ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2019.3.1

17ボリビア(2) 「12時」から北上

 

  Sさんから情報を仕入れたあと、ぼくはサンタクルスの街を歩いていったん宿に戻ることにした。SIMカードの設定ができていたと思っていたのに、突然インターネットにつながらなくなったのだった。

 サンタクルス・デ・ラ・シエラの街は、セントロ(中心部)を取り囲んで4つの大通りが環状に走っている。ボリビア日系協会連合会事務局は、第一環状線(el primer anillo = first ring)と第二環状線(el segundo anillo = second ring)のあいだ、北に伸びる大通り(モンセニョール・リベロ通り)の近くにあった。モンセニョール・リベロ通りと第一環状線が交わる交差点は、ぼくが前日にバスを降りたところだった。

 この街に来て戸惑ったのが、同じ通りの名前がまったくべつの名前に急に変わってしまうところで、たとえば第一環状線は、モンセニョール・リベロ通りを起点(時計で12時の位置)に、東側はウルグアイ通り、西側はカニョト通りと名前が異なる。で、ウルグアイ通りを行くとまたべつの大きな通りとの交差点(2時)を境に、アルゴモサ通りと名前を変える。つまり、12時から2時がウルグアイ通り、2時から3時がアルゴモサ通り、3時から5時がビエドマ通り、5時から7時がイララ通り、7時から12時がカニョト通りと、第一環状線だけで5個も名前がある(グーグルマップを参考に書いているので、気になる人はグーグルマップを見てほしい)。というわけでここでは便宜上、第一環状線と呼ぶ。かと思えば、第四の環状線はクアルト・アニージョ (el cuarto anillo = fourth ring)とそのままの名前が付けられ、何時になっても名前を変えることはない。みんな、クアルト・アニージョを見習ってほしいと思う。

 それから、これは南米の国はどこもそうなんだろうが、通りの名前のつけ方もけっこう適当で、ウルグアイ通りというのはもちろんブラジル南部にあるウルグアイ東方共和国から来ているわけだが、ウルグアイ通りはブエノスアイレスにもある。というかたぶん、大抵の南米の街にウルグアイ通りはあると思う。パラグアイ通りもあるし、ブラジル通りもある。アメリカ合衆国(Estados Unidos)という通りもあれば、日本(Japon)もある。つまり「日本通り」は、ボリビア国内のいろんな街に存在し、そして南米各国のいろんな街にあると考えてもらうといいと思う。たしかに名前はほかと判別するためのものだからこれでいいのだろうが、なんと雑な名付け方だろうと思う。でも、そういう雑さがぼくは好きなんだけど。

 さて、ぼくの泊まっていた宿は、第一環状線のウルグアイ通り沿いの1時くらいのところにあった。12時からは距離にして1キロ弱といったところ。環状線には、路線バスがぐるぐる回っていたが乗るほどの距離ではないし、路面店も出ているし、歩行者の往来も多いしということで歩いて宿まで戻ることにした。同時に、Sさんの話を聞いて少し警戒心を強めたいとも思っていた。こういうときはあからさまに警戒しています、という態度はせず、最低限の警戒心を外に見せつつ、あくまで地元民のように振る舞うのがいい、とぼくは考えているが正解なのかどうかはわからない(いままでこれでなにか危ない目にあったことはない)。少なくともスマホの地図を見ながら歩くというようなことをするよりはマシだ。とは言っても真の地元民は歩きスマホくらいするので、歩きスマホをしたほうが逆に安心なんじゃないだろうか、などと考えていたら、風が強くなって、砂埃を運んできた。全身に砂が当たるというのがこんなに痛く厄介なものとは知らなかった。ぼくはハードコンタクトをしているので、ゴミが入ると目が痛くて開けられなくなってしまう。大量の涙を流し、両目が開けられなくなった状態で、それでもぼくは歩こうとした。鷹や鷲が飛び舞う空の下を、両足を負傷したカモが歩くような気分で、ぼくはいま強盗にあったとして盗られてまずいのは何かを確認……する余裕もなく、ただただすり足で歩いた。なにしろ目が見えないのである。これはよくないということで、12時10分くらいのところにある裁判所の建物の屋根の下で風に舞う砂埃をやり過ごすことにした。

 裁判所の敷地内では、たくさんの人が砂埃に慣れているのやら、案外慣れていないのやらという感じでいた。ぼくは大量の涙でもって、なんとか片目を回復させ、もう一方の目は強烈な痛みが続いているので強く閉じているという怪しい状態で、人々の動向をうかがった。日は高く、大学生らしき人やスーツを着たビジネスマンなどがいて、ぼくが強盗だったらぼくみたいに短パンで片目を強烈につぶっている人間よりはスーツの人間を狙うだろうな、というようなことを考えていた気もするが、たぶんこれは後付けの記憶だ。

