さまよう血 山崎洋子

2018.7.10

16私の中の見知らぬ差別 

 

 私の中の見知らぬ差別

 あれは二十代半ばになるかならないかの頃。児童文学作家の斎藤隆介さんと、電車で一緒になったことがある。斎藤さんは五十代半ばくらいだっただろうか。「べろ出しチョンマ」という民話風な語り口の童話で小学館文学賞を受賞されており、すでに高名な方だった。
 私はこの頃、十冊シリーズの科学絵本で文章を書き、中編童話も二冊出していた。いま思えば贅沢な話だが、とくに児童文学を志したわけではなく、ただの成り行きだった。
 当時、一緒に暮らしていたパートナーは画家。彼が才能のある人で、シリーズの絵本を出すことになった。そばに元コピーライターの私がいたので、出版社の提案で、じゃあ、文章はこの人が、ということになったのだ。短い文章を書くのは好きだったし、いつか作家になれたらという夢もあったのだから、たいへんなチャンスである。
 けれども私には、自分の幸運がまったくわかっていなかった。書きたいジャンルが童話ではなかったので、依頼された仕事だけをやり、あとはのんきにミステリーを読んでいただけだった。パートナーの稼ぎでのうのうと食べて。
 チャンスや幸運は誰にでも訪れる。問題は、それを受け止められるかどうかである。せっかくの幸運に気づかなかったり、それを活かす準備がまったくできていなかったりすると、チャンスは二度と戻ってこない。それに気づいたのは、もっと後になってからのことだった。
 そんな私と、本物の児童文学作家である斎藤隆介さんが、この日、ある出版社で顔を合わせた。私は彼の「べろ出しチョンマ」が大好きだった。
 舞台は江戸時代。主人公は長松という、十二歳のひょうきんな男の子。その年は大凶作で、村人は食べるものもない。名主である長松の父親は、年貢軽減を願い出た。だが、その切実な願いは聞き入れられなかった。それどころか、家族もろとも磔刑(たっけい)を言い渡される。
 両親と並んで、長松と、まだ三歳の妹までも柱に縛り付けられた。小さな妹は恐怖にかられて泣き叫ぶ。その時、隣の柱に縛られた長松が、大きな声で妹に呼びかけた。
「ほら、にいちゃんの顔を見ろぉ!」
 眉を八の字にし、舌を思いっきり出したおかしな顔。妹がなにかでぐずった時、いつも長松がしてみせる「まぬけなチョンマ」の顔だ。妹は思わず笑いだした。長松はその顔のまま、家族とともに槍で突かれた。
 何度読んでも、私はこのラストで泣いてしまう。
 作者の斎藤さんはまったく偉ぶったところのない方だった。児童文学はおろか、社会や歴史についても、私がなんの見識も持っていない人間だということは、すぐに見抜かれたはずだ。でも、穏やかに、普通に接してくださった。
 帰りが同じ方向だったので、私たちは二人で電車に乗った。並んで吊革につかまり、ぽつぽつと話した。誰かと二人でいる時、私は沈黙が苦手なたちだ。だからおそらく、私の方がおもに喋っていたのだろう。その時、さきほどの出版社で「差別」の話が出たことを思い出した。
 どういう流れだったのか覚えていないが、私はしたり顔で口走った。
「ほんとに、差別なんかする人の気持ちがわかりませんよねえ」
 斎藤さんが、ゆっくりと私の方を向いた。そして静かにおっしゃった。
「差別は、誰の心にもあるのではないでしょうか」
 話の前後も、それからどうしたかも覚えていないのに、このたった二言のやりとりだけは、鮮明に記憶している。あまりに恥ずかしくて、生きている限り忘れることはできないだろう。私を見やった斎藤さんの穏やかな目の奥には、無知で愚かな人間に対する哀れみがあった。あって当然だと思う。
 それから、なにかにつけて考えるようになった。
 私は誰かを差別しただろうか。
 同じくらいの時期に、私はパートナーと二人でニューギニアへ旅している。ニューギニアへ行き、トリバネアゲハという、緑色に輝く大きな蝶を採集することが子供のころから夢だったと、彼は常々言っていた。
 本を出したおかげでまとまったお金が入り、それが実現した。二人とも、これが初めての海外旅行だった。
 ニューギニアに家を借りて一か月間半滞在。その後、私だけ帰国して、彼はオーストラリアでもう一か月滞在、という、初めてにしては長期の旅行だ。飛行機の安売りチケットなどまだなく、ニューギニアで使えるオーストラリアドルは一ドル四百円という高額だった。
 でも、彼は植物、動物、昆虫などの自然を描く画家だ。これからアフリカやアマゾンにも行くだろう。ニューギニアはその皮きりだ。有り金すべてはたく価値は充分にあった。
 サツマイモのような形をしたこの島は、真ん中から二つに分けられ、西側がインドネシアの洲であるイリアンジャヤ、東側がオーストラリア委任統治領パプア・ニューギニアだった。私たちが行ったのはパプア・ニューギニアだ。首都はポート・モレスビー。
