さまよう血 山崎洋子

2018.5.25

14インタビュー 

 

 インタビュー キャシー中島

 キャシー中島 一九五二年生まれ タレント 日本におけるハワイアン・キルトの第一人者としてキルトショップ「キャシーマム」を経営。キルト関連の著書多数。
 夫は俳優の勝野洋。長男・勝野洋輔は俳優、長女・勝野雅奈恵も俳優、フラダンサーとして活躍。

 母と父の出会い? 恵比寿にあった米軍将校の家。終戦後、母はそこでお手伝いさんとして働いてたの。その一家にとても気に入られたのね。彼らがボストンへ帰る時、一緒に来てくれと懇願されて渡ったの、アメリカへ。
 母はボストンで十九歳の学生と知り合って、プロポーズされたの。その時、二十七歳だったのよ、母は。
 当然ながら、向こうの家族は大反対。そりゃそうよね、日本人だし、八歳も年上だし。
 でも、父は軍隊に入ったから、母も一緒にボストンを離れたのね。そしてハワイ駐在の時、マウイ島で私が生まれた。
 また日本に戻ったのは、私が三歳の時。本牧のベース(米軍住宅)で暮らしたのよ、五歳まで。
 でも、父が戦地へ行くことになったから。そこでいったん、ボストンへ帰ることになったのね。だけど母はボストンで暮らすのが絶対いやだったの。だって、歓迎されないのがわかってたから。
 まあ、結局、それで離婚したわけだけど、そうなるともうベースにはいられないし、母は一人で、私を育てていかないといけなくなったのね。彼女の実家は埼玉なんだけど、ハーフの娘が差別されるといけないから、母は横浜にとどまった。
 住まいは中区石川町。子どもを何人か預かってるお婆さんがいてね、母は私をその人に託して、中華街でバーテンとして働いたの。
 ある時、公園でブランコに乗ってたら、お婆さんが私にこう言った。
「あんたのマミー、まだお金を持ってこないよ。困るねえ」
 母はきっと、たいへんだったのよね。でも頑張って、野毛にバーを出したのよ。だから私は、石川小学校から、中区花咲町の本町小学校へ転校。
 ハーフは、何人かいたわね。いじめられてる子もいたわよ。そういう場に遭遇すると、私は箒を振りかざして、いじめっ子をやっつけるの。大人になってから、同級生だったハーフに言われた。中島にはずいぶん助けてもらったよねって。
 私自身は、いじめにあったという意識がないのね。体格が良かったし、気も強いでしょ。やられたらやりかえすほうだから。
 でもその発達の良い体と目立つ顔のせいで、小さい頃から男性の視線を浴びることが多かった。野毛は肉体労働者が多いところだったから、もう、あからさまに舐めまわすような視線。すごく嫌だったわね。映画館なんか行くと、必ず痴漢が寄ってきたし。

 小学校に上がった頃のある日、私のことをじいっと見てる女性に気づいたの。見てるだけじゃなくて、預け先の家までついてきたのよ。
 日本人なんだけど、夫が白人なの。夫婦でお菓子なんかを持参して、何度も預け先へ来るようになったのね、私に会いに。
 可愛い、可愛いと褒めちぎって、とうとう自宅にまで招かれたの。家はベースの中。大きなベッドに最先端の電化製品、たくさんのご馳走。
 しばらく泊まっていきなさいと言われて、素直にそうした。子どもだったから。その夫婦は、私を養女にしたかったのね。私の面倒をみてた子ども預かりのお婆さんも、「あんたは、あのうちの子になったほうが幸せだよ」と言ったわ。
 だけど、それを知った母は血相変えて怒ったの。この子は絶対、誰かにあげたりしない、と言って。
 私が十歳の時、母は日本人の子どもを生んだ。私の弟よね。その頃から、ようやく母と一緒に暮らせるようになったの。
 ずいぶん奔放に思えるでしょうけど、母は自分をしっかり持った人だった。自分の道を行くなら、なにが起ころうと自分で責任をとる……そういうことを、母の生き方を見て、自然と学んだのよ、私は。
 十七年間一緒に暮らした。母が寅年、私が辰年で、お互い気が強いからね、ぶつかることも多かったのよ。だけど基本的に相手を尊重し、愛してたから、信頼があったわね、人間同士として。
 まだ大人になってないのに、家を出て勝手に部屋を借りたりしたこともあったのよ。でも、母は非難がましいことを一切、言わなかった。自分で自分の責任をとれる子だと、私のことを信じてくれてたのだと思う。
 ああ、そうだ! 子どもの頃、一度ね、誰かに「あいのこ!」と罵られて、泣きながら帰ったことがあった。そしたら母は私をまっすぐ見つめて、
「そうよ、あなたはあいのこよ。それがどうしたの? 日本人の血も、アメリカ人の血も入ってる。そのことを恥じるなんてとんでもない。誇りに思いなさい。どんな時でも、生まれてきたことをプラスに思うのよ」
 と、きっぱり。そういう母のことも、両方の血のことも、もちろん私は誇りに思ってますよ。
 母のこと、もうちょっと話していい? 手先が器用な人だったの。忙しいのに、いろんなものを作ってくれた。私もその血を引いたのか、手作業が大好き。小学校の頃は手芸クラブに入ってたのよ。
 小物なんかこしらえて、母に見せるの。母が褒めてくれたり喜んでくれたりする顔が見たくて、一生懸命、作ってた。それが、いまのキルト制作に繋がってるよね、きっと。
 誰かを喜ばせたいの。家族であれ友達であれ、ファンであれ、キルトのお弟子さんやお客さんであれ、人の幸せな顔を見るのが好きなのよね、私は。

