さまよう血 山崎洋子

2017.11.20

07ハーフ・カースト

 

 

 高校生の時、英語の成績がわりあい良かった。外国へ行くことも憧れだった。だから喋れるようになりたかった。しかし高校の英語教育では、テストで良い点を獲れても、実践の役にはたたない。これはもう、なんとかして外国人と知り合いになり、会話に慣れるしかないと思った。
 いま思えば、我ながら行動力があるというか大胆というか、「アサヒ・イブニングニュース」(英字新聞)のインフォメーション欄に「夏休みに外国人家庭でアルバイトをしたい」という告知を出した。一件の連絡があったので、大喜びで出向いた。川崎の公立高校へ通う地味な女子高生は、ましな私服もないから制服姿で。
 それが横浜だったか横須賀だったか、どちらでもない場所だったのか、もう覚えていない。ともかく面接だというので、いさんでその家に出かけて行った。木造平屋建てのいわゆる外国人住宅だった。
 出てきたのは日本人の奥さんだった。欧米人は目鼻立ちがくっきりしている。それに合わせようとするのか、私が知る限り、この時代、外国人と結婚した日本女性は、化粧の濃い人が多かった。彼女もその例に洩れない。
「うちのが、来いって連絡したの? へぇ……」
 なぜか彼女は、私の訪問を知らなかったようだ。奇妙な目つきで私を眺め回し、奥のドアの方へ顎をしゃくった。
 その部屋に入ると、小太りの中年白人男性がいた。せかせかと私を椅子に座らせる。そしてカメラを構えた。なにがなんだかわからない。英語で面接があるのだからと、頑張って単語を頭に入れてきたのに。
 彼は顔をしかめ、制服のスカートを指差して、しきりに何か言う。何度か聞き返し、「ひだの多いそのスカートが邪魔で体の線が出ないから、それを脱げ」と言っているらしいことがわかった。
 戸惑って「ノー」と首を横に振ると、呆れたと言いたげに「ホワイ?」と声を上げ、ますますしかめっつらになる。なにか自分が誤解しているのかもと、つたない英語で私も必死に問い返す。
「スカートを脱ぐのですか? このスカートを脱ぐ?」
 そうだ、と大きく頷き、彼も身振り手振りを交えて言い返す。
「そうだよ、スカートを脱がなきゃ写真が撮れないじゃないか!」
 もうひたすら「ノー、ノー」と言い続けるしかなかった。下着だかヌードだかのモデルになるために、私はここに来たわけではない。アメリカ人の家で、掃除などの手伝いをしながら英会話を学びたいと記しておいたはずだ。
 ありがたいことに向こうがついにあきらめてくれた。カメラを手にしたまま天を仰ぎ、もういい、帰れと、ドアを指差したのだ。
 私は急いで部屋を出る。玄関で奥さんに会った。
「すみません、スカートを脱いで撮影すると言われたのですが、できなくて……」
「あ、そう」
 眼に嘲笑を浮かべ、彼女はそれだけ言った。
 私はバカがつくほど無防備だった。もしも奥さんがいなかったら、もしも相手がよからぬ企みを持っていたら、どうなっていたかわからない。かりにレイプされても、泣き寝入りするしかなかっただろう。
 この頃、アメリカの力は、戦後の接収時よりましとはいえ、依然として強かった。さらにいえば、日本における女性の立場はいまよりはるかに弱く、たとえば電車で痴漢にあったからといって、女子高生が男を突き出すなどということは、夢にも考えられなかった。
 戦後の教育は、戦争のことなどなにも教えない。私の誕生日は八月六日だから、もちろん原爆のことは知っていた。けれども、そこへ至るまでの経過を知らない。いまのように、ネットでなんでもわかるという時代でもない。日本は貧しい劣等国。日本製品は良くない。欧米は日本より高みにある先進国。みんな英語がペラペラだし……と本気で思っていたほど、私は無知な高校生だった。
 そんなことがあったにも関わらず、英会話ができるようになりたい、外国人と話したい、という気持ちはなくならない。東横線白楽に教会があり、そこで外国人が無料の英会話教室を開いている、という情報が入ったので、友人三人と一緒に出かけていった。
 白人の若い男性が出てきて、愛想よく迎えてくれた。しかし残念なことに、彼は日本語が堪能だった。立て板に水で教義を説き、ようやく終わったと思ったら、賛美歌を歌わされた。それも日本語で。英会話というのは、体のいい勧誘だったのだ。
 こうなったら、当たって砕けろだ、と、また一人で、当時は欧米人が多く住んでいた横浜・山手へと出かけていった。外国に近づきたい一心である。
 乳母車を押した白人女性が通りかかった。ここぞとばかりに近づき「May I Talk With You?」と教科書通りに話しかける。女性は私の方を見ず、早口の英語でなにか言いながらそそくさと去ってしまった。
 いやがられているのはすぐにわかった。どうやら、私と同じ目的でここへ来る者が、ほかにもけっこういたのだろう。
 この状況を外国人側から描写している本に出会った。レスリー・ヘルム著「横浜ヤンキー」(明石書店 二〇一五年発行)がそれである。他人種の血を引いて日本で生きることが、どういうことであったかも、この本は教えてくれた。

