さまよう血 山崎洋子

2017.8.29

01思いがけない依頼


思いがけない依頼

「喪も明けないうちに」という言い方があるが、あの時は、忌すら明けていなかった。一九九七年三月八日に、夫が亡くなり、三十日にヨコハマ日の出町のシャンソニエ「シャノアール」でお別れ会。その翌日から、初めて書くノンフィクションの取材に、私は飛び回り始めたのだ。
 闘病する夫はもちろんだが、介護する私もほとんど病人だった。心身だけでなく経済面もとことん疲弊し、追い詰められるあまり食事が喉を通らなくなった。夫ほどではないものの私も痩せ細り、病院へ行くと、栄養失調だと診断された。ちょうど更年期障害の出る年齢だったから、それも重なったのだろう。
 その最中に、毎日新聞社から書き下ろし小説の依頼をいただいた。が、とても受けられる状態ではない。体力も知力も枯渇している。ありがたいお話ではありますが、と丁重に断ると、それではノンフィクションを書いてみませんかと、即座にその編集者、M氏は言った。
 私は大いに戸惑った。小説は創りもの、すなわちフィクションだが、ノンフィクションは実録だ。自分が取材したり調べたりしたことを、ありのままに書く。小説のための取材はもちろんしていたし、短めの女性評伝は、まとめれば単行本五冊になったほど書いた。
 女性史なら興味があるのだが、彼はどう見ても、女性の評伝を書けというタイプではない。
「あの……ノンフィクションといってもいろいろありますよね。どういうものを……」
「例えば、ゴールデン・カップスから見る戦後横浜なんかどうですか?」
 元からそういうことが頭にあったのか、彼はすらりと言った。ゴールデン・カップスは、グループサウンズ全盛期、横浜から出た人気グループだ。
 私はこの時、五十歳を目前にしていたが、彼は三十代半ば。けれどもかなりマニアックなタイプで、ことに音楽は、古い歌謡曲から最新のJ-POP、ジャズ、サンバ、なんでもござれだった。だから、ゴールデン・カップスという、彼の年齢にはちょっとそぐわないものが飛び出してきたとしても、不思議ではない。
 しかし戦後史となると硬派なイメージがある。これまで縁がなかった世界だ。ますます当惑顔の私をまっすぐ見つめ、M氏は続けた。
「カップスは山崎さんと同年代ですよね。メンバーは全員、横浜。しかもグループの出身は、米軍基地の町、本牧じゃないですか。横浜を象徴する場所ですよ。あの時代、彼らが人気を博したのはなぜか、その後、どうなったのか、そのあたりを取材して書くことで、戦後横浜が見えてくると思うんです」
 恥ずかしい話だが、またもや返答に窮した。この時確かに、私は横浜に住んでいた。のみならず、デビュー作になった江戸川乱歩賞受賞作は、昭和初期の横浜遊郭を舞台にしたものだ。昭和三十三年、売春防止法施行と同時に閉鎖された真金町・永楽町遊郭。
 そういうものがあったということをたまたま知り、こういうマニアックな題材は応募作として有利なのではないか、遊郭というのはもともと妖しく怪しい場所なのだから事件もおこしやすいし……と思って応募作の舞台に選んだのだ。
 その後も横浜を舞台にした小説は書いたが、正直、この街に詳しいとは言えなかった。この頃はまだ、横浜にそれほど深く関わるとは思っていなかったし、住まいは横浜市ではあるが郊外の緑区だ。いわゆる横浜のイメージとはほど遠い。
 ゴールデン・カップスにしても、「長い髪の少女」というヒット曲こそ知っているが、メンバーの顔も浮かんでこないし……。
 それでも「考えてみます」と一応、頷いたのは、これまでとまったく異なることなら、やる気になるのではないかと希望を抱いたからだ。
 夫が亡くなる半年ほど前のことだった。
 そして、一人になってから、ザ・ゴールデン・カップス(以下、カップス)と呼ばれた人たちの取材を始めたわけだが、その顛末については拙著『天使はブルースを歌う』をぜひ読んでいただきたい。これを書くことで、私はほんとうの意味で横浜と出会った。さらには、横浜の作家として、横浜の人々に認知していただけたのだ。
 「物語が勝手に動き出す」とは、小説を書いていてストーリーが作者の構想を超えて進み出すことを言う。これがノンフィクションになると、さらに顕著になる。取材しているうちに、思いがけない話が飛び出すからである。この時もまさにそれが起きた。
 カップスのメンバーは途中で入れ替わったりしているが、デイブ平尾(ヴォーカル)、エディ藩(リードギター)、ルイズルイス加部(ベースギター)、ミッキー吉野(キーボード)、マモル・マヌー(ドラムス)という、最盛期を飾った人たちに取材をすることになった。
 当時、彼らはそれぞれ、ソロ活動をしていた。私はその中でも、ノンフィクションの主人公としてエディ藩を選んだ。彼の生家は中華街の老舗料理店「鴻昌(こうしょう)」。中華街生まれの華僑二世というのが、いかにも横浜的に思えたからだ。
 関内のこじんまりしたライブハウスで、エディ藩は定期的にライブを行っていた。後に、「山崎さんと会った頃って、男の最後の反抗期というかさ、なんかこう、世の中に背を向けてた時期だったんだよね」と彼は言ったが、じつに無愛想で、いかにもとっつきにくい相手だった。
 取材を始めて間もなく、そのエディ藩から、ある夜、ライブの中休みにこう言われたのだ。
「山手ライオンズクラブがね、根岸外国人墓地に慰霊碑を建てるんだけど、お金を集めるためのチャリティソングを頼まれて……。俺が作曲するから、山崎さん、作詞してくれませんか」
 なんのことやらさっぱりわからない。
「いや、俺もわからない。だけど、やってるのは俺の昔からの友達だから、あとで呼び出すよ。ちょっと会って」
 いやもおうもない。取材を迷惑がっているとしか思えない彼が、どういう風の吹き回しか、互いの距離を縮める場を与えてくれたのだ。
 ライブが終わった深夜、中華街にある寿司屋で、二人の男性をエディ藩から紹介された。
 一人はYC&AC(横浜カントリー・アンド・アスレティッククラブ)の総支配人、依田成史さん。もう一人は元町の有名な仏料理店「霧笛楼」のオーナー、鈴木信晴さん。エディ藩とはインターナショナルスクール時代からの幼馴染だという。二人は山手ライオンズクラブの副会長と会長だった。
 私のデビュー作は「遊郭」という、どちらかといえば横浜裏面史の世界だったが、この時、初めて、裏面史以上の「闇」と向き合うことになった。横浜の外国人墓地に、その「闇」は眠っているという。

