ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2019.7.19

23ボリビア(8) サトウキビ畑

 

 直也さんのしゃべり口からは、ある種の達観した思いが垣間見えた。

 「俺らの世代ってさ、たまにここの日本語学校に呼ばれて、ようこそ先輩みたいな感じで、それで子どもたちのために日本語をしゃべることの重要性を話してくださいってお願いされることがあるんだけどさ、自分たちにとっては日本語をしゃべることは当たり前だからそんなこと思わなかったんだけど、子どもたちから『しゃべれるとなにがいいの?』って聞かれるとなにがいいんだろうってめっちゃ困るわけ。なにがいいんだろう、って明確な理由が見つからないっていう。『ボリビアに住んでて、日本語しゃべれる必要があるの?』って聞かれたら、特に得するような理由ないなあってなっちゃう」

 

 日本でも、国内にいるかぎり英語わからなくてもべつに困らないじゃん、という意見を聞くことはままある。最近は海外からの観光客も増えてきて、街中で英語やいろいろな言語を頻繁に聞くようになったものの、自分たちの生活にとってはさほど問題ではないようでもある。就職に有利とか、海外旅行に行ったときにいいとか、英語をしゃべれたら格好いいとか? そんな程度といえばたしかにそうだ。外国人の友だちができなくたって、外国のニュースがわからなくたって、自分たちの生活にはなんの影響もない。そういう人たちになにを言えるのだろう。改めて考えるとそう思ってしまう。教育の現場で、テレビやら電車内の広告やらで英語の重要さを強調されても、誰かが儲けるためにやっているとか、重要だと思うように誘導されているのではないか、などと思うことだってできる。

 移住者とその子孫のあいだで日本語が残ることは、連帯感とか伝統とか日本人としての意識とか、そういうものを保持していくために重要で、日本で「外国語」である英語の必要性をどう考えるかということとは別次元のものだと思う。けれども、いっぽうで、ブラジルやペルーなどのように、日本語がどんどん継承されなくなっている土地でも日本文化が保存され、さらには独自の仕方で発展を遂げているさまを見ると、移住地の子どもたちにとっての日本語をしゃべる必要性のなさは、「日本人なんだから英語しゃべれなくてもいいじゃん」という考えとそう遠くないところにあるようにも思える。現在のところ、移住地において親や祖父母との会話で、日本語が使えないとなると不便もありそうだが、世代を重ねるごとにその問題も少しずつ薄くなっていく。だから、直也さんの達観した、つまりけっして熱くもなく絶望的でもないようなしゃべり方は、当然のことというふうにも感じられた。そういえばパラグアイのラパス移住地で安藤さんが同様の話題をしゃべるときも、同じような印象を受けた。あきらめというか、時の流れには抗えないというような気持ちがあるようにも思う。

 「うちは(沖縄本島の)金武町出身なんだけど、毎年2名ずつ、沖縄の金武町から、ブラジル→アルゼンチン→ペルー→ボリビア→ロス(アンジェルス)を回って、沖縄に帰っていくっていうルートで、金武町出身者のところをめぐるっていう研修があるのね。だから、彼らがボリビアに来たときはうちらもかならず受け入れるんだけど、その人たちは、ほかのとこ回ってきてるから、比較するのね、ほかの国とここを。で、なんかボリビアの人たちは日本人っぽいって。どういう意味かというと、人見知りなんだって。なんか輪に入りにくいみたいなことを言うわけ。ブラジルとか、アルゼンチンとかだと、すごいフレンドリーに『こっちおいでよー』とかなんとかってオープンだったけど、ボリビアでは、ちょっと時間が経つか酒が入らないと、交流しにくいところがあるっていうのが、日本人っぽいよね、って言われたことが何回かある。たしかにブラジル、アルゼンチンだとおれらと同世代でも5世、6世になってて、言い方悪いかもしれないけどけっこう現地化してきてるから、オープンな人柄になってきてるのかなって思った。つまり(まだ3世の)自分たちは『まだ日本人なんだなー』って思ったり」

 直也さんが日本に行ったときに、日本人たちは距離を置いてくるな、という感覚があったそうだ。もちろん、日本人にもいろいろいるから、そういうステレオタイプな見方で物事を判断するのはあまりよいことではないが、傾向としてそう感じたのは事実なんだろうし、ぼくも自分にそういう側面があることを認めることができる。というか、日本語で話すより英語やスペイン語で話すときのほうが、赤の他人だろうとあまり臆さずに話しかけることができる気がしていて、もしかしたらこの文脈で言われている「日本人」というのは、日本語という言語のことを指すんじゃないかとぼくは思っている。