 ちなみにパプア・ニューギニアは一九七五年に独立国となった。私たちの旅から数年後である。
 インターネットなどない時代だし、ニューギニアの旅行案内書も出ていない。飛行機は香港経由のカンタス航空のみ。どのあたりに滞在して、どこへ採集に行けばトリバネアゲハが採れるのか。これはニューギニアへ採集に行ったことのある蝶のコレクターに教えてもらうしかない。
 頑張って情報を集めた結果、ワウという山間の町で、家を借りられることになった。
 ハワイに、ビショップ・ミュージアムという博物館がある。創建は一八八九年。太平洋地域における自然、文化の重要な研究機関でもある。ここが、研究者のための家をワウに数軒、所持している。その一軒が空いており、一か月半、貸してもらえるという。
 私たちは大きなリュックに鍋釜を詰め、山岳探検隊のようないでたちで出発した。羽田空港には、私の身内と数人の友人たちが、それぞれ餞別を持って見送りに来てくれた。
 いまでは想像もできないが、一九七〇年当時、海外へ行くことはまだ特別なことだった。私たちのような長い滞在ではなく、一週間の旅行であっても、空港は見送りの人で溢れていたものだ。
 香港で一泊のトランジットがあり、ポート・モレスビーから、島の反対側にあるラエという町へ行き、そこからワウへ。
 長い旅だったが、着いてすぐ、大荷物を持参する必要などなかったことを知った。借りた家は欧米人の研究者用に建てられたものだけあって、充分な広さがあり、生活に必要な設備はすべて整っていた。ガス台のあるキッチン、冷蔵庫、食器、ベッドやテーブルなどの家具、シーツ類、さらにはハウスボーイまで。
 ピーターと名乗る小柄な若者は、この家とセットになっている。住み込みではなく、どこか近くに住んでいるようで、毎朝やってきて適当な時間に帰っていく。
 掃除や洗濯をするのが彼の仕事なのだが、掃除は箒で部屋の真ん中をちょっと履くだけ。洗濯は、まさか彼に下着など洗ってもらうわけにはいかないので、すべて私がした。
 私たちが出かけている間にスコールが来ても、彼は洗濯物を取り込まない。確かに、濡れてもまた日が射せば乾く。素朴で気の良さそうな若者だが、仕事らしい仕事をしてもらうことはなかった。
 彼は学校へ行ったことがないようで、文字が読めなかった。英語は、私と同じく簡単な日常会話レベル。自分が幾つなのかも知らない。彼の育った環境では、年齢という概念がなかったようだ。
 彼の故郷はチンブーという高地の村で、ここへは一人で出稼ぎに来ている。ニューギニアには鉱山、コーヒー園など、外国資本がたくさん入っていた。外国資本にとって、この頃のニューギニア人は、安価に使える労働力だっただろう。
 ワウの家は低い山の中腹にあった。朝は鳥の声で目覚める。深い霧が晴れ、あたりがすっかり明るくなる頃、上の方から人々がぞろぞろと降りてくる。男性はTシャツに半ズボン、女性は足首まであるワンピース。いまでは死語になったが、日本人の言う「アッパッパ」。夏の簡易な家庭着風のもの。
 私は毎朝、その時間になると庭に出て、彼らと顔を合わせた。「モーニン」「モーニン」と挨拶を交わしながら。
 下には市場、商店、会社、工場などがある。彼らはそこで、働いたり物を売ったり買ったりしている。
 この周辺には、ぽつりぽつりとビショップ・ミュージアム所有の家があり、白人が住んでいた。アメリカ人やオーストラリア人で、男性も女性もいた。彼らは鳥や昆虫や植物の研究者たちだ。ろくに英語も話せない私たちに、不自由はないかと尋ね、とても親切にしてくれた。
 蜘蛛の女性研究家と一緒に、お弁当持ちでジャングルへ入ったこともある。彼女はサンドイッチを持って来ていたが、私は現地で買った細長い「外米」でこしらえたおにぎりだ。
 残念ながら「具」になるものはなかった。彼女が不思議そうに、それはどういう味付けなのかと尋ねる。「塩だけ」と私は答えた。外米も、慣れると、塩だけでおいしいおにぎりになった。
 買い物に行くからと、車にもよく同乗させてくれた。バーベキューにも招かれた。ある晩、バーに誘われた、アルコールは二人とも弱かったが、付き合いのために出かけた。
 が、入口で足が止まった。入口に「白人オンリー」の看板があったのだ。当然ながら、私たちの足は止まった。同行の研究者たちが「どうした?」という顔で振り返り、私たちの視線の先を見る。
 ノー・プロブレム、と彼らは表情も変えずに言った。日本人はかまわないんだよ、と何でもないことのように言い、さっさと中へ入る。
 後について、おそるおそる入った。ごく普通の、静かでこじんまりしたバーだったが、店のスタッフも客も、すべて白人だった。英語が堪能ではないので会話ができない。それ以上に、白人に対してもニューギニア人に対しても後ろめたい気持ちにかられ、おそろしく居心地が悪かった。

