「新自由主義」の妖怪 稲葉振一郎

2017.6.1

20最終回:「成長の限界」はなぜ訪れたのか

 

  産業社会論の多面性・体系性は、ライバルとしてのマルクス主義の経済決定論の批判を目指したものでしたが、同時にそれはまた、マルクス主義が踏まえていた古典派経済学への批判にも結果的になっていました。むろん20世紀においては、古典派経済学それ自体はもはや過去の遺物であり、新古典派経済学は理論的には古典派経済学から大きな転換を遂げています。
 それでは産業社会論は、20世紀経済学の正統である新古典派に対してはどのような立場をとっていたでしょうか? 産業社会論者の中にはもちろん他ならぬ村上泰亮のような新古典派経済学者もおりましたし、あくまでも経済学の枠組みとしての新古典派それ自体に対して批判的な論者はそれほど多くはなかったと思われますが、経済学の射程の広さそれ自体については懐疑的なスタンスが共有されていたと言えます。
 すなわち、経済学の射程はあくまでも経済現象、市場経済にとどまっており、政治などの他の領域には及ばない、またいわゆる経済現象についても、その中心はあくまで市場であり、20世紀の経済の中心をなす巨大な企業組織の内部の問題については、経済学よりも経営学や社会学の出番である、といった学際的アプローチの支持者がほとんどだったと言えましょう。村上はそうしたアプローチの代表選手でしたし、またアメリカ合衆国におけるそのパイオニアというべき労使関係研究者のクラーク・カーやジョン・ダンロップは、経済学出身ではありましたがやはり折衷的アプローチを旨とする(旧)制度学派の流れを汲んでいました。
 つまりマルクス主義に対する産業社会論の批判は、その「経済学帝国主義」にも向けられていたのであり、非マルクス主義者で新古典派経済学の信奉者であっても、経済学のアプローチであらゆる社会現象を斬ろうとする「経済学帝国主義」に対しても、産業社会論は容赦のない批判を浴びせました。いわゆる「新自由主義」の代表選手と当時見なされたシカゴ学派の経済学者(ミルトン・フリードマンやゲイリー・ベッカー)、あるいは公共選択理論を武器にした国家財政分析を行ういわゆるヴァージニア学派(ジェームズ・ブキャナン、ゴードン・タロック)などはそうした批判の格好の的だったかと思われます。
 そのように考えてみますと、冷戦終了以降顕著となる産業社会論の影響力の後退と、新自由主義が脚光を浴びるという展開は、実はある意味では、マルクス主義の勝利であったのではないか? という皮肉な感想さえ出てきます。つまり、産業社会論的な立場からすれば、マルクス主義と新自由主義とは、社会科学の方法論においては「経済学帝国主義」という思考の枠組みを共有し、同じ土俵の上で対立しあっているにすぎません。かたや資本主義社会を否定し、かたや肯定する、とはいえ、資本主義社会を解消不能な敵対性(妥協なき階級闘争)の場として捉える点ではさほど変わりありません。違いは一にかかって、資本主義を捨てて社会主義体制に移行すべきかどうか、という判断をめぐってのものです。
 それに対して産業社会論にとっては、資本主義か社会主義かという対立には本質的な意義はありません。どちらも「産業社会」というより大きなくくりの中での代替的な選択肢に過ぎないわけです。ですから「産業社会論は戦後高度成長期における西側先進諸国の保守本流の社会科学的バックグラウンドである」とこれまで何度も申し上げましたが、そこでの産業社会論による西側社会のある意味での正当化のロジックは、必ずしも社会主義の否定を意味するものではありませんでした。要するに問題は「市場と計画のベストミックス」であり、それは西側資本主義にとっても東側社会主義にとっても等しくあてはまるものでした。つまりそれはいくぶんかは、東側社会の現状肯定をも含意していたのです。
 「西側でも東側でも、“市場と計画のベストミックス”を目指しての、テクノクラート(技術官僚)優位のコンセンサスポリティックスが優位となる社会が実現していく」という認識に立つ産業社会論と、「西側はいかに変貌しようと依然として資本主義社会であり、そこでは階級闘争が持続している。ケインズ主義的福祉国家を推し進めるコンセンサスポリティックスもまた階級闘争の一環にほかならず、長期的に見ればじりじりと資本主義を限界へと追いつめている」という認識に立つマルクス主義との対立が、70年代頃までの西側先進諸国における「現代社会論」の中心的な構図であったとするならば、「福祉国家の危機」を経ての80年代以降は、すっかりそれは崩れてしまいます。
 どのようにそれは崩れたのか、といえばもちろん、ケインズ主義的福祉国家が信頼性を失い、コンセンサスポリティックスが衰えて、新自由主義的政策体系を提示する新しいタイプの保守政権主導の、強力なリーダーシップを強調する政治スタイルが前面に出てくる、という形です。それはもちろん、産業社会論の予想を裏切るものでした。しかしながらマルクス主義的社会科学にとって、このような展開はどう受け止められるべきものでしょうか?
 ある意味でそれは、マルクス主義者の予言が当たったと言ってよいでしょう。西側先進諸国におけるコンセンサスポリティックスは石油ショック以降目に見えて行き詰まり、敵対性が前面に出てきたのです。しかしながら、マルクス主義者の予言、というより希望的観測が当たったのはそこまでです。
 コンセンサスポリティックスの行き詰まりの後に続いたのは、資本主義の克服と社会主義への移行――何もかつての正統派の展望するような暴力革命ではなく、社会民主主義者の想定するような平和的な、民主的手続に則っての革命を含む――ではなく、新自由主義的スローガンの下、「市場と計画のベストミックス」ではなく「計画の極小化と市場の極大化」を目指す、古典的資本主義への回帰志向の前面化でした。
 このように見てくると、非常にシニカルな言い方をすれば、思想としてではなく社会科学としては、マルクス主義は産業社会論に勝ったわけです。しかしながらもちろん、思想としては、また政策科学としてもマルクス主義は産業社会論ともども敗北者となりました。勝利したのは、社会科学的にはマルクス主義とかなり共通の認識枠組みの下にあった、いわゆる新自由主義者たちである、というわけです。
 となればそれは産業社会論的な多面性・体系性に対する、単細胞的な「経済学帝国主義」の勝利だった、と言えなくもありません――と、このようにまとめてしまうとしかし、すっぽり抜け落ちてしまうものがいくつかあるのではないでしょうか?

