さまよう血 山崎洋子

2018.1.26

10沢田美喜とエリザベス・サンダースホーム

 

  沢田美喜とエリザベス・サンダースホーム 

 『天使はブルースを歌う』というノンフィクションは、横浜の生んだグループ・サウンズ、ザ・ゴールデンカップスの軌跡を辿るというのが、もともとのテーマだった。が、取材の過程で思いがけず、戦後横浜の混血児秘話と出会ってしまった。
 それを受けて、編集者M氏は大宅文庫へ出向き、沢田美喜に関する過去の記事を、集められるだけ集めてきてくれた。戦後、混血児といえば、真っ先に浮かぶのが彼女の名前だったからだ。
 しかし、本筋のテーマからあまり離れることはできない。せっかく集めてもらった沢田美喜の資料は、ざっと見ただけでその多くは使わないまま、仕舞い込んでいた。
 いま、それを取り出してみて、記事の多さに驚いた。一枚一枚、じっくりと見直し、あらためて評伝を読み返したりしてみると、戦争と混血児という問題において、いろいろな意味で、彼女が果たした役目の大きさを考えずにはいられない。
 エリザベス・サンダースホームが設立された場所は神奈川県大磯市。東海道本線の駅として大磯が開通したのは明治二十年(一八八八)のことである。
 この頃、温泉と同様、海水浴が健康に良いという説が西洋医学方面から伝わってきた。それを受けて医学者の松本順が、大磯の浜に海水浴場を解説することを提案。明治政府が賛同して、大磯駅が開設されたという。駅舎は大正十二年の関東大震災で倒壊し、翌年、現在のものに再建された。三角屋根のいかにも素朴な木造である。
 風光明媚な地で、東京からもそう遠くはない。おまけに体に良い海水浴場まであるというので、歴代宰相や財界人、芸術家などが、こぞって大磯に別荘を構えた。三菱財閥を率いる岩崎家が、駅から通りを挟んだところにある山を手に入れ、広大な別荘を建てたのは明治二十三年(一八九一)のことである。
 三菱財閥は三井、住友と並ぶ三大財閥のひとつだ。創始者は土佐藩出身の岩崎弥太郎。沢田美喜はその孫娘である。明治三十四年(一九〇一)九月十九日、父であり、三菱財閥三代目の総師となる岩崎久彌の本邸で生まれた。現在この屋敷は旧岩崎邸庭園として重要文化財になっている。昔は一万五千坪の敷地に二十棟もの建物があったという。設計は鹿鳴館と同じジョサイア・コンドル。
 まあ、並みのお金持ちお嬢様ではない。ここだけで五十人もの使用人がいた。美喜はその使用人たちにかしずかれ、大切に育てられた。幼稚園から御茶ノ水師範学校付属。お付きの女中が送り迎えをした。
 兄たちの家庭教師だった津田梅子に、五、六歳の頃から英語の手ほどきを受けている。津田梅子は津田塾大学の創立者だ。明治四年(一八七一)、岩倉具視を団長とする視察団が欧米へ渡航したが、一行の最年少者が六歳の津田梅子だった。日本における女子教育の魁となった人物である。 
 沢田美喜の自伝や評伝は複数出ているので、その人生や人となりはそちらで知っていただきたい。ともかく、生まれたその瞬間から、当代建築の粋を極めた屋敷で育ち、与えられる物、接する文化、教養、付き合う人物など、すべてが一流の中の一流だった。
 外交官である澤田廉三と結婚した後は、夫の赴任先であるブエノスアイレス、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークの社交界でもてはやされ、時代のトップを走る政治家、文化人と対等に付き合ってきた。美喜は英語、フランス語など、五カ国語を話せたという。
 後に、サンダースホームの大きな援護者となるノーベル賞作家のパール・バック、黒人歌手のジョセフィン・ベーカーとも、この時期に知り合った。
「欲しいものはなんでも、お金で買えると思っていた」
 と美喜自身が語っているように、海外にあっても、衣食住は一流ブランドづくめだった。外交官の給料だけではとてもできない贅沢だ。実家の岩崎家から潤沢な援助があったのだろう。もちろん社交に明け暮れていただけではない。三男一女の子供を産み育て、妻、母という役目も果たしている。