 ところで、直也さんはふだん父親のファウストさんの畑を手伝っているそうだ。将来的には、畑を継ぐつもりでいるらしい。直也さん曰く、直也さんの親世代は、農業を苦労してやってきて、子どもたちを大学まで行かせて、好きな勉強をさせ、好きな仕事をやらせたいと思っていたらしい。その理由はさまざまだろうが、日本からひと旗あげようという夢を持ってボリビアにやってきて苦労した世代が、その子どもや孫に最大限の教育を受けさせようとするエピソードは、ここオキナワ移住地だけでなく、日系移民の歴史でもよく聞いた(うちの曾祖父母もそうだった)。あとの世代のためにそのときを一生懸命生きた人たちのことを思うと、ただただ脱帽する気持ちでいっぱいだ。そして直也さんは大学ではべつの勉強をしていたそうだが、どうして畑を継ぐことに決めたのか、その理由を聞くと、苦労した世代を親に持つ直也さんたちの世代が、そのことをしっかりと受け止めていると感じるのだった。

 「自分たちからすると、こんなバカでかい畑があって、これは自分たちが引き継がなきゃいけないって思う。べつに自分たちが(大学で)勉強したものをやりたくないわけじゃないけど、こんなにでかいものはいまからやっておかないといざ引き継ぐときにどうにもならないだろう、みたいな危機感がある。規模が大きすぎて扱う金額も大きすぎて、博打みたいなもんだからさ、畑って。1年や2年じゃすべて覚え切れるようなもんじゃないって思ってしまう」

 

 そういうわけで、翌日は畑を見せてもらうことになった。

 直也さんの運転するピックアップトラックで、街の中心部からは車で20分くらいは離れたところにある畑へ向かった。途中、伸びていた髪を切りたいと言ったところ、床屋さんがあるからと連れて行ってくれた。広大な大地にぽつんとある家で、ここに住む40代くらいの女性が髪を切ってくれるのだという。日本でも理容師をやっていたことがあるとか。玄関を入ると、床屋らしい空間が居間の中にできているという感じで、まわりのテーブルには日本の雑誌やおもちゃなんかが置いてあったと記憶してる。直也さんもここでいつも髪を切るらしく、女性と近況を報告しあっていた。

 外国に住んで困ることのひとつといえば、髪を切りに行くことだ。どこをどう切ってほしいなど、ぼくの経験上、散髪に関する単語や言い回しを覚えることは簡単ではない。ぼくは、どこを何ミリ切ってくれとかそういうことを言うのが面倒くさく、というかそもそも細かいことは伝えられないので(日本語でもめんどうだけど)、いったいどんな髪型にされてしまうのかいつもドキドキしながら、外国で髪を切っている。余談だが、最近はむしろ、そのコミュニケーションのできなさを逆手にとって、あえて外国に行くタイミングで散髪をすることもよくある。

 オキナワ移住地に、細かいところまで要望を聞いてくれる床屋があることは、想像すればわかることだったが、けっこうな驚きだったし、ひさしぶりにリラックスして相手のハサミに自分の髪を委ねることができた。

 

 畑は想像以上に大きく、「ここがうちの畑」と言われてもどこまでがそうなのかよくわからなかった。遠くのほうで煙が上がっていて、それは別の家のサトウキビ畑で収穫後に畑を焼いて、二期目に備えているのだそうだ。直也さんのところのサトウキビもぼくの背の2倍以上はあり、沖縄のサトウキビ畑もこんなスケールなのかはわからないが、とにかくすべてが大きい、としか形容できないものだった。その反対側には、収穫を終えて根だけが残ったサトウキビ畑が地平線の向こうまで続いていて、それを巨大な農機でもって数人で管理しているという。サンファン移住地でもオガタさんに畑を見せてもらって、その機械の大きさには舌を巻いたものだった。ボリビアの移住地では、畑面積は数百〜大きいところでは1000ヘクタールに及ぶという。日本の農家の平均耕作面積が2ヘクタールというから、それだけでも規模の大きさはわかると思う。というか、逆に想像がつかない気もする。沖縄の島だろうが、本州や九州などに住んでいたら到底かなわないような規模の畑を、移住者たちは獲得してきたのだと思うと、ぼくでさえ誇らしい気持ちになる。同時に、ボリビアという国が(ボリビアにかぎらずではあるが)、こうやって移住者たちに門戸を開いているという、懐の広さに改めて驚嘆した。移住者を受け入れたこれらの国々の人々のあいだには、いろいろな軋轢も生まれているのだと思うが、じっさいにその土地を見てしまうと、これが誰かのものだなんて想像も及ばないような広さがある。移住者たちに土地は与えられたのではなく、それを管理する権利が与えられたのだ、みたいに考えることもできるのではないかと思った。

 ところで、サンファン移住地とオキナワ移住地という、ボリビア全体で言えばほぼ同地域に二種類の移住地(オキナワ移住地は3つあるのだがひとつとここではみなす)があるが、直也さん曰く「いいライバル関係」だという。ふだんそこまで交流があるわけではないが、お互いの青年会が農業の情報を交換したり、それからオキナワ移住地はサンファン移住地という「日系」移住地があるおかげで、自分たちの沖縄性みたいなのを意識していられるのかも、ということも言っていたのが印象的だった。

 

 

(23・了)

 

次回:2019年7月31日(水)掲載