ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2020.5.15

29ボリビア(14) 緑と赤と青の街

 

 リベラルタにはおよそ10万人が住んでいる。小川さんによると、そのうち先祖に日本人を持つ人が、5000人以上はいるだろうということだった。ただこれは名字に日本名を残している人の数であって、そうじゃない人も入れれば数万人になるんじゃないかというのが彼の意見だ。こうなると日系人か否かなどという観点はもうどうでもいいことのように思える。

 到着の翌日、小川さんのお気に入りの店だというレストランに行き、ランチに魚介のスープを食べ、川沿いに建つ展望台に向かった。そこでは街を一望することができた。写真を見てもらえばわかるとおり、木々の隙間に家々が建てられているような印象で、背の高い建物もほとんどない街だった。よく晴れた日で、気温もぐんぐんあがり、半袖が汗ばんだ。車道もところどころ赤っぽい土がかぶっていて、屋根の色と混ざっていた。緑と赤と青空のコントラストが、前日の第一印象と違って気持ち良かった。

 

 

 街の反対側にはベニ川と合流したマドレ・デ・ディオス川が流れていて、対岸はいかにもアマゾンといった感じの森になっていた。岸に沿って何隻かの舟が集まって留まっているところがあって、そこが「港」なのだという。といっても、桟橋のようなものと掘っ立て小屋が見えるだけのかなり簡素な港だった。ここで水揚げされた魚が毎日のように市場に並ぶそうだ。

 中心部からすこし外れた川沿いに、はじめて日本人がこの街にやってきたときに上陸したとされる土地がある。ペルーから国境をまたぎ、ボリビア側に入った日本人たちはアンデス山脈を越え、さらに川を下って移動してこの地までやってきたのだと思うと、その途方もない距離のまえでは昨日の空調の壊れたバスの旅などなんでもない。

 「コビハっていう、ここから西に行ったところにある、ペルーとブラジルの国境付近の町にも子孫たちがいるらしいですよ」と小川さんに教えてもらった。ペルー国境付近にあるということであれば、日本人たちが移り住んだのはコビハのほうが先なのかもしれない。小川さんの口ぶりからコビハ〜リベラルタ間はそこまで遠いような感じを受けなかったが、実際は直線距離で300キロあって、日本で言えば東京〜名古屋間よりも遠い。ちなみにルレナバケ〜リベラルタ間は400キロで東京〜大阪間くらいだった。

 というわけで小川さんのバイクの後ろに乗せてもらい、日本人上陸の土地まで連れて行ってもらった。といってもブラジル、サントスのように、なにかモニュメントがあるわけでもなく、整備されていないゆるやかな土の坂道が川沿いの木々に向かって伸びているだけだった。雨が降ったらぬかるんでぐちゃぐちゃになりそうな道。その脇にはすぐに沈んでしまいそうな木舟が置かれていた。ぽつぽつとある家はどれも頼りないトタン屋根で、壁も木材でつぎはぎした跡がはっきりと見え、お世辞にも住みやすそうには見えなかった。小川さんはそのなかの一軒が、魚屋だと言って中に入っていった。とはいえ看板もなく、ドアが開けっぱなしになっていて、そこが魚屋だと知らなければ入ろうと思えるような場所ではなかった。店というよりは知り合いの漁師の家に魚をもらいに来たという感じで、中に入ってみると、外と同じ地面に壁が立ち屋根が被さっている土間になっていた。年配の女性がひとり、ガーデンチェアに座り、所狭しと白いプラスチックケースが置かれていた。ケースのなかにはその日獲れた魚が入っているということだったが、今日はもうほとんど売れてしまっているようで、あまり魚は残っていなかった。小川さんは女性と二、三、言葉を交わし、買うのはやめたようだった。このあたりで獲れるのは、世界最大級の淡水魚と言われるピラルクとこちらも大型淡水魚のパクゥという魚が主力だそうだ。

 このあたりに住んでいる人たちの多くは日本人移住者の子孫であるということで、彼らにインタビューできないかとぼくは小川さんに聞いてみたが、彼は苦笑いしながら、親指と人差し指を繋げて丸めて、「インタビューするとなるとお金を要求されると思います」と言った。このエリアは治安もよくないそうで、日本人と見ると住民たちが金をせびってくるので、彼はあまり関わりたくないということだった。

 