 こうした日々を打ち砕いたのが、戦争であり敗戦であった。日本を占領したアメリカは、財閥を解体し、岩崎一族が築いた財産の多くを没収したのだ。美喜の生家は米軍に接収され、キャノン機関という工作機関として使用された。
 サンダースホームのもとになった大磯の屋敷は、岩崎家の、数ある別荘のひとつだ。が、ここも財閥解体に伴う財産税として、政府に物納されていた。
 美喜が混血児の養護施設を始めたいきさつについては、彼女自身が語った幾つかの逸話がある。
 終戦直後、汽車に乗っていたら網棚から新聞紙にくるまれた荷物が落ちてきた。包が解けて現れたのは、なんと一目で混血児とわかる赤ん坊。警察官が駆けつけた。彼は乗客を見回し、女性である美喜に目を留めた。
「おまえだな、この持ち主は!」
 詰め寄る警察官。美喜は決然と相手を見返し、言い返した。
「この赤ん坊は生まれてからまだ日が浅いでしょう。私を病院に連れて行って体を調べなさい。医者が見れば産後の体かどうかすぐにわかるはずですから!」
 その気迫に、警察官もすぐ引き下がったという。
 海外での体験も大きく影響している。美喜は夫の赴任でロンドンにいた時、ドクター・バラード・ホームという世界有数の孤児養護施設を見学した。そこは病院や特殊技能学校も併設しており、孤児たちが健康で、さらには職業技術を備えて社会へ出ていける仕組みになっていた。また、働ける年齢になった時点で、カナダ、オーストラリアへ移民として送り出すこともしていた。
 この頃、日本はまだ貧しかった。一家を養うために少女が遊郭に身売りするような現実があることを、美喜は知っていただろう。日本は福祉という点でもヨーロッパに遠くおよばないことを、この時、噛みしめたのではないだろうか。
 美喜はキリスト教徒である沢田廉三と結婚したことで、自身もクリスチャンになった。キリスト教の奉仕や福祉に関する教義も、彼女の考え方に大きな影響を与えたはずだ。
 やはりロンドンにいた頃、美喜は教会の奉仕活動でスラムへも行った。その時、なんの躊躇もなくホームレスの群れに入り、励まし、配られた熱いスープを一緒に飲んでいたのがウインザー公だった。
 ウインザー公とは、英王室の王子として生まれ、一九三六年に即位したエドワード八世である。彼は人妻であったウォリス・シンプソンと道ならぬ恋をした。そして彼女と結婚するために王位を捨て、ウインザー公爵となった。「王冠を捨てた恋」として、この話は有名である。
 王から公爵になったとはいえ、最上流階級であることに違いはない。歴史の重みや格式からいえば、明治になってから財力で世に出た日本の財閥など比べ物にならないだろう。その人が、ためらいもなくホームレスと接している。彼らの話に耳を傾け、力になろうと努力している。日本ではありえない光景に、美喜は強い感銘を受けた。
 終戦を迎えた時、美喜は四十歳を超えていた。当時の女性としては、もはや「年寄り」と呼ばれても不思議はない年齢だ。絢爛たる背景を奪い取られ、息子の一人は戦死。普通なら、赤の他人である孤児のことどころではない。
 だが美喜は子供の頃から、岩崎家の人々に「おんな弥太郎」と呼ばれていた。祖父であり、三菱財閥創始者である岩崎弥太郎から、稀有な行動力や才能を受け継いでいたようだ。働いたことなど一度もない身で、混血児の養護施設を起ち上げた。
 当然ながらマスコミに注視されたが、彼女は逆に、それをめいっぱい利用した。だからおびただしい記事が残っている。ことあるごとに話題を提供し、インタビューに応じ、エッセイや対談で新聞・雑誌に登場し、精力的に講演も行っている。
 自分だけではない。マスコミには子供たちも頻繁に出した。個人情報も子供の人権も、いまのようにうるさく言われない。子ども自身の気持ち、顔や名前を世間にさらすことの弊害など、考える必要がなかったのだろう。
 それよりも、こういう子供たちがいるということを具体的に見せて問題提起し、有力な支援者を得ることのほうが、美喜にとっては先決問題だったに違いない。
               *

