ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2018.4.16

01ペルー(1) 20年ぶりにようこそ

わかめ
こんぶ
カレー粉
静岡茶
母から祖母への手紙
日本のカレンダー
つめられるだけをつめた、スーツケース
リマに着くと、真夜中だった
二月、南半球のペルーは真夏をむかえている
迎えが来ているはずだった
真っ黒な通路をすり抜け
友好的な入国審査の笑顔、2分で終わる
荷物検査も簡単にスルーし
日本旅券の権力にくらくらする
出口に向かう
薄暗い港内では
出発準備の人
見送りの人
出迎える人
到着したわたし
などがごったがえし活気に溢れている
親戚のだれかが来ているはずだった、けれどだれが来ているかわからない
会った記憶のないわたしを知っていると主張する、だれかが声をかけるはずだった……
(だれもいない)ひとりだった
さまよう、それから立ち尽くす
生まれ故郷でわたしは無力だ
外に出てタバコを吸うと、タクシードライバーたちは流暢な英語で話しかけてくる
断っても断っても荷物の多さは変わらない
空は暗く、それでも曇りなのがわかった
空気を吸って、駐車場とガソリンの匂いと音のあいまに
ことばがわからないほうの故郷の、生臭く乾いた匂いを感じる
立ち尽くす、タクシードライバーたちの英語はせわしない
もう少し、わからない
けれど懐かしい音と匂いにひたらせてほしい

(戯曲『+51 アビアシオン,サンボルハ』より/2015)

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 ぼくが生まれ故郷のペルーの首都リマに行ったのは、2014年のことだった。リマには祖母や、祖父方の親戚たちが住んでいたが、小学生6年生のときに祖父の葬式へ出席したのを最後にその後20数年間、リマに行くことがなかった。
 ぼくが生まれてから数ヶ月を過ごしていたという祖母の家に、1ヶ月ほど滞在した。家の塀は高さが3メートルくらいはあって、そのうえには有刺鉄線が張られ、分厚い扉には二重に鍵がかかるようになっていた。20年まえの記憶にあったものとそう変わっていなかった。
 扉を開けて中庭に入ると、小ぶりの琉球桜の木や薄紫色に咲くアジサイが目に入ってきた。その隣には、ひな壇のように積み重ねられた名前もわからない多肉植物の鉢植えの数々があって、葉っぱが通路をふさぐように飛び出していた。その向こう側に茶色いドアの玄関。
 玄関の右側には、すぐ客間があり、それに続いて居間があった。祖母や親戚へのお土産が入ったキャリーケースを玄関脇に、自分の着替えが入ったバックパックを客間の花柄のソファの横に置いて、居間のテーブルについた。
 壁の色も、飾られた賞状やトロフィーの感じも、曾祖父母の写真も見た記憶のあるものだったが、その空間は思っていたよりも少し狭い気がした。テレビはわりあい最近の薄型のもので、その横にはぼくや弟、いとこたちの写真が飾られていた。子どものころの記憶は子どもの身体の大きさを元に残っているものだと思った。もっとだだっ広い居間にテーブルが置かれているようなイメージだった。

 インターネット環境もなく、治安面での心配、というよりも祖母が心配するからという理由のため、夜に外出することもなく、だらだらと過ごした。20年ぶりに来た「生まれ故郷」で、だらだらすることに違和感や罪悪感を覚えもしたが、遅くまで居間のテレビでNHKの衛星放送を見たり、昼過ぎまで寝ていて、祖母に起こされたりといった感じだった。
 このときは、数をかぞえることくらいしかスペイン語ができなかったので、祖母は基本的にはぼくに日本語で話しかけていた。それに、しばしばスペイン語が混ざることがあって、それを理解できないことがぼくは後ろめたかった。自分の生まれた場所の言葉を知らないということと、祖母の言うことがわからないということの混ざった後ろめたさだった。
 祖母の言葉で印象に残っているのは、日本語をしゃべっていて、語尾にやたら「ポエ」がつくということだった。ポエポエ言っていてなんのことだろうと思っていたが、祖母にそれは聞けないままで、けれど最近になってそれは「pues」のことなんじゃないかと思う。スペイン語で、「それで」みたいな意味の接続詞で(英語でthen)、リマで語尾のs音はほとんど聞こえないように話されることが多いので、「ポエ」となったのだろう。実際puesをカタカナにすると、プエスよりポエというほうが音として正しい気もする。
 親戚のエディが言うには、祖母はあまりスペイン語がうまくないということだった。祖母は沖縄本島北部(やんばる)の出身で、29歳まで、やんばるや那覇などで生活したあと、祖父、小学校1年生を終えた長男であるぼくの父親、それから生まれて1年たったばかりの次男といっしょに、ペルーに移り住んだ。そのときの沖縄はアメリカの統治下だった。1950年代後半の話。
 ペルーに来た当初は子育てに忙しく、学校や家庭教師などを頼りにスペイン語を学ぶことはできなかったらしい。生活のなかで徐々にスペイン語を覚えたのだという。家のなかの言語は日本語で、スペイン語を使わなくても生活できる環境でもあった。そのまま、60年ペルーに住んでいる。
 そんな祖母のスペイン語は、たまに日本語が混ざり、スペイン語を聞こえたままにカタカナにしたような音が多用される。

