言葉ことはじめ 池内紀

2018.4.6

28ガングリオン



 左手、肘関節の少し下にあたる。ある日、プックリふくらんでいるのに気がついた。右手をあてると、しこりのような硬さがある。中味の詰まった弾力性をもち、押さえると、はね返す勢いである。
 どうして、それまで気づかなかったのだろう? はじめはともかく、ふくらみ出せば気がつくはずなのに、まるきりけはいも感じなかった。もともと関節のまわりは皮膚にたるみがある。そうでないと腕が曲がらない。たるみにふくらみが隠されていたのだろうか。
 念のため鏡に映してみると、やや赤らんだのが半円状に隆起している。ラムネの玉を半切りにして、くっつけたぐあいだ。ダンゴ鼻の先端のようでもある。
 それから気をつけていると、ほんの少しずつだが、ふくらみつづけている。このままとめどなく大きくなったら、どうなることか。上方落語の「こぶ弁慶」では、男の首の横手にポツリと出てきた。しだいしだいに大きくなって、そのうち口をきき出した。
 「拙者は天下に隠れなき武蔵坊弁慶なるぞ―」
 粗末に扱うと承知しない。酒を朝に三升、昼に三升、夜に三升―大飯食らいで、やたらに酒を飲み、高イビキで寝てしまう。首ねっこに、とんだ分身をかかえこんで往生する男の話である。
 幸いなことにわが左腕では、そのうち成長がとまったようで、十円ダマ程度の丸い突起になった。硬さはかわらないが、はね返すような勢いはなくなって、おさえるとまわりへ逃げようとする。皮膚の下では逃げられる範囲もかぎられており、クルクル小廻りにまわるかね合いだ。仕事のあいまに指先で追っかける。関節のところのちょっとした遊び道具になった。ドイツ語の「カジノ」はシュピールバンクといって、遊びと銀行をくっつけた単語である。指先がルーレットでまわしているぐあい。
 かかりのつけの医者とは長いつき合いで、月に一度、血圧の検査のあと、おしゃべりをする。ことのついでに、わがシュピールバンクを見せたところ、言下に「ガングリオン」といった。
 「ガングリオン?」
 ガ・ン・グ・リのひびきが、まさに関節の下のかたまりにピッタリで、いちどで覚えた。関節には潤滑用のアブラが流れているが、何かのはずみで、それがたまりだす。わかりやすくいうと、そんなことらしい。
 家に帰って独和辞典にあたってみた。

 Ganglion [解剖]神経節 [医学]神経節腫 [獣医]外骨腫

 専門によって多少のちがいはあるが、骨の上にできた腫れの点では同じである。ガングリのおしりの「オン」が「ティス」になると、腫れが燃えるような熱をもつ場合のようだ。
 日本語の辞書では、いつもの新明解には見当たらず、手持ちの岩波の『広辞苑』(第三版)にもなく、やっとお次でいきあった。

 ガングリオン(ganglion) 手関節部や足背部などにできる硬い腫瘤
 (しゅりゅう)。成人に多く見られるが、障害はほとんどない。 
                   (『日本語大辞典』講談社)

 医者の見立ても同じで、手術すれば簡単にとれるが、悪性でないから、あえて取るまでもない。そのうち小さくなって消えることもある。現にこの指に出たが、ほっておいたらなくなった。そういって手をひろげてみせた。
 とにかく、名前がいい。西洋版弁天小僧といった感じ。さっそくミスター・ガングリオンと改名。愛称「ガンちゃん」である。ムシュー・ガングリオーンと気どって呼んでもいい。医者がいいことを教えてくれた。
 「腕にできたタマと思えばよろしい」
 ナルホド、感触からして、よく似ている。
 籐椅子に寝そべってウトウトしているときなど、気がつくと指先で腕のタマを撫でている。小さな分身と対話しているぐあいである。退屈した主人が、つまんだり、ひっぱったりしても、文句ひとついわない。おりおり、親しい女性にそっとさわってもらう。人生の楽しみが一つふえた。

(第28回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年4月20日(金)掲載