 「僕たちが住む山手には、観光客が「外国」を訪れるかのごとく、大型バスに乗った日本人が見学にやってきた。遠足で来た日本人女学生はくすくす笑いながら金髪の僕を指差して「ほら、ガイジンだ! 見て、ガイジンがいるよ!」と言い、詰襟姿の男の子たちはバスの窓から顔を出して、「ヘイ、ユー・ヤンキー・ボーイ! ジス・イズ・ア・ペン!」と、叫ぶといった具合だった」

 著者のレスリー・ヘルムは一九五五年、横浜の山手で生まれた。長じてジャーナリストになり、自分のルーツに関わるこの本を著した。そこに書かれている日本の高校生は、まさに私の世代、私そのものだ。
 学校が川崎だったから、バスで遠足にこそ行かなかったものの、ガイジンを見るために、そして英語を喋ってみたいがゆえに、わざわざ横浜の山手へ行った。動機は外国人や英語に対する憧れだったのだが、彼らにとっては迷惑以外のなにものでもなかっただろう。
 レスリーは続ける。
「日本でガイジン扱いされて育ったことで、そうした“アウトサイダー的立ち位置”が僕のアイデンティティの中心を占めるようになった。どこへ行っても、見ず知らずの人たちがガイジンの僕と一緒に写真を撮ろうとした。観光客が「昔の日本」風景の写真が撮れるようにと、京都の通りを歩かされるアルバイトの舞妓もどきと変わらない」
 レスリーの曽祖父であるユリウス・ヘルムは、明治二年(一八六九)に横浜へやってきた。さまざまな仕事についた後、明治九年(一八七六)頃、横浜の居留地に運送会社を立ち上げる。会社はイギリス系だが、ユリウスはドイツ人だ。
 明治二十四年(一八九一)、ユリウスは弟とともにヘルム兄弟商会を発足させ、事業の多角経営によって大成功した。住み込みの女中だった日本女性、ひろを妻にして、レスリーの父親ジュリーを含め、八人の子どもをもうけている。
 ヘルムの名は、横浜のそこここに残っている。本牧のヘルム山と呼ばれる丘はヘルム家の別荘があったところだ。磯子にはヘルムドックと呼ばれる水門跡があるが、そこには木造船の造船所であるヘルムドックがあった。
 また、山下町五十三番にはヘルムハウスがあった。建てられたのは昭和十三年(一九三八)。五階建てコンクリート造りの、頑丈で美しいビルだ。
 一階はヘルム兄弟商会の本社や銀行、アール・デコ調のダイニングルーム、バーなど。二階以上が家具付きの高級アパート。外国人専用だ。各戸に冷蔵庫、コーヒーメーカー、ガスレンジなどの、アメリカから取り寄せた家電が備え付けられていた。
 終戦後は米軍に接収され、将校宿舎に使用された。老朽化して、二〇〇〇年に取り壊されたが、横浜の近代建築を語る際には外すことのできない建物である。
 初代、ユリウス・ヘルムと結婚した日本女性、ひろは若い頃の写真を見るととても美しい。が、レスリーが著書で記しているように、たちまち頬のそげた、苦労が滲み出ているような顔に変貌する。
 ひろは、引きも切らない外国人訪問客をもてなし、家事、出産、育児に追われ続けだった。しかも、ユリウスと結婚したことで実家から縁を切られていた。
 使用人だった日本人夫婦が屋敷内で殺傷事件を起こしたこともある。浮気をした妻を、夫が刺殺したのだ。その際、止めようとしたひろも斬られ、重傷を追っている。
 苦労続きで、あまり幸せではなかったかもしれないと、レスリーは、曾祖母であるひろに思いを馳せる。
