言葉ことはじめ 池内紀

2018.8.15

36ことばの発見Ⅲ



 私は手書きである。紙にペンで書く。編集者によると、もはや圧倒的少数派であって、百人に一人もいないらしい。
 ものを書き始めたころ、ペンを握るとすぐに書いた。さもないと考えていたことを忘れそうな気がしたからだ。いちど書いて、書き直した。二度も三度も直した。校正のときも直した。
 いまは紙に向かっても、なかなか書かない。ボンヤリしている。インクを入れ替えたり、コーヒーを煮たてたり、庭をながめていたり……。あるころから、こうなった。ことばが出てくるのを待っている。おのずと、自然に湧き出してくるのを待ち受けている。
 分析的にいうと、それは前言語状態にあたるだろう。ことばの発見のすぐ手前にいる。厳密にいうと、前言語状態と言語状態の中間あたり。数分で言語状態に移ることもあれば、何日もかかるときもある。テーマと、それに応じる精神状態のバランスによる。すぐに書き出したからといって、安直なものができるわけではなく、何日も待ったからといって、よい出来になるという保証もない。
 前言語状態を意識するようになってから、ずいぶんになる。文筆に手なれたからといって、前言語をすっとばすようなことはしない。これこそ自分の生命線だと思っている。すっとばした方がラクだし、効率的なことはわかっているが、それをすると文筆生活の生命そのものが尽きてしまう。泉をわが手で涸らすようなものなのだ。

 マザー・グースの歌の一つに「テン・リトル・ニガーズ」というのがある。つまり十人の黒人の子ども。その十人のうちから一人ずついなくなる。最初の一人は、モノを食べていて、ノドをつまらせた。マザー・グースを最初に日本語にした北原白秋の訳では、つぎのとおり。

  十人よ、黒坊の子供が十人よ。
  お午餐(ひる)に呼ばれていきました。
  一人が咽喉首つまらした。
  そこで九人になりました。

 おつぎは朝寝坊のため、寝すごしていなくなった。三人目は旅に出たきり帰ってこない。
「そこで七人になりました」
 マザー・グースはイギリスの童謡をあつめたもので、ながらく口づたえにつたわってきた。白秋は「日本の子供たちに」と題したはしがきをつけ、歌の成り立ちについて述べている。はじめはただ何となくフシをつけて歌ったりしていたのだろうが、そうすると、どうしても忘れやすいので、覚え書きふうに書きとめておくようになり、そうすると書きとめたものが一つふえ、二つふえして、いつしか一冊の本にまとまるまでになった、というのだ。
 おおかたが遊戯歌だった。手をたたいたり、足ぶみしたり、指遊びをしながら歌った。歌がまた別の遊びを工夫させた。「テン・リトル・ニガーズ」も、そんな遊びとともに歌われたにちがいない。

  一人よ、黒坊の子供が一人よ。
  いよいよ、たった一人よ。
  その子がお嫁取りに出て行った。
  そして誰(だあれ)もいなくなった。

 いま訳された日本語を読んでいるが、「テン・リトル・ニガーズ」のメロディーを知っていたら、奇妙な読書体験をするだろう。意識的に文字で読むのと平行して、無意識のうちにおなじみの歌を聴いている。風がささやくように、耳元でメロディーが流れている。いわば言語状態と前言語状態といったものを、二つながら同時に体験する。
 「テン・リトル・ニガーズ」がどんな遊びなのか知らないが、わが国の「花いちもんめ」と似た遊びのような気がする。一方が「勝ってうれしい花いちもんめ」と歌うと、もう一方は「負けてくやしい花いちもんめ」と応じ、つづいて双方が声を合わせて「ふるさとまとめて花いちもんめ」となってジャンケンをする。

  あの子がほしい
  あの子じゃわからん
  なっちゃんがほしい
  ジャンケンポン

 ジャンケンに負けると、その組から一人が消える。幼いころの歌について書いたエッセイのなかで、寺山修司がこの歌にふれている。「ふるさとまとめて花いちもんめ」では意味がわからない。ほんとうは「ふるさともとめて」ではあるまいか。
 そう思いこんでいたところ、わらべうたを調べている人から手紙をもらった。それによると、「花」というのは植物の花ではなく娼家の花代のことで、いちもんめというのは金銭の単位。これはもともと人身売買をなぞったもので、貧しい村で不作がつづくと、娘が身売りする。ふるさとまとめて(捨てて)、たった一匁(もんめ)の花代で買われていったことを歌ったものだという。
 そういわれてみると――と寺山修司は書いている――「あの子がほしい」「この子がほしい」というのは傾城(けいせい)の人買いたちで、「あの子じゃわからん」と応じるのは、貧しい親たち。「買ってうれしい花いちもんめ」の人買いに値切られた親たちは、「負けてくやしい花いちもんめ」とやり返す。そんなやりとりを子供たちが聞いていて、あどけない声でまねながら歌にした――
 それが正しいかどうかはわからないが、歌の発生には共通して、ある前言語状態といったものがあるにちがいない。感覚の高まりであって、悲しみの場合は、こみ上げてくる嗚咽(おえつ)になる。よろこびの場合はラララとかランランランといった声になる。ことばがフシをとり、リズムをもって躍動する。
 いつだったか、オーストリアの山岳都市インスブルックにいたとき、土曜日の早朝、登山の人たちがつぎつぎと町の広場にやってきた。見上げると山で、その上も峨々とした山、天に突き立つように白々とした石灰質の岩山がそびえている。
 バス待ちのあいだ、どこからともなくヨーデル特有の声が聞こえた。声にならない声であって、「エリエリホー、ホリホラホー」といった感じ。輝く山々を前にして、ごく自然にノドから出る声だった。前言語状態から言語状態へ移行する過程が、もっとも素朴な声を通して示されていた。
 ペンを手に、そんな過程をじっと待っているのは不便だろうといわれるが、そのかわり書き終えた段階で、すべてが終わっている。校正のとき、誤字を直すことはあっても、書いたものは、ほぼ直さない。スペースのかげんで書き足すことはあるが、それもめったにない。パソコンでは直し、入れ替え、自由自在だというが、別にそれをどうとも思わない。直さないのが、もっとも自由だろうと考えている。

 

(第36回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回最終回、2018年9月6日(木)掲載予定。