ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2020.2.10

25ボリビア(10) 移動

 

 一度、サンタクルスまで戻って、日ボ協会の事務局で預かってもらっていた荷物を受け取った。サンタクルスの土埃が部屋のなかまで侵入していて、バックパックは少し茶色くなっていた。いまさらだが、この旅ではぼくは東京で買った70リットルのダッフルバックとペルーのクスコで買った30リットルのリュックで移動していた。ブエノスアイレスの部屋には日本から持ってきた大きめのスーツケースもあったが、移動するときには使わない。いまでもぼくはこのダッフルバックを愛用している。ボリビアに入ってからずっと蒸していたけれど、パラグアイやブラジルは寒い時期に入っていたので、ウェットやセーターなどのいくつかの冬用の衣類がダッフルバックのなかでスペースを取っていたのだった。

 Sさんと一緒に夜、サンタクルスのバスターミナルにタクシーで向かった。かなり大きなターミナルである。周辺は雑誌やら雑貨やらを売る店が並び、雰囲気はそんなによくない感じで、ブエノスアイレスのバスターミナルを少し思い出した。大荷物で移動する人が集まる駅やバスターミナルではぼくはいつも警戒するが、今回は一人ではないのでわりと気楽でいた。ターミナル内のいくつかある食堂のひとつでぼくはに夕食を済ますことにした。コンクリート造りのターミナル内は閑散としていて、食堂やタバコや飲み物お菓子などを売る売店、それから記憶が混じっていなければおもちゃ屋があったはずである。

 目的のバスの出発時間である午後8時がせまってきたので、プラットフォームまで向かう。ターミナルから外のプラットフォームエリアに入るのに、50センターボ(=67円/センターボはボリビアの通貨のひとつ。基本通貨である1ボリビアーノ=100センターボ)を払った。ボリビアーノとはそのまま「ボリビアの」という意味だが、つまりは「ボリビアのペソ」の「ペソ」の部分が省略されたもので、実際にはペソという言い方も普通にしている(南米ではコロンビア、チリ、アルゼンチン、ウルグアイがペソで、ペルーはソル、パラグアイはグァラニー、ベネズエラではボリバル*1、ブラジルではレアルが通貨。エクアドルでは米ドルを使用している)。プラットフォームといっても建物のひさしの下のスペースを利用しているという感じで、バスが停車するところも、駐車場というほうがイメージは近いかもしれない。各駐車位置の向かいの壁に番号が貼られているだけで、大勢の乗客たちが所狭しとバスを待っていた。ベンチもあったはずだがあったとしてもすでに埋まっていて、ぼくは路上販売の女性から水だけ買って、しばらく端のほうで待っていると、バスがやってきて止まった。運転手が出てきて、切符の確認を始めた。こういうとき身分証(外国人はパスポート)の提示を求められるが、このときどうだったのか忘れてしまった。荷物を預け、切符を見せてバスに乗り込む。外見からバスは新しいような気がしたが、座席のクッションの廃れ具合からしてわりと古い車体のようだった。車内は3列シートで右側に2席、通路を挟んで左側の1席のほうにぼくは座り、Sさんはぼくの後ろの席だった。

 しばらくすると出発を待つ車内に物売りたちが入れ代わり立ち代わり乗ってきて、商品の説明を元気にしてから、車内後方まで行ってまた戻り、次のバスに向かって行くというのを繰り返した。30歳前後の男が商品も持たずにやってきて話し出したので、ぼくはバスのスタッフだと思い彼の話を聞いていた。が、いかんせんボリビアに来てから、ボリビア人のスペイン語がぜんぜん聞き取れなかったので、まあスタッフがアナウンスすることなどどこも似たり寄ったりだから、と聞き流しているところに老婆が勢いよくバスに乗り込んできた。老婆は彼の横をすり抜け、彼がそれを注意しようとするその瞬間に、老婆はぼくの座席を過ぎ、バスの中心で歌を歌い出したのだった。彼女の声はとても高く、音程のおぼつかなさも、その高さと大きさでカバーするという感じだった。それよりもぼくの席からは、戸惑う男の様子がよく見えた。彼はいったん話すのを止め、やれやれという感じを前面に出し、老婆の歌が終わるのを待っている様子であった。

 車内にはしばらく老婆の顔をしかめて歌う切ない声が響いた。サビを歌い上げてようやく男が自分の番だと気合を入れなおそうとしたところに2番が始まったので、男はたまらず声を上げ、老婆の歌を無理やり止めた。老婆はそれでも歌うのをやめようとせず、そうして2人の間で口論が始まった。「おばあさん、おれのほうが先に来たんだから先に話をさせてくれ」「歌を邪魔するな」「ルールを守れ」「おまえは年寄りを敬う気持ちがないのか」という具合。しばらく乗客たちは無言でそれを見ていたが、後方から40代くらいの男が「お年寄りに対して失礼だろ!」という声を上げ、今度は男同士の口論が始まったのだった。老婆はすばやくすぐ近くの席に座っていた少女からチップをもらうと、乗り込んできたときと同じように男の横をくぐり抜け、さっさとバスを降りていった。男はあくまで平静を保つよう努め、「みなさんお騒がせしてすみません。おい、おまえバスを降りて話をしようじゃないか。降りろ」と言って40代の男がそれに取り合わないのを見て、バツが悪そうに降りて行った。少ししてバスは出発した。