 美喜が大磯の別邸を政府から買い戻し、混血児の養護施設を設立したのは昭和二十三年(一九四八)である。絵画、宝石、毛皮、庭の石灯籠まで売り払い、資金を集めた。財閥解体時の決まりで、たとえ買い戻しても三代までは岩崎家の持ち物にしてはいけないことになっている。これを踏まえ、美喜は自分が所属するキリスト教聖公会のものとした。
 そこへ、遺産として百七十ドル(当時の日本円で約六万円)を残したのが、エリザベス・サンダースというイギリス人女性だ。最初の寄付だった。それがどれほどありがたかったか、美喜が彼女の名前をそのままホームに冠したことでもわかろうというものだ。
 このことが報道されるやいなや、ホームのそばに黒人の混血児が置いていかれた。どうか預かってくださいと、我が子を連れてくる女性もいた。あっという間に子供の数が増えていった。
 GHQはむろん眉を潜めた。沢田美喜のような存在も、当然ながら迷惑だった。兵士たちにはコンドームを配布している。これは避妊のためというより、性病を予防する目的のほうが大きかったようだ。
 しかし、戦争による死の恐怖から解放され、勝者として敗者の国へ乗り込んだ男たちには、歯止めなど効かない。相手の妊娠を気遣うどころか、自分が性病にかかる恐怖さえ念頭になく、コンドームはきちんと活用されなかったようだ。
 結果、GHQがトラックで「娼婦刈り」をして女たちを検査のために病院へ送り込むほど性病は蔓延した。GIベイビーも増える一方だった。米軍にとっては恥の事実だ。
 昭和二十七年(一九二五)、横浜を舞台にした獅子文六の小説「やっさもっさ」が刊行された。ベストセラーになり、渋谷実監督、淡島千景主演で映画化もされた。そこには、沢田美喜を彷彿とさせる混血児養護施設の理事長、パンパンと呼ばれた夜の女など、まさにこの頃の世相が描かれている。
 獅子文六は混血児について、あるところでこう語っている。
「混血児が敗戦―売春と結びついて考えられるので、(混血児に)一種の不快感をともなうのであろうが、正しい結婚によって生まれた子と売春によって生まれた子どもに、人種的差別がある道理はない」
 しかし、世間の偏見は、ベストセラー作家の言をもってしても収まるものではない。聖母愛児園もサンダースホームも、混血児たちの未来をアメリカに託した。孤児を養子に迎えたいと希望する国は、アメリカしかなかったし、このまま日本で育っても、明るい未来を予想させるものなど、この時点ではみじんもなかったからだ。
 昭和二十七年(一九五二)、美喜はアメリカへ渡る。日本が占領を解かれた年だ。厚生省が混血児の実態調査に乗り出した年でもある。
 美喜の目的は混血児問題のアピールと寄付集めだ。一ヶ月足らずの滞在でニューヨーク、ワシントンをはじめとして、アメリカ東部諸都市を回っている。その成果は大きく、資金募集委員会が設立される。集まった寄付はキリスト教児童基金を通じてホームに入るという仕組みができた。
 行く先々で講演を行っているが、そこで、
「日本にもアメリカに尻尾を振らない犬が一匹くらいいてもいいでしょう」
 と、堂々言ってのけている。しかも同じそのアメリカで国連や政府に、混血児養子縁組がもっとスムーズにできるよう、移民法の緩和を訴えているのである。
 一九五三年、アメリカで難民救済法が設置された。これによってアメリカへ養子に行く子は、「難民」としてアメリカ入国の資格が得られるようになった。さらに翌年、日本の厚生省は、「混血孤児たちは日本にいるより、父親の国で成長するほうが幸福である場合もありうる」とし、日米孤児救済合同委員会(後の日本国際社会事業団)などの関係機関と連絡を取りつつ、国庫補助金を供出して、海外養子を促進していく方針を発表した。
 この後のマスコミ報道で取り上げられるのは、ほとんどがサンダースホームからアメリカへ養子に行った子供のことだが、実際には聖母愛児園をはじめとして、さまざまな施設から混血児たちがアメリカへ養子に行っている。その手段も正攻法だけではなかっただろうから、数は把握しきれない。
 それにしても昭和二十年代の新聞記事などには、「混血児は知能が劣る。なぜなら両親が揃ってレベル以下だから」と、驚くようなことが普通に書かれている。美喜の混血児救済を美談として報道する一方で、マスコミは偏見を作り出してもいたのである。
 ホームを始めた当初、美喜は厚生省の役人から「混血児は敗戦の恥辱を象徴する存在だから、放っておきなさい」と言われたり、寄付を募るために会った米軍将校夫人から「ノーグッドな子たちなのだから、ベッドなんかいらないでしょう」と一蹴されたりした。
 昭和三十二年、美喜は菅原卓と対談している。菅原は実業家、劇作家として活躍した人物だ。戦後の演劇復興にも尽力し、劇団民藝で「アンネの日記」「セールスマンの死」などの訳や演出もおこなっている。
 この対談の中で美喜は、アメリカとの養子縁組に関して実情を話している。女の子をという要請が圧倒的に多い。なぜなら、男の子は大人になっても、アジアの血が混じっていると差別される。いい職業に就けないし、それゆえ、嫁の来ても少ない。でも女の子は違う。美人で愛嬌があれば、良い相手と結婚できる可能性もでてくる……と、なかなか赤裸々である。
 問題は黒人系の混血児だ、と。黒人はアメリカでも貧しい。孤児になった黒人系混血児を養子にしたいと思っても、旅費を工面することができない。それにアメリカにおける黒人差別は、日本人が思っている以上に凄まじい。出世できそうな道は芸能界かスポーツ界しかない。いや、その世界ですら、差別は激しい。
 「黒いヴィーナス」と絶賛された、歌手でダンサーのジョセフィン・ベーカーと、美喜はフランスで知り合い、親しくなった。が、パリやベルリンで有名文化人からも称賛されたジョセフィンが、故国アメリカではあからさまな差別を受けた。
 ニューヨークで再会することになったジョセフィンを、美喜がロールス・ロイスで波止場へ迎えに行こうとすると、白人運転手が渋い顔で言った。
「奥様、黒人をこの車に乗せなければいけないのでしょうか」
 さらにジョセフィンは、ホテルの宿泊やナイトクラブへの出入りを断られる。彼女と舞台で踊ることになった白人ダンサーは、自分の顔を隠すため、マスクをして出たいと言い出す始末。
 そうした現場を目撃してきた美喜は、黒人系の混血児に関して、明るい見通しなど持っていなかった。
「あなたと会ってみようと思ったのは、混血児の中には歌や踊りが先天的に上手な子もいるから。将来、芸能の道に進むという道も、開いておきたかったから」
 と、美喜は菅原に言っている。黒人の混血と断定してはいないが、ジョセフィン・ベーカーを通して体験したことが、頭にあったのかもしれない。
 この対談の中で、菅原は「くろんぼ」「ニグロ」を連発している。まだこの言葉が差別用語ではなかったのだから仕方がない。美喜も、かなり後になるまで、「くろんぼ」とか「黒」「白」という言葉を使い続けている。
 菅原にしても、混血児という存在に対して、対談を読む限りあまり理解しているとは思えない。
「やはり普通の子供とは違うのか?」とか「発音しにくい日本語はあるのか?」などという質問を投げかけている。ホームにいる混血児は、日本で生まれ、日本で育っている。彼らの母国語は日本語なのだ。
 当代一流の文化人でさえこうなのだから、世間一般の眼は推して知るべしだろう。

