「新自由主義」の妖怪 稲葉振一郎

2017.3.15

18開発主義の終わりと「新中間大衆」

 

 何度目かになりますが、また村上泰亮に回帰してみます。1975年刊、ドルショックから石油ショックの時代に書かれた『産業社会の病理』(以下『病理』)という本はおおむね産業社会論の枠組みで、社会学的に書かれていました。乱暴にまとめると、

(1)西側市場経済も東側の社会主義計画経済も、いずれも産業社会の亜種である。そのどちらにおいても社会を動かす究極的なダイナミズムの源泉は、科学技術の産業への応用であり、その応用の主役は官僚制組織である。
(2)それゆえに東西両体制はお互いにより似通ったものに収斂していく。西側は官僚制化し、自由市場へのコントロールを増していくのに対して、東側では逆に、官僚制的統制の及ばない現場レベルで、市場をはじめとした柔軟な分権的メカニズムが導入されていくのである。
(3)この産業社会は必ずしも安定的な仕組みとは限らず、短期的にはさまざまな変動に見舞われるとしても、大局的には持続可能性が高いと思われる。ただしそこには、かつてマルクス主義が資本主義(西側市場経済体制と言い換えてもよい)に見て取った崩壊の危機とは異質な、慢性的危機の兆候が見られる。それは非常に乱暴に言えば豊かさ、高度大衆消費の成熟ゆえの「勤労倫理の衰退」である。絶えざる技術革新は科学的探究による創意工夫と、それを地道に実装する労働、さらにその原資を生み出す貯蓄によって支えられる。経済成長が招いた豊かな社会の快楽主義は、そうしたメンタリティ(ウェーバー的な意味での「資本主義の精神」「近代合理主義」)を掘り崩す恐れがある。

というようなことが書かれていました。

 それに対して1984年刊の『新中間大衆の時代』(以下『時代』)は、その間に書かれた共著『文明としてのイエ社会』をも踏まえて、焦点もぐっと日本社会に寄せた上で、70年代にはまだ周辺的な存在だった新自由主義が時代の前面に出てきたという状況を踏まえ、それとの対決を意識したものとなっています。いずれにせよあからさまに党派的なイデオロギー闘争の著作というわけではありませんが、『病理』がどちらかというとマルクス主義を含めた社会主義との対決を念頭に置いていたとするならば、『時代』は新自由主義との対決が主要課題です。
 もう少し解きほぐすならば、『病理』における産業社会論的枠組みは、一方にマルクス主義的な資本主義批判、先進産業社会の西側部分の抱える問題を資本主義の行き詰まりと捉える立場、もう一方に新自由主義的な、西側の問題をむしろ逆に福祉国家化、忍び寄る社会主義化とみなす立場という両面の敵と対決しようというものでした。それゆえそこで危惧されるのは、資本主義の崩壊でも社会主義化でもなく、西側自由主義体制と東側社会主義体制との収斂を展望したうえで、その全体としての産業社会論的メンタリティの衰退、であったわけです。

