さまよう血 山崎洋子

2017.11.6

06娼婦たちの悲歌



 チャブヤ


 横浜にはもうひとつ、チャブヤという独特な娼館があった。こちらは始めから私娼である。中区本牧の小港、中区石川町の大丸谷あたりに集中していた。
 「チャブ」の語源は、英語の「チョップハウス」だと言われている。ステーキをメインとする気軽なレストラン、というような意味だが、長崎や横浜などで「ちゃぶ」という日本語風な発音になったらしい。波止場に降り立った外国人船員たちを待ち構え、ここへ案内する人力車夫(リキシャマン)からこの言葉が広まったというだけあって、チャブヤの客は基本的に外国人だ。
 このモダンな娼館群が誕生したについては、横浜らしい由来がある。
 居留地に住み着いた外国人たちは、馬や馬車を移動手段として持ち込んだ。そして好奇心の赴くまま、あちこち見物に行きたがった。幕府としては不安でならない。すでに何件も、攘夷派の浪士による外国人殺傷事件が起きている。そのたびに多大な賠償金支払いを余儀なくされる。野蛮な国だと責められる。
 文久二年(一八六二)、薩摩藩の藩士が、藩主・島津久光の行列に馬で割り込んだとして、イギリス人三人を殺傷するという事件が起きた。賠償金だけでは済まず、この事件は薩英戦争にまで発展した。
 これに懲りた幕府は、外国人達が馬で安全に散歩できる道を造ることにした。そして慶応元年(一八六五)、開設されたのが「外国人遊歩新道」である。
 元町近くの地蔵坂を出発点にして、根岸を巡り、本牧をぐるりと回って戻る。約九㎞の、丘あり海岸線ありの風光明媚な道程である。外国人たちにも大いに喜ばれた。
 が、喜ばれた理由は景色の良さだけではなかったようだ。遊歩新道の沿道には、そこここに休憩のための茶店が設けられたのだが、やがて、そこで提供されるのが茶菓だけではなくなった。女性との密なひとときも買うことができる。それがいつしか、堂々たる二階建ての娼館へと発展していったのである。
 一階がバーのあるホール。客はここで、女性と一緒に飲んだりお喋りしたり、ダンスに興じたりする。相手が決まれば二階の個室へと消えていく。西部劇でよく見るスタイルだ。
 日本人お断りというわけではないのだが、この頃はドルのほうがはるかに強い。外国人用に設定された料金だと、入れる日本人は金持ちや売れっ子文化人に限られる。
 北林透馬、大佛次郎、谷崎潤一郎などが、本牧のチャブヤについて書いているが、彼らのような流行作家でもなければ、おいそれと遊べる場所ではなかった。
 小港でナンバーワンといわれたチャブヤ、キヨホテルには、メリケンお浜という名物娼妓がいた。大柄で社交的、床上手だというので外国人に人気があり、「日本、横浜 お浜さん」という宛名書きだけで外国からの郵便が届いた、というエピソードまである。
 大正時代に入ると、こうしたチャブヤは三十軒を超え、全盛期を迎えた。新しもの好きだった谷崎潤一郎は、キヨホテルの隣に家を借りて住み、元町の裏手にあった映画会社、大正活映の文芸顧問を務めていた。
 自ら脚本を書き、ハリウッド帰りの栗原トーマスを監督に据え、「アマチュア倶楽部」という映画を製作している。まだ映画が活動写真と呼ばれた頃で、もちろん無声映画だ。主役に抜擢されたのは葉山三千子。谷崎の妻の妹だ。
 この頃、谷崎と三千子は公然たる男女の関係にあった。真面目一筋の男が、カフェの女給をしていた奔放な少女に翻弄されるという谷崎の小説「痴人の愛」は、葉山三千子やチャブヤの投影があると言われている。
 大正十二年(一九二三)九月一日、東京・横浜を関東大震災が襲った。たまたま箱根にいた谷崎は難を逃れたが、大の地震嫌いだったこともあり、即、関西に居を移した。
 チャブヤもこの大震災で壊滅した。戦後もチャブヤと称する店は存在したが、もとのイメージとはまったく異なるものだ。戦後のそれは、進駐してきた米兵相手の安手な売春スナックだった。
 ちなみに、海外にまで名を馳せ、野坂昭如、小堺昭三の小説モデルにもなったメリケンお浜は、流れ流れて南区の真金町に現れた。昭和三十三年まで遊郭のあった町だが、彼女が来たのは廃止後だったようだ。
 老いたお浜はここで小さなスナックを出した。白く塗りたくった顔で目立った存在だったようだが、チャブヤの女王だった頃の面影は、まるでなかったという。
 やがて癌に侵され、スナックも閉じ、住んでいた安アパートの家賃さえ滞りがちになった昭和四十四年三月三日、遺体で発見された。
 首にストッキングが巻かれていたので殺人を疑われたが、心臓衰弱死の可能性もあった。誰が彼女の首を絞めたのか、迷宮入りのままである。

