を定めた。中等学校以上の生徒や学生を軍需工場などに動員する施策である。
 これによって同中4年生(16歳)だった石垣さんは同級生たちと一緒に、毒ガス工場として知られる寒川の相模海軍工廠へ派遣されることとなったのだ。もちろんその時点で、同工廠が何を製造しているのか、まったく知る由もなかった。10代半ばの少年にとっては派遣先の仕事内容よりも、親元から離れることじたいが最大の悲報でもあった。
「当初は同じ県内の沼津の工廠に派遣されると聞いていましたが、出発直前になって急きょ、行き先が寒川に変わったんです。がっかりしましたね。いくら隣県とはいえ地元から出たことがなかったものですから、すごく遠くへ連れていかれるような気がしました」
 8月8日、いよいよ寒川に向けて出発する日だ。家族とは「最後の別れ」となるような気持ちになった。両親は涙ぐんだまま、何も言葉を発しなかった。いまでもはっきり覚えているのは、出がけに祖父と交わした会話だった。「どこまで行くのか」と尋ねる祖父に、石垣さんは「寒川だ。厚木の近くらしい」と答えた。
「寒そうな場所だな」と祖父は漏らし、続けてこう言った。
「おまけに厚木(厚着)とはねえ」
 雪が降ることなどほとんどない温暖な下田の住人からすれば、寒川は字面からして北国を連想させたのだろう。
 同日午後、生徒たちを輸送する海軍のトラックが2台、学校前に横付けされた。1台につき50人の生徒が荷台に押し込まれ、下田の地を離れた。少年たちを満載したトラックは相模湾に面した伊豆半島の東海岸を北上する。
 途中、温泉町として知られる稲取を通過した際、地元の女子中学生たちが沿道から手を振りながら見送ってくれた。
「あのときの光景も忘れがたい。ああ、これで賀茂郡の女の子の姿を見るのは最後だ、と思いました。兵隊に行くような感じでしたから」
 寒川に着いたのは夜の9時を過ぎていた。
 全員が寒川神社近くの「宮前寮」に入寮することとなった。工廠が管理する従業員宿舎である。
「ひどい寮だった」と石垣さんは述懐する。
 寮の屋根は弁当を包むような経木で葺かれていた。吹けば飛ぶような貧弱な屋根である。実は天井がなかった。焼夷弾が落ちたら天井で引っ掛かってしまうので危ないという理由だった。だからその後、幾度も雨漏りに見舞われることになる。夜風で経木がめくれると、隙間から月が顔をのぞかせた。

 

他中学との大乱闘

 近くの寮には、山梨県の日川中学(現在の県立日川高校)の生徒たちがすでに入寮していた。
「寒川に到着早々、日川中学の生徒たちと集団で殴り合いの大ゲンカをしたんです。理由? ウチの中学のひとりが日川中の生徒に『山猿』と言ったことが原因らしいけれど、本当のところはよくわからない。まあ、よくある学校対抗の乱闘です。日川中が夜中に奇襲を仕掛けてきたんですよ。木刀やカミソリの刃を手にした者もいましたねえ。たまたま近くに伊東高女(現在の県立伊東高校)の女子生徒がいてね、同郷だってことから私たちを応援してくれた。それでも日川中は強かった。日川中はアッツ島で玉砕し、軍神とも呼ばれた山崎保代大佐の出身校ですからね。そのことを誇りに思っているのでしょう。とにかく威勢がよかった」
 結局、大乱闘は駆けつけた海軍大尉によって止められた。食堂で両校の生徒が向かい合って整列し、相互にビンタを張らせるといった罰を課せられた。なぜか乱闘にはまったく関わらなかった湘南中学(現在の神奈川県立湘南高校)の生徒までもが、巻き添えでビンタ罰を喰らうことになった。だが、これによって各校との交流と友情が生まれ、以後、つまらないことでぶつかり合うことはなかったという。

 

