さまよう血 山崎洋子

2018.7.25

17インタビュー 

 

 インタビュー 

 宮本泰明 本名 李泰安(イ・テアン) 一九六一年生 旅館、飲食店経営

 僕のルーツは済州島だよ。祖父母がそこの生まれ。昭和のいつごろかはっきりはわからないけど、祖父は妻と十人もの子どもたちを残して日本へ渡った。だから僕は在日三世だね。
 祖父が日本で得た仕事は、船にいろんな物を載せて東京湾を行き来する物流。祖母も時々は日本に来てたんだろうね。昭和十年、博多で僕の親父を産んでるから。でも三歳の時、母親と一緒に済州島へ返されたみたい。祖父にはその時、もう日本人の妻がいたからね。 
 親父は終戦のあと、兄、弟と一緒に日本へ密航したの。たった九歳の時だよ。終戦後の済州島は北と南が対立して大混乱してたでしょ。虐殺事件なんかも多発してたというから、命からがら日本へ逃げてきた人も多かったんだろうね。うちの親父がそういうケースだったかどうかはわからないけど。
 でも佐世保で見つかっちゃって、兄と弟は強制送還。親父はすばしっこかったから逃げて、どういう経路だったかはわからないけど、自分の父親がいるという中華街へやってきた。
 ねえ、どうやって横浜まで来たんだろうねえ。詳しく聞いたことはないけど、助けてくれた同胞がいたのかもしれないなあ。
 横浜中華街はね、中国人だけじゃなくて、韓国・朝鮮系の人も多かったんだよ、昔から。
 親父は中華街へたどり着いて、通りすがりの朝鮮人らしい、おばさんに、父親の名前を言って、「こういう人を知りませんか」と尋ねたの。そのおばさんの娘と、後に結婚することになったんだから、不思議な縁だよねえ。
 祖父と一緒に暮らしてた日本人女性は、まあ、実質的に僕の祖母という存在になったわけだけど、彼女は駄菓子屋を営んでたの。だから親父は子供の頃、そこで店番をしたんだって。
 祖父が亡くなったのは昭和二十八年。天候の悪い日に、どうしても荷物を運んでほしいと言われ、船を出した。だけど嵐になって船が転覆したの。

 僕がものごころついた頃、親父は(はしけ)に車を積み込んで、千葉へ送る仕事をしてた。母は小さな焼き肉とモツ煮の店をやりながら、僕、弟、妹と、三人子どもを産み育てたの。家は中区の扇町。昔はこのあたりに、十坪くらいの小店がいっぱい並んでたんだよ。
 オイルショックの時、親父は艀の仕事を辞め、磯子区根岸の坂下橋に寿司屋を出した。在日の知人から紹介されて、居抜きで店を買ったの。板前も三人付きで。
 回転寿司なんかない時代だったから繁盛したんだよね。山手に家を買ったもの。
 僕が通った小学校は南区の南吉田小学校。外国籍の子が五割? ああ、いまでもそうなんだ。僕が子供だった頃から、あそこはそうだよね。在日の子がいっぱいいたもの。
 朝鮮学校からは、こっちへ通うようにと、さかんに誘いがあったんだよ。でも、親父がそれに応じなかったの。これからずっと日本で生きていくんだから、日本の学校に入れる、と。だから僕は韓国語ができないんだよね。あとからちょっと覚えた簡単な日常会話程度。
 名前は、もう小学校の時から宮本姓。いわゆる通名だよね。通名には、本名の一字を入れる場合が多いね。だから名字を聞いただけで、在日はなんとなくわかるの。
 いじめ? 僕の場合はなかったよ。さっきも言ったけど、学校に在日が多かったし、僕はスポーツ万能でスターだったもん。中学生の時からギターもやって、いまでもバンド組んでるし。
 韓国ロック? かっこよかった? ありがとう。韓国の民謡をロックにアレンジして歌うの。洋子さんとの縁も、あるパーティーで、僕が韓国語のロックを歌ったのがきっかけだったもんね。
 通名を名乗っているとはいえ、僕は横浜で、自分が在日であることを隠すこともなくやってこられた。でもねえやっぱり、日本における在日差別は大きいよ。芸能人やスポーツ選手だって、どんなに大スターになっても日本名で通してるでしょ? 
 最初から本名で出て人気者になったのならともかく、日本人だと思ってファンがついたわけだからね。いまさら在日だと告白しても、いいことは何もないでしょう。
 それと日本人が誤解してるのはね、在日における韓国と北朝鮮の関係。国同士は長いこと休戦状態だったけど、在日同士はね、ルーツが北朝鮮だろうと韓国だろうと、普通に仲良く付き合ってるんだよ。
 だって、南北に分かれるまでは、朝鮮半島って、ひとつの国だったんだもの。どちらにも親戚がいたりするんだよ。交流だってあるし。
 平昌オリンピックの開会式で南北が一緒に行進するのを見たら、そりゃあ、自分のルーツが北だろうと南だろうと胸が熱くなるよね。
 そうだ、オリンピックといえば、十人もいた父のきょうだいの末っ子、僕の叔母に当たる人の息子が、一九九二年のバルセロナ・オリンピックに出てるの。
 マラソンの代表で黄永祚(ファン・ヨンジョ)という名前。日本の森下広一選手と激しく競り合って金メダルを獲得したの。
 オリンピックのマラソン史に残る名勝負として、韓国ではずっと語り継がれてるんだよ。
 自分の国意識? いや、日本人だよ。日本で生まれ育ったんだから。普段は、そう。
 ただね、ふと鏡を覗き込んだ時なんかに、考えるというか、頭の中がちょっと混乱するんだよね。この男、誰? 日本人? 韓国人? 俺、誰だっけ……ってね。

