さまよう血 山崎洋子

2018.3.16

13ヨコハマ・ドリーム

 

 ヨコハマ・ドリーム

 中区関内に「サリーズ・バー」という店がある。U字型のカウンターだけという小じんまりした店だ。壁にはザ・ゴールデン・カップスをはじめとして、一世を風靡したグループサインズやロックミュージシャンのポスターが張られている。
 ポスターにあるのは若き日の姿だが、この店では、「現在(いま)」の彼らとしばしば遭遇する。彼らはふらりとやってきて、普通のサラリーマン客と肩を並べて腰掛け、普通に飲んで帰る。誰もが肩肘張らない、普通の時間が流れ、私のような、体力がないから夜の街にはほとんど出ない、という人間にも、居心地の良い時間を与えてくれる。
 私はここで、オーナーのサリーさんや客の話に耳を傾け、六十年代、七十年代の横浜を教えてもらった。同世代ではあっても、リアルタイムではかいま見ることすらできなかった特別な世界だ。
 彼らはいまでも仲がいい。大きな会場を借り切って、有名無名を問わず仲間が集まり、音楽とダンスのパーティーを催すこともしばしば。
 私もその場に参加させてもらったことはあるが、青春の頃に還るのではなく、いまの彼らがそのまま、ジーンズもミニスカートも革ジャンも似合う、かっこいい大人であることに感動した。
 踊れるわけでもなく、ファッショブルでもない私が、ちんまりと隅に座って眺めていても、無理に引き入れることはしない。その距離感がなんとも心地よい。私は内側に入るのではなく、いつも他所者として外側から眺めることを楽しんでいる。
 一方の壁に、ひときわ大きなポートレートが四枚。四人の美しい女性たち。七〇年代のファッション写真だ。彼女たちはこの頃、まだ十代だったが、モデルとして最先端で活躍していた。
 キャシー中島(一九五二生)、石川ジル(一九五四生)、浅野順子(一九五〇生)、サリー(一九五一生)。
 キャシー中島と石川ジルはバストショット。大きな瞳と整った顔立ちが、いかにもハーフだ。髪をショートカットにした浅野順子は、ミニスカートから伸びた長い足を、下からあおってさらに強調したアングル。長いストレートな髪のサリーもミニスカート。ソファに腰掛け、ロングブーツで足を組んでいる。
 いまでこそ、顔が小さくて足が長く、眼もぱっちりした若い女性は少なくない。けれどもこの当時は、体型もスタイルも、欧米人と日本人とでは明らかな差があった。そして、憧れの欧米人と同じスタイル、顔立ちを持っていたのが、ハーフだったのである。
 戦争が終わり、横浜中心部もかなり復興してきた頃、彼女たちはこの街で生まれた。横浜の復興に大きく寄与したのは、皮肉にも、この街を焼け野原にした米軍だった。第二次世界大戦は終結したが、アメリカの戦争はどこまでも続く。横浜は、朝鮮戦争(一九五〇~五三)、ベトナム戦争(一九六五~七三)における基地として、おおいに活用された。
 横浜へ行けば仕事があるというので、全国から労働力が集まった。日雇い労務者の簡易宿泊施設が中区寿町に林立し、ドヤ街と呼ばれるようになった。
 中華街には米軍兵士相手のバーやクラブがひしめき、明け方まで賑わった。街を赤々と彩ったネオンは、同じアジアで流された、おびただしい血の色だった。
 横浜にはどこよりも多くのハーフが生まれた。サリーズ・バーに掲げられた四人の女性のうち、三人がアメリカ人を父に持つハーフだ。唯一、両親ともに日本人なのが、この店のオーナーであるサリーこと佐藤和代さんだ。生まれたのは中区相生町。横浜の中心地関内の、さらにど真ん中である。
 「羅紗問屋だったんですよ、うちは」
 羅紗(らしゃ)というのはポルトガル語で、軍服や外套に使われる厚地の毛織物のこと。この頃は、洋服生地を仕入れ、注文服を仕立てるテイラーをそう称したようだ
「小さい頃、まだ空襲の焼け跡は残ってましたね。相生町にも物乞いの家族がテントみたいなのを張って暮らしてました。拾い物をしたりして食べてたのかな。小さい子もいましたねえ」
 傷痍軍人も物乞いもいた。それがoccupied yokohama(占領下の横浜)の、日常的な光景だった。まだ日本全体が貧しかった。だから逆に、貧しさがそれほど気にならなかった。
 私が生まれ育ったのは、京都府宮津市という日本海に面した町。ここも空襲に遭っているのだが、私自身が見た戦争の痕跡らしいものは、丘の中腹に残っている防空壕くらいだ。
 小学生になった頃、うちは風呂も煮炊きも薪だった。水道はあったが、井戸も併用していた。トイレは当然ながら汲み取り式で、大きな桶を天秤棒で担いだ「おわい屋」さんが、定期的に排泄物を取りに来た。それらは畑の肥料として売られた。
 だから畑に実った野菜にトイレの紙がくっついていたこともあったし、子どもたちはみんな、人糞を介して広まる寄生虫を持っていた。学校で定期的に虫下しを飲まされたものだ。
 電化製品などほとんどなかったが、それが普通の暮らしだったから、不便だとも思わなかった。しかし、基地がすぐそばにあった横浜中心部の子どもたちは、豊かで便利なアメリカ人たちの暮らしを目の当たりにしている。ことに中区本牧には、フェンスに囲まれた広大なベース(米軍住宅地)があった。
 フェンスの中には映画館、銀行、ボーリング場、野球場、学校、テニスコート、PXと呼ばれたショップなど、なんでもあった。瀟洒な戸建住宅は水洗トイレ。冷蔵庫、テレビ、洗濯機など、日本人にはまだまだ遠い存在だった電化製品が揃っていた。
 クリスマスに、七面鳥の丸焼きや大きなデコレーションケーキを抱えて颯爽と歩くアメリカ人を、指をくわえてていた……という話を、当時の横浜を知る人からよく聞かされる。
 横浜の子どもたちは、その格差をまざまざと見せつけられながら育った。