 具体的な歴史的過程において何が起こったのか、と言うと、必ずしもことは単純ではありません。産業社会論の楽観とは異なり、マルクス主義者も新自由主義者(具体的にはオーストリア学派やシカゴ学派の経済学の影響を受けた論者、同じく「新自由主義」と呼ばれても西ドイツ、フライブルク学派などは相当ニュアンスが異なります)も、第二次大戦後、高度成長下の福祉国家の発展に対しては悲観的だったわけですが、その予想の理由には若干のずれがあります。
 マルクス主義者にとっては、もともと資本主義それ自体が不安定で、失業を避けることができず、独占資本主義化して停滞し、長期的には行き詰まらざるを得ないものなのです。ケインズ主義的福祉国家は、危機を先送りにする一時しのぎでしかありません。抜本的な危機の克服は、社会主義への移行によってしか可能ではない、というわけです。
 それに対して新自由主義者にとっては、福祉国家は社会主義、全体主義へのすべりやすい坂の上にあるものでしかなく、その発展は自由競争を歪め、経済を停滞させます。しかしながらその克服は社会主義への移行によって成し遂げられるわけではありません。社会主義の下では政治的自由が消滅するのは無論のこと、経済もより一層停滞して奈落の底に落ちてしまいます。危機の克服は滑りやすい坂から降りること、本来の資本主義、自由市場経済に可能な限り復帰すること、となります。  マルクス主義の場合には、問題は資本主義そのものにあり、福祉国家はその問題への抜本的解決ではなく対症療法に過ぎないものとして批判されます。それに対して新自由主義の枠組みにおいては、福祉国家こそが問題なのです。
 このように根本的なレベルでは両者の間には大きなずれがありつつも、70年代の「福祉国家の危機」への診断においては、少なくともその表層においては重なるところも少なくありません。いずれにせよケインズ主義的福祉国家(マルクス主義においてはより伝統的な言葉として「国家独占資本主義」があり、これは主として戦時動員体制と、平時においても継続する軍事経済を念頭に置いたものでしたが、70年代以降は両者が指す具体的な対象は一致するものと考えられるようになりました)による財政的な重荷と、市場に対する介入が経済を停滞させ、危機を引き起こした、というストーリーが描かれます。マルクス主義者の場合には、そこから階級闘争が激化し、資本主義への移行が起こる、という予想がそこから引き出されますが、後知恵的に現実の歴史の展開を見るならば、どちらかというと新自由主義の提示した、古典的な経済的自由主義への回帰、という形で危機は回収された、というストーリーの方が説得力を持ちます。
 ただ問題は、70年代における「福祉国家の危機」を上記のごときストーリーで理解して本当に良いのか? ということです。これはまた、危機を予想できなかったがゆえにマルクス主義と新自由主義の両方に負けてしまったように見える産業社会論は、本当に負けたのか? という疑問にもつながります。  それこそ後知恵的に考えるならば、70年代の危機は、ケインズ主義福祉国家の行き詰まりを予想したマルクス主義者の解釈するところとはもちろんずいぶん異なったものであったでしょうが、さりとて新自由主義者の診断がどこまで正しかったのか、というのも疑問なしとはしません。
 70年代の「危機」というとどうしても73年の石油ショックのことが思い浮かびますが、資本主義経済にとってはどちらかと言えばまさに外発的なショックという色彩が強い事件だと言えましょう。ローマクラブの報告書『成長の限界』とも相まって、経済成長、人口増加に対する環境制約という問題意識を世論に定着させ、政治課題にしたという意味で、世界史上に不可逆的なインパクトを与えた事件と呼んでいいとは思いますが、それこそマルクス主義的な意味での「資本主義の危機」とは言いがたい。