 

 インタビュー

 Fさん。在日二世 一九六〇年生 男性 不動産業

 私の場合、父が在日一世で、母が二世です。父はいま九十歳ですが、十四歳の時、日本に渡ってきました。一九三六年あたりですかね。父は九人兄弟の次男です。日本には長男と一緒に来たそうです。
 父が生まれたところは慶尚北道にある大きな港湾都市。昔から文学者の家系で、祖父も教育熱心でした。それで長男と次男を、より高度な教育を受けさせるため、日本に送り込んだのです。
 うちの環境からして、密航ではないと思いますよ。
 日本に渡って、新聞配達とか、いろんなアルバイトをしながら、父は中央大学へ入りました。高校? わかりません。日本に来たとき、誰かコネがあったのかもしれないけど、それも聞いてないです。
 子供ってなにか特別な動機でもなければ、親の人生を根掘り葉掘り尋ねたりしませんよね。私も、親が自分で話したこと以外、こちらからあれこれ尋ねてはいないのです。父も自分のことを、それほど積極的に話す方ではなかったし……。
 ああでも、差別を受けた話を一度だけ聞いたことがあります。大学生の時、親しくなった日本人の友達に、家へ招かれたそうです。相手の親は、息子の友達が来るというので、ご馳走を用意して待っていてくれたそうです。
 ところが、挨拶をして名前を名乗ったとたん、親の顔色が変わった。料理を載せた皿、茶碗、そして箸まで、その場でゴミ箱に捨てられ、二度と来るなと怒鳴られたそうです。
 でもね、そんな差別があったかと思うと、新聞代の集金に行った先では、床屋にも行けなくて髪が長いままの父を見て、「これで刈りなさい」とバリカンをくれた人もいたそうです。
 父はそのバリカンを大事に仕舞っておいて、自分が結婚して親になってから、子供の髪を刈るのに使ったのです。