 朝4時ころ、バスは目的地であるトリニダに予定通り着いた。この街も日系人の子孫が暮らしているらしいが、今回はここからルレナバケというアマゾンへの入口として近年リゾート化しつつあるという街に向かい、そこで開かれる第一回日本祭りを見たあと、さらにアマゾン奥地にあるリベラルタを目指す。ここは初期の日系ペルー移民たちが、農園からの逃走ののち上陸した痕跡が残る街だという。5時半くらいに、今度は乗合タクシーに乗ってのポイントに向かうことになっていた。トリニダのターミナルはサンタクルスとは打って変わってなんだか手作り感満載だった。いくつかのバス会社がカウンターを出しているが、看板がすべて手書きで、早朝のため誰もスタッフはいなかった。屋根はいまにも落ちてきそうなくらいの低さで、照明も薄暗く、構内と外の境目が曖昧な印象を受けた。ターミナル周辺にはバスを降りた人がぼくたちのように乗合タクシーを待っていたり、車に乗り込んで家に帰ろうとしていたり、静かに朝を待っているような雰囲気で、それでもすでにいくつかの屋台が出ていて、ぼくたちはそこでスープを飲んだ。

 乗合タクシーは運転手を含めて5人乗りの極めて普通のタクシーで、後方座席の後ろのスペースと屋根の上にそれぞれの荷物を載せ、出発した。助手席にボリビア人らしい男、後ろは左からぼく、Sさん、オーバーオールを着たヨーロッパ系の男という具合だった。朝から陽気な運転手はラジオをつけ、主に助手席の男性と歓談していた。ラジオからはやはり朝からテンションの高い声が鳴り、眠りたいぼくを悩ませたし、後方3人乗りの座席は男が3人並ぶと狭くてつらかったが、一番つらいのは真ん中に座るSさんのはずで、でもSさんは前の2人の会話に参加していてすごかった。

 1時間半くらい走っただろうか。車は止まり、いったん降りなければいけないという。何事かと思ったら、道が終わっていて、アマゾン川の支流にぶつかっている。ここを渡るのに船を待たないといけないのだそうだ。何台かのトラックや車がこの道の終わりにたまり、地面の舗装はいつのまにか終わっており、ぬかるんでいた。

 夜行バスでそれほど寝付けなかったので、この待ち時間はかなり苦痛だった記憶がある。ほかの4人は元気そうに見えた。それにしても、同乗している彼のように、オーバーオールを着たヨーロッパ系男性をサンタクルスのKENちゃんラーメンを食べに行ったときにも、ほかの場所でもときおり見かけたのだった。Sさんによると、彼らはナノメイトという現在のドイツ、オランダに起源を持つキリスト教派の一派でもともとアメリカ大陸にはカナダから入ってきた人たちらしい。彼らはドイツ本国はもちろん、各地のほかの人々や、現代文明的なものから距離を置き、独自の規律を持って暮らしているそうだ。コロニア(コミュニティ)内ではいまも(低地)ドイツ語が話され、つい最近まで電話も使っていなかったという話も聞いた。それでもコロニア同士のネットワークはあるというから、いったいどうやって連絡をとりあえたのか想像が正直できない。じっさいに彼に聞いてみようと思ったが、あいさつすら満足していない彼にそれを聞くのには、ぼくはシャイ過ぎた。

 ただ、日系移民にとって彼らは隣人であり、ボリビアやパラグアイの移住地では彼らが先に農業をしていたので、定着するのに彼らを参考にしたこともあったという。それで思い出すのは、パラグアイのラパス移住地の安藤さんのところのハヤトくんが通っていた学校はドイツ系だった、ということだった(この学校がナノメイトによるものなのかは不明)。世界大戦のときに連合国の敵国としてともに戦った両国が、こんな離れた場所でべつの関わりを持っているなんてと、不思議な気持ちになった。そのうち機会があったらじっくり調べてみたいなと思ったまま時間は過ぎた。

 6時間ほど走っただろうか。日はすでに高く昇り、車内は空調が全開であるものの、日差しが痛いくらいに入り込み気温も上がっていた。35度くらいに達していた。舗装されていない国道を土埃を撒き散らしながら走り、乗合タクシーは目的地についた。ここで昼食を食べて、次のタクシーに乗ってルレナバケを目指す。妙なところだった。まわりにはなにもなく、2軒ほど青空食堂のようなものが開いていて、ボリビアらしいスープや米料理などをみんな食べていた。まわりには集落のようなものも見えなかった。半分砂漠のような半分草原のような景色のなかにポツンと浮かぶ中継地点はまさにオアシスという感じで、ぼくは水を買ってパンを食べた。

 そんなおり、日本に帰国してすぐに作ることになっていた演劇新作のことで、日本から連絡を受けた。この作品ではアルゼンチンから出演者を連れていくことになっていて、出演者の一人が、いろいろな条件のことでぼくと直接話をしたいと言って聞かない、ということだった。さっそくその俳優に連絡をするとすぐに返信が来て、日本の食事はいくらくらいするのかというので、うどんとか牛丼とか安いものもいくらでもあるよと返すと、オーガニックな食事は高いんじゃないかと気にしている。オーガニックレストランの事情は知らないけど自炊をしたらいいよ、と返事した。アマゾンの森を近くに、炎天下の土にまみれて背を丸め影を作ってスマホの小さい画面をいじり、うどんがどうとか言っていると、なんだか馬鹿らしい気持ちになった。

 わりとすぐにバスが来て、それに乗ってルレナバケに向かった。

 

*1 2018年から通貨はボリバル・ソペラノとなった。取材時はボリバル・フエルテ。

 

(25・了)

 

次回:2020年2月27日(木)掲載