AREA ONEの角を曲がれば
お袋のいた店があった。
白いハローの子に追われて
逃げて来たPXから
今はもう聞こえない
お袋のへたなBLUES
俺には高すぎた 鉄のFENCE

「フェンスの向こうのアメリカ」
   歌 柳ジョージ
   詞 ドシ・スミカワ

 この歌に出て来る日本人の子どもは、白人の子どもに追われて逃げた。しかし『横浜ヤンキー』の著者、レスリー・ハイムの父は、日本人の子どもにいじめられ、泣きながら家に帰っている。ベースのあった本牧の人からも、「子供の時、みんなでアメリカ人のガキを袋叩きにしたよ」と聞いた。
 とはいえ子供同士は、喧嘩をしながらもいつしか仲良くなる。年頃ともなれば恋も芽生える。もはや、終戦直後の米兵と街の女の関係ではない。
「インターナショナルスクールの子たちと仲良くなって、ベースにも出入りしましたね。男の子はパーティーの時なんか正装して迎えに来るし、女の子とは一緒に、家庭科の時間にドレスを縫ったりしましたね。あちらの学校で」
 と、サリーさん。
 あちらの学校って?
「インターナショナルスクールとか、いまはなくなっちゃったけどヨーハイ(進駐軍家族専用の学校。ヨコハマ・アメリカン。ハイスクール)とかでね。中に友達がいれば、普通に授業まで受けさせてくれたんですよ。おおらかでしたねえ、あちらは」
 物心ついた頃から、サリーさんの周りには外国人もハーフもいた。だからなんの偏見もなかった。逆に、特定の言葉が差別になることも知らなかった。当時はみんな銭湯に行ったが、そこで黒人を見て、「あ、くろんぼだ!」と言って、父に叱られた。
 少女になって本牧のライブハウス「ゴールデン・カップ」に出入りするようになった頃、黒人に「ハイ、ジャパニーズ」と声を掛けられ、「ハイ、ニグロ」と返したら、「ノー、ブラック!」と言い返された。言葉の微妙な差がわからなかったのだ。
 サリーさんの家は生地問屋で父親はテイラーだったから、幼い頃から、可愛い服を作ってもらえた。自然とファッションセンスも磨かれていった。
 普通の女の子が「ファッション」などという言葉とは無縁だった頃から、彼女はPXでアメリカやフランスのファッション雑誌を手に入れ、それを参考に洋服を仕立ててもらっていた。デザインをコピーするだけでは飽き足らず、それをまた自分でアレンジし、オリジナルな服に変えて着た。
 男性の洋装は早く、日本の開国後、間もなくからだったが、女性の洋装が一般化したのは戦後である。洋裁学校やミシンがブームになった。それまで服を作る人は、デザインが自分のオリジナルであっても「仕立て職人」だったが、欧米風に服飾デザイナーとしての地位を得る人たちが出てきた。
 服飾デザイナーだけではない。グラフィックデザイナー、イラストレーター、コピーライターなど、広告業界を中心に、これまで「職人」としてやっていた仕事がカタカナに置き換えられ、存在の意味合いが変わってきた。
 若者向けファッション雑誌「anan」の創刊は一九七〇年、「non-no」は一九七一年だが、ベースに出入りしていた横浜の若者たちは、その前から欧米の流行をいち早く取り入れていた。
「東京より横浜のほうがずっとファッショナブル。大胆で個性的でしたね。ミニスカートなんか、買ってきたスカートを自分でちょん切って作ったんですよ。パンタロン・スーツは、事細かにここをこうしてほしいと説明して仕立ててもらったり……。プロの仕立て屋だって、そんな服、見たこともなかったんだから」