 昭和三十三年(一九五八)、美喜はNHK紅白歌合戦の審査員として、晴れやかな姿を見せた。昭和四十年(一九六五)には国際孤児財団の「世界の婦人賞」を受賞。
 昭和三十七年、ブラジルに聖ステパノ農場を開園。美喜がロンドン時代に見学した養護施設、ドクター・バラード・ホームは、大人になった孤児たちを、カナダやオーストラリアへ移民として送り込んでいた。そのことがずっと頭にあったのだろう。
 サンダースホームからアマゾンの開拓地へ渡った孤児たちは、そこで胡椒畑、建設作業、豚や鶏などの飼育に励んだ。向こう三年間に五万ドル(千八百万円)の寄付を受けるという約束を、美喜はパール・バック財団から取り付けている。この財団はノーベル賞作家のパール・バックが立ち上げたものだ。美貴はアメリカでパール・バックと知り合い、親交を続けていた。
 残念ながら昭和五十年(一九七五)、ステパノ農場は閉鎖された。マスコミで大きく報道され、鳴り物入りでやってきた若者たちは、当初から、もともといた日本人移民たちと折り合いが悪かったようだ。
 昭和四十一年、国家的な事業に貢献した功労者に贈られる内閣総理大臣顕彰の第一回受賞者に選ばれる。この時、ともに受賞した宮崎松記博士は、インド救ライセンターの院長として、ハンセン病救済に尽力していた。
 美喜はさっそく、インド兵と日本女性の間に生まれた混血孤児女性を、博士に引き合わせる。看護婦の資格を取得していたその女性は、美喜の勧めによって、インドへ渡り、松木博士のもとで働くことになった。新設された賞の第一回目だったこともあり、このこともかなりマスコミの話題になっている。
 昭和五十三年(一九七八)、日本テレビが開局二十五周年番組として大々的に沢田美喜を取り上げた。「子供たちは七つの海を越えた~エリザベス・サンダースホームと1600人の混血児」というドキュメンタリー番組である。
 ホームが設立されてから三十年。孤児たちもすっかり大人になった。千六百人のうち、半数が養子として渡米している。番組はその中から百二十人を追跡調査し、さらに五人を選び出して、ドキュメンタリーの核に据えた。
 放映後の反響は凄まじく、視聴者からの電話は五百本を超えた。それまでも沢田美喜やサンダースホームのことはマスコミに取り上げられてきたが、「ホームの存在も混血児たちのことも知らなかった」という人が圧倒的に多かった。ここに出ている子の母は自分だと名乗り出たケースも二件あったという。
 孤児の中でも反響が大きかったのはメリー七海だ。サンダースホームへ行くには、いまでも山裾にあるトンネルをくぐらなければならない。昭和二十六年の末、彼女はそのトンネルに、ひとつ年下の妹と二人、母から置き去りにされた。黒人系の混血児だった。
 母はその後、何度かホームを訪ねてきたようだ。「きっと迎えに来るから」と言いながら、いつも違う黒人の男と一緒だった……と、メリーは新聞のインタビューで語っている。
 母親はメリーが五歳の時、ほんとうに引き取りに来た。が、結局はまた、姉妹ともに放棄され、横浜の児童相談所へ引き渡された。そこでもいじめられたというが、たいそう気の強い子だったというから、喧嘩っ早いところもあったのだろう。
 結局、姉妹はまたサンダースホームに戻された。しかしホームでも問題児となり、十七歳で京都の修養施設へ。そこで知り合った日本人のボランティア青年と恋をするが、相手の両親の猛反対にあって結婚はできなかった。
 二十一歳の時、立川基地の黒人兵と結婚。シカゴに移り住む。看護婦として働き、二児を得るが離婚。自殺未遂……。テレビカメラに向かって、七海は泣きながら、吠えるようにその人生を語ったという。
 このテレビ・ドキュメンタリーは「沢田美喜と日本テレビ」として菊池寛賞を受賞している。
 昭和五十六年、美喜の半生がテレビドラマになった。「母たることは地獄のごとくー炎の女(ひと)」。脚本は早坂暁、演出はせんぼんよしこ。主演は京マチ子。邦画が元気だった頃、大映の看板女優として活躍し、主演作が三本も海外映画祭で受賞した大女優が美喜を演じた。
 この頃、日本はすっかり戦後復興を果たし、バブル期を目前にしていた。京マチ子は別として、若い俳優も子役たちも、戦争直後の悲惨な時代など知らない。演出のせんぼんよしこは「現代の女優が、当時の母の辛さを果たして演じられるかどうか」と、インタビューで不安を口にしている。
 混血児役の子役たち三十人は、外国人タレント専門のプロダクションや米軍基地などから集められた。しかし、「親に捨てられ、痩せ細った体でホームに保護された混血孤児」という雰囲気の子は、当然ながら一人もいない。オーディションには喜々として両親がついてくる。子供たちはみな英語が話せて、逆に日本語が不自由な子が多い……という状況で、これも苦労したようだ。
 このドラマは放送文化基金賞奨励賞を受賞している。
 残念ながら美喜は、これを観ていない。前年の昭和五十五年、旅先のスペイン、マジョルカ島で客死した。七十八歳の生涯であった。