 それに対して『時代』においては、社会理論としての基本的枠組みはさほど変わっていませんが、焦点移動をもたらした二つの時代的ファクターを見て取ることができます。  第一に、先進諸国のなかでの日本のプレゼンスの一層の上昇。そして第二に、東側社会主義の危機の深まりと、西側における福祉国家の危機。それを反映してか『時代』においてはマルクス主義、社会主義との対峙というモチーフは影を潜め、新自由主義との対決がライトモチーフとなります。
 そして主題もまた『病理』から大きく動きます。『時代』において主題となるのは、かつての「市場・対・計画」図式ではなく、「自由放任主義・対・開発主義」の対比です(「開発主義」が術語として確立されるのは1992年の『反古典の政治経済学』――以下『反古典』――においてですが)。
『病理』における産業社会論の枠組みにおいては、産業化、経済成長に際してのオルタナティブな戦略として、自由市場中心の資本主義体制と、計画主導の社会主義体制とが対比されていました。それに対して『時代』においては、もはや社会主義計画経済は問題とはされません。80年代にはまだ東側社会主義圏は健在でしたが、経済的な行き詰まりは既に顕著で、市場メカニズムの部分的導入や、政治面でも情報公開、言論の自由の部分的導入など、体制改革の潮流が顕著でした。これを西側への歩み寄り、「収斂」とみなすこともできそうですが、80年代の西側においては東側社会主義への歩み寄りではなく、むしろその反対に、19世紀的「小さな政府」への回帰、福祉国家の見直しが盛んに論じられるようになっていて、「収斂」という発想は既にリアリティを失いつつありました。
 このような状況を反映してか、『時代』においてはあくまでも市場経済中心の体制のなかでの、経済政策、成長戦略のバリエーションが主題となっています。「開発主義」は社会主義ではありません。必ずしも社会主義を排除するわけではないにしても、概念的には異なります。『時代』においてはどうやら産業社会の基本的な様態はやはり市場経済中心の体制であり、あくまでもその枠内での社会経済政策のバリエーションが論じられ、社会主義計画経済は主題化されません。「開発主義」はあくまで、市場経済体制の枠内での経済成長戦略です。
 成熟した産業社会は基本的に市場経済体制をとり、それゆえ社会経済政策の主眼も市場経済のインフラストラクチャーの整備に置かれます。ただし、それはあくまで「成熟した」先進産業社会での話であり、発展途上国、貧困国、産業化以前ないしその初期局面の社会においては、必ずしもそうではない。村上の「開発主義」ではそう論じられます。もちろんこれは新しい発想などでは全くなく、非常に古典的な、少なく見積もっても19世紀ドイツ歴史学派経済学にまでさかのぼる幼稚産業保護論にほかなりません。この発想は20世紀の開発経済学においても、途上国の開発戦略の正当化論としてしばしば用いられ、村上の論もまたその系譜に連なるものといってよいでしょう。
 ただし、村上以前の経済学的正当化のロジックは、いま一つ不十分なものでした。リカードウ以降の比較優位論を前提とすれば、各国、各地域は貿易を自由化し、比較優位産業に特化して、必要な物資は貿易を通じて手に入れればよい、ということになるはずです。
 対して古典的な幼稚産業保護論の背後にある理屈は、基本的には安全保障上のものでした。すなわち国防の観点からは、兵器産業その他の軍需産業、それを支えるに足る程度の関連産業や、食料供給のための農業については、完全に外国貿易に依存するわけにはいかない、という論法です。しかしこの議論は言ってみれば経済外的な論法、つまり経済合理性と経済厚生の観点からは(世界経済レベルのみならず実は一国レベルでも)望ましくないが、軍事上、安全保障上いたしかたない、という論法です。20世紀後半の冷戦体制の下で、同盟化が進展して一国単位の安全保障政策の意義が低下し、核の傘と国際協調の下で戦争自体の頻度が低下していく中では、説得力を失っていかざるを得ません。
 これに対して村上の議論は、70年代以降急激に発展した、スティグリッツやクルーグマンらの不完全競争貿易論に呼応するものでした。彼らは古典的な開発経済学の知見に理論的な基礎づけを与え、幼稚産業保護的な政策にも、特に産業化の初期局面においては限定的な経済合理性があることを指摘したのです。産業の初期局面では規模の経済が強くはたらき、そのもとでは自由な競争よりも、大規模な企業による独占の方が効率的であることもある、というわけです。これはいうまでもなく、鉄道や通信など、公営企業として経営されることが多いインフラストラクチャー産業に典型的にあてはまりますが、20世紀の成長を主導した重化学工業全般にもある程度適用される理屈だ、というのです。しかし20世紀末には折からの福祉国家の財政危機も受けて、公企業の民営化の波が訪れます。つまり、初期の規模の経済性が発揮される局面が終わってからは、自由競争に任せても構わない、いやその方が効率的になる、というわけです。