 サリーさんの昔の写真を見ながら、こんなブーツ、売ってなかったでしょう、当時の日本では、と驚く私に、こともなげに、もちろん特注です、と彼女は答える。贅沢なお嬢さんだったんだ、と思われるかもしれないが、サリーさんは自力でそれができたのである。
 敗戦で何もかも失った日本は、最低限の衣食住を得て、命を繋ぐことに必死だった。しかし気がつけば、世界にも例がないと言われるほどのスピードで高度経済成長を果たしていた。欧米に追いつけ追い越せ、が目標だったわけだが、振り返ってみればこの時期、日本で顕著だった文化は、すべて欧米から来たブームだ。
 ビートルズに代表されるリバプールサウンド、そのコピーともいえるグループサウンズ、ミニスカート、マキシ、サイケデリック、パンタロンなどのファッション、ダンスはツイスト、ゴーゴー、ヒッピー、フラワーチルドレン……。
 その必然として、欧米の容姿を持つ混血児が、ハーフと呼び変えられ、脚光を浴びた。ことに、ベースを通じて東京より早く欧米の流行を取り入れていた本牧の若者たちは、マスコミに注目された。
 ハーフはモデル界、芸能界に次々とスカウトされた。彼らの仲間であり、ハーフに勝るとも劣らぬスタイルと美貌を持つサリーさんも、当然のようにモデルやゴーゴーガールとして活躍することになる。
 本牧には、車をレーサーのように操り、喧嘩、ファッション、ダンスにかけては東京なんか目じゃないと自負する、ナポレオン党という若者グループがいた。全員、男性だ。
 彼らと付き合っている女性たちはクレオパトラ党と呼ばれた。メンバーにはハーフも多かったが、サリーさんや、亡くなった世界的モデルの山口小夜子のような日本人もいたのだ。
 ミュージカルの名画「ウエストサイド・ストーリー」さながら、横浜にはさまざまな若者グループが群雄割拠し、それぞれの縄張りを主張していた。
「本牧のナポレオン党は中心部にいたから目立ってたけど、他にも、伊勢佐木町、保土ヶ谷、蒔田など、それぞれグループがあったんですよ。強かったのは横浜駅西口を根城にする韓国・朝鮮グループ。中華街の南京グループと対立していて、どっちも恐れられてましたね」
 クレオパトラ党はナポレオン党に護られてた?
「護られなくても、気が強くてプライドの高い女ばかりでしたからねえ。みんなまだ十代だったし。こっちはこっちで他の女性グループとしょっちゅう喧嘩してました。あの頃って、女の子はみんな、一番仲のいい子とペアで行動してたんですよ。私はいつも、ジュンコと一緒。ジュンコはほんとに鉄火な女で、男同士の喧嘩にまで、先頭きって仲裁に入っていってたから」
 サリーとジュンコは、モデル、ゴーゴーガールとして活躍していた。グラフィック・デザイナーとしてスーパー・アイコンだったアメリカのピーター・マックスが来日した時も、二人はそのイベントにモデルとして出演した。
「結婚したのも、子どもが生まれたのも、ジュンコとは同時期でしたね。もちろん、いまも親友です」
 一枚の写真がある。サリーとジュンコがお揃いのTシャツにショートパンツで、同じくらいの年齢の男の子を抱っこしている。ジュンコに抱かれている男の子は、髪の色が金髪かと思うほど明るい色だ。
 この男の子は、いまや国際俳優として活躍する浅野忠信である。