 さて、年代をまた昭和二十七年(一九五二)に戻そう。ようやく、国が混血児問題と向き合い始めた年である。
 八月、中央児童福祉審議会に混血児問題対策研究会が設置された。委員の顔ぶれは、児童心理、優生学、小児医学など学会の代表者八名、外務省、文部省などの官庁関係者五名、大宅壮一などの評論関係者五名、そして施設代表として、聖母愛児園の園長ルゼンヌ・アンナ・マリとエリザベス・サンダース・ホームの澤田美喜。
 大きな議題となったのは、混血児の就学問題である。占領軍兵士を父に持つ子が最初に生まれたのは昭和二十一年。あっというまに小学校へ上がる年齢に達した。が、混血児に対する世間の拒否感は強い。果たして日本の子供たちと同じ学校で学ぶことができるだろうか。誰もがそれを懸念していた。
 それまで日本に混血児がいなかったわけではない。だがこの時は、多くがGIベイビーである。ついこのあいだまで敵だった国であり、いまは占領国として傲岸不遜な態度で闊歩しているアメリカの男たちの子だ。差別や偏見だけではなく、憎悪が子供たちに向かう恐れもある。
 これは日本だけのことではない。海外でも、特殊事情のもとに生まれた混血児に関して、さまざまな社会問題が生じていた。
 聖母愛児園はカトリック女子修道会が運営している。その規則により、就学年齢に達した男子を、このままここで保護することができない。そこで女児だけここに学園を創設して入学させる。男児は信者の元に里子に出して公立の学校に通わせる、という方針を出した。
 一方、沢田美喜は、ホームの敷地内に男女共学の学校を創り、ホームの混血児たちをそこへ入れるつもりだと答えた。
 三ヶ月後、文部省は、施設の混血児も等しく公立の学校に通わせるという方針を定めた。戸籍のない混血児も多々いたので、文部省はこの時、戸籍をつくるなり入籍させるなりするよう、都道府県の教育委員会に通達している。
 公立学校へという決定については、とりわけ混血児問題に関して調査研究が熱心だった横須賀市、そして、全国一の収容数である聖母愛児園がある横浜市が、それぞれにまとめた結果が大きく影響した。
 この決定が出た時、美喜はすでに、ホームの敷地内に学校を造ることを決めており、寄付集めのために渡米していた。そして実際に、聖ステパノ学園を創設した。
 ステパノはキリスト教における聖人の一人だ。ステファノス、ステパノスとも表記される。ユダヤ人だがギリシャ語を話した。天使のような顔を持ち、不思議な業としるしによって人を惹きつけたが、それをよく思わない人々によって最高裁に引き立てられ、石打ちというリンチ刑によって亡くなったとされる。
 一方、聖母愛児園は文部省の決定に従い、まずは男女ともに、すぐそばにある公立の元街小学校へ入学させた。エリザベス・サンダースホームの子供たちは聖ステパノ学園に入った。そして、どちらのケースでも事件は起きた。