第二工場だけは嫌だった         

 石垣さんら豆陽中学の生徒たちは当初、工場内の草むしりをさせられた。万が一、工場内の火薬が爆発した際、周囲に引火するのを防ぐために必要な作業だった。
 しばらくして、いよいよ工場への配属となった。相模工廠には第一、第二、第三、第四と4つの工場があった。配属が決まる前、石垣さんが望んでいたのは「第二工場だけは避けてほしい」ということだった。
「イペリット爆弾は第二工場で製造されていたからなんです」
 その当時、イペリットが毒ガスを指すものであることを知っていたのか──。私の問いに、石垣さんは首を横に振った。
「最初のうちは毒ガスかどうか、はっきりとは認識していなかったと思います。ただ、イペリットなるものを製造している事実と、それがどうやら危険なものらしいということだけは理解していました」
 第二工場で製造しているものに触れると手が腐る、気管や肺を病む人が多い、といったウワサはすでに耳に入っていた。
「軍事機密ですから公式に教えてもらったわけではありません。ただ、第二工場が危険だという話は私たち動員学徒だけでなく、近隣の町の住人でも知っていたと思います」
 実際、第二工場で働いている人は、総じて顔色が悪かった。
「土気色というのでしょうか、いや、むしろ黒ずんで見えましたね。それだけでも、第二工場が危険であることは誰の目にも明らかでした」
 朝になると工廠の全従業員が集まって始業前の海軍体操をすることが日課となっていたが、同工場の人だけは、その黒ずんだ肌で周囲からも浮いていた。不健康そのものの肌色は、第二工場への忌避感だけを強くした。
 結局、石垣さんは機関銃の弾やパラシュート製造を主業務とする第三工場への配属となる。
 だが、安堵したのもつかの間、実は第三工場でも、一部でイペリット爆弾の製造に関わっていた。第二工場でつくられたイペリットを爆弾容器の中に詰める作業だ。当時は炸塡(さくてん)と呼ばれていた。よりによって、石垣さんは、これら作業を担当する「炸塡班」に入れられてしまったのである。
「第二工場からイペリットを詰めた筒状の缶がトロッコで運ばれてきます。これを火薬と一緒に爆弾の中に炸塡するわけです。結構な難作業でしたよ。イペリットの入った缶だけでも60キロくらいの重さがありますからね。炸塡を終えたら、そこへパラフィンを注入し、固定したうえでビス止めをするんです。さらにこれを木箱の中に収めます。このときには木箱も含めて100キロほどの重量になっていました」
 木箱を牛車に積んで、引き込み線の西寒川駅まで運ぶまでが炸塡班の仕事だった。
 それにしても、牛車である。吸い込めば人間の内臓を破壊し、ときに死に至らしめる残酷な化学兵器が、牛に引かれて運搬されていたのだ。その奇妙な組み合わせが、私にはかえって恐ろしく感じられた。戦争の狂気と暴力は、田舎の素朴な風景の中にも溶け込んでいた。
 石垣さんは一連の作業を振り返りながら、よりわかりやすく私たちに伝えるために図解で示してくれた。冒頭で触れたイペリット爆弾の絵は、その際に描いてくれたのだった。
「ここに信管が通っていて、ここに火薬があって、尾翼がここについていて……」
 チラシ裏で、ペン先が爆弾を組み立てていく。16歳の少年のからだに染み込んだ作業工程は、いまなお消えていない。戦争が、からだのなかで生きている。石垣さんはそれを自覚しながら、あえて語り部の役を引き受けているのだ。その心情を思うとせつなさがこみ上げてきた。

 