 糟糠の妻、ひろが癌を患い、五十歳で亡くなると、ユリウスはアルマというドイツ人女性と再婚した。アルマは子どもたちに、日本人の血を恥じなさいと教え込んだ。
 ひろとユリウスの間に産まれた子どもの中で、レスリーの祖父にあたるのは三男のジュリーだ。黒髪のジュリーは、顔立ちも他のきょうだいたちと比べて東洋的だった。
 山手のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジを卒業し、ヴァージニアに渡り、まずは叔父の農場を手伝う。それからドイツの学校で学び、ニューヨークで会計学を終了した後、日本に戻り、ヘルム兄弟商会の書記と会計を担当した。
 が、横浜在住外国人が集うユニオン・クラブには、日本人との混血だという理由で入れてもらえなかった。
 欧亜混血を称する言葉に「ハーフ・カースト」がある。「カースト」は階級のことだから、半分の階級ということだろうか。カーストの頂点に立つのは白人だが、そこに色の違う人種の血が混じっている場合は、半分しかトップ・カーストの資格はない、ということらしい。
 レスリーは、一九一八年発行の『アメリカにおけるムラート』(アメリカ社会学会会長、バイロン・タイラー著)という本からの引用で、当時におけるハーフ・カーストの立場を解説している。
「ハーフ・カーストは二つの文明の間に立っているが、どちらにも属さない。彼らは惨めで頼りなく、軽蔑され、無視されている」
 その理由として、
「幼年期からちやほやされ、子供時代は現地の召使に甘やかされて育ち、本人はその召使に依存しきっている。その結果として、男らしさといった性格が未熟で(中略)成人してからずる賢く、信用が置けず、不正直となる。自立性に乏しく、いつまでたっても特別扱いを要求する。(中略)社会的に欧亜混血はのけ者扱いされる。支配的立場にある白人からは見下され、現地の人からは嫌悪されるからだ」
 二十世紀初頭とはいえ、ずいぶんと決めつけたものだ。しかし、頷ける一面もある。
 日本のバブル期が終わろうとする頃、私は上海で一ヶ月ほど暮らしたことがある。中国語のできない私は、日本企業の駐在員夫人たちの後ろにくっついて、何度か買い物や食事に出かけた。
 そのつれづれで耳にしたのが、「甘やかされた子どもたち」のことだ。家族を伴って駐在している人も多く、給料の他に駐在員手当がかなり付く。しかも上海の物価は日本に比べてはるかに安い。
 たいていの家庭が阿媽(あま)さんと呼ばれる家政婦を雇う。料理、掃除、子どもの世話と、三人、雇っている家庭もある。奥さんは空いた時間、エステやマッサージ、買い物、友人たちとの食事などで忙しい。
 それで困るのが帰国してから。靴下まで阿媽さんに履かせてもらい、自分ではなにひとつできなくなった子どもが多くいて、日本での暮らしに適応できなくなるのだという。
 二十世紀に入っても、文明、経済を含めて、ヨーロッパとアジアでは国力の差が大きかった。そのような力関係の中で欧米人と現地人との間に生まれた混血児には、甘やかされて育つ反面、大人になるとハーフ・カースト扱いという、不条理な立場に置かれた者も、たしかに少なくなかったのだ。
 一九五五年生まれのレスリーが育った時代においても、ハーフ・カーストの立場はあまり変わらず、ヤクザなどの闇社会や、そこと繋がっている芸能界へ、多く誘い込まれていったという。