 ファチマの聖母少年の町(ボーイズタウン)

 元街小学校のある山手は、昔、外国人居留地だったエリアだ。土地柄もあるだろうが、横浜市の教育委員会も学校も、混血児の就学には非常に前向きだった。それでも、あとで述べるような問題が起きたのだが、当初から大混乱をきたしたのは、聖母愛児園の男児受け入れを要請された大和市の小学校である。
 神奈川県大和市の南林間に、ファチマの聖母少年の町(ボーイズ・タウン)と名付けられた施設が建設を申請した。聖母愛児園の分園だ。
 これに対する地元の反発は凄まじかった。混血児収容施設対策委員会が結成され、四千人もの反対署名が集められたのだ。入学予定だった林間小学校のPTAも九十%が反対。教育委員会も同様だった。
 混血児は知能が低いと決めつけ、さらには「黒人と同じ学校に通って、日本人の子どもまで黒くなったらどうする」という、あからさまな偏見まで、大まともに取り上げられた。その結果、子供たちが地元の学校に入らないという条件のもと、施設の建設だけが許可されたのである。
 ボーイズ・タウンに暮らしながら、スクールバスで片道一時間もかかる元街小学校へ、男児たちは通った。じつは元街小学校でも、反対する父兄はいたようだ。大和市へ行ったことで厄介払いできたのに、なぜまた、ここへ戻すのかと。
 元街小学校の校長は懸命に説得した。聖母愛児園にしても子供たちにしても、すき好んでこういう状況になったわけではない。いまここで自分たちが拒んだら、子供たちはどうなるのか。哀しい運命のもとに生まれてきた子たちを、さらに惨めな境遇に落とすことになる。もしこれがあなたの子だったらどんな気持ちになるか。決して皆さんに迷惑はかけない。どうか二、三年、様子をみてほしい……と。
 まさかそんなことが、この日本で……と、驚く人が多いだろう。罪もない子供たちに対して、なぜそんな冷たい仕打ちをしたのかと、現代の私たちが責めるのは簡単だ。が、いつだって、時代の空気というものがある。人はいやおうなしにそこへ巻き込まれる。
 たとえば私が戦時中の人間だったとしたら、「鬼畜米英!」を口にし、日本軍が敵を大量殺戮したという報道に、歓声を上げていたかもしれない。戦後であっても、衣食足りていない状況で、果たしてどれほど、GIベイビーと呼ばれた子供たちに対して心を寄せることができたか。
 戦争にまつわる歴史を知ることは、自分の内に潜む身勝手で冷酷な「鬼」を意識することでもあると、私は思っている。
 戦後復興が進み、交通量が増加すると、大和市から横浜への通学にかかる時間も、渋滞によってさらに増えた。子供たちの体力的負担に加えて、愛児園の経済的負担もふくらんでいく。
 昭和三十三年(一九五八)になって、林間小学校はようやく、試験的に五人の混血児を受け入れた。そのうちの三人がアメリカへ養子に行ったので、それみたことかと当時のPTA会長は非難した。どうせ日本にいても不幸なのだから、最初からアメリカへ行けばよかったのだ、と。
 混血孤児たちにしても、差別のある日本で、親のない孤児として施設で育つより、豊かなアメリカへ養子に行くことを望んでいた。元街小学校へ入学した子供たちも、じつは養子先が決まった子から次々と渡米している。
 そうなると、残った子供たちは辛い。「おまえ、誰も引き取ってくれないのか」と、日本人の子供たちから心ない嫌味も浴びせられる。
 結果、林間小学校でも元街小学校でも、自暴自棄から問題児となる子が出てきた。
 が、そんな時期にも、教育現場にはあきらめない教師たちがいた。彼らの粘り強い努力と世情の変化によって、ようやく昭和三十五年から、林間小学校は全面的に混血児たちを受け入れるようになったのだ。
 占領が終わり、GIベイビーも日を追って少なくなり、ファチマの聖母少年の家がその役目を終えたのは、昭和四十六年(一九七一)であった。
 付け加えておくが、ボーイズ・タウンと似た名前の施設が、横浜市中区の日の出町にあった。戦災孤児の収容施設ではあるが、混血児専用ではない。昭和二十二年五月の設立。どちらかといえば、問題を起こしがちだった孤児を集めた保護施設だ。
 この年、マッカーサーは戦災孤児対策として、社会事業家であるエドワード・ジョセフ・フラナガン神父を日本に招聘した。フラナガンはネブラスカ州で「少年の町」という、自立更生施設を設立したことで名を知られた。日の出町の施設も、フラナガンがボーイズホームと名付けた。
 昭和五十四年、茅ヶ崎に移転し、「社会福祉法人福光会 子どもの園」という名称となった。児童養護施設としていまも健在である。