 その観点からすればむしろ注目されていたのは、それに先立ってのドルショック、ドルと金の交換の停止によって、固定相場制としてのブレトン=ウッズ体制の解体の方です。そしてその背景事情としては、ドル本位制としてのブレトン=ウッズ体制下での高度成長の中で、実は先進諸国間の不均衡が広がりつつあったこと、とりわけ基軸通貨国アメリカの相対的な競争力が落ち、ドル高の重荷にアメリカの輸出産業が耐えられなくなっていったこと、に注目すべきでしょう。そしてそれ以上に、石油ショックのインパクトによって、まさにそれによって引き起こされた(もちろん無関係ではないとしても)ように見えたものの、実際にはもう少し長期的、こういってよければより基礎的な社会経済構造的な要因に引き起こされた、経済成長率の鈍化、低下にも注意せねばなりません。
 欧米先進諸国においてはその後、70年代の「危機」から回復して好況期に突入しても、60年代の高度成長期の頃ほどの成長率を経験することはなくなりました。成長率の低下はドルショックや石油ショックなどによる一過性のものではなかった、と考えるべきでしょう。その原因は多々考えられますが、その中でよく指摘され比較的間違いがないと思われるファクターは、一つには欧州と日本に共通する要因としての、第二次世界大戦による破壊の反動としての復興需要(さらにそれをファイナンスしたアメリカの援助)の効果の完全な消滅であり、いまひとつは、特に日本の場合は明らかですが、農村の労働力プールの消尽でしょう。西欧諸国の場合には日本に先立ってすでに農村の過剰人口は消尽していたケースが多いですが、西ドイツのトルコ人の場合のように、外国人労働者がある程度同じ役割を果たしていました。膨大な若年労働者の安定した供給は、価格競争力の源泉としての低賃金を支えますが、それが尽きてしまえば賃金の相場は上がり、利潤は低下して投資も減退します。上昇した賃金は企業にとっては重荷です。もっともマクロ的には賃金上昇、労働者の所得の増加は、旺盛な消費需要と、更には貯蓄に転化されるならば成長のエンジンともなりえますが。
 さらにもう一つマルクス主義的な観点から重視されるのは、労働組合と労働者政党の勢力の拡大です。まず20世紀前半においては、二度にわたる世界大戦は、戦争当事国では戦争遂行への労働者の協力を取り付けるため、また戦争当事者国以外でも、第一次大戦時の日本の場合のように、戦争特需による労働需要の急増のため、労働者のバーゲニング・パワーを強め、企業・職場レベルでの労働組合の承認と労使関係制度と、国政レベルでの労働組合・労働者政党の政治参加のチャネルの確立を見ます。
 そして労働組合と労働者政党の力は、企業・職場レベルでは雇用の保障と賃金上昇、国政レベルでは福祉国家体制の確立という形で、戦後高度成長の成果を労働者大衆にも還元していきます。しかし高度成長が終わり、低成長期に入ると、こうした労働運動の成果それ自体が、高度成長を終わらせ生産性上昇率、成長率を低下させた原因に見えるようになってしまいます。
 実際、イギリスの労働組合の強い職場規制の力は、明らかに合理化のバリアーとなり、とりわけ国営企業では非効率な経営の最重要な原因となっていたでしょう。職場規制がさほど強くない場合でも、アメリカ自動車産業におけるUAW(全米自動車労働組合)のパターン・バーゲニング、あるいは日本の「春闘」などのように、成長の成果の反映のみならず、インフレーション、物価上昇のマイナス効果を打ち消すレベルでの賃上げをほとんど自動的に確保する賃金交渉の仕組みが高度成長期には確立しますが、これもまた低成長期には企業経営にとっての重荷として意識されるようになります。
 労働者の体制への統合の契機としては、世界大戦のみならず30年代の世界不況もまた重視されます。これはマルクス主義の立場からすると、資本主義経済の限界を端的に示す出来事であり、その最終的克服は社会主義への移行によってはじめてなされうるわけですが、西側諸国においてはその道は実現されず、福祉国家のケインズ政策や社会保障制度によって労働者の生活を保障し、体制内化する、という中途半端な対症療法のみが行われる、というわけです。