 レスリーの父、ジュリーの時代へと話を戻そう。
 第一次世界大戦が始まると、日本は軍需景気に湧いた。ヘルム兄弟商会も大いに儲かった。が、その好景気は長く続かなかった。大正十二年(一九二三)、関東大震災が起きたのだ。
 開港以来、国際都市として発展の一途を辿っていた横浜だが、この時、致命的な打撃を受けた。中心部にあった建物のほとんどが一瞬にして倒壊、焼失した。明治、大正を彩った異国情緒溢れる街並みは、もはや古写真の中にしかない。
 阿鼻叫喚の中で、さらに凄惨な事件が起きた。「朝鮮人が暴動を起こし、井戸に毒を入れた」という噂が流れたのだ。
 明治四十三年(一九一〇)の日韓併合以来、日本は朝鮮を統治していた。朝鮮ではこの時代を日帝植民地時代と呼ぶ。
 この時期、朝鮮では日本から独立するための抗日運動があった。大正デモクラシーの時代だから、日本国内にも労働運動、民権運動の嵐が吹き荒れていた。日本人活動家達が朝鮮人を先導しているとか、横浜刑務所から一時、解放された囚人たちが、朝鮮人と一緒に暴行を働いているとか、さもありなんという流言飛語がたちまち拡散した。
 すぐさま、竹槍や日本刀で武装した自警団が結成された。治安当局もこれを止めなかった。
 この時の犠牲者数は、東京、千葉、神奈川をあわせて二千人を超すと言われている。そんなに多くないという説もあれば、いや、そんなものではないという説もある。数字はともかく、虐殺があったことはまぎれもない事実である。
 群集心理は恐ろしい。パニック状態の中で中国人や日本人も殺害された。混血とはいえ、あきらかに西洋の血を引く外貌のジュリーも狙われた。豊かな欧米人を妬む心理が、こういう時に噴き出たのかもしれない。
 竹槍で追い回されたジュリーは這々の体で逃げ、外国人が集まっていた山手の麓に辿り着いた。欧米人たちの多くは、船で脱出し、本国へ帰った。神戸に拠点を移した外国商社も少なくない。なにしろ横浜は、一流新聞に「東京に合併される」という記事が出たほどの惨状だったのだ。
 ジュリーはしかし、横浜に踏みとどまった。そして横浜市街地や山手の土地を買い漁った。震災復興に寄与したということで、横浜市からは大いに感謝されたようだ。それから二年後。彼は日独ハーフのベティーと結婚した。長男ドナルドが生まれたのはその翌年である。
 昭和二年(一九二七)、復興のシンボルともいうべきホテルニューグランドが開業した。なんとか外国商社を呼び戻そうと、横浜の官民一体となって建造された外国人向け高級ホテルである。ジュリーも来日する多くの客を、ここに泊めた。
 新山下に二年遅れで開業したバンドホテルは、個人経営ではあるが、やはり同じ目的で建てられた外国人向けある。こちらは一九九九年に閉鎖し、取り壊されて現在はない。
 こうして横浜は甦ったものの、平和は長く続かなかった。一九二九年、世界大恐慌が始まり、輸出は落ち込んだ。それに、地方の冷害、津波、農作物の凶作などが追い打ちをかけた。
 あらゆる分野で倒産が相次ぎ、都会には失業者が溢れた。親きょうだいを養うため、若い娘の身売りがあたりまえのように行われたのもこの頃である。
 第三二回の江戸川乱歩賞を受賞した私のデビュー作「花園の迷宮」は、ちょうどこの頃の横浜・真金町遊郭を舞台にしている。
 ほどなく、戦争の時代が始まった。昭和十二年(一九三七)日中戦争勃発。四年後、太平洋戦争に拡大。第二次世界大戦である。
 『神奈川県警察史 中巻』によれば、昭和十六年七月末現在、県内在住の外国人(中国人を除く)は九百七十六世帯、千九百二十四人だった。
 ペリー艦隊が来航したのを機に日本は開国、という歴史があるので、つい、アメリカ人が一番多かったように錯覚しがちだが、ドイツ人がトップで六百二人。次いでイギリス人二百三十一人、白系ロシア人百九十六人、アメリカ人百七十一人、インド人百三人、フランス人百人。
 ほかにも、県内だけで概略で四十四ヶ国の外国人が在住していた。場所としては横浜の山手がもっとも多く、次いで加賀町署の管轄区域内(現在の中区)。
 太平洋戦争で敵国となった国籍を持つ者は、開戦時点で敵国人となり、資産を凍結された上に、抑留施設に収容された。
 神奈川県下の抑留施設としては、中区新山下のヨットクラブ、根岸競馬場付属建物があった。ここに入れられたのは十八歳以上の男子である。本牧の米軍住宅も全員退去となった。
 翌年は、教師、宣教師、修道女、保母などの職に就いていた女性たち、さらにその翌年には高齢者、主婦、子どもまでが対象になり、東京や神奈川県厚木市の施設に抑留された。
 対象はドイツなどの同盟国、そしてスイスのような中立国の在住外国人にまで及んだ。日本人でさえ戦時中はものみな配給制となり、食べるにことかいていたが、抑留外国人も飢えに苦しんだ。
 その上、なにかで外出する際には、暴言や石礫が飛んできたり、故意に水道や配給食料を停められたりといった嫌がらせを受けた。拷問、餓死、自殺もあった。
 もちろん、逆の立場でも同じことが行われた。アメリカ及び、アメリカの影響下にある国では、この時期、日系人が強制収容され、財産も没収されている。アメリカ、カナダ、ペルー、ブラジルなどには多くの日本人移民がいた。一家をあげて移民し、身を粉にして働き、ようやく暮らしが整ってきた人たちだ。その苦労がすべて無になったばかりか、囚われ同然の身となったのである。
 おびただしい数のユダヤ人が殺害されたアウシュビッツに較べたら、どこの収容所も人道的だったかもしれない。しかし、昨日まで隣人であり、信頼関係で結ばれていた人を、「敵」として告発し、酷い状況に追いやる。自分は決してそのような人間ではないと信じていたのに、国防という大義名分のもとにそれをやってしまう。それが戦争なのである。