 一方、世間の冷たい風を予測して、聖ステパノ学園を設立したエリベス・サンダース・ホームも、何度かパッシングに晒されている。
 昭和四十八年(一九七四)、この学園の出身者九人が、前年の五月からこの年の三月にかけて、東京、神奈川で二百五十件もの窃盗を働いて逮捕された。
 世間はこの時、「孤児たちを温室育ちにしたせいで、社会に出てからやっていけず、こういうことになったのだ」と、沢田美喜を非難した。
 美喜は、はたから見て、子どもに厳しすぎるほど厳しい「ママちゃま」だったが、千人、二千人という孤児たちを完璧な大人として世に出すのは、誰にとっても無理な話だっただろう。
 養子として渡米した子供たちが、ギャングによって売買されているらしいことが、アメリカのジャーナリズムに取り上げられたこともある。ちゃんとした手続きを踏んだ養子であっても、「その後」をすべて把握することは難しいのだ。
 聖母愛児園、エリザベス・サンダースホーム以外にも、混血児の保護施設は複数あった。そこからおびただしい数の子供たちが、この時期、アメリカへ養子として渡った。
 そうした施設のひとつが、葉山の幸保愛児園である。ここには、歌手で黒人系ハーフのジョー山中がいた。

 インタビュー 幸保愛児園元園長 金子エスター聖美

 私の祖父母は千葉、御宿の出です。祖父は町長もつとめたとか。(こう)(ぼ)という苗字は本名なんですよ。珍しいでしょ?
 明治の半ば頃、その町の二十世帯くらいを引き連れてロサンゼルスへ移住したそうです。遠い外国へ移民しないといけないほど、日本はまだ貧しかったのですね。
 農園を開墾してレタスを栽培したのです。だけど、ロスからニューヨークに送る間に腐ってしまい、大失敗だったんですって。で、レモン栽培に変えてようやくうまくいったとか。
 わたしの母は五人きょうだいの末っ子で、祖母が四十九歳の時の子です。国籍はアメリカ。二十二歳の時、エヴァグリーンというキリスト教派宣教師になって日本に来ました。二十人くらいの団体で。
 母はアメリカ生まれのアメリカ育ちだから、日本語がうまく話せませんでした。そこで案内についてくれたのが長谷川さんという、税関勤務の男性。母は彼と恋におち、結婚しました。その長谷川さんが私の父です。
 夫婦は横須賀市の追浜に居を構えました。それが戦後間もなくの頃です。
 ある時、二人は葉山の浜で、ブラウンペーパーに入れられた赤ん坊を拾いました。ブラウンペーパー? 横須賀駐留の米軍が使っていた、茶色い袋のことです。
 その赤ん坊は肌が黒かった。米軍兵士と日本人女性の混血だということは、すぐわかったそうです。捨てられたわけも……。波打ち際に置かれてたのですよ、生きたままで。
 残酷に聞こえるでしょうけど、心の奥底には、誰かやさしい人が拾って育ててくれたらという、切ない願いもあったのかもしれませんね。
 昭和三十三年頃まで、そういう混血の捨て子が相次ぎました。うちの親がじかに拾った子だけで十人もいたのです。
 なんとかしなきゃいけないというので、両親は、日本海軍が使っていた家を見つけて借り受けました。二階建てで、洋式トイレとシャワーのある洋館です。トイレは一階にも二階にもありました。孤児の保護施設として許可が下りた時は四十人くらいの子供を、すでに面倒みていました。
 エリザベス・サンダースホームに頼んで、戦争未亡人の保母さんを一人回してもらいました。さらに、父の里である静岡から手伝いのために親戚が出てきて、幸保愛児園がスタートしたのです。