 知られざる外国人墓地

 横浜には外国人墓地が四つある。まずは中区山手の山手外国人墓地。開港期の横浜に功績のあった外国人が埋葬されている。保土ヶ谷区にある英連邦横浜戦死者墓地は、第二次世界大戦におけるイギリスとその植民地出身の戦死者たち。中区大芝台の中華義荘は華僑の墓地。
 そして横浜の人にさえ、あまり知られていないのが、根岸外国人墓地(中区仲尾台七)だ。面積約三千坪。じつを言うと、私も山手ライオンズクラブのお二人に会うまで、どこかで名前を見たかな、という程度で、詳しいことは知らなかった。
 開設は明治十三年(一八八〇)。山手外国人墓地が手狭になったので、人家がまばらだったこの地を、横浜市があらたな外国人墓地として取得した。京浜東北線山手駅を降り、仲尾台の坂を少し上がったところにある。
 ちなみに、山手駅を挟んで仲尾台と反対側に、本牧通りへ通じる大和町商店街がある。600メートルの距離があるこの商店街は、見事な直線になっている。なぜこれほどまっすぐなのかというと、横浜の開港期、水田だったところをイギリス軍が借り受け、射撃場にしたからである。明治四年からは他の外国軍や日本軍も使用するようになり、明治二十年頃まで射撃場として使われていたという。
 流れ弾が墓地に飛んできたらどうする、という懸念もあったようだ。そのせいかどうか、この墓地が実際に使われ始めたのは、明治三十年代なかばを過ぎてからだった。埋葬者は、一般的な意味で知名度の高い人たちではない。一九六七年(昭和四十二)まで、管理人もいなかった。墓地としての使用も終戦後は一切、許可されていない。
 そこに初めて検証の目を向けたのが田村泰治さんである。田村さんは中区石川町という、横浜中心部で生まれ育ち、大学卒業後、中区、金沢区、南区、港南区の小中学校で教鞭を執り、港南区の横浜市立港南台第一中学校の校長を勤め上げた後、退職された。その後も、横浜市の郷土史編纂などに力を注がれ、いま現在も郷土史家として活躍されている。
 私は山手ライオンズクラブのお二人から田村さんの著書『郷土横浜を拓く』を教えられ、さっそく入手して読んでみた。
 根岸外国人墓地は崖に沿って段々畑のようになっている。平らな部分に遺体が埋葬されているのだが、墓標はまばらだ。
 田村さんは昭和四十八年から十四年間、崖の上にある横浜市立仲尾台中学校で教師を務めていた。そして毎日、荒れ果てて、墓参に来る人もほとんどない墓地を見下ろしていた。
 墓地の清掃活動と調査を、ここを管理する横浜市衛生局の許可を得て、田村さんが歴史研究部の部員達と一緒に始めたのは一九八四年(昭和五十九)。草抜きをしたり、倒れている墓標を立て直し、きれいに拭いたりしながら、どういう人々が埋葬されているのか調べていった。
 夏休み期間が中心だったため、生い茂る草、ヤブ蚊、ブヨなどに悩まされながらの活動だった。ひとつずつ、墓標の刻印を写し、読み取り、台帳と合わせていく。
 台帳といっても、終戦後、進駐軍が書類を接収していったため、ほとんど残っていない。図書館や開港資料館に通い、古い文書と照らし合わせての、根気がいる作業だった。ここを管理していた横浜市衛生局も、誰かが掃除をして調査してくれるのならありがたい、というわけで協力的だったという。
 衛生局の台帳によれば墓籍数千二百二基。だが、ほとんど放置状態だったせいか、墓標は約百五十基しか残っていなかった。が、それ以外に、おびただしい数の木製の小さな白い十字架が、立っていたという。
