ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2020.3.19

26ボリビア(11) ルレナバケの日本祭り

 

 「ルレナバケ」はラ音が続いて発音しづらい。Rurrenabaqueと書き、よくRurreと呼ばれているようだがどのみち発音しづらい。現地の人にとってはどうなんだろうか。この地名を何度もぶつぶつくりかえして覚えたが、それでも舌が気持ちよく動かないのだった。1時間ほど走ってバスが着いたのは、住宅街の一角にぽっかりと空いた土の地面の、ただの空き地という感じだった。荷物を無事回収すると、Sさんは近くのホテルに行くと言って、向かっていった。ぼくは川沿いの割安なゲストハウスを予約していた。ルレナバケには、ラパスの北を源流とするベニ川が町を二分するように流れている。ベニ川を北にたどっていくと、リベラルタでアマゾンの支流であるマドレ・デ・ディオス川と合流する。ルレナバケもリベラルタも、ベニ川(リベラルタ北はマドレ・デ・ディオス川)を県境にしたボリビア北東部のベニ県に属している(通り過ぎたトリニダはベニ県の行政府所在地だそうだ)。トリニダはベニ県の中央、ルレナバケは西、リベラルタは北に位置している。道路が整備される前までは、ルレナバケからリベラルタまで、船で移動していたそうだ。

 スマホの地図を頼りに歩いていると、この街はそこまで大きいわけではないことがわかった。土っぽい道はすぐに舗装された道に変わり、中心部に着くと、車やバイクが続いて走っていた。メイン通りらしい道の真ん中には木が並び、道の両側にはレストランやおみやげ屋、ツアー案内の店などがいくつかあって、のんびりとした観光地という感じだった。バックパックの重さに日差しの強さが加わって、汗はじわじわとやってきた。

 宿にチェックインする前に、ここルレナバケで見学することになっている日本祭りの会場となるカフェで、小川弘樹さんという人と会うことになっていた。彼はぼくより6歳若い日本出身の男性で、ボリビアには4年住んでいるらしかった。リベラルタに行くと言ったとき、サンファン移住地の若者たちがつないでくれたのだった。彼は現在リベラルタに住んでいて、それ以前はサンファン移住地に住んでいたという。今回はルレナバケの日本祭りを手伝うために来ているそうである。

 観光通りが終わるあたりにそのカフェはあった。小川さんと無事に合流し、この日本祭りを企画した河田菜摘さんとマチルデ・タクシさんとも会った。河田さんは、元々JICAボランティアとしてルレナバケに派遣された元隊員で、現地の男性と結婚し、ルレナバケに住んでいるそうだ。タクシさんは日系人で以前日本でも働いたことがあって、多少の日本語ができるようだった。タクシというのは、沖縄の姓である、沢岻(澤岻)のことだと思われる。

 この街も、リベラルタやトリニダと同様に、かつて日本人が移り住んだところだという。いわゆるペルーからの転住者である。小川さんや河田さんによると、この街に限らず、そういう転住者たちの子孫たちは、自分たちが日本人の血を引くものという意識はほとんどなく、一般的なボリビア人として生きているという。というのも、彼らの先祖である日本人たちは、皆、もともとは出稼ぎ目的で契約移民としてペルーへやってきた男性たちで、その労働環境の劣悪さからボリビアへ逃れたあと、帰国を諦め、現地女性と結婚をしたという。

 だから、これまで回ってきた移住地(多くの場合、それは太平洋戦争後の移住者とその子孫が住んでいる)との大きな違いは、ここに暮らしているのは日本人として生きていくことを断念し、「現地の人間」として生きていくことにした人たちであると言うことができる。彼らは現地女性とのあいだに産まれた子どもに日本語を教えず(同時に伝統的に子どもは母親の言語を話すということもある)、おなじ境遇の日本人同士で酒を飲むとき以外、日本語を使うことは避けた。故郷の習慣や文化を教えることもなかったそうである。そうやって1世からすでに現地と同化した、というのが、「転住者」たちの特徴と言えるのだと思う。移住地のように、「結婚相手も日本(日系)人で」ということがないから、当然世代を経るごとに容姿も現地のボリビア人と変わらないようになっていく。わずかに残った日本っぽいものは、名字だけということになる。もっと言えば、名字もなくなり、当人もまったく自覚をしていないが、何世代か前の祖父が日本人という人は、相当いるのかもしれない。