 混血の孤児をアメリカに養子に出したりしてましたから、人身売買を疑われて、警察が来たりしたこともありました。すぐ東京のアメリカ大使館に訴えましたよ。そしたら大使館から県庁に連絡がいって、逆に県に対して、孤児のホームをつくるようにと……。それで許可が下りたのです。
 昭和二十八年(一九五三)に私は生まれました。ええ、孤児たちと一緒に、同じ家で同じものを食べて育ちました。
 母は、養子に出す子供を連れて、何度もアメリカへ行きました。私も一緒に行ったことがありますよ。ハワイやサンジェゴの教会が、資金面も精神面も援助してくれました。
 差別ですか? それはありましたよ。天皇が葉山にいらっしゃる時は、混血児の保護施設なんか目障りだから看板を隠せと警察に言われました。混血児と一緒に散歩していると、石を投げられたりしたものです。

 亡くなった歌手のジョー山中さんは、中学生の時、幸保愛児園に入所しました。彼のお母さんも彼自身も、結核で体が弱くて、ジョーさんは茅ヶ崎の虚弱児施設にいたんです。当時、結核はすごく多かったのですよ。
 療養して、ジョーさんは治った。でも、お母さんは亡くなりました。父親は米兵ですが、たぶん、会ったこともないでしょう。
 行くところがないから養護施設に入るんだけど、喧嘩っ早くてすぐ手が出る。次々と施設を追い出されて、最後に、うちへ来たのです。ええ、中学卒業までいました。
 それからプロボクサーを目指したのですよ、自分は強いという自信があったから。
 アルバイトをしながらボクシングジムへ通ったみたいだけど、いざ、プロの世界へ入るとノックアウトばかり。喧嘩が強いのと、プロになれるのとは、どこか違うのでしょうね。
 で、諦めて、横浜のディスコでバンドボーイをやってました。芸能界デビューしたときは、セント・ジョセフだったかインターナショナル・スクールだったか、横浜の有名高校卒というプロフィールになっていて、びっくりしました。
 だけど、経歴を偽るのは、彼の本意ではなかったでしょうね。事務所の意向だったのでしょう。有名になってからは養護施設にいたことを隠しませんでした。うちのイベントにも来てくれたし、寄付もしてくれました。
 あの頃、芸能界はハーフ・ブームだったけど、黒人とのハーフでスターになった芸能人は、彼しかいなかったのではないでしょうか。

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 ジョー山中はグループ・サウンズ全盛時代、「フラワー・トラベリング・バンド」のヴォーカルとしてメジャーの仲間入りをした。が、彼を有名にしたのは、なんといっても森村誠一原作の角川映画「人間の証明」である。
 黒人兵と日本人女性の間に生まれた混血の子、という、自分そのもののような役を、ジョー山中はオーディションで見事、射止めた。役名は「ジョニー」。
 ニューヨークのスラム街で、酷い黒人差別を受けて育ったジョニーは、自分の母親が、日本の有名服飾デザイナーであることを知った。会いたくて日本に渡ったが、いまわしい過去を隠したい母にとって、彼の出現は困惑以外の何ものでもなかった。
 息子と会った母は、自分の地位を守るため、彼をナイフで刺す。母の気持ちを悟ったジョニーは、浅く刺さっていたナイフを、自分の腹に深く差し込む……という切ないストーリーだった。
 映画のCMがテレビで連発されたが、そのたびに、ジョー山中の歌う主題歌「人間の証明」も流れる。歌は大ヒットし、ジョー山中は一躍、スターダムに乗った。
 その後はミュージカルの主役を務めたり、レゲエ・ミュージックで高い評価を得たりと活躍の幅を拡げていった。が同時にチャリティ活動に力を注ぐようになる。
 私が彼に初めて会ったのは一九九九年。『天使はブルースを歌う』が出版された年だった。
 この年の九月、台湾中部でマグニチュード7クラスの大地震が起き、死者約二千四百人、全壊約五万一千戸という大きな被害が発生している。被災者を援助するため、チャリティ・コンサートを発案したのは、台湾にルーツを持つエディ藩だ。
 「Aid Formosa'99」と銘打ったそのコンサートは横浜の中区山下町にある県民ホールで開催され、彼の音楽仲間が大勢、チャリティで参加した。その中にジョー山中もいた。
 とても気さくでやさしい人だった。引き締まった美しい肉体を見せるのも大好きで、その後、何度か行った彼のライブでは、必ず裸の上半身を見ることになった。
 二〇一一年、肺癌により六十四歳で永眠。もっと話を聞いておけば良かったと、残念でならない。


                         (第10回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年2月9日(金
)掲載