 その墓碑銘を仔細に調べた結果、ほとんどが終戦直後の昭和二十年から数年以内のもの。しかもアメリカ人と日本女性の間に生まれた嬰児だった。その数、約九百体。親の身元などは判明しない。
 書類が残っていない中、田村さんがここまで調べることができたのは、終戦時、山手外国人墓地の管理人だった安藤寅三さん、調査時に根岸外国人墓地の管理人だった国富正男さんの協力があったことも大きい。
 昭和二十年八月十五日、ラジオから流れる玉音放送によって、日本国民は太平洋戦争の終結を知った。天皇陛下がみずからの声で、日本の敗戦を告げたのだ。言論の自由などまったくない軍国主義国家のもと、「快進撃」という国策報道をマスコミは続けていた。国民はそれを信じるしかなかった。
 そこへいきなりの「敗戦」である。当初から勝ち目のない戦だったことを、広島、長崎に投下された原子爆弾がどのようなものだったのかを、この後、日本人は徐々に思い知らされることになる。
 ともあれ、戦争は終わった。同時に進駐軍が入ってきた。横浜は港湾、関内、伊勢佐木町とその周辺、山手、本牧など、中心部のほとんどが米軍の接収地となった。
 そんな状況の下、ある時期から山手外国人墓地に、嬰児の遺体がこっそりと置いていかれるようになった。ひと目見て、外国人の血が入っているとわかる嬰児だった。
 当時の墓地管理人の安藤寅三さんは、最初こそ警察に届け出をしたかもしれない。が、どういういきさつでこういうものがここに置かれていったのか、当時の情勢からすれば明白だ。おそらく警察も、「そちらで処理してくれないか」と言っただろう。
 墓地の空いていたスペースに、安藤さんはその遺体を埋葬した。台帳にも載せられないし、墓標も立てられない。そうした遺体が、一体や二体ではなく、日を追って増えていった。
 しかしここは、由緒ある外国人墓地だ。あらたな埋葬者も受け付けていない。もちろん、スペースにも限りがある。これ以上、わけありの遺体を埋めることはできない。
 そこで思い浮かんだのが根岸外国人墓地である。あそこならまだまだ空きがあるはずだし、事実上、米軍が接収している。嬰児たちの父親が米兵であることは、米軍もわかるだろう。
 というわけで、それは実行されることになった。当然ながら、米軍の許可を得てのことだろう。根岸外国人墓地の入り口には「OFF LIMIT」の看板があり、基本的に日本人は出入りできない。
 朝鮮戦争(一九五〇~五三)で亡くなった米軍兵士を、米軍が一時ここに仮埋葬したこともあったようだ。が、その遺体は後に本国へ送り返されている。
 それにしても混血の嬰児が、約九百体とは多すぎないか、と誰しも疑問を持つだろう。私もこの話を知った時は同じ思いだった。ところが、米軍接収時の横浜について知れば知るほど、じつのところ、こんなものではなかったということがわかってきた。ここに密かに埋葬された嬰児たちのことも、田村さんの調査以前に、知る人ぞ知る事実だったようだ。
 だから山手ライオンズクラブは三十周年記念として慰霊碑建立を企画したのだ。横浜市衛生局の許可も得た。ブロンズ像を発注し、私の作詞、エディ藩の作曲でチャリティーCDの制作もスタートした。ありがたいことに、地元紙をはじめ、複数のマスコミが取り上げてくれた。季節はもう秋になっていた。
 良いタイミングで朝日新聞からコラムの依頼がきたので、このことを書いた。まさかこのあと、たいへんな騒ぎが起きるとは想像もしていなかった。

 

(第1回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2017年9月12日(火)掲載