 魚屋を出て街の墓地に連れて行ってもらった。そこは中心部から伸びる大通りの終わりにあった。塀で囲まれ、複数ある入口のまえには花屋の屋台が出ており、ぼくたちはそこで花を買った。一軒家のようなものや一枚の壁に何基も掘られている集合住宅のようなお墓が、白のほか青や黄色などカラフルに続いていて、そのなかで一際背の高い四角柱があった。正面には漢字で大きく「慰霊塔」と書かれていた。五メートルほどあるだろうか、元は白かったコンクリートの塔は汚れ、ところどころヒビも入っていた。

 側面には十字架が掘られ、その下に“EN MEMORIA”(記念に、あるいは偲んでの意)、続く説明文には、「1908年以降ボリビアに着いた最初の日本人移民たち、ここに眠る」とあった。19643月に日本大使館によって建てられたもののようだ。ぼくはそこに献花し、手を合わせた。だが、ぼくは短パン半袖サンダルという出立ちでどうにも不釣り合いだった。そもそもこんな格好で墓に来るのはどうなんでしょうね、と小川さんに言って、小川さんも、そうですね、と言った。彼はTシャツにジーンズで靴を履いていた。

 

 

 墓地には、日本人らしい名字が記されている墓が本当にたくさんあった。だいたいはローマ字で記されているが、なかには見様見真似で書いたと思われるカタカナで記されている墓や、いかにも日本風の墓に「福島県人」と彫られているものもあった。

 先ほどの上陸の地では、その子孫たちの住む場所の現実に少しばかりショックを受けたが、こうして墓地に来てみると、意外にも日本の残り香を感じることができた。ものごとの一面だけを見て、移民たちの子孫からは日本文化が失われたと思いそうになったが、そんな単純な話ではないのだ。ここでは日本人会も古くから組織され、その事務所はいまもあるのだという。そういえばリベラルタには沖縄系の人が多く、太平洋戦争後に彼らが中心となって戦災救援会が立ち上がり、いまのオキナワ移住地を作るきっかけとなったのだった。

 

 街には豆腐を作って売っているところもあるというので、またバイクに乗って連れて行ってもらった。住宅街のある民家のドアのところに、張り紙がしてあり、手書きのスペイン語で「豆腐あります(大豆のチーズ) 一人前15ボリビアーノ」とあった。ドアには鍵がかかっていて、あいにく休みで売っている豆腐を見ることはできなかったが、小川さんが家の裏側に回って声をかけると、家の主人から入ってこいと言われた。中庭に向いて開いていた扉のなかは、リビングルームになっていて、何人かの男たちがビールを飲んでいた。

 おまえたちも飲めと言って、男たちのひとりがぼくたちにコップをくれたが、彼らはほとんど気にもせず、談笑していた。席について自分たちでビールを注いで、いただきます、と乾杯すると、テーブルにあるものを食べていいと言う。白米や麻婆豆腐らしきもの、切り干し大根などがあった。正直どんな味だったかも覚えていないのだが、先ほどの墓地といい、ここに来る前には、リベラルタには日本の風習はほとんど残っていないという前情報を誰かから聞いて(どこで誰からかは忘れてしまった)そう思い込んでいたので、思っていたのとは違うな、と思いながらテーブルの料理をつまんだ。

 

 この翌日も、前の日と同じように小川さんのバイクに乗って、まず日本人会の事務所に行った。町中の店が並ぶにぎやかな通りの一角に、小さな事務所の入口があった。日本人会というから、これまで訪ねてきた移住地にあったような大きな建物をイメージしていたが、それはいくつか並んだ長屋ので、ガラスの窓からデスクと書類がつまった棚が見えるだけで、ぼくひとりだったらここが日本人会の拠点だとは思わなかっただろう。

 事務所では日本人らしい顔立ちの女性が出迎えてくれた。彼女の名字はChinenというらしい。漢字のことは聞けなかったが、おそらく沖縄によくある「知念」姓のはずだ。彼女はここで事務員として働いている、快活な笑顔が素敵な人だった。あまり日本語がしゃべれないようだったが、ここで日本にルーツを持つ人たちの戸籍管理や日本での就労支援などをしているのだという。棚に詰まったそれぞれのファイルの背には、FujimotoIshidaKanashiroKimuraNishidaなどなど実に多くの名字が印字されていた。