毒にまみれて死にたくない

 ところで、危険なことはなかったのか。
 そう問いかけると、石垣さんは「たくさんあった」と即答した。
「私たちは普通の中学生でした。溶接の専門家でも何でもない。ですから、完璧な炸塡作業なんて、そもそもできっこないんです。不良品も少なくなかった」
 典型的なのは液漏れである。容器の隙間からイペリットが漏れ出てくるのだ。
「これは匂いでわかるんですね。なんて表現したらよいのだろう。強烈な悪臭。シンナーの匂いなんてかわいく感じられるくらいの。ああ、これが毒の匂いなんだなあと思いましたね。問題は漏れた液に触れてしまった場合。私も何回か触れてしまったことがありますが、ミトンのような分厚い手袋を着用していたので無事でした。ただ、友人の中には液漏れした部分に腰かけて、ズボンに穴が開き、尻を怪我した者もいます」
 なお、液漏れした不良品は、敷地内の「退避壕」(いわゆる防空壕のこと)に運ばれた。処分されるまでの間、壕の中に積み上げられていたのだ。
 寒川に派遣されて最初の冬を迎えるころになると、米軍機による空襲も激しくなった。幸い、工廠が爆弾によって直撃されることはなかったが、「退避壕」に逃げ込むたびに、積み上げられた不良品のイペリット爆弾が破裂しないかと、生きた心地がしなかったという。
「米軍の爆弾で死ぬならばまだしも、自分たちでつくった爆弾が破裂し、毒にまみれて死ぬのだけは嫌でした。友人の中にはそれを避けるために、あえて退避壕には逃げ込まず、空襲のたびに工廠の敷地を越えて、相模川の土手まで走っていく者もいました」
 そう、そのころになると中学生であっても工場で働く誰もが知っていたのだ。イペリット爆弾の恐ろしさを。
 1945年に入ると資材や原料が不足し、徐々に仕事が減ってきた。同年6月、石垣さんたちは故郷に帰ることになった。
 毒ガス兵器と隣り合わせの生活は10か月に及んだ。

 

石垣さんの戦争と戦後        

「たかだか16歳の子どもですよ。そんな子どもが戦争の手伝いをしていた。イペリット爆弾はね、人を傷つけることだけが目的じゃないんです。こいつにやられた兵隊さんは激しい苦痛に見舞われる。そのために医師や看護師なども動員されます。すぐに死なないからこそ、多くの人の手を煩わせることになる。敵軍の弱体化に効果的な兵器なんです。そんなものに、私たちは関わっていた。いや、関わることを強いられていたんです」
 石垣さんは寒川で過ごしたときに持ち歩いていたスケッチブックを私たちに見せてくれた。描かれていたのは戦闘機や銃を撃つ兵士の絵ばかりだった。
 あの時代に生きていたからこそ、戦争から逃れることなどできなかった。子どもには子どもの戦争があった。戦う兵士の姿を思いながら、石垣さんは毒ガス兵器とともに戦時を生きていた。
 それが石垣さんの戦争だった。


 大人になった石垣さんは都内の有名ホテルに就職し、役員まで務めてからサラリーマン生活を終える。幸いにも戦争とは無縁の時間を過ごしてきた。
 だが、記憶は残る。ときに寒川の風景がよみがえる。たとえば約20年前、寒川の工事現場でイペリットの入ったビール瓶が発見され、作業員が健康被害を受けた事件が報じられたときには、自分のなかで何かが疼いた。痛みにも近い感覚。
「工廠にあったイペリット爆弾が、その後、どこに運ばれたのか、どのように遺棄されたのか、私なんかにはまったくわかりません。ただ、まだ終わっていないのだという事実に、気持ちが乱れました」
 相模海軍工廠で働いていたのは、子どもだけじゃない。東北などの地方から、朝鮮半島から、多くの人が連れてこられた。戦争が、いや、戦争を引き起こした国家があらゆる人を巻き込み、暗い記憶を植え付けた。
 いま、石垣さんは毒ガスとはまたちがった、毒気を含んだ「匂い」を感じている。
「ある種のきな臭さと言ったらよいのでしょうか。勇ましい言葉が飛び交う時代には、どうしても警戒心がはたらいてしまいます」
 子どもや孫に戦争だけは経験させたくないのだと、石垣さんは何度も繰り返した。

 戦時の寒川の風景に触れて、私たちはなおいっそう暗い森のなかに足を踏み入れてしまった。
 毒ガスをめぐる旅は、さらに続くのである。

 

(第11回・了)

 

 

本連載は不定期更新でお届けしています。
次回:4月29日(木)更新予定