 おらんだオイネ

 幕末、明治、大正と歴史を振り返り、つくづく思う。外国人男性と日本女性の交流が、横浜はなんと多いことか。
 どれほど多くの混血児が生まれたか、想像に難くない。避妊の方法も確かなものはなく、堕胎も、産婆が掻き出すといった乱暴な方法しかなかった時代である。望むと望まざるとにかかわらず、とりあえず出産するしかないケースもあっただろう。
 日本は島国だし、長い鎖国の時代もあった。昔から他国との往来が盛んで、人種も混ざり合っている国とはわけが違う。たとえ半分でも外国人の血が入っている者は、特殊な目で見られがちだ。
 親が正式に結婚しているとか、それなりの地位や経済力がある場合はまだいい。そうしたケースは後述するとして、社会的な力のない庶民の女、あるいは娼妓から生まれた混血は、社会の中でどういう立場にたたされたのだろう。幕末から大正にかけてその資料となるものを、私は横浜において見つけることができなかった。
 『横浜市史稿 風俗編』(昭和七年発行)に「らしゃめんと混血兒」という章がある。しかし冒頭にあっさりと、混血児絡みの案件がわかるような史料はなにもないから、長崎市史稿を引例して、横浜もこうであったに違いないということにする……という文言が記されている。
 横浜ではなにも問題がなかったから、というわけではないだろう。昔も今も、その問題に目を瞑ってきただけではないだろうか。
 ともあれ、長崎はどうだったのか。
 鎖国の時代もここだけは港を開き、中国、オランダと交易をしていた。だからそれぞれ、唐人屋敷、出島という居留場所があった。出入りする外国人、ことにオランダ人は、安政五年の五カ国条約によって新たな条約が締結されるまで、出島の外に出ないよう、厳しい監視下に置かれていた。むろん日本人も、公用であると奉行所が認めた者以外、立ち入ることはできない。
 長崎には丸山遊郭がある。江戸の吉原、京都の島原と並ぶきらびやかな遊郭だ。オランダ人が丸山遊郭の女を出島に招いたり、自分の居宅に住まわせたりする場合も、許可が必要であることは言うまでもない。
 文政十年(一八二七)、イネと名付けられた混血の女児が長崎に産まれた。母は丸山遊郭の遊女で源氏名を其扇(そのぎ)といった。本名は瀧(たき)。父はドイツ人の博物学者にして医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。
 日本の西洋医学、植物学にも大きな貢献をしたシーボルトは、国籍を偽り、オランダ商館付きの医者として来日していた。出島では鳴滝塾を開き、高野長英、二宮敬作など、西洋医学を志す日本の医者や学者たちを指導した。
 また、オランダ商館長の江戸参府にも随行し、日本の博物学、民俗学を極めた。イネが生まれたのは、江戸参府の翌年である。
 並み居る丸山遊女の中でも、十七歳の瀧はとりわけ美貌だった。学級肌のシーボルトは二十七歳。瀧に夢中になり、やがて自分の居宅に彼女を住まわせるようになった。その愛は、紫陽花の新種に名前をつける時、「otaksa」(おたきさん)という言葉を入れるほどだった。
 出島のオランダ人達、そして鳴滝塾の塾生たちからも尊敬され、大切にされているシーボルトに、瀧も次第に惹かれていったのではないだろうか。さらに、彼の子どもなら、混血児だからといって粗略に扱われることはないと確信して、イネを産んだに違いない。
 出島ができたのは三代将軍家光の頃だが、混血児に関しては早々と問題になっていた。日本人として受け入れることはできないというので、その父母、きょうだいもろとも、国外追放という厳しい沙汰が降りた。
 昭和十三年、「長崎物語」という歌謡曲が大ヒットしたが、歌詞に詠われている「じゃがたらお春」は、出島初期に実在した混血児だ。父はイタリア人。十五歳の時、母や姉とともにジャガタラ(ジャカルタ)へ追放された。そこから日本の知人に宛てた、故郷を懐かしむ手紙が、「じゃがたら文(ぶみ)」として残っている。
 こうした追放制度は時が移るにつれてなくなり、正規の手続きさえ踏めば、混血児も一般の日本人として認められるということになった。
 差別や偏見まで無くなったわけではない。イネが産まれた頃も混血児の流産、死産は異常なほど多く、そこに人為的なものが加わっているらしいことはよく知られていた。
 シーボルトは、生まれた娘を非常に可愛がり、瀧への愛もいや増した。瀧もその愛に応えて彼に尽くし、二人は夫婦のような情愛を深めていった。
 なのに、運命は過酷だ。イネが二歳になった年、シーボルトは帰国することになった。しかもその船が暴風雨のために座洲し、積荷の中から、日本の地図など、国外持出禁止の資料が発見された。シーボルトはスパイの疑いをかけられ、国外追放となってしまう。二度と日本に来てはならないということだ。
 鳴滝塾の有力な塾生達に、イネの将来をくれぐれも頼むと言い置き、シーボルトは日本を出ていった。瀧を身請けして遊女の身から解き放ち、塾のあった鳴滝の土地と建物のほか、暮らしに困らないだけの金品も与えていった。
 イネは長じて、塾生であった二宮敬作や石井宗謙から医学やオランダ語を教わるようになる。彼女は父親譲りの優秀な頭脳を持っていた。自分が混血児であることを意識し、自立ということが早くから念頭にあっただろう。
 イネは生涯、独身だった。産科の医師として宮中に上がるほど活躍した。しかし、医術の師であった石井宗謙に強姦され、娘、高子を産んでいる。その高子もまた、医学を志したのに医師に犯され、子どもを産んだ。
 強姦という非情な行為は、現代でも少なくない。だがこの時代には犯罪にもならなかった。男尊女卑の世であったことに加えて、混血児であることも、相手にとってはつけこむ要素だったのかもしれない。
 なお、シーボルトには他にも馴染みの遊女がいて、別の子どもも産まれているという説がある。妾を何人持とうと、婚外の子どもが生まれようと、それは男の甲斐性だとされた時代である。