 村上は20世紀の日本の経済政策、とりわけ戦後高度成長期の産業政策を、このような観点から合理化します。そしてこの成長戦略は日本特有のものではなく一定の普遍性を持ち、折から本格的な成長を果たしつつあった東アジアの新興工業諸国による輸出志向工業化戦略もまたそのバリエーションである、とします。彼の言う「開発主義」とはこのようなものです。
 『病理』において展望された危機は、豊かな社会がもたらす勤労倫理の弛緩であり、それはどちらかというと先進諸国に共通する病理として意識されていました。それに対して『時代』の焦点はより日本一国に絞られています。そして到来しつつある危機――というより転機は、あとで見るように世界レベルのそれも展望されてはいますが、まずもって日本のレベルでは、日本にとって「開発主義」が合理的だった時代の終了、として意識されています。村上は当時の日本経済ブームの中心的論点としての「日本的経営」「日本型雇用慣行」に対してはそれほど重視していません。そうした長期雇用化、企業内労働市場の発達は、20世紀の先進産業社会に共通してみられる、普遍的な事情であって、特に「日本的」とは言えない、というのが村上の判断です。
 とはいえこの来るべき転換は、ネガティブな危機としてはとらえられていません。経済分析においては見たように『病理』から『時代』にかけて大きな変化があり、とりわけ収斂理論的な枠組みは過去のものとされていますが、政治・社会分析のレベルにおいては、『病理』から『時代』にかけてはそれほど極端な転換は起きていない、むしろ論調はよりマイルドに、危機感も低くなっている、と言えます。
 すなわち『時代』においては後発工業国としての日本もまた「開発主義」が合理的である局面をそろそろ脱し、いわば「普通」の市場経済に移行すると展望されているわけですが、では日本の社会や政治はどうとらえられているかと言いますと、かなりマイルドです。当時の自民党支配は日本のリベラル・デモクラシーの遅れなどではなく、先進国に共通にみられる政党の「包括政党」化、中道化の表れに過ぎない、とされます。議会制民主主義の下で、政権獲得を目指す政党は、忠実な支持者だけを票田としていては勝てないので、浮動票を獲得して選挙に勝つために中道化し、党派性を薄めていく、といういわゆるダウンズ・モデルの「中位投票者定理」は典型的二大政党制の英米のみならず、一党支配が続く日本や、多党連立政権が常態の西欧諸国まで含めて相応の説明力を発揮している、と村上は考えます。60年代末の大学闘争以降の新左翼の展開や、エコロジー、フェミニズムなどの「新しい社会運動」の展開も、こうした大勢を覆すものではない、とされます。「新しい社会運動」の主役、あるいは焦点はマイノリティであり、それは逆説的に言えば、多数派が社会の現状にそれほど大きな違和を抱かなくなったということさえ意味する、というわけです。政治の包括化、中道化の背後には、社会全体の潮流が当然にあります。必ずしも均質化が進行しているとまでは言わなくとも、経済成長とともに生活水準が底上げされ、豊かな大衆消費社会が到来すると、古典的なマルクス主義が想定した階級闘争は弱まり、格差や不平等はなくならずとも減殺され、あるいは現実にはそれほど緩和されなくとも、底上げや成長の持続のおかげで深刻な問題とはならなくなります。村上によれば世論調査で9割の人々が自分を「中流」とみなす日本社会はそうした先進産業社会の典型であり、そうした日本人のありようを指して彼は「新中間大衆」なる造語をなしたわけです。
 そうした一国レベルの動向を踏まえて、さらに村上はグローバルな変化にも目を向けます。マルクス主義風に言えば上部構造、国際政治のレベルでは、日本をはじめとするアメリカ以外の先進産業社会の発展、それに伴うアメリカの国際政治上のプレゼンスの相対的低下、加えて東西の緊張緩和傾向は、いまだ冷戦終了前の時代とはいえ、国際政治システムの大きな転換を予想させるものでした。村上はここで東西対立の終了までを予想しはしませんでしたが、西側陣営の構造転換、アメリカ一国が突出したヘゲモニーを発揮するのではく、EC(現EU)、そして日本との協調による安全保障体制への移行を展望します。
 さらに下部構造のレベルでは、案外としぶとく産業社会論的ヴィジョンが生き延びます。村上は20世紀末の時代を、18世紀末~19世紀初の、蒸気機関主導の第一次産業革命、19世紀末の、重化学工業化と大企業による独占体制の成立によって特徴づけられる第二次産業革命に比肩しうる、第三次産業革命の時代と位置付けます。そこでの転換の主導力は言うまでもなく情報化、コンピュータリゼーションです(当時はまだインターネットは大衆化していませんでしたが、パーソナルコンピューターの普及とそれによるオフィス・工場の情報化は進展していました)。このいわば産業パラダイムの革命的変化が、長期的には最も甚大なインパクトを持つ、と村上は考えていたようです。

 そしてこのグローバルなレベルは、冷戦崩壊後の著作となった最後の大著『反古典』で本格的に焦点が当てられます。

 

 

(第18回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2017年4月10日(火)掲載