言葉ことはじめ 池内紀

2018.6.11

32きぬかつぎ



  「いらっしゃい!」
 ノレンを分けると、いつもの声。冷たいおしぼりを手に、壁のお品書きを順にながめていく。壁にずらりとメニューがあるというのは、考えてみると、なんとも豪勢なことなのだ。
 あげ出し、あら煮、いかだ、イワシのつみれ、卯の花、カツオの叩(たた)き、きぬかつぎ、ゴマあえ、茶碗むし、田楽、天プラ……アトランダムにアイウエオ順でひろったまでで、オリジナルはいたって無定見である。応じてことばが、てんでんバラバラに匂ってくる。
 「カツオの叩きね」
 魚好きはカツオに弱い。
 「アジも、もらおう」
 同じ叩きでも、ずいぶんちがう。アジやイワシは、シソなどの薬味を包丁で叩きまぜてつくるのに対して、カツオはまわりを焼いてから、塩と酢をふりかけ、包丁で叩いて味をしみこませる。分厚く切って出すのが高知名産というが、和風ステーキを食べているここちがするものだ。
 叩きは文字どおり、叩くところからきた命名だろう。刺身は魚を包丁で刺して、小さな身にするからにちがいない。和え物は「あえる」から、つみれはすりつぶしたものを「つみとる」からと思われる。
 ここにはないが、ふつうメニューの大物「コイの洗い」は、冷たい水で洗うのが料理の始まりで、生臭さを取るためだろうが、ウマ味の成分である脂肪をわざとお洗い落とすわけだから、ヘンなごちそうである。注文したことがないので実地はわからないが、魚臭を引きしめ、冷たい歯ざわりをたのしむというから、魚そのものよりも手間ひまかけた料理法を食べているようなものではなかろうか。
 いずれにせよ、調理の方法がそのまま料理の名称になっているのは、世界の料理のなかでも、あまりないような気がする。
 もうひとつが形から連想する方式で、これは世界中でおなじみだろう。日常のなかに見立てる。「いかだ」は小さなウナギを何匹か串刺しにして蒲焼きにしたものだが、なるほど形がいかだに似ている。ハッピにハチ巻の筏師(いかだし)が、たくみな手さばきで木材を川で運んだのは、もはや遠い昔がたりであって、川からいかだは姿を消して久しいが、居酒屋には立派に生きている。こちらの筏師は白い割烹着をきて、同じく頭にハチ巻をしている。
 きぬかつぎは、小芋の上部にチョンと包丁を入れて蒸したもの。アツアツが出てくるから、上部の皮をつまみ取って、塩をふりかけ、フーフー言いながら食べる。「衣(きぬ)かつぎ」と書くように、残った皮の部分を衣に見立てた。「お伽草紙」の「鉢かつぎ」では、とどのつまり鉢が割れて中から宝ものが出てきた。「衣かつぎ」では、そっと指先で押すと、女性の白い裸身のような小芋が出てくる。見ようにもよるが、かなりエロチックな食べ物である。
 卯の花は、おからのこと。「卯の花の におう垣根に ほととぎす はやもき鳴きて」――旧文部省省歌のいうとおり、卯の花はほととぎすの鳴きだす初夏のころに白いふさ状の花をつける。もともと生け垣によく使われたウツギ(空木)のことだが、「空木の花」では歌にならない。豆腐の絞(しぼ)りカスが白いところから、花の白とかさねた。空木は名前からもわかるとおり、幹が空洞である。つまり、からっぽ。豆腐を搾り取った残りものは、おから。多少とも判じ物めいているが、たしかに筋みちは通っている。
 ひとり客は頭も口もヒマだから、久しぶりに卯の花をもらって、そんなことを考えている。主人が東北の生まれのせいか、ときおり「じんだ和え」がメニューに加わる。ゆでた枝豆をすりつぶして、サヨリやキスと和えて、小皿に盛って出す。東北名物「じんだ(ずんだ)餅」にちなむのだろう。「徒然草」に「後世を思はん者は、糂汰(じんだ)瓶一つも持つまじきことなり」とあるそうだ。この糂汰は訓読みすると「ぬかみそ」のことだという。
 甚太という人が考案したとか、豆を打ってつぶすことから「豆打(ずだ)」がなまったとか、説はいろいろあるが、志の島忠・浪川寛治著『料理名由来考』(三一書房)によると、米ぬかは江戸時代には、いたって高価なものだった。米そのものが日常の食として、そうそう口にできないし、ぬかは精米でしかとれない。玄米食がふつうであったことを考えると、想像のつかないほど米ぬかは貴重なものだった。ついては越前や加賀の漬物に「米糖(こぬか)漬」というのがあった。とれすぎたイワシやサバを保存するのに考え出されたものだが、ぬかづけであって、これも一種の「じんだ」といっていい。この米糖漬が江戸時代の輸送ルート北前船で東北一円に伝えられたのではなかろうか。
 「中央から遥か離れた東北では米糖などは手に入る可能性はなく、米糖の代わりに季節になると捨てるほど採れる枝豆を使い、漬けるかわりに和えてこれをじんだと呼んだのではないか、という推測です」
 スケールの大きな、夢のある説ではないか。食文化はらくらくと国境をこえて自由に交流しただろう。人間にとって、もっとも切実なのは食べ物であって、古文書などよりも、はるかに意味深い記憶力をそなえていると考えていいのである。

 

(第32回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年6月25日(月)掲載