さまよう血 山崎洋子

2017.10.10

04戦争孤児と混血児

 

戦争孤児と混血児

 私は日本海に面した関西の港町で生まれ育った。古代からの豊かな歴史を持つ城下町だ。美しい松並木の砂州もある。が、こうした町にありがちの閉鎖的なところがいやで、子供の頃から横浜に憧れた。
 昭和二十二年の生まれ。戦後ベビーブームのトップだ。敗戦日本の貧しい時代を体験している。豊かな欧米への憧れが強かった。
 憧れの源は、図書館から借りて読んだ本。まずは少年少女文学全集。『宝島』『十五少年漂流記』『若草物語』『赤毛のアン』『砂の妖精』。
 児童読み物といえばまだ日本には、桃太郎や浦島太郎などの昔話、そして道徳教本のような絵本しかなかったが、海外児童文学に登場する子供たちは違う。大人や社会に対して果敢に自己主張する。赤毛のアンもトム・ソーヤーも、そのまんま、ヒロイン、ヒーローだった。
 児童文学以上に読みふけったのが翻訳ミステリーだ。まだこの頃、日本には推理小説ブームが来ておらず、江戸川乱歩や横溝正史などの「探偵小説」しかなかった。なぜか私は乱歩にも正史にも惹かれず、アガサ・クリスティー、エラリー・クィーン、コーネル・ウールリッチなど、イギリスやフランスのミステリーにはまった。
 もちろん殺人は出てくるのだが、物語の背景が絢爛豪華だ。石畳の舗道、老舗ホテルのアフタヌーンティー、豪華客船、上流階級のパーティー……。
 どれもこれも、ハリウッド映画のスクリーンでしか観ることができない世界だ。
 でも、その世界へ行く扉はある。それが私にとっては横浜だった。無国籍映画と呼ばれた日活アクション映画には、よく横浜が登場した。華やかなハリウッド映画と違って、拳銃と麻薬の横行する怪しい世界だが、同時に、妖しい異国情緒に満ちていた。
 そして、童謡「赤い靴」。