 では、ニューギニアの現地人に対する偏見や差別が、私自身にはなかったか。正直に「あった」と言わざるをえない。
 ニューギニアのイメージは、この頃、まだ「未開の地」だった。服装は腰蓑だけの半裸でほぼ原始生活。奥地へ行けば人食い人種もいる……と言われていた。
 とはいえ、ワウには外国人が多いし、車もオートバイも走っている。現地の人もごく普通の恰好をしている。私にはそれが物足りなかった。
 燃料はさすがにガスだろうし、電気も通っていると知ってはいたが、拾ってきた枯れ木や薪を燃料にするなら、それはそれでいいと覚悟していたから、鍋釜背負ってきたのだ。子供の頃、風呂もご飯炊きも竈だったことがあるから、まだやれるという自信もあった。
 が、実際には、テレビと洗濯機こそなかったものの、文明の利器は揃っていた。米、野菜、乾物、魚肉は、日本と同じものではないが、町へ降りれば市場や商店で買える。
 坂の上に上がっていけば、現地の人たちの暮らしが見られるのだろうが、車がない、暑くて体力が持たない、言葉ができなくてコミュニケーションができない、などの理由で、それはできなかった。
 パートナーは精力的に近場で補虫網を振り回していたが、私は家の中でひたすら退屈な毎日。鍋釜を優先した結果、本の一冊も持ってこなかったのだ。
 そんな中、ハウスボーイのピーターと話すうちに、彼の生まれ育った村は、どうやらイメージ通りのニューギニアであるらしいと知った。屋根も壁もサゴヤシの皮で編まれた素朴な小屋。干し草とバナナの葉を重ねた寝床。主食は畑で獲れたイモやバナナ。そこに、弓と槍で仕留めた野生の獣や鳥の肉が加わる。
 村には女と子供が住む小さな家のほかに、大きな「男の家」がある。よちよち歩きを卒業すると、村の男たちはみんな、そこで共同生活をする。女たちはそれぞれの小さな家に住み、「男の家」に食事を届ける。家の真ん中で火を起こせるようになっており、その周りには石斧や弓、槍などが置かれている。
 その生活形態は、昔、村同士で戦ばかりしていたころの名残だ。いざという時、武器をって一斉に飛び出せるように、ということ。身に着けているのは木の皮や葉でこしらえた腰蓑だけ。男が嫁をもらう時は、飼っている豚を結納として差し出す。
 おお、それこそニューギニアだ、と私は欣喜雀躍した。ぜひその村へ行きたいとパートナーに提案した。帰国後、某全国紙に数回、ニューギニア旅行記を書くことになっている。中編童話も依頼されている。読者のニーズに応えなければ!
 パートナーの興味は蝶の採集だけだったが、高地へ行けばまた違った種も採れる、ということで賛成してくれた。「一緒に行って案内してほしい」と言われたピーターは、もちろん大喜びだった。お金がないから、故郷へ帰る機会はめったにないのだ。
 こうしてチンブー行きは決まったのだが、チケットを買う段になって迷った。国内線で小さな飛行機なのだが、値段が高い。少なくとも、有り金はたいて日本を出てきた私たちにとっては、なかなか痛い出費だ。
 そこでピーターに、「あなたはバスで行ってくれないか」と訊いてみた。バスといっても、トラックの荷台に相乗りなのだが、飛行機に比べると格段に安いので、現地人はみな、こちらを利用する。
 ピーターはこの申し出をすぐに承知してくれた。が、私はこの時、白人オンリーのバーへ入った時と同様の後ろめたさを覚えた。現地人なんだから、あのトラックでいいだろうと軽んじる気持ちが、あの時、私の中になかったとはいえない。
 その報いはすぐにやってきた。セスナでチンブーの村に着いたが、私たちの滞在中、ピーターは姿を現さなかったのだ。
 ただ、村にはピーターが言ったとおり「男の家」があった。村人たちは腰蓑一枚という姿でぞろぞろと出てきた。鳥の羽や貝殻やビーズのネックレスで体を飾り、槍を持った老人もいた。
 彼らは手に手に、老人が身に着けているようなアクセサリーを持ち、私たちを取り囲んだ。私は日本から持ってきたアクセサリーやスカーフ、おもちゃなどを取り出し、身振り手振りで、交換を持ち掛けた。