 モデルになったのは中学生の頃。世はハーフブームだったし、基地のある本牧はアメリカ文化で輝いてた。外車を乗り回して、おしゃれで喧嘩が強くてダンスがうまいナポレオン党がいたし、彼らと付き合ってる女の子たちはクレオパトラ党と呼ばれて、目立つ子揃い。
 「プレイボーイ」とか「平凡パンチ」とか、マスコミが押し寄せるでしょ。みんなスカウトされてモデルをやってたわね。
 それでもね、プロのモデルとして食べていくのは、そう簡単なことじゃないの。きれいだとかスタイルがいいだけじゃ駄目。そんな子はいくらでもいるし、次々と若い子が出てくるんだから。
 事務所に所属した頃は仕事がなくて、電話番をやらされてたのよ。でも、ただ電話を取るだけじゃしようがないから、必ず「キャシー中島という、いいモデルがいますよ」と他人の振りをして宣伝しておくの。
 自分でチラシも作ったわよ。その甲斐あって、一年たたないうちに事務所のメインになった。そう、十七歳の時には売れっ子モデルだったわね。これで母を助けられると思うと、ほんとうに嬉しかった。

 モデルからタレント・女優に転向したのは二十歳の時。国が豊かになると、もう一年ごとに人間の体型が変わるのよね。私よりちょっと若いだけで、顔の大きさ、足の長さが違うの。
 このままモデルを続けられるとは、もちろん思ってなかったけど、「キャシーは喋りがうまいからタレントになるといいよ」と、周りからも言われていて、わりにすんなりと。
 「ぎんざNOW!」という人気番組の司会を、せんだみつおさんと一緒にやったの。自分の番組を持った最初のハーフタレントだったかな、私が。
 キルトを始めたのも二十歳の時から。仕事がどんなに忙しくても、手芸はずっと続けてたから。で、気がついたら、いつの間にかそれが、仕事の域に達してたのね。
 タレントや俳優業は不安定だし、子どもが生まれても家でできる仕事を……と早くから考えてたわね。二十七歳で勝野さんと結婚した後は、キルトを仕事のメインに置いてきたの。仕事は大好きだし、いつも真剣に取り組んでるけど、いちばん大事なのは家族ね。
 母はもう亡くなったけど、彼女がそうしてくれたように、私は家族を守りたいの。
 おかげさまで、現在、キルトの弟子が全国に千人以上。店は六店舗。でも、「キャシーマム」で扱うキルトは、すべて、デザイン段階から私がチェックしてるのよ。どんなに大きくなっても、ちゃんと自分で責任持ちたいから。

