ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2019.4.27

20ボリビア(5) 最初期のボリビア移民

 

 Aさんの休憩が早く始まって、どこか食事に連れて行ってくれるといいな、とお腹が空いてきて思いながら、もう一度、『ボリビアの大地に生きる沖縄移民』をめくった。入植1世の思い出話などが多数載っていて読みごたえがある。うるま移住地入植当時のエピソード――壁も屋根もない未完成の小屋に寝なくてはいけなかった、井戸が掘られるまで飲料水に困った、森を切り開くことだけをしなくてはいけなった、夜になると三線やそのほかの楽器が音を鳴らし、酒を飲みながら話し合った、パロメティヤへの移動に際して資金がほとんど底をついていたため、途中の町の綿工場で稼ぎながら移動した……。うるま病蔓延時の混乱や沖縄から家族を呼び寄せた、などなど。あたりまえのことだが、移住者ひとり一人にエピソードがあって、その集合体が移住地を切り開いてきた。もちろん、オキナワ移住地だけでなく、サンファンにもパラグアイの各移住地にも物語があり、慰霊碑が立ち、ぼくはサンファンで酒を飲みながらオガタさんのお父さんと「議論」をしたとき、そんな当然のことを想像していただろうか。彼も彼の親も、そういう物語を持っているということを想像しながら話ができていただろうか。たとえば外国で日本食を食べるとき、それはどういう人の物語がもたらしたものであるのかをぼくたちはちゃんと考えることができているだろうか。人々の物語を想像するというのは、敬意を払う行為でもあり、歴史を知るということでもある。本を読みながら、そんなのは自明のことだよななどと改めて思った。

 

 

 次に読んだのは、ボリビアにおける日本人移住の始まりついての話で、つまりサンファンやオキナワよりもっと前の太平洋戦争前のボリビア移住者の話だったが、その内容にとにかく驚いたのだった。以下に伊江島出身で1958年にオキナワに移住した山城健司さんの「オキナワ移住地50年史〜パイオニアたちが残した足跡〜』を引用する。 

 

 ボリビア共和国への日本人移住は、ペルー共和国への移住と深く関わっている。外務省の『移住統計』(19647月刊)によると、1916年(大正5年)に日本からボリビアへの最初の移住者1名が入国したのを皮切りに、その後毎年のように数名ないし数十名と続いている。そして太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)までに入国者の合計は202名に達している。

 一方、1916年以前にもボリビアに日本人が入っていたことを示す別の資料が存在する。ペルーの在リマ日本国領事館の1911年(明治44年)12月現在の報告によると、ペルー全体の在留邦人は4,866人となっているが、その備考欄にボリビアのリベラルタ町に200名、ラ・パス市付近に20名の日本人がいたことが記述されている。

 なぜ最初の移住者が入国した1916年より5年前の報告書にボリビアの在留邦人数が記入されているかというと、ペルーへの初期の移住者たちがボリビア北西部の奥アマゾン(現在のバンド県)に転住し、ゴム樹液(ラテックス)の採取や商業などに従事していたからである。当時の奥アマゾンは、天然ゴムの産出による空前の好景気を迎えており、世界中から労働者と資本家を集めていた。この時代にペルーからボリビア北部のベニ県およびバンド県に転住した日本人の総数は2,000人に達すると推定されている。

 すなわち、ボリビアにおける初期移住者の多くはペルーからの転住者であり、公式の統計には存在しない人々だったのである。

 

 つまり、1899年に始まったペルーへの日本人の集団移民の一部は、ペルーの農園での過酷な労働と劣悪な環境に耐えきれず逃げ出し、べつの仕事や環境を求めてボリビアに越境してきたらしい。1899年の第一次ペルー移民(790人)たちは、そもそも、契約移民としてサトウキビ農園で働き、契約満了の4年後には日本に帰るつもりの出稼ぎ労働者であった。4年間、異国の地で労働に励めば、たくさんのお金を持って日本に帰ることができるという希望を抱いてやってきた人たちだった。だが、労働環境の悪さ、不衛生な水環境、チフスやマラリアなどの感染症が理由で、多数の死者を出し、契約を終えて日本に帰国できた人たちは、200名にも満たなかったという。そのほかの人々は日本に帰れないまま死んだか、農園から逃げ出し、ペルーやボリビア各地に分散していったと推測されるそうである。だから、最初期に誰がボリビアに定着しそれがいつのことだったのか、正確なことはわかっていないらしい。ただ遅くとも1907年には定着は始まっていたということが、当時の在リマ日本国領事館の報告書で確認できる。彼らは故郷に帰る手段も、あるいは手助けも得ることができないまま、アマゾンの奥地に職と住処を見つけ、生活した。