 しかしながらこうした国家独占資本主義=ケインズ主義福祉国家(70年代から80年代頃に両者は同一視されるようになります)は、資本主義の本来的欠陥を克服せず、対症療法によって糊塗したものにすぎません。企業・職場レベルでの労働組合の公認と労使関係制度(産業民主主義)は職場規律の弛緩と、それ以上に賃金の硬直化、インフレ圧力によって、独占資本主義の問題をより深刻化させるものにほかなりませんし、それに加えて福祉国家の「大きな政府」は租税負担を増大させて民間経済を疲弊させます。ドルショック、石油ショックという外的ショックは、この潜在的な傾向、資本主義の構造的な欠陥の発露を速めただけである、ということになります。
 そして面白いことにいわゆる新自由主義者の多くも、以上のマルクス主義的な理解と事実認識の上で重なり合うところが多いのです。ケインズ政策の評価でさえも、です。
マルクス主義者の多くは、口先ではケインズを「マルクスほど根元的なレベルにおいてではないが、資本主義の欠陥を見抜いた優れた経済学者」と高く評価しますが、実際にはケインズの洞察の核心を理解してはいないか、あるいは理解したうえで拒絶しています。
ケインズの考えでは、主として貨幣によって担われる流動性を十分に供給しさえすれば、自由な市場経済は完全雇用を達成することが十分にできるのですが、マルクス主義者はそのようには考えず、資本主義経済は必然的に独占化傾向をたどり、完全雇用を達成できなくなっていく、と考え、流動性の効果を重視しません。
 マルクス主義者の多くはケインズ政策の金融政策面を軽視し、市場をあからさまに歪める財政政策の方を重視します。金融政策に着目する場合も、それを本来の資本主義市場経済の正常なありようからの逸脱と見ます。マルクス主義者にとっては本来の資本主義における正常な貨幣制度とは金本位制であり、ケインズ的な、本格的金融政策の前提となる管理通貨制は、市場の規律を歪めるアノマリーなのです。
 いわゆる新自由主義者の中でも、戦後におけるマネタリストの代表たるミルトン・フリードマンは、景気のコントロールのための機動的な金融政策に対してこそ否定的でしたが、物価のコントロールのためには管理通貨制度は必須であると考えていたわけですから、金本位制に固執するマルクス主義者は、フリードマンよりもよほど「市場原理主義者」であるとさえ言えそうです。
 改めて確認しますが、マルクス主義者と新自由主義者の違いは、20世紀資本主義(マルクス主義風に言うと国家独占資本主義、政治学・社会学風に言うとケインズ主義福祉国家体制)に対するオルタナティブとして、社会主義への移行を提示するか、「小さな政府」の古典的自由主義政策への回帰を提示するか、の違いであって、20世紀資本主義への診断においてはかなり似通っていたわけです。そのうえで後知恵的に考えれば、いや70年代であればまだしも、80年代においてははっきりと、ソ連型の中央指令型計画経済としての社会主義には将来性がないことはわかっていました。わかっていながら実現可能な「人間の顔をした社会主義」の具体的プランもできなかったわけですから、いかに退行的とはいえ、具体的に実行可能なプランを提示できたいわゆる新自由主義者たちの方が、思想的に優越してしまうのは無理からぬところです。

 しかしながらここで考えなければならないのは、果たして70年代から80年代にかけての「危機」は本当に上に描いたような図式に収まるものだったのか? ということです。

(完/単行本へ続く) 


 「新自由主義の妖怪」は今回が最終回です。この連載は、2018年春に単行本化が予定されています。「新自由主義」という「妖怪」的な概念はいかにして生じたのかを解きほぐすために論じるべきことはまだまだ尽きませんが、この続きは、単行本に書き下ろしとして収録される予定ですので、楽しみにお待ちください。長い間ご愛読いただきありがとうございました。