 混乱する対策

 安政五年(一八五八)の修好通商条約により、シーボルトは追放を解かれた。日本の幕府から外交顧問として迎えられ、娘とも再会している。
 しかし、さまざまな国が入ってきたことで、混血児に対する処遇はややこしいことになってきた。『横浜市史稿 風俗編』には、幕府がその対策に悩んだであろう変遷が紹介されている。混血児の母親は「遊女」を想定しているが、一般女性と外国人の組み合わせであっても、一応、これが基準になったのではないだろうか。
 条約以前の長崎では、混血児の国籍は父親のそれに準ずるとしていた。だから、母親の承諾があれば、父親は母国へ子どもを連れて帰っても良いと。
 しかし、条約後は長崎の他に函館、新潟、横浜、兵庫(神戸)も開港場となり、当然ながらそこでも混血児問題が発生。長崎の一存では決められない。そこで幕府は、横浜、函館と話し合いの上、取り決めを定めるよう、長崎に通達した。
 結果、母親に異議がなければ、父親は母国に子どもを連れ帰って良い、ということになった。ただし父親が子どもを居留地内に住まわせたいという場合は、母親が子どもを引き取り、子どもが十歳になるまで市街地で育てる。十歳以降は外国人として扱い、居留地に住まわせることもできる。
 果たしてどういう結果になったのかはわからないが、翌年起きた案件が、例として記されている。
 横浜の居留地に籍を置くオランダ人が、長崎滞在中に丸山の遊女と昵懇になり、三人の子どもをもうけた。彼はその子どもたちを横浜の居留地へ連れて帰りたいと奉行所に申し出た。
 しかし母である遊女は、子どもを手放したくない。長崎のオランダ領事は母親を説得し、三人のうち、六歳と三歳の子だけ、父親と一緒に横浜へ移り住むという結論を下した。一人を母のもとに残したのだ。
 また、慶応二年(一八六六)には、イギリス系の会社に勤務する清國人が、丸山遊女との間にもうけた子供二人を上海に連れ帰った。
 このような案件の際は、子どもが幼いのだから母親も一緒に、という意見が当然出た。がそれが実現しないのは、正式な結婚をしていないばかりか、すでに男性には妻子がいるというケースが多かったからだ。
 親の愛情を充分に受け、経済的にも恵まれた混血児は、それなりに教養を身につけ、社会に出る道もあった。が、差別や偏見にさらされ、自暴自棄に陥り、道を踏み外した例は少なくない、と『横浜市史稿』には記されている。