 砂嵐はすぐに去り、ぼくの目も回復し、強盗にも遭遇せず、無事に宿に戻り、ぼくのスマホはWi-Fiにつながった。SIMカードについては、どうやら携帯会社でIDの登録をしなければいけないようであった。支店は……裁判所の近くにあったので、また来た道を戻る。そろそろ腹が減ってきたが、ひとまずこの件を日が沈む前に片付けてしまいたいと思っていた。で、支店だと思っていた場所に行くとそこはただのATMで、受付をしてくれる人いなかった。警備員がライフルみたいなのをもって入口に立っていたような気もするが、ライフルを持っていたかどうかは定かではない。彼にどこに行けば登録ができるのかと聞くと、第一環状線の6時くらいのところでできる。そこまでは歩くと40分くらいはかかるからバスに乗れと言う。バスの番号を聞いて待っているとすぐに目的のバスは来た。手をあげバスを止め、運転手に携帯会社の名前を言いそこで降ろしてくれるように頼んだ。そしてバスは途中で乗客をたくさん拾い、たくさん降ろし、携帯会社の建物のすぐ目の前のバス停に止まった。ID登録は滞りなく済み、SIMの問題は永久に解決し、建物の隣にあった食堂でハンバーガーを食べた。

 夜はSさんに誘われて、寮の若者(ボリビア日系協会連合会事務局は日系の学生用の寮の敷地内にある)と一緒にチーファ(Chifa=ペルーや周辺諸国での中華料理(店)のこと。チーファはペルー料理における中核的な料理のひとつとなっている)へ行った。とてもうまい。南米で中華を食べてまずかった記憶がない。この旅ではぼくは「日系」を追っているが、中国系移民はいつも隣にいるし、韓国系移民もいる。コミュニティは別だが、彼らの料理を食べるとなんだか落ち着くものである。最近、日韓関係やら訪日中国人観光客に対するあれこれやらギスギスしていて、身近でも何気なく悪口を言う人が増えてきている気がするので、この際書いておくが、そんなくだらないことはやめて、南米に来て韓国料理を食べてほしい。チーファを食べてほしい。日本食を食べてほしい。政治家が運営する「国家」なんてくだらないから放っておけばいい。そんなことより南米に浸透する我ら東アジアの味をたしかめに来ておくれ(南米に住む日系人たちのなかにも韓国系や中国系を揶揄している人がいて、そういう場面に遭遇することは何度かあった。個人を政治で括るのはやめてほしい。悲しい気持ちになる)。ぼくたちの食文化が密接に結びついていて離れないことがよくわかるから。

 

 サンタクルス近郊の、日系移住地であるサンファンと沖縄系移住地であるオキナワ移住地に行くことにした。なお、日系/沖縄系と、あえてこういう区分けをすることにしたのは、オキナワ移住地の前身と言える「うるま移住地」(別の場所に設定されていた)への入植は1954年より始まったが、当時の沖縄はアメリカ統治下にあり、日本政府はその設立に関わっていないからである(サンファン移住地への入植は1955年よりスタートした)。

 翌日の土曜日、はじめにサンファン移住地へ。サンタクルスからサンファン移住地まではだいたい2時間半くらいの道のり、第二環状線の12時付近からバスに乗って北上する。途中、2回バスを乗り換えなければならない。だが、前日にチーファを一緒に食べた若者がサンファンの出身で、この日ちょうど帰るということだったので、連れて行ってもらった。ぼくはバスの中で呑気に居眠りをしていただけだった。

 サンファンでは、パラグアイのラパス移住地でマッサージをしてもらったモニカさんに紹介されたオガタさんに会うことになっていた。事前のやりとりで、若者の話が聞きたい旨をオガタさんに伝えると、ちょうどキャンプの時期なのでそこに来たらどうかと言われた。あまり考えず参加することにした。直前になって、そのキャンプでは、自分だけが見知らぬ人間で、ほかのみんなは小さい頃から知っている仲、という輪の中に入っていかなければならないのか! とやや怖気づいたが、キャンプだしビールを飲んでごまかそうと思った。成るようにしか成らない。

 ぼくをサンファンに連れてきてくれたカリンさんはキャンプには参加しないという。彼女もオガタさんの知り合いで、オガタさんの家の前まで案内してくれるそうだ。サンファン移住地はぼくにとってパラグアイ以外の国での初めての日本人移住地だったが、パラグアイで訪ねたラパスやイグアス移住地と雰囲気は似ているなというのが第一印象。一見ふつうの田舎町だが、なんとなく小綺麗でこぢんまりとしている。慰霊碑があったり、資料館があったりするところも同じだった。

 サンファン移住地の入口には、まるで門のような看板が、「サンファン日本人移住地」とでかでかと主張していた。それは移住地への一本道上にあるので、この街を行ったり来たりするときには必ず目に入る。パラグアイの移住地は、日本人移住地であることがもっと控えめにしか主張されていない印象があったので、これには驚いた。ボリビア社会に対して、ここからは日本だよ! みたいな主張をしているようにも、捉えようによってはできる気がする。このあと行ったオキナワ移住地も同様の看板が、街の玄関である国道にあった(こっちは「めんそ〜れ オキナワへ」となっている)。

 ぼくはこのとき、ボリビアという国は、こんなに堂々とひらがな・カタカナ・漢字が飛び交うことを許容していてすごいなあ、なんて思ったが、あとで考えてみると日本の地でもこういう許容はされている(たとえば中華街とか)。つまり、こういうふうに考えてしまうということは、ぼくが、日本語は日本国内でしか流通していないと信じ、外国の地で堂々としていることに違和感を感じてしまう人間である、ということを示唆している。これだけ「日本国」の外で日本語や日本食/文化と出会ってきたのにもかかわらず、いまだに日本という意味を「日本国」と同じ領域、大きさでしか捉えることができない、ということ。そんな自分の了見の狭さに気づいて、寂しい気持ちになる。

 

 

(17・了)

 

次回:2019年3月15日(金)掲載