言葉ことはじめ 池内紀

2017.9.11

14ちゃぶ台返し

 『ちゃぶ台返しの歌舞伎入門』(新潮社)という本の書評をたのまれて一読した。四十代半ばの芸能研究者による「歌舞伎の見方、楽しみ方」であって、従来の意味を主としたとらえ方ではなく、「かたち」を見本にして語っていく。「実践編」として、歌舞伎十八番というべきなかの四つの演目をとりあげ、見どころ指南がされている。よくできた、たのしい、ためになる本である。
 それはいいのだが、私にはタイトルがよくわからない。「はじめに」のおしまい近くに「今までの〈入門〉とは違う方向から読んでもらえるような本は作れないだろうか。『ちゃぶ台返し』ほど豪快にはいかないにしても、お決まりの〈入門〉的なるものをちょいとひっくり返してみたい」とあって、そのあたりがタイトルのもとになったのだろう。
 私にわからないのは、「ちゃぶ台返し」が豪快というくだり。それと、これまでと違う「ひっくり返し」の別称として使われていることだ。
  こちらの無知であれば、お詫びするしかないのだが、「ちゃぶ台返し」はまるで意味が違うのではあるまいか。それは悲しい腹いせの行為であり、弱者にウップン晴らしをしたまでのこと。当人にもその点はわかっていて、ちゃぶ台返しをすると同時に、プイとその場から姿を消すものだ。家族の刺すような目に耐えられないからである。
 私はいちどラジオの番組で、十二代團十郎さんと話したことがある。幼いころの思い出を語ったなかに、目玉焼きのことがあった。少年のころ目玉焼きが大好きで、いつも一番最後にとっておいて、目玉焼きを見ながらごはんを食べた。しかし、あるときから一番最初に食べることにした。ある朝、父がちゃぶ台をデングリ返したからである。ふっとんでごはんやミソ汁もろとも、目玉焼きも小皿の下に哀れな姿をとどめていた。
 父、十一代團十郎は若手の海老蔵(えびぞう)のころから、「花の海老さま」とうたわれた花形役者だった。そんな人気者がなにイラ立って、家族の団欒の場であるちゃぶ台をふっとばしたりしたのだろう?
「まぁ、ひどい時代でしたからね」
 十二代は言葉少なに、そんなことしか言わなかった。昭和三十年代のこと、歌舞伎が新興の映画、新劇に圧倒されて、見る影もないころだった。現代の盛況からは想像もつかないが、歌舞伎座はガラガラ。キラびやかな舞台の一方で観客席にはカンコ鳥が鳴いていた。
 そんな状況のなかで、歌舞伎界きっての大名跡を背負わされ、腹立ちのタネがわんさとあったのだろう。つい家族に当たりちらすハメになった。十一代は團十郎を継いで三年で世を去った。

 ちゃぶ台は外国式のテーブルをまねた家族で囲む食卓である。日本人はそれまでは、家族単位ではなく、めいめいの膳で食べた。家長以下、家族にもヒエラルヒーがあって、めいめい膳にも区別があった。
 大正デモクラシーのあと、昭和初年ごろから、外国人のように家族で食卓を一つにする。ただし畳なので、テーブルに椅子はなく、正座して食卓についた。狭い家の便宜を図り、四本脚が折りたたみ式のケースもあった。食後に折りたたむと、ちゃぶ台は円型や四角の板になって、片隅に片づけられた。いずれにせよ「ちゃぶ台」を囲んで家族の団欒が成立した。すぐわきにごはんを盛ったおひつ、ミソ汁の鍋、火鉢にお湯がチンチン音を立てている。たとえ貧しい一家でも、ちゃぶ台を囲んでいるかぎり平和な日常が保たれていた。
 もしちゃぶ台をもち上げて、デングリ返すとどうなるか? ミソ汁、ごはん、おかずなどが、ゴミをぶちまけたような惨状を呈するだけではないだろう。なごやかな団欒が一瞬にして地獄になる。顔をこわばらせ、ワナワナと唇をふるわせている母親、石のようにかたくなって、じっと惨状を見つめている子供たち、デングリ返しの張本人は、ものも言わず席を立って出ていった。もっとも弱い者たちに腹立ちをぶちまけている弱い自分を、見すかされている気がするからだ。「豪快」などとはほど遠い、哀しく、やるせない、家庭悲劇の一コマではあるまいか。
 第十二代團十郎は海老蔵の襲名を見届けたあと、役者としてまさにこれからという時に世を去った。顔立ちの大らかな、異常なほど目の澄んだ人だった。「一番の好物は、いの一番に食べるにかぎります」と言ったとき、こころなしか笑い顔がこわばっていたような気がした。

 

(第14回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2017年9月25日(月)掲載