 ムラとキングドン

 ポンチ絵という言葉がある。漫画風な風刺絵のことだ。この言葉は、文久二年(一八六二)横浜の外国人居留地で創刊された日本初の漫画雑誌「ジャパン・パンチ」から発生した。
 雑誌の発行者はイギリス人画家のチャールズ・ワーグマン。彼は発行者であり、ポンチ絵を描く画家であり、記者、執筆者でもあった。
 あるときは楽しげに活き活きと、あるときは痛烈な皮肉を交え、外国人や日本人の暮らし、生麦事件のような出来事を発信し続けた。私生活では小沢カネという日本人女性と結婚し、一児をもうけている。
 彼の描いた居留地外国人の中に、ニコラス・フィリップス・キングドンというイギリス人がいた。豊かな顎髭をたくわえたその姿は、競馬場で飛び跳ねていたり、馬を駆って疾走していたり、居留地自治会で熱弁を奮っていたりという姿で、「ジャパン・パンチ」誌上に残されている。
 キングドンは一八二九年、ロンドンで産まれた。上海へ渡り、大手イギリス商社デント商会の社員として働いていたが、文久三年(一九六三)、同社の特別代理人として横浜へやってきた。生麦事件の翌年である。
 薩英戦争前夜の横浜居留地における緊迫感を、母に宛てた手紙に詳しく綴っている。
 残念ながらデント商会はうまくいかなかったようだ。三年後には撤退を余儀なくされている。しかしキングドンは四年後にキングドン・アンド・シュワーブ商会をという貿易商社を創業し、仕事だけではなく、居留地自治会の衛生・道路委員、消防隊員、横浜ユナイテッド・クラブ会長などに就任して活躍した。
 上海にいた頃から、故国の母や兄に手紙を書き送っていたが、ビジネス関連以外は自分の健康に関する愚痴が多い。リュウマチがあったらしく、しばしば体調不良に悩まされたようだ。
 日本に移り住んだ時、彼はすでに三十代半ば。が、妻や恋人がいる様子はない。何年にもわたる書簡なのに、友人以外の女性が登場しないのだ。
 ……と思ったら、明治十四年(一八八一)になっていきなり「秘密」が打ち明けられる。十四歳になる息子のキングをヨーロッパで勉強させることにした、というのである。
 「ご存知だったでしょうが、わたしには家庭があります」と、彼は打ち明ける。妻は日本人で、この時、長男キングだけではなく、アーサーという次男もいた。妻ムラの弟達は、横浜浮世絵を描いて活躍した絵師、歌川鶴松(二代目)と歌川国松(五代目歌川豊国)である。
 結婚したことを黙っていたのは、それが「あなた(兄のアビイ)や他の兄弟に対してデリケートな問題なので」と書いている。日本人の妻、そして彼女との間にできた子どもが、故国の家族に受け入れてもらえるかどうか、不安だったのだろう。
 が、その心配は杞憂だったらしく、キングは伯父のアビイによく面倒をみてもらうことができた。キングドンも安心して、以後はおおっぴらに、妻のムラや子どもたちのことを書くようになった。その筆致は愛情に満ちており、読んでいて私もなんだか安堵を覚えた。
 日本女性を現地妻にするだけの西洋人も多かった中、そうではない者もちゃんといたのである。
 その後、エリザベスという女児も産まれた。キングとアーサーは母に似て東洋系の顔立ちだが、エリザベスは青い目とチェスナットブラウンの髪、薄いバラ色の肌であることを、キングドンは喜んでいる。
 しかし、いかにも西洋風な娘の外見は、喜びと同時に不安をもたらした。キングドンは後に、娘をイギリスに送っている。その理由として、日本は混血が生きにくい国であるからと説明しているのだ。
 長男のキングは、父と同様、日本女性と結婚している。しかし、妻と二人の子どもたちを残し、若くして亡くなった。さいわい、キングの生命保険があったので、遺族の生活は成り立ったようだが、キングドンの手紙はその後、自分の遺産を、キングの子どもたち、アーサー、エリザベスに分割することについて細々と記されている。


                         (第6回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2017年11月20日(月
)掲載