 

 インタビュー

  浅野順子 一九五〇年生まれ 画家

 私の母は広島の生まれ。でも彼女が生まれてすぐに、一家は満州へ渡ったのね。母の父、つまり祖父は、満州で芸者置屋を営んでた。で、母も長じて、そこから芸者として出たの。
 そして二十四歳で満鉄(満州鉄道)に勤める男性と結婚。そこからなにがあったのかは知らないけど、八年後に離婚するのね。ちょうどその頃、終戦になって、母は命からがら、満州から脱出したの。
 その時点で、祖父は亡くなってたし、祖母は再婚してた。母は一人でなんとかするしかなかったわけだけど、生まれ故郷の広島は、原爆を投下されて、戻れる状況じゃなかったのね。それで、横浜へ出てきたの。
 私の父、ウィラードは駐留軍司令部の料理兵だった。母と知り合って結婚。正式な結婚か同棲だったのか、それはわからないけど、正装して二人が並んだ結婚写真はあるのよ。
 日本人とアメリカ人が結婚するとなると、手続きなんかもたいへんだからね、籍が入ってたかどうかはわからない。でも、後の展開を知ると、二人とも結婚する気だったことは間違いないと思う。
 母が妊娠六ヶ月の時、父は朝鮮戦争で出征したの。で、戻ってきた時、私は生後十ヶ月の赤ん坊。父はもう夢中になって、何枚も私の写真を撮り、片時も離れたくないという子煩悩ぶりだったとか。
 私が覚えているのはクリスマス。父がベースから、大きなクリスマスツリーやチキンの丸焼きを持って帰ってきた。一家で飾り付けをして祝った光景が、なんとなく脳裏に残ってる。
 それから少し後に、米軍が帰還することになったのね。父は当然、母と私を連れて帰るつもりだったし、母もそれを承諾してはいたのよ、当初はね。
 けどね、母はその時、四十四歳。父より十五歳も年上だったのよ。言葉もままならないアメリカで、敗戦国日本の女で、しかもかなりの年上。どんな眼で見られるか、怖かったんでしょうね。間際になって、一緒に行かないと告げたの。
 父にとってその別れがどんなに辛かったか、NHKで放映された「ファミリー・ヒストリー」という番組で、私は初めて知った。番組のスタッフはアメリカへ行って、私も知らない父の家族を探し当てたのよ。
 私はね、なぜか自分にはインディアンの血が混じってると思い込んでたの。でも、父の両親は、ノルウェー人とオランダ人だったということも、この番組のおかげでわかったの。インディアンの血筋というのが気に入ってたのに、あらま、北欧系だったんだ……と。
 父は独りで帰国した後、四年間、独身でいて、その後、二人の子どものいる女性と再婚した。スタッフが取材したところでは、ほんとうに真面目で几帳面な人だったそうよ。
 そしてね、その家族には何も言わなかったそうだけど、亡くなるまで……そう、もう亡くなったんだけど……いつも持ち歩いてた財布の中に、私の写真を大事に入れてたの。
 スタッフからその写真を見せられた時は、さすがに私も、息子の忠信も号泣したわね。ろくに面影も覚えてない父から、こんなにも愛されていたなんて……。
 父親から捨てられたと思いこんでるハーフは多いかもしれない。でも、別れを余儀なくされ、告げられない愛を抱えたまま生きた「父親たち」もいることに、思いを馳せないとね。自分や、自分の子供たちのためにも……。