 じっさい、ルレナバケではそういう日本人の子孫同士のコミュニティというのは、これまでほとんどなかったという。この日本祭りが開催されることになったのも、日本に住んでいたことのあるタクシさんが、そういう状況を少しでも変えたいと河田さんに相談したことから始まったそうだ。だが、肝心の子孫たちの大部分は、自ら時間を割いてそのような催しをしようというモチベーションはなく、第一回のこの祭りを支えたのは、彼女たち二人のほか、小川さんやラパスなど別の地域に住む日本人たちだった。ぼくもタクシさんや河田さんと話した流れで手伝うことになった。

 翌々日に開かれたルレナバケの第一回日本祭りは、巻き寿司と日本式カレーが販売され、そのほか日本の文化として書道と着物が紹介されるというものだった。ぼくはカレーを振舞いながら、自分たちがふだん全然やらない書道や着付けなどをしていてなんだかなあ、と白々しく考えていた。いったい誰の「日本文化」なのだろうか、どうも自分たちが普段生活する「日本」とはかけ離れているのではないか。カレーは食べるけどさ、という具合に。

 これはルレナバケに限った話ではなく、ぼくがこれまでいろいろな場所で見たことのあるいくつかの日本に関する催しで、だいたいぼくはこういう違和感を感じていた。たとえば、日本政府が主導するような催し物といえば、これら書道とか着物とかのほかに、よくわからないけど伝統的な漆器が並べられ、あとは和太鼓の楽団が招聘されるくらいのオプションがつくくらいのものだ。

 日本に遊びに来た外国人に、日本の文化を紹介するとなると、ぼくは迷った挙句、たぶん神社やお寺に連れて行き、寿司を食べさせ、アニメに関するなにかをレクチャーし(できないけど)、あるいは折り紙を折って、日本酒を飲ませる……。という感じで、日本文化の紹介というと、いつも困ってしまう。個人差はあると思うけれど、紹介しようとするものと、自分たちの生活文化とは、もうだいぶ違ってしまっているのではないか。寿司は好きだけど、毎日食べるものではないし、神社とかお寺ってそんなに生活に身近だったっけ? と考えると、せいぜい初詣やどこか観光に行ったときくらいにしか行っていない気がする(言い過ぎだとは思う)。「日本」を紹介しようとするとき、我々は急にどこか自分たち以外によって定義された「日本文化」を移入してしまっているのではないか。それって本当に自分たちの「文化」を紹介したことになるのだろうか。などと考えた。

 もし、自分たちの生活を文化と呼ぶのなら、我々が紹介する「文化」とはちょっと違うところにある気がする。生活は毎日少しずつ変化をして、文化はその中で練り上げられるのだとすると、いつかの段階でこれが我々の文化であると定義した時点から、少しずつギャップが生じていく。このギャップをどう考えるのか、ぼくはそういう話をあまり誰ともしてこなかったなと思った。

 

 ……などと書いていたら、しかし、文化の紹介というのは、「歴史」の紹介でもあると考えると、これでいいのだ、と思い直した。問題は、その歴史に自分たちがちゃんと立てているかどうかなのだ……。

 結果的に、ルレナバケの第一回日本祭りは誰が見ても成功で、巻き寿司は早々に売り切れ、カレー鍋も空になった。大勢の町の住人や観光客が書道や着物を楽しんで、カフェの2階のスペースでは小さすぎた。それほど興味を持っていなかった「日系人」たちも、祭りの成功に気を良くしたようで、何人かが自分も日本の血を引いていることを誇らしげに話しているのを見た。小川さんは、「日本祭りがお金になるとわかって、急に彼らの態度が変わった」と言っていて、それも本当かもしれないと思った。これを継続していくという一番重要なことは、経済的なメリットがあることで足場を強くし、それは現地に住む彼らの社会に新しい光を当てることになることだと、いま思う。

 なんだかんだ言ったが、その立ち上げに図らずも参加することができたのは端的に楽しかった。自分は旅行者気分でビールを飲んで、タクシさんや河田さんのご家族と話したりプールに行ったりしていたが、第一回の反省点を話し合うふたりの様子が印象的だった。2019年に日本祭りは3年目を迎え、タクシさんや河田さんが始めた取り組みは規模も大きくなっているようである。

 

(26・了)

 

次回:2020年4月2日(木)掲載