ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2020.4.2

27ボリビア(12) ホセ・アントニオ

 

 「ぼく、日本の永住権持ってるんですよ。それで、永住権を更新するために、5年ごとに日本に帰ってるんです。今年も、たぶん9月か10月に行きますよ」

 

 話は少し戻るが、サンファン移住地へ向かうまえに、サンタクルスのバーベキューレストランで、ぼくはホセさんという青年に会って食事をした。彼とは、リベラルタでJICAボランティアをしていた方の紹介で知り合った。ずっとスペイン語でメッセージのやりとりをしていたので、ホセさんはぼくのことをボリビア人かなにかだと思っていたという。

 「スペイン語もっとペラペラなのかと思ってましたよ」と日本語で言われたので、ぼくは例によって自分の育ってきた環境などを説明した。「メッセージのやりとりがすごいスムーズなんで、そうなのかと思いました」とホセさんは冗談ぽく言った。

 ホセさんの本名は、ホセ・アントニオ・レバン・べラスコという。ホセ・アントニオが名前で、レバンとべラスコはそれぞれ両親の名字だ。ぼくの名前をペルー国籍風に表記すると、雄大・フリオ・神里・西谷となる。神里が父親の名字、西谷が母親の(もともとの)名字というわけだ。

 ホセさんは、取材当時24歳。リベラルタ生まれで、父方の曾祖父が日本人だそうだ。曾祖父の名字は大西で、その娘(祖母)→息子(父親)という経緯で、大西の姓は父親の代で消えたそうである。

 

 

 「レバン(Leban)ていうのは、スロヴェニアの名字なんですよ。(父方の)おじいちゃんがスロヴェニア人。だから、ヨーロッパのパスポートも持ってます。ヨーロッパにはビザなしで普通に行けるんですよ。日本は永住権しか持ってないので、5年に一度手続きしに行かないといけないんです」と言いながら、ホセさんは牛肉をナイフで切って口に運ぶ。

 彼の曾祖父は九州のどこかの、小さな島の出身だそうだが、くわしいことはホセさんも知らないという。大西の縁戚は関西にもいて、幼少期に1年、小学2年生のときから中学卒業まで、滋賀県に住んでいたという。そのこともあって、ホセさんの日本語は関西弁である。滋賀県内で進学するつもりだったのが、父親が体調を崩してしまって、生まれ故郷であるリベラルタに帰ってきたそうだ。

 

 「リベラルタはすごい小さい町なんですよ。ぼくが帰ってきたときは、携帯の通話もできなかった。だから、日本から帰ってきたときはいつも、日本帰りたいって思ってました。

 でも、両方の世界というか、両極端の社会を知ってるから、いまぼくはいろいろビジネスをやってるんですけど、ビジネスが簡単だなと思います。あ、この人は真面目だなとか、あ、こいつはダメだなとか。そういうのは両方の世界を体験してるからこそわかる。なので、ボリビアに戻ってきたのはよかったなと思ってます」

 ホセさんは、三年前まではリベラルタで、YAMAHAのバイクを売る仕事をしていたそうだ。いまは、ホセさんの彼女が住んでいるコチャバンバという、ラパス、サンタクルスに次ぐボリビア第三の都市に住んで、べつのビジネスをやっている。

 

 「いまは彼女の父親の会社を手伝ってて、サンタクルスには出張で来てます。でも、その会社に入ってるわけではないんです。手伝ってるだけで、個人でも仕事をやってます。毎年必ずやるのが、12月のクリスマスパーティの主催。DJを連れてきて、入場料を取ってって。あと新年パーティの開催も。それでぼくは大学の学費を稼ぎました」

 日本に帰りたいと思っていた彼が、いまや自分のやっていることに自信とその裏付けを持ってしゃべっているのがわかる。そこまで至るのにどういうプロセスがあったのか気になった。彼のように、日本語もスペイン語も成長の過程で自然と身につけてきた人にとって、両国の違いは、言語にあるわけではなく、友人関係や社会での居心地のよさにによるのではないかと思う。そして、ホセさんには、日本人とかボリビア人といった区分にこだわらないところがあると、ぼくは感じた。