 さて、ジュリー・ユリウスはこの時、どんな状況にあったのか。
 一九四〇年、日独伊の三国同盟が締結された。ヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアを味方につけ、日本はアジア最強の国となった。同時に、在住外国人への締め付けも拍車がかかった。疑惑の対象にならないよう、玄関にハーケンクロイツを掲げるドイツ人もいたという。
 ジュリーはドイツ人だが国籍はアメリカだ。それでも、ヘルム家は関東大震災からの復興に協力し、横浜市からも特別待遇を受けている。大丈夫だろうとたかをくくっていたが、アメリカ大使館から、「在住アメリカ人に対して責任が取れない」という警告もあり、ついに家族を引き連れてサンフランシスコへと移り住んだ。
 日本が真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争の火蓋が切って落とされたのは、その三ヶ月後のことだった。
 一家は運良く、アメリカで収容所送りから逃れた。が、地元の新聞に「ヘルム一家はジャップだ」と書かれ、不安が絶えない日々だったようだ。
 長男ドナルドは、多感な思春期を迎えていた。小さい頃は日本で「ガイジン」呼ばわりされ、日本人の子たちにいじめられ、泣きながら家に帰ったこともある。なのに、母国であるアメリカで、今度はジャップ呼ばわりされたのだ。
 戦争が終わり、また日本で暮らすようになってから、ドナルドはある日本女性と恋をする。本気で愛していたのに結婚はしなかった。どちらの国で暮らそうと、差別や偏見にさらされることがわかっていたからだ。
 相手が妊娠したと知ると、中絶させた。それは後々まで、ドナルドの心の傷になった。


                         (第7回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2017年12月4日(月
)掲載