 そうねえ、ほんとに、あの頃はハーフブームだったわよねえ。シェリー、マギー・ミネンコ、マリ・クリスティーヌ、ゴールデン・ハーフ……生まれてきた時の事情は、みんないろいろ。
 だけどね、私の周りにいたハーフたちは、若い頃から、誰も浮ついてなかった。どんなにちやほやされても、しっかり現実を見据えてたわね。
 だから芸能界から身を引いても、自分の道を着実に歩んでる。彼女たちのことがとても誇らしいし、尊敬してる。青春を共に歩んだ仲間としても、同じハーフとしてもね。

 

 インタビュー 石川ジル(京子)

 石川ジル(京子) 一九五四年(昭和二九)生まれ。川崎で夫とともにスペイン料理店「ノミデリ」「コルミナ」を経営。

 私、自分がハーフだということを知らなかったんです。まあ、たしかに色白だったし、西洋人っぽい顔立ちで背も高かったけど、とくにそれを意識したことはなかったし。
 でも、変だなと思うことは幾つかあったのね。
 小学校の時、仲良しだった子に言われたの。
「うちのお母さんが、京子ちゃんと遊んじゃいけないって言うの」
 って……。
 その時は理由がわからなかった。だけど、その子のお母さんは私の母と知り合いだったから、私の出生について知ってたんでしょうね。
 近所の子から石を投げられたこともあります。でも私の場合、ハーフだということでいじめられたのは、その程度でしたけどね。
 中学校へ入学した時、戸籍関係の書類を提出することがあったんです。その書類をなにげなく見ると、私は父の「養女」と記載されている。実の父親であることを疑ったこともなかったから、その時も、変だなと思ったものの、あまり気にしませんでした。
 五才下の弟がいるんですけど、彼と同じように両親から可愛がられて育ちましたからね、自分の出生について深く考えようという気にもならなかったのでしょう。
 ハーフだとはっきり知ったのは十三歳の時。同年齢の従姉妹がうちに泊まりに来て、「いまから言うことをよく聞いてね」と、意味ありげに切り出して……。
「じつはね、京子ちゃんのお父さんは、ほんとうのお父さんじゃないんだよ。ほんとのお父さんはアメリカ人なの」
 そんなにびっくりしなかったんですよ。さっき言ったように、なにかあるのかな、うちの家には……と、うすうす感じてたから。とはいえ、ちょっと変だなと思ってたいろんなことが、すっと解明したような気はしましたね。
 逆に私の方も、「あなたのお父さんもほんとの父親じゃないんだよ」と、従姉妹に教えてあげたりして……。
 終戦後の横浜には、ヤクザとはちょっと違う、愚連隊という人たちがいて、裏社会を牛耳っていました。有名なのは「モロッコの辰」と呼ばれた出口辰夫。柳葉敏郎が彼を演じて映画にもなりましたよね。
 従姉妹の実父は、そのモロッコの辰と並んで、横浜愚連隊四天王と呼ばれたうちの一人でした。
 まあ、どこの家庭にも、秘密のひとつやふたつはあるのかもしれない。
 だけどね、周りはみんな知ってるのに、本人の自分だけはよくわかってない、というのもいやだから、この時点で母に尋ねました。自分が生まれてきた事情を。

 私の母方の祖父は、満鉄に務めていて、戦争前から満州に単身赴任していたそうです。私の母は長女ですが、その下に子どもが二人。計三人の子どもを連れて、祖母はある日、夫に連絡もせず、満州へ渡ったのです。
 満州のどこにいるかもわからないまま行ったんですよ。で、港で会った中国人に事情を話したら、親切に捜し出してくれたんですって。
 どういう事情があったのか、詳しいことは知らないけど、結局、祖父に諭され、祖母は子どもを連れて、また日本に戻ります。
 そして戦争、終戦。祖父も帰国しましたが、夫婦仲はうまくいかず、二人は離婚します。一番下の男の子は祖父の方へ行き、娘二人は祖母が引き取りました。
 で、生活のため、祖母は横浜の中区若葉町でスナックを始めたのです。終戦後の一時期、若葉町には米軍の飛行場があり、祖母のスナックも、客はみんな米軍兵士だったようです。
 その店を娘である母が手伝っていて、客としてやってきた父と知り合ったのです。母は二十歳で私を産みました。その時、父が私に付けた名前はシャーリー。
 私が二歳になったとき、父がアメリカへ帰国することになりました。父は、母と私を連れて帰りたかったようです。でも、離婚して苦労しながら娘を育ててきた祖母は猛反対。遠くへ行かせたくなかったのね。
 たしかに、当時、アメリカは遠いところでした。誰も知らない異国での暮らしを、母自身も危惧したでしょう。結局、父は一人で帰国し、距離ができてしまったことで別れたのです。
 その後、母は日本人と結婚しました。それで私には、日本人の父と弟ができたわけです。
 あなたが二十歳になったら、すべて話そうと思っていた、と言って、母は箱をひとつ、私に差し出しました。
「あの頃はね、お金のために米軍兵士と付き合って、産みたくない子を産む人もいた。でも、私たちはそうじゃなかった。愛し合った結果、あなたが生まれたの。これがその証拠よ」
 箱の中には、父からの熱いラブレターがぎっしり。彼は朝鮮やベトナムの戦争にも行っています。その戦地からもたくさん届いていました。
 結婚はしなかったけど、まぎれもない愛の結晶として産んだことを、母はこうして、娘に証明してくれたのです。
 私には、実の父の記憶って、まったくありません。でも、父に抱っこされた赤ん坊の頃の写真があるんです。それを見たことはあるのですが、近所の外人さんがたまたま私を抱っこしてるだけだと思って……。
 後に母と一緒にベトナムへ行きました。もちろんベトナム戦争が終わってからですけど、父が兵士として戦ったところを見たくて。