 恥ずかしながら、ペルーで生まれたにもかかわらず、ぼくはこのときまでそういう歴史を知らなかったのであった。ショックを受けたのは、ボリビア移民の始まりがこのような衝撃的なものであったことについてなのか、それとも自分の曾祖父母もその一部である戦前のペルー移民の歴史が、あまりにも無計画で無責任なものの上に続いてきたことについてなのか、その両方なのか、ちょっともうショックを受け過ぎて判断できなかった。でも、ぼくはすぐさま自分の曾祖父母のことを思った。

 ぼくの曾祖父が移住したのは1920年のことで、最初期のペルー移民からは20年以上の月日が経過している。つまり、帰れない人々や死者が多数(というか大半)出ているにもかかわらず、ペルーへの移民はそのときですでに、20年続いていた(実際、ペルーへの契約移民は1923年まで続いた)。南米の土地でがんばれば、故郷に錦を飾ることができると信じて人々は海を越えたけれども、本当はそれは片道切符でどんどん人は死に、どんどんどこかへ消えて行った……なんて、もう漫画みたいな世界だ。

 Aさんが昼休憩に入るので、彼の車に乗せてもらってレストランへ食事に行くことになった。ほんの数分で着いた。そこはAさんの家のすぐ隣にあって、ぱっと見は普通の一軒家のようだったが、玄関を入るとテーブルが10脚くらいはあって、そのうちの大半は先客で埋まっていた。ぼくたちは壁際の4人がけのテーブルについた。このお店も沖縄系の人が経営しているという(ほかの移住地と同じく、オキナワ移住地の住民の9割以上はいわゆる非日系人が仕事を求めて移り住んでいる)ので、ひさびさに沖縄料理が食べられるかもと期待した。だが、まわりの客はみんなボリビア料理らしきスープをすすっており、Aさん曰く沖縄料理を出すレストランはこの町にはないという。沖縄料理はみんな家庭で食べるということだった。レストランのオーナーらしき女性がメニューを持ってきてくれて、肉か魚か、みたいな感じだったので、肉にすることにした。たしか鶏肉だったはずだ。

 待っているあいだ、ぼくは改めてAさんにこの旅とオキナワ移住地訪問の目的を話しながら、まわりのテーブルを横目で観察していた。Aさんが壁側に座り、ぼくは壁に向かうように座ってしまったので、時折凝っている肩をほぐすように体をひねったり、Aさんとの会話の中でものを考えている感じでふと目線を外すようにして、どんな人たちがいるのだろうかと窺った。

 平日の昼どきに、こんなふうに移住地のレストランで食事をすることは、考えてみたらこの旅では初めてではなかっただろうか。だいたいお世話になっている人のお宅でご馳走してもらったり、自炊したりしていて、仕事の休憩で食事をしている人たちを見ることはなかった。

 沖縄人っぽい人ではなく、ボリビア人らしいボリビア人がだいたいを占める店内で、あれちょっとこの人は沖縄系かな? みたいな人たちが1組いた。皆、作業着のようなものを着ていたので、農業か土木系の仕事をしている人たちではないだろうか。スープをすすっている人たちが多く、聞こえてくるスペイン語の会話はポツリポツリ、という印象だった。日本の、仕事人たちが多い食堂の昼どきの雰囲気とそう変わらない。店の人は忙しそうに皿を運び、食べ終わるとすぐに店を出る、そんな感じ。

 お腹が鳴り始め、Aさんにもそれは聞こえるだろうなと思って会話に集中できなくなってきたころ、まずはスープが運ばれてきた。肉を選んでも魚を選んでもスープはついてくるらしい。とてもうれしい。スープはトマトベースで中に鶏肉とスパゲッティが少し、それとジャガイモも入っている。ぼくは香草系はやや苦手だが、こっちの香草は日本で食べるものより匂いがやわらかでそこまで嫌じゃない。味はぼくは山っぽい味だと思った。トマトの香りと鶏肉のコクがコンソメと混ざって旨味がしっかり出ていた。山っぽい味だなとぼくが思うのは、海っぽい味じゃない、ということ。鶏肉はライスと一緒にやってきて、味付けは忘れた。ペルーの料理と食材も味付けも似ているけれど、ちょっぴり違うな、という感想を持った。

 

 

(20・了)

 

次回:2019年5月9日(木)掲載