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 祖父の両親、つまりぼくにとっての曾祖父母は、大正時代に沖縄の大宜味村からペルーに移民している。海外移住資料館のペルー日系人データベースによると、曾祖父母はべつべつにペルーに渡ったらしい。結婚したあと、曾祖父だけが先にペルーに行き、妻を呼び寄せた。祖父やその兄弟たち子どもはペルーで生まれた。
 長男だった祖父は、沖縄の教育を受けさせるという曾祖父の方針で、12歳に来沖している。大宜味村にあった叔父(曾祖父の兄)の家に彼は住んだ。その家と祖母の家とは目と鼻の先で、ふたりは同い年で、幼馴染のような関係だったという。祖父が来沖したのは1940年で、そのときのペルーからの船は、太平洋戦争直前の、最後の日本行きだったらしい。
 戦後12年間、アメリカ占領下の沖縄の警察局出入国管理部で祖父は働いて、そのあいだにぼくの父親が那覇で生まれた。

 居間のテーブルには椅子が7脚置いてあり、そのひとつに座って、祖母の話を聞いていると、日本の歴史が具体的な身体を持った存在として立ち上がってくる。沖縄戦のときに南部から北部へ人々が逃げてきたという話も、戦後にやってきたアメリカ兵と祖父がスペイン語で会話をした話も、祖父が祖母になんの相談もなくペルーへの渡航を決めた話も、ぼんやり緑茶を飲んだり、堰を切ったように勢いづいて早口になったりする祖母の表情を眺めながら聞いていると、その端々に大きな「歴史」が刻まれていると思う。ひとつひとつの話は断片的だけれども、それらが集まって、長い時間を生き続ける一個の大きな肉体になる気がした。
 ペルーに来るまえから、ぼくはおそらく一般的な日本人よりも、日本人の移民の歴史について知っていることが多かったと思う。父親がペルー育ちであることやぼく自身がペルー生まれであることなどから、「日系移民」という言葉はぼくにとって、昔から身近なフレーズだった。けれどもそれはあくまで「情報」にすぎなくて、実態がないものだった。情報に肉体がない。つまり人々の所作が積み重なったものだという実感を持てていなかった。歴史の授業で記憶させられる年号や出来事の名前などと大差ないものだったかもしれない。
 それが、実際にリマで毎日をだらだらと過ごし、祖母と話したり、親戚に会ったり、そのほかの日系人たちと会って話したりすることで、生身の人間がつないできたものとして、身体性とそこから来る現実感を持って、自分に迫ってきたのだった。