 ハーフであることを恥じたことは一度もありませんね。自分がハーフだと知った頃って、ハーフブームの真っ最中。知り合いに芸能プロダクションとコネのある人がいて、タレントになることを勧められました。
 でも、母は反対でしたね。アメリカ人の子どもを産んでシングルマザーに……なんていうとすごく奔放な人に思えるかもしれないけど、それは恋のなせるワザ(笑)。じつは堅実な人で、私に対しても門限なんか厳しかったですよ。ええ、芸能界に入ってからも。
 その頃ですね、カネボウチャーミングスクールというのがあるのを知って、そこへ入ろうと、自分で決めました。可能性を試したかったのでしょうね、ハーフとして生まれたことの。
 芸能界入りに賛成ではなかった母ですが、この時は私の決心を知って、お金を出してくれました。彼女には彼女なりの、思いと責任を感じたのかも知れませんね、娘に対して。
 スクールでは、モデルとしてデビューするために必要なノウハウを学びました。メイキャップ、ショーの時のウォーキング、写真の撮られ方など。
 モデル・デビューは十四歳。オーディションに受かって所属した事務所には、当時、「anan」などのモデルとして一世を風靡した秋川リサがいました。芸名の「ジル」は、その頃、リサさんが出演したNHKドラマの役名。事務所の社長がつけてくれたのです。
 資生堂のCM、イレブンPM、ファッションショー、いろいろやりました。ラジオでパーソナリティーを務めたこともありましたね。
 結婚して、いまの店を出してから、エディ藩がここでライブをやってくれたことがありました。その時、「ジルの歌だよ」と言って、歌ってくれたのが「丘の上のエンジェル」。
 あの歌には、子どもとの別れを余儀なくされる女性の心情が歌われていますよね。母は恋人との別れを余儀なくされ、それなり辛い思いをしたと思います。
 でも母の身内も、母が新たに出会って結婚した男性も、私を愛情深く受け入れてくれたし、私もハーフだからといっていやな思いをしたことはほとんどありませんでした。私自身はね。
 もう三十年以上も前ですけど、カウンターバーをやってたことがあります。その時、お客さんも入れてハーフが四人揃ったので、ハーフ会なんていう名前をつけて、よく一緒にお喋りしてました。その人たちからは、いじめられた話をよく聞かされましたね。
 そういえば、店によく来てた沖縄生まれの女性がいました。その人の彼氏がハーフで米軍兵士だったのですが、飲んで、いきなり暴れだしたことがあったんです。そう、店で。
 他のお客さんを帰して彼を宥め、じっくり話を聞きました。そしたら、弟が二人いるんだけど、三人の父親がそれぞれ異なる男性だとか……。家庭的にいろいろあったんでしょうね。そこへ戦地での体験が加わって、もうストレスまみれになっていたようです。
 思うに、ハーフのトラウマというのは、ハーフだからということではなく、生まれ育った環境から出てくるものが大きいのではないでしょうか。

 

                         (第14回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年6月8日(金
)掲載