 朝鮮半島と日本には、長くて複雑な歴史がありましたからねえ。双方の心境も複雑になってしまうのでしょう。
 古来から朝鮮には、中国の文化や先進技術がいち早く入ってきました。朝鮮を経て、さらに日本へと伝わります。朝鮮半島と日本は「魏志倭人伝」にも登場するとおり、盛んな交流がありました。文化交流も戦もあり、その間、当然ながら人々の血は入り混じったはずです。
 ただ、国民性はずいぶんと違いますよねえ。やはり朝鮮半島は大陸と地続き。影響を受けないわけにはいきません。ヨーロッパも含めて、大陸は力の争いが絶えませんでした。
 朝鮮は必然的にそのあおりを受けます。モンゴルに支配されてた時期もあったし、豊臣秀吉に攻め込まれたこともあった。王朝の権力争いも、韓国時代劇に描かれているように激烈でした。
 その後は中国が宗主国、朝鮮が朝貢国という、まあ、簡単に言えば、独立国ではあるけど、中国の属国であり続けたわけです。
 それにしても中国は、どうしてあの半島を、いっそ自分の国にしてしまわなかったのか。地続きだし、力の差は圧倒的だしで、考えると不思議な気がします。
 思うに朝鮮民族って、ものすごく民族意識が強いのですね。支配され、抵抗してきた歴史が長いだけに、自己主張もかなり強い。その分、摩擦もなくならないのですよ、国の内外で。
 それに比べて、日本人はあっさりしている。摩擦を避けます。本音と建前を使い分けます。そしてなにより集団力が凄い。高度経済成長期の猛烈サラリーマンがいい例ですね。みんなで同じ方向を向いて突き進む。
 もっと言えば、戦争の時もそうかな。「天皇陛下万歳!」で一致団結できる。さらに我慢強い。敗戦の焦土から立ち上がって経済大国になったのも、その民族性があったればこそでしょう。
 同じ顔をしていて、隣の国ではありますが、朝鮮民族は動乱の時を繰り返してきた。日本は、空襲や原爆、接収はあったけど、外敵の襲撃をほとんど受けずに来た。その結果、民族性に大きな違いが出たのも、むべなるかな、ですね。
 関東大震災における朝鮮人虐殺のことですが、一〇一〇年(明治四十三)に日韓併合という、日本による朝鮮統治が始まりました。
 それまでの厳しい身分制度から朝鮮民族を解き放ち、民主化した、という側面もあったでしょうが、第二次大戦終結後の日本が、アメリカによってすんなりと民主主義国家になったようにはいかない。
 朝鮮人による朝鮮の改革ではなかったし、実質的には日本の植民地になったわけですから、激しい独立運動が起こりました。ソウルでも上海でも、流血のテロが続出したのです。
 だからね、関東大震災が起きて、朝鮮人が井戸に毒を入れたとか反乱を起こしたとかいう噂が流れた時、日本人はそれを、ただの噂だと聞き流すことができなかったのです。
 充分ありうることだと思ったのでしょう。ほんとに怖かったから、自警団を結成して朝鮮人刈りをしたのだと思いますよ。

 父の話に戻りましょう。大学を卒業すると、父は朝鮮学校の教員になりました。そして文学者になりました。韓国で作品が本になっています。
 私は小学校から高校まで朝鮮学校に通いました。サラリーマンを二十四年間やって、いまは自営の不動産業です。
 私自身の受けた差別ですか? そうですねえ、小学校の時、日本人の子と喧嘩をすると、相手の決め台詞は「おまえ、なんで朝鮮に帰らないんだよ!」でしたね。
 一番いやだったのは指紋押捺。役所で、べつに抵抗してなくても手を掴まれて、押させられるのです。屈辱的ですよね。
 父はずっと本名で通しましたが、私は、仕事の場では通名を名乗ってます。在日を隠してはいませんが、日本名の方が面倒も少ないことは確かですから。
 意識ですか? もちろん日本人ですよ。日本で生まれ育ってますから、ここが慣れ親しんだ自分の国です。
 ああ、でもねえ、自分でも不思議なんですけど、サッカーのワールドカップで日本対韓国の試合があると、どういうわけか韓国に肩入れしてしまう。なぜかわからないけど、自然にそうなるのです。
 だけど私の子供たちは違う。あたりまえに日本を応援してます。彼らの母親も在日ですが、子供たちは、私よりずっと日本人なのでしょうね。

 

                         (第17回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
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月10日(金)掲載