 彼は滋賀の中学では、けっこう「悪かった」らしい。ケンカもしょっちゅうだったとか。

 「でも、学級委員もやってましたよ、三年間。それから、体育祭の団長。200人くらいをまとめあげて、優勝したんですよ。外国人団長初の快挙」とホセさんは楽しそうに中学時代の思い出を語る。滋賀で過ごした中学時代は、彼にとってとても大事な時期だということだ。部活のサッカー部でも副キャプテンをやっていたらしい。いまも日本に帰ると(といっても、5年に一度ということで前回帰ったのは、19歳のときのこと)、滋賀の友人たちと遊ぶんだそうだ。ボリビアに帰ってからはどうだったのだろうか。ホセさんはボリビアに帰ってから、考えを変えたのだそうだ。

 

 「そうしたら、ものごとがうまくいくようになった」

 「考えを変えるっていうのはどういうふうに?」と聞いた。

 「それはうまく言えないんですけど、ボリビアに帰ってきたこと自体がかな。だってボリビアからだと、なんでも見る角度は変わるじゃないですか。それで日本にいたときの見方も知ってるから、両方ともわかったら、情報の入りかたが変わったんです」

 先述のビジネスの話もそうだが、ホセさんはしきりに、両方という言い方をする。つまり、ボリビアのなかだけに住んでいたらなんの疑問もおぼえないような、慣習だったりやり方だったりにとらわれず、そして日本でもおなじように影響されることと影響されないことの取捨選択ができるようになった、ということではないだろうか。ふたつの世界を知ることで、自分のいる場所を再認識するということでもある。つまり、客観性を持てるということだ。

 

 「ぼくが最近気づいたことは、いま仕事で違うところに行ったりしますが、ちがうところに行くときは、自分がどれだけ早くそこに慣れるかが成功の道だと思ってる。たとえばラパスに行ったら、しゃべり方も違うし考え方も違うから、その人らとおなじ基準になって、その人らとおなじことやったら成功しやすいっていうか。違うペース、違う文化に合わせるというか、そういうのが近道になるっていうのがわかりました」

 「つまり自分の基準で(すべてを)判断しないっていうことですね」

 「まあ、自分の基準は大切だと思うんですけど、やっぱ慣れないと。たとえばですけど、もしぼくが日本のペースでボリビアで勉強しようと思ったら絶対できないんですよ。ボリビアっていうか、リベラルタはでしたけど、勉強するっていうのがすごい下やからね。一度あったんですよ、教師にもっと難しく教えろって言ったら怒られて。で、学校から一度追い出されたんですよ。でも逆にそういうこと言わんと慣れて、リベラルタのペースで、角度を変えて物事を見たら、成功しやすいんかなって思うんですよね」

 「それって、つまり自分のオプションを増やすってことですよね。オプションというかスイッチかな。リベラルタのスイッチ、日本のスイッチみたいな」

 「そうです、そうそう! いっぱいスイッチ持ってるほうがいいと思う。それは対人間でもそうじゃないですか。いろんな人間がいるから、そういうスイッチを換えていくっていうのが大切かなって」

 このときはスイッチとぼくは言ったが、そのまま経験ということもできる。それが積み重なったぶん、また未知の世界に行っても、順応が早くなるという感覚なのだと思う。そのことを身を以て体験し続けているホセさんの言葉はシンプルだが、強い。ホセさんは今後、リベラルタに戻って仕事をするつもりはないのだという。

 「むしろ外国に行きたい。たとえばヨーロッパとかね。パスポートもあるし」

 3時間くらい、肉を食べビールを飲んだ。今度は日本の居酒屋でも飲んでみたいなと思った。

 ところで、ホセさんの母親はリベラルタでホテルを経営しているという。リベラルタにも足を伸ばすことになっていると伝えると、「うちのホテルに泊まったらいいですよ」とすぐに連絡をとってくれた。

(27・了)

 

次回:2020年4月16日(木)掲載