ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2018.12.28

15ブラジル(5) まっとうな衝動

 ヨシオさんと話していると、サンパウロという大都会の、そしてブラジルという多民族の国に生きているからこそ培われてきたと思われる、考えの柔軟さや視野の広さを感じた。ぼくがいつのまにかこだわっていた自分はナニジンなのかという問いや先入観を軽々と越えて行く──いや、そもそもそんなものは越えるまでもなく最初から気にしていないというような態度を、ヨシオさんは見せてくれたように思う。

 いっぽうで、パラグアイで聞いたように、日本からの移民者たちは自分たちの文化や伝統を受け継ぐ意志と同時に、保守的と言えるような考え方を持っている側面がある。3世であるヨシオさんに比べると、日本とのつながりが深い(あるいは心理的距離が近い)と言える父親やその祖父母のことは、彼にはどう見えているのだろうか。

 「そうですね、たとえば、誰かと同棲するんだったら、まず結婚しないといけないというような、古い考えがありますね。ぼくには同い歳のいとこがいるんですが、2年前に結婚したんですよ。住む家はもともとぼくのおばあちゃんが住んでいた家。でも、おばあちゃんがいとこの夫を家に受け入れるには、まず結婚をしなくちゃいけなかった」

 これはぼくにとっては、というか日本では、そういう家に住むなら結婚はしないとなかなか受け入れてもらえないと思うのだが、南米ではわりと、事実婚でどちらかの親と同居するというケースも多いらしい(アルゼンチンに住むぼくの遠い親戚がそうだ)。いまだに世界で唯一、夫婦別姓を選べず、ほとんどのケースで妻が夫の姓を名乗らなくてはいけない日本の価値観からすると、ヨシオさんのおばあちゃんが古い考え方を持っているとは言い切れないな、と思いながら聞いた。

 ぼくは今回の一連の旅以外でも、パラグアイを何度か訪れていて、日系の人の家にお邪魔することも多かったが、そのたびに感じていたのは、なかなか「古い価値観」が残っているな、ということだった。たとえば、ぼくが家の「主人」である男性と話していると、その妻だったり娘だったり、つまり女性が酒や食事を運んできてくれて、ぼくたちの会話にはだいぶ遅れて参加する。もちろん、パラグアイの日系移民とブラジルの日系移民の歴史も社会も違うから、単純な比較はできないのだが、そのことについてヨシオさんはどう考えているのだろうか聞いてきた。……というのもぼくはそういう男尊女卑的な価値観や習慣に触れるたびにいつも居心地の悪さを感じていたから。だが、よくよく考えてみると、これはべつに日系社会に限ったことでなく、いまだ日本に残る風習のようなものだと思う。ぼくはそれをいいものだとは思わないが、それに従っている人たちを頭ごなしに否定し、拒否することもしていないのだった。

「パラグアイではよく見ましたね。そういうのは昔の文化だったので、それを守る人たちはそれでいいと思う。けれど、わたしの家族にはそれはしなくていいと思っています。女性がご飯を作るのが、当たり前でなくていい。もしも両方が働きに出ていて、女性の方だけが家事をするというのも、わたしはそれが許せないのではなくて、彼女が引き受けている苦労をわたしももらって楽にしたい。両方が幸せになるために。ちゃんと分けた方が両方うれしいでしょ? 自分もできるし、できなくても覚えることができる。できないから彼女がやるというのもひとつの選択肢だけど、自分で覚えてやるのも新たな選択肢だと思います」

 

 至極まっとうな考え方だと思うが、それは彼がサンパウロで一人暮らしを始めた結果、そう考えるようになったのかと聞くと、それより以前からの考えだという。

 「わたしの母ちゃんは、わたしが生まれてからは仕事をやめて主婦になりました。わたしは母ちゃんの料理の手伝いをしていたんですけど、油関係は触らせてくれなかったり、包丁も握らせてもらえなかった。いつもやるのは野菜を洗うというような簡単な仕事だけ。本当は全部やりたかったんですけど、母ちゃんは子どもに危ないことをさせたくなかったみたいで、体験できなかった。だから、いまになって全部自分でやらないといけないから、たまに油が腕に飛び散って痛いみたいなのあるし、もちろん『母ちゃんありがとう!』って気持ちもあるんだけど、こういうことやっておきたいっていうふうに思っている」

 ぼくが男女の社会的性差について、「こうやって改善しなければ」と考えてしまいがちなところを、ヨシオさんは「これもやってみたい、あれもしたい」という好奇心で捉えているところが新鮮だった。好奇心にかきたてられ動くというのは、ちょっと大きい話になるけど文明を発展させてきた人類のものすごく基本的な衝動なので、そういうことに忠実なのはとてもまっとうなことだと思う。こういうことの理由を国民性と言った言葉で片付けたくないけれど、ヨシオさんにしてもエドゥアルドにしても、ぼくが知っているブラジル人たちは皆そういう素直さの気質を持っているように感じる。おそらく自分との比較として。彼らと出会うということは、自分ももっと好奇心に忠実になってみようという気にさせるような、そういう機会なのだと感じる。

 

 そろそろ帰る時間も近づいてきたので、話はだいぶ変わるけど、と前置きをして、ブラジル社会について考えることを聞いてみた。ぼくはサンパウロに来て、街の規模や地下鉄の綺麗さ、緑の多さに感銘を受けたこと、しかし同時に貧困が問題になっているというアンバランスさについて、貧困層の子どものボランティアをしているヨシオさんの意見を聞いてみたかった。

 「そうですね、ブラジルは隠していることが多いです。社会のよいところは、外国人が行くようなところにしか映し出さない。たとえばカーニヴァルとか、サッカーとか、わたしたちが見せているものはよいところだけ。悪いところはブラジル人でないと見ることができない、感じ取れないと思う。外国人がたとえ貧しさのことを見て、それをなんとかしたいと思ったとしても、それは一時的なこと。わたしたちはそれと一緒に生きている。ブラジルの政府は、わたしに本当に悪いと感じています。でも、わたしはそういう政治のことにくわしくなりたいと思っていない。システムは複雑で、それを変えるために労力を使うより、わたしは他人の人生を変えたいと思う。政府がわたしたちを変えるのではなくて、政府があなたにお金をあげるのではなくて、政府があなたにご飯を与え、病気をケアしてくれるのではなくて、できることはしたい。いまやっているボランティアみたいに、そういうことをして、わたしは自分の国を変えられると思っています。一気に全部じゃないけど、少しずつ、変えられるんだったらわたしはそれだけで満足です」

 

 たしかに訪問するのと、住むのとでは事情は全然ちがう。日本だって、観光客にとっては魅力のある国に映るかもしれない。けれど、社会はたくさんの問題を抱えている。ヨシオさんの言うとおり、一時的な滞在者である人間にはできないことは多いけれども、ぼくは訪問者として、ヨシオさんのそういう話が聞けたことはよかったと思っている。生活のなかに隠れている社会の問題点のようなものは見えなくても、その問題に自分なりに考え取り組もうとしている人がいることを知れるということは、回り回って自分の社会を考えることになる。そして、社会に問題が蓄積しているのだとして、それは本当に複雑で、全体を見渡すと途方もない無力感を感じることもあるが、ヨシオさんの言うように、少しずつ、できることから改善していくやり方はいろいろあるはずなのだと考えることができた。

 

 

(15・了)

 

この連載は隔週でお届けします。
次回:2019年1月10日(木)掲載