 母は生きるために、私を連れて、親戚のいた三重県の津市へ行った。大きな遊郭の一部屋を間借りして住み、働いて私を育てた。
 私はその町の小学校へ入学したんだけど、三重県にハーフって珍しいでしょ? 着てる服も言葉づかいも違うし。だからいじめられたよ。
 でも母は、私に引け目を感じさせまいと、お菓子を近所の店でツケで買えるようにしてくれたり、可愛い服を着せてくれたりと、精一杯護ってくれた。
 また私も、石を投げられたら投げ返すような子だったからね。そんなことでひるまなかった。引っ越しが多かったからあちこち転校したけど、そのたびに「転校してきた浅野順子です」と挨拶して、注目を浴びるのが嫌いじゃなかったもの。
 あ、キャシー中島のケースと似てる? そうなの。母が父より年上だったとか、一緒にアメリカへ来てくれと懇願されたのに、行かないで、あえて、ハーフの子を抱えたシングルマザーの道を選んだとかね。
 気が強いところも同じ。知り合ってから仲良くなったのも、それがあったからかもね。
 母は明治生まれだから、味噌汁ひとつこしらえるにも、昆布、じゃこ、カツオブシでちゃんとダシをとらないといやな人。私、最近、骨密度が二十歳だって、医者に驚かれたの。母のダシで育ったおかげじゃないかと思ってる。
 母はおしゃれな人で、美容院、映画、ダンスホールというのが定番コースだった。着物でダンスをするコンテストで、チャンピオンになったこともあるんだから。
 私もよく一緒に行ったよ。きれいなもの、楽しいものをたくさん見せてくれて、私に自信と誇りを持たせてくれた。そういう人だったの。
 母は九十三歳でなくなった。私は六年間、介護したのよ。

 モデルはね、十六歳くらいからやったかな。サリーやキャシーと知り合った頃ね。だけどモデルは頼まれたからやっただけ。ゴーゴーガールのほうが良かったかな。東京の「キラージョーンズ」というディスコに出てたの。
 店の「顔」になるわけだから、オーディションを勝ち抜かないと駄目。外見も大事だけど、ダンスが絶対にうまくないとね。一日に三、四ステージ。月収が、あの当時で三十万円くらいあったわね。
 ナポレオン党の党首、黄金丸峰夫が、仲間を何人も連れて来て、華を添えてくれたりしてね。
 衣装は自前。あの頃はスタイリストという職業がまだなかったから、モデルは自分で自分をスタイリングしたの。既製服をアレンジして、オリジナルにするのよ。ステップも自己流で編み出す。プライドの高さとプロ意識は相当なものだったよね。
 中華街の、名の通ったクラブにも出入りしたけど、お金を払ったことは一度もないわね。私たちが出入りするだけで店が華やぐから、店は絶対、お金なんかとらない。「いつでも、自由に来てください」って、お願いされてたもの。
 プライドが高いから、喧嘩もよくやったね。女の子同士でもね、自分が付き合ってる男をけなされようものなら、もう殴り合い。東京の子なんかには絶対、負けなかったね。
 横浜の友達にはインターナショナルスクールやヨーハイ(ヨコハマ・アメリカン・ハイスクール)の子が多かったね。そう、どっちも米軍や軍属の師弟が通う学校。
 パーティーは、どこかでいつも開催されてたよね。アメリカとの経済格差とか気後れとか、まったく感じなかった。アメリカ人の男の子なんか、正装して、花なんか持って迎えに来たりするんだから。そうそう! アメリカの青春映画そのまま!

 でもね、それはそれで人生の一時期。すごく楽しかったけど、ずっとそういうふうに暮らしたいなんて思わなかった。芸能界なんて、まったく興味なかったし。
 だって、結婚して子どもを産み育てるのが夢だったんだもの。二十一歳の時に結婚して、男の子を二人産んだ。その人とは離婚したけど、子供たちの父親だし、いまも普通に付き合ってるよ。
 親友のサリーも同じ頃に結婚して、同じ頃に子どもを産んだからね、お互いに子どもを連れて、動物園や公園、海……いろいろ行ったわね、お弁当を持って。
 子育て期間は働かないほうがいいと、私は思ってる。子どものそばにいてあげたいから。私は誰かの世話をしたい人間なの。だから、恋人とか夫とか子どもには、めいっぱい尽くす。
 とはいえ、一〇〇パーセント、自分を相手に捧げるわけじゃないのよ。どんな時にも、五十パーセントは絶対、自分。だって自分の人生なんだから。自分らしさをなくしてまで相手に同調したりはしない。そこはもう、これまでも、これからも譲れないわね。
 化粧? うん、しないね。ほとんどすっぴん。でも、外見なんかどうでもいいなんて、少しも思ってないよ。これがいまの自分に合ってると思うから、こうしてるだけ。いつも気持ちは前向きだし、自分らしくありたい。私は努力してるもん。化粧の問題じゃない。生き方をかっこよくしようと、いつも努力してるよ。

 

                         (第13回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年3月30日(金
)掲載