 あれはリマに着いてから3週間くらい経ったころのこと。リマで知り合った日系ペルー人の若者に車を出してもらい、沖縄県人会による「OKINAWA MATSURI」という催しに参加した。
 ペルーの日系人のマジョリティである沖縄県人会の会館は広い土地を持ち、グラウンドには特設ステージが用意され、そのまわりを数々出店(でみせ)が取り囲んでいた。県人会のなかにはさらに、(移住一世の)出身地ごとに村人会が組織されていて、それぞれの村人会はうどんや焼き鳥を売る店、日本の食材やお菓子などを売る店などを開いていた。沖縄らしいものというよりは、日本らしいものが並んでいるという印象だった。ぼくは大宜味村人会の人たちに挨拶をして、催し物の一部を手伝うことにもなった。
 特設ステージでは、沖縄系バンドのコピーをやる若者たちが大音響で演奏して盛り上がっていて、そのステージの正面にはパイプ椅子が並べられ、日系二世三世くらいと見られる老人たちがずらっと座っていた。彼らは音楽を聞いているようないないような、最近の音楽はわからんという顔をしているようなしていないような感じで座っていて、あるいは居眠りをしていて、ステージ上の盛り上がりとのギャップがおもしろかった。
 ぼくやほかの参加者たちは、パイプ椅子の両脇や後ろに並ぶ屋台と老人たちのあいだのスペースに立ってステージを見た。老人たちを若い衆が取り囲むその光景はそのまま、ペルーに生きる日系人社会の層の厚さのようにも感じることができた。
 若者たちははじめの数曲を沖縄に関係する曲の演奏にあて、それが免罪符であるかのように、あとは自分たちの好きなロックや自作の曲などを演奏する、ということをしていた。ほかにも三味線をやる人たちがいたり、エイサーがあったり、沖縄からゲストミュージシャンが呼ばれていたりして、最後にはみんなステージにあがって、歌って踊って、祭りは終わった。
 ぼくは高揚感でいっぱいになって、大宜味村人会の人たちと集合写真を撮って家に帰った。その雰囲気は和やかでありながら、日本では見たことのないような「文化」という生き物のひとつの残り方のようでもあり、刺激的だったのだ。

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 いま、ペルーに暮らす日系人の多くは、日本語(やウチナーグチ)をほとんどしゃべることができない。ペルーでは戦時中に日系人たちは日本語の使用を禁止されたり、集会を禁止されたりしたこともあり、多くの家庭で言語の伝承は途切れてしまったらしい。
もしかすると戦争などなくても、100年を越える時間のなかでは、先祖の言葉は徐々に消えていくものかもしれない。そのことは、この「OKINAWA MATSURI」のとき、ぼくには悲しいことだと思っていた。
そして、ぼくはステージ上で楽しそうに演奏したり飛び跳ねたりする若者たちを見ながら、もしかしたらこのなかに自分もいたかもしれない、ということを生まれて初めて考えた。ぼくも友だちとスペイン語でしゃべり、彼らのように日本の音楽を聞いたり歌ったりしていたかもしれない。琉球國祭り太鼓ペルー支部に所属し、エイサーを踊っていたかもしれない。学校や職場でスペイン語を話しながら、日系社会の未来について議論していたかもしれない……。
 そう思うと、ペルーは遠い場所ではないように思えてくる。どこかで自分とつながるところなのだ。
 この体験とこの思いは、その後、南米を旅したり、さまざまな日系人たちと会ったりするなかで、どんどん強くなって蘇ることになった。

 ぼくの父親はペルーで育ち、当時の日本国文部省の留学制度で北海道大学に来て、そして母親と知り合った。母親は札幌生まれ札幌育ちである。結婚を機にふたりはペルーに移り住んだ。だが、生活習慣や諸々の事情からペルーの生活に馴染めなかった母親は、ぼくが生まれて半年後に、日本に帰国することにしたのだった。それから、父親も数ヶ月遅れて日本に戻ってきたという。札幌では父親の仕事がうまく見つからないということで、ぼくたち家族は東京近辺に引っ越してきたそうである。母親はいまでも関東の暑さに慣れないと言っている。
 ところで、ぼくはふだん東京で演劇の作家として活動している。このところの数作は、南米などの各地での体験や、日系移民のことなどを取り上げていて、そのことからときおり「ルーツを探っている」というように表現されることもある。
 でも、ぼく自身はそういうふうには考えていない。人間は自分の生まれるところや環境をえらべない。たまたまペルーで生まれそこで育つ、という可能性がぼくにはあった。
 もしかしたらべつの人生を送っていた、という想像をすること──それはつまり人が積み重ねる「歴史」に思いを馳せることなのではないかと思っているのだけど、これからここに書いていくものが、読む人にとっても、そういう想像力を使うためのサンプルになったらいいと思っている。

 

 

(了)

 

この連載は隔週でお届けします。
次回:2018年4月26日(木)掲載