 赤い靴、履いてた女の子
 異人さんにつれられて行っちゃった。
 横浜の波止場から、船に乗って
 異人さんのお国に行っちゃった。

 私はものごころつかないうちに両親の離婚でどちらからも置いていかれ、引き取ってくれた祖母も入水自殺。血の繋がらない人のもとで子守や家事にこき使われ、暴力まで振るわれるという子供時代を送っていた。
 逃げ場は本や小説の世界。それをもとに妄想世界を創りあげ、いつもそこへ逃げ込んでいた。
 いつか横浜へ行きたい。横浜に行きさえすれば必ず奇跡が起き、私も映画や小説のヒロインになれる。異人さんが赤い靴を差し出し、船で異国へ連れていってくれる……。
 野口雨情の歌詞のモデルは、貧しい北海道開拓民の娘で、彼女の境遇を哀れに思ったアメリカ人牧師が養女にするつもりで引き取ったところ、渡航する前に病気で死んでしまった……という説がある。
 それを裏付けるかのように、歌詞にもメロディーにもやるせなさが漂っているのだが、私はまったく気にならなかった。なにが起きようと、いまより悪いはずがない。ここから逃げ出せるなら、どこの国にいようと、目が青くなろうと、ちっともかまわない。
 いきなり話を飛ばしてしまうが、その後、紆余曲折の人生を経て、ようやく横浜に住むことができた。二十三歳の時だった。
 そこから船に乗って異国に行くことこそなかったが、三十八歳の時、横浜の遊郭を舞台にした『花園の迷宮』という推理小説で作家デビューした。
 そこに至ってようやく、夢や妄想ではない、横浜の過去と現在を学び始めたわけだが、期待が裏切られることはなかった。波乱万丈の歴史、国内外から人々を受け入れてきた冒険者の都、開放的な気質……知れば知るほど、この街にはまっていった。
 その想いその思いを裏切られたような気がしたのが、『天使はブルースを歌う』を書いた時の取材拒否だ。さらに二十年後、同じことが起きるとは思ってもみなかった。
 しかも、否定ではなく、避けられたのだ。
 このままでいいのか。もう一度、あのテーマを掘り起こしてみるべきではないだろうか。
 そんなもやもやした気持ちを抱えたまま、年が明けて二〇一六年になった。1月半ば、一人の男性から電話があった。
「突然の電話で失礼します。報道番組のディレクターをしております。Sと申します」
 ていねいに名乗ったその人は、『天使はブルースを歌う』を十年も前に読んだのだという。
「以来、ずっと気になってました。じつは終戦直後、たくさん生まれたはずの混血児たちのことを、いつか特集したいと思ってまして……」
 夕方の報道番組で、先月、彼は戦災孤児の特集を報じたという。
 私はたまたまそれを観ていた。もともと私は報道番組が好きで、硬派なその番組もよく観ていたのだ。しかも、彼がつくったという「戦災孤児」の特集は、できることならぜひ、もう一度観たいと思っていたものだった。これを制作したディレクターが、キャスターと並んで出演していたことを思い出した。それがS氏だったのだ。
 ずっと前から、戦争と混血児のことをドキュメンタリーで取り上げたいと考えている、と彼は言った。その関連でいろいろな本を読んできたが、そのうちの一冊が『天使はブルースを歌う』だった。
「いろいろ難しい問題もあって、すぐには実現できないのですが、一度、お目にかかれないかと思いまして」
 そういうことなら、私もぜひ会いたいと即答した。小説家としてデビューしたが、年々、小説よりノンフィクションを読むことのほうが多くなっている。事実のおもしろさに惹かれてやまない。
 が、読むことと書くことは別だ。正直に言えば取材の仕方がいまだにわからない。
 もちろん、テレビは何人ものスタッフがいて、長年培ってきたコネクションもある。編集者の手助けがあるとはいえ、基本的には一人で動くしかない私とは、基本的に異なる。それでも、取材ということをもっぱら仕事にしている人から、ノウハウを教えてもらいたかった。
 それから数日後、元町の霧笛楼・喫茶「next door」で、私たちは会った。S氏は「戦災孤児」を録画したDVDも持参してくださっていた。
 そのドキュメンタリーは、東京大空襲の時、荒川区で母親とともに被災した男性のインタビューから始まる。焼夷弾の炎を浴びた顔は、ひきつれ、のっぺりした仮面のようだ。耳も焼け落ちて無い。
「表情がはっきりしないから、喜怒哀楽がないのかと思われるんですよ」
 目が不自由だった母は助からなかった。公費で入院できたのは三ヶ月だけ。退院後は戦災孤児施設に入れられたが、空腹に耐えられず脱走。上野に集まってくる孤児の一人となった。
「この顔を見ると、誰もが目を背けます」
 と、彼は言う。どれほど過酷な人生であったか、推して知るべしだろう。
 孤児狩りというのがあった。焼け跡の街をうろつく孤児たちを、警察が保護し、施設に連れていく。東京では、代表的な施設として東京都養育院があった。保護というより収容だ。窓には逃亡防止の格子がはめられている。周囲も柵で囲われている。
 しかも与えられる食べ物は極端に少ない。
 亡くなった私の夫は、生まれ育った横浜で、この時代を体験した人だが、結婚した時、「頼むから、おかずにカボチャだけは出さないでくれよ」と、真顔で私に言った。
 カボチャは栄養があっておいしい。私は大好きだ。どうしていけないの、と問い返すと、「毎日、毎日、カボチャだったんだぞ。想像してみろよ。来る日も来る日もカボチャだけ食べることを」
 そんな食糧難の時代だから、施設の孤児たちに充分な食料が配布されるわけもない。蝉やバッタを捕まえて食べるのはまだましで、壁の漆喰をほじくって口に入れていた子もいたという。
 飢えた孤児たちは次々と脱走し、東京や横浜の街なかに舞い戻った。なにか仕事にありつけるかもしれない。誰かが食べ物をめぐんでくれるかもしれない。そうでなければ盗んででも……そう思い詰めたのだろう。
 痩せ細り、腹だけが以上に膨らんだ子、肋骨が浮き出て、すぼんだ尻に皺の寄った子……施設の孤児たちを写した写真は、まるでアウシュビッツを見ているようだった。
 もっと恐ろしい話もある。「いいところへ連れて行ってあげる」と、孤児たちが集められ、トラックに乗せられた。薄暗い山中で降ろされ、そのまま置き去りにされたという。
 養育院の玄関先には一日、七、八人の捨て子があった。ほとんどが栄養失調で死んだ。毎日のように、子供の遺体を埋葬したという。
 当時の調べで、戦災孤児は全国(沖縄を除く)で十二万三千人にものぼった。混乱期だから、もちろんカウントされない孤児も相当数いただろう。
「この中には当然、混血児がいたはずです。日本各地が接収され、在留米軍がいたわけですから。その子たちのことは、日本人孤児とは別の問題をはらんでいます。終戦、接収で、なにが起きたのか、その観点からドキュメンタリーにまとめたいと、もう十年以上前から考えているのですが、いまだに実現できてなくて……」
そうS氏は言う。しかし、関連図書などは、私以上に読んでおられる様子だ。
 いつの頃からか、「差別」「偏見」とされるものが異常なほど増えた。物書きである私も、そのことを実感している。
 最近だが、新聞のコラムで「未亡人」とういう言葉を書いたら、校閲で引っかかった。
「すみません、僕もいまのいままで、これが差別用語に入っていることを知りませんでした」
 と、担当記者も驚いていた。もちろん、小説ではかまわないのだが、新聞の場合、コラム、エッセイではいけないようだ。
 小説でも、身体の障害や職業を表す言葉は、昔と異なる表現にしなければならない。時代小説作家は苦労するだろう。
 ちなみに、「混血」という言葉もいまは差別用語である。が、ここではその言葉が使われていた時代のことを書く必要があるので、あえて使わせていただく。
 こうした差別問題は、テレビでは確かにタブーである。書籍は、それを読みたいと思う特定の人が求めるのだが、テレビは、いわゆるお茶の間のメディアだ。観たくない人の眼にも入ることになる。さらに、スポンサーという絶対的な存在がある。
「今回の戦災孤児特集でさえ、こういう悲惨なものを放映するべきではないという抗議が幾つも来ました」
 だけど、いつかやれるかもしれないと信じ、S氏はこうして取材を続けているのだという。
 映像の力は大きい。まさに百聞は一見にしかずで、戦災孤児の飢えがどれほど凄まじかったかを百の言葉で説明するより、痩せ細り、腹だけが突き出たあの写真を見せるほうが、訴える力ははるかに大きいだろう。
 けれどもこの時、胸にことりと落ちるものがあった。規制が厳しくなったとはいえ、紙媒体ならそれが書ける。『天使はブルースを歌う』で書ききれなかったこと、取材し残したことを、いま、やるべきではないか。
 あれから約二十年たったとはいえ、私にはまだかろうじて気力と体力が残っている。それを世に出せるかどうかは別として、まず動いてみよう。S氏と話しながら、そう決めていた。


                         (第4回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2017年10月24日(火
)掲載