 けれども老人から子供に至るまで、誰一人、交換に応じる者はいなかった。あたりまえのように「お金でなきゃいやだ」という意志をはっきりと示した。
 私は自分の「偏見」に気づかずにはいられなかった。半裸でいるのは、原始的な暮らしをしているせいではない。暑いから。そのほうが楽だからだ。サゴヤシで葺いた家はあったし、長方形の「男の家」もあった。
 けれども、カラフルに身を飾った長老のいでたちは、半ば観光化したものだ。私のように「イメージのニューギニア」を見るために、わざわざこの高地にやってくる外国人を喜ばせ、収入を得るためのものだろう。
 考えてみればあたりまえだ。この島は十九世紀からオランダ、ドイツ、イギリスの植民地になっている。一九一四年からはオーストラリア委任統治領だ。第二次世界大戦時は激戦区となり、日本兵も大勢、ここで亡くなっている。
 いまでは飛行場まであるというのに、彼らが原始さながらの素朴な暮らしでいられるはずがない。外国人が持ち込んだ文化・文明に触れたのだ。無関心であるわけがないだろう。
 日本にも同じ時代があった。鎖国をしていた江戸時代は、それなりに平和で、自給自足ができており、独自の文化も花開いていた。が、黒船の圧力で開港し、西洋列強からもたらされるものを見たとたん、植民地にされたわけでもないのにたちまち欧化した。誇り高いはずの侍たちが、率先して洋服を着用し、ちょんまげを切り捨てた。
 モノづくりの多くが、手作業ではなく機械化されたのもこの時だ。西洋医学、上下水道、大型船を受け入れるための港湾、電信電話、野球やテニスなどのスポーツ、学校教育……枚挙にいとまがない。
 そうしたほうが、便利で清潔でレベルの高い生活ができるし、欧米の言いなりにならないだけの知識や技術を身に着けることができたからだ。
 教育はとくに必要だ。勉強しなければ字も読めず計算もできず、したがって知識を向上させることもできない。知識がなければ、強欲に搾取しようとする権力と、対等に戦っていくこともできない。人間としての尊厳を保つのも難しい。
 江戸時代の日本は封建制度の下にあり、武士階級の男性しか、正式な教育を受けることができなかった。しかし、寺子屋という民間の自主教育施設が各地にあった。庶民の子どもでも、読み書きや簡単な計算の仕方を教わることができた。
 これはとても大きなことだ。おかげで黒船が来航した幕末、日本人の識字率は世界一ではないかと驚かれた。産業革命で強大な機械や武器を所持した欧米列強でさえ、あなどれない国であることを認識したようだ。
 チンブーの村にも学校はあった。キリスト教会が建てたものだ。しかし、ピーターは学校へ行っていない。働く必要から簡単な英語は耳で覚えても、自分の年齢さえ知らない。
 学校はあっても貧しかったり親が教育に無関心だったりして、基礎の読み書きさえ学べない子は、いま現在でも世界にあまたいる。そのことは、本人の罪ではない。
 なのに私は、ピーターを軽んじ、差別ともいえる行為をしてしまった。小さな村なのだから、すぐにわかるだろうと、彼の住所すら確かめておかなかった。ピーターという名前しか知らない。
 一応、村人に尋ねてはみたが、案の定、「ピーターは何人もいる」と言われてしまった。そして結局、彼とは会えないまま、ワウへ戻ることになった。
 帰宅してドアを開けた瞬間、様子が違うことに気づいた。物の位置が微妙に違っている。パートナーの靴が消えていた。そこへピーターがしょんぼりした顔でやってきた。私たちに貰ったバス代を友達に強奪され、チンブーへ帰れなかったのだという。
 ほんとうかどうかわからないが、彼のしょげきった表情から、私たちはその話を信じた。なにより、飛行機代をけちって一緒に行かなかったのが間違いだったのだ。初めての海外旅行は、自分の中にある差別と偏見に向かい合うという、苦い記憶となった。

 子供の頃、差別はいっぱいされた。学校の先生から、周囲の大人から、実の親からも。
 ものごころついた時、私は祖父母と三人で暮らしていた。両親は離婚して、二人とも私を引き取らなかった。母は町を出て再婚し、東京で新しい家庭を築いていた。父も再婚して子供を二人つくったが、警察沙汰を起こし、妻子を置いて失踪した。
 祖母は、大酒のみの夫と、問題ばかり起こす無責任な息子に絶望し、私が八歳の時に入水自殺をした。祖父はあっという間にどこからか老女を連れてきて再婚した。
 と思ったらその老女に逃げられ、またすぐ別の老女を見つけてきて再再婚した。そしてほどなく、彼女にも逃げられた。
 私は継母のもとに追いやられた。私の母と離婚した後、父が再婚した相手だ。父は失踪する際、勝手に離婚届を出していた。だから実際上も戸籍上も、私とその女性とは繋がりがない。
 すでに再婚していた私の母は、保護者をなくした私を引き取らなかった。本来ならば、私は養護施設に収容されていたかもしれない。そのほうがありがたかったのにと、いまでも思っている。
 私を引き取った継母は、夫に捨てられ、生活保護を受けながら、二人の子供を育てるシングルマザーだった。そこへ、なさぬ仲の私まで引き取ったとなれば美談である。でも、内実は違った。
 十歳にもなっていなかった私に、彼女は掃除、洗濯、食事の支度、子守りと、すべての家事を押し付けた。電化製品などほとんどない時代だ。四人分の衣類を下着から上着、シーツに至るまで、真冬でもタライに水を張って洗った。
 冬は十本の指すべてがアカギレになり、切れたところが膿んで、黄色い膿が出ていた。ある日、担任の女性教師がその指に気づき、
「なんや、それ」
 と、顔をしかめた。アカギレです、と答えると、彼女はいっそう顔をしかめ、
「ふ~ん、気色悪いなあ」
 と言った。それだけだった。
 家庭の事情くらい知っていただろうが、周囲の大人たち同様、助けてはくれなかった。女中っ子さながらにこきつかわれただけではなく、継母から、心身ともに暴力もうけていた。近所の人たちは気が付いていただろうが、関わり合いになるのを恐れるかのように、目を背けていた。
 逃げ場のない子供時代だったが、図書館で児童文学やミステリーを読み、いつか自分にも小説のような大どんでん返しが訪れ、ここから逃げ出せるに違いないと、なんの根拠もなく信じていた。そうした妄想世界に逃げ込むことで、無意識のうちにサバイバルしていたのだろう。
「辛い時は、自分より悲惨な状況にある人を見るといい。あれよりましだと思えば、生きる勇気が湧く」
 と、もっともらしく言う人がいる。私はその言い方が嫌いだ。人の不幸で安堵するなんて、ひどいではないか。誰だって、「あれよりまし」の「あれ」になんかなりたくない。
「被災地の人たちに比べたら」「戦争難民に比べたら」「難病で苦しむ人たちに比べたら」、私たちはまだましだよねえ、という、悪気のない言葉に、「そうよねえ」と何気なく相槌を打ってしまうが、内心では、私も子供の頃、「あの子の境遇に比べたら」と言われる身だったのだと、複雑な気持ちになる。
 私が差別されたとしたら、それは家庭の事情だったが、もっと理不尽な差別もこの世にはある。
 子供の頃、大人たちが指を立て、なにか囁きあっているのを聞いたことがある。
「あの人は、四つやで」
 「四つ」が被差別部落を指すことは、大人になってから知った。「人間以下の存在だから獣と同じ四足」「四足動物の解体作業に従事していたから」など、由来は諸説あるようだ。
 これほど理不尽な差別があろうか。特定の職業や地区を、いつ、誰が「被差別」にしたのか、諸説あるが、どれをみても確かな根拠はない。
 人は自分が社会の底辺であればあるほど、さらに下の存在をつくりだし「あれよりはまし」だと思いたがる。でも、そうやってあたりまえのように部落差別をしている人たちは、なぜ自分がその人たちを差別するのか、ちゃんと考えたことがあるのだろうか。
 それに比べると、人種差別はまだわかりやすい。在日韓国・朝鮮人に対する差別は、明治の昔からいまに至るまで根強い。
 彼らの多くは、通名と呼ばれる日本名を名乗っている。顔は日本人と同じだ。おそらく、故郷の町にも大勢いたはずだが、子供の頃は、在日と呼ばれる存在すら知らなかった。
 大人になってからも、私は狭い世界で生きてきた。もうひとつの名前を持つ人々と友人・知人として繋がりができたのは、作家になり、たくさんの人々と知り合うようになってからだった。

 

                         (第16回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年7月25日(水
)掲載