 ボリビア人が日本に入国する場合はどんな理由であれビザが必要だが、長期にわたって働くためのビザは原則的にいわゆる日系人にしか発行されないそうだ。この場合の日系人というのは3世までとされているが(現在は4世まで)、ボリビアの戦前移民はその成り立ちからいつ来たのかはっきりしていないことが多く、実際は3世なのか4世なのかわからないケースも多い。

 ボリビアは南米でも貧しいほうの国で、平均月収も日本と比べても相当低いこともあって、外国に出稼ぎに出る人が相当数いる。日本に来るために戸籍を買う人もいるらしい。問題は、日系人であると証明をするために日本の戸籍を取り寄せても、その内容が理解できないということで、小川さんはいま、日本人会の人たちやこれから日本に行こうとする人たちに日本語を教えているそうだ。

 このへんの話は賛否両論ありそうだが、ぼくとしては日本移民の歴史を見るに、ボリビア人たちがその背景をうまく使ってどんどん日本に就労したらいいと思っている。

 懸念はひとつだけ、かつてペルーに行った日本人移民がされたような仕打ちを、いまの日本社会や政府が外国人労働者にたいして堂々とやっていることだ。過酷な労働条件、低賃金もしくは不払い、不当な天引き、劣悪な医療や住環境などなど、100年以上前の話をあたりまえのように頻繁に聞くたびに情けない思いになる。

 事務所の奥には、簡単なリクリエーションならできそうな10畳くらいの部屋があって、壁には1世らしき日本人たちの肖像画が掲示されていた。また、木の船やいかだに乗った男たちが、リベラルタの岸に着き、上陸しようとするのを描いた絵が数枚あった。握手する人たちや、日の丸を手に持って高く掲げる人たち、それを見に来たと思しき地元民たちが色鮮やかに描かれていた。

 また、部屋の奥には、小さな神棚らしきものがあって、昭和天皇と皇后の肖像写真が飾られていた。

 日本人会の事務所を辞し、近所に住んでいる小川さんの友人夫妻の家にお邪魔して小一時間ほどしゃべっていると、日はすっかり暮れてしまった。小川さんに次の用事があるということで、夫妻の家をお暇した。向かったのは、彼がビジネスパートナーといっしょに借りているというスペースで、そこではお酒や軽食を出したり、ときどきパーティ用に貸し出したりすることもあるという。そこはだだっぴろい倉庫という感じの場所で、真ん中にテーブルと椅子が集まって置かれていた。その向こうにはバーカウンターもあった、この日はバー営業をしていなかったが、ビジネスパートナーのHayashidaさんが迎えてくれた。Hayashidaさんは母方が日系の20代男性で、彼は日本で幼少時代を過ごしたそうだ。言われないと日系とは気付かない一般的なボリビアの若者の顔立ちだが、左腕にタトゥーが豪快に入った筋肉質な彼が素朴で丁寧な日本語を話すのを見ると、どことなく日本人ぽさを感じるのが不思議。その場にはマリアという20代の女の子が来ていて、彼女は数ヶ月後に日本に行くらしく、小川さんに日本語を習っていた。小川さんは彼女にぼくと日本語で話をしてみたらと言っていたが、恥ずかしがって嫌だと言った。ひらがなの読み書きをようやく覚えたところらしい。

 残念ながら、彼らと話をじっくりすることができなかったのは、バーに着いた頃からぼくのお腹がおかしくなってきて、しばらくビールを飲んで耐えていたせいでさらに調子が悪くなったからだった。小川さんのバイクに乗せてもらって早々にホテルに帰った。そしてすぐ寝た。

 次の日はさらにひどく腹を下しており熱もあるようで、15時ころになって小川さんが心配して見に来るまでずっと眠り、何度もトイレに起きるというのを繰り返していた。なにかに当たったらしい。おそらく料理で使われていた水なんじゃないかと小川さんは言った。「たぶん魚介スープが当たりましたね」

 彼によると、リベラルタはそこに住んでいる人であっても、しばらく外に出て戻ってくると当たるらしい。ぼくはいままでどこに行ってもお腹を壊すことなど記憶になかったので驚いたが、熱まで出るとは知らなかった。

 「せっかくですから、メルカドを見て行きませんか。まだやってるかも」と小川さんが言うので、少し症状が落ち着いてきた16時頃、メルカドまで連れて行ってもらった。メルカドというのは市場のことで、ホテルと墓地の中間くらいの場所にある、新しい建物だった。ほとんどの店はもう閉まっており、いくつかの雑貨屋や駄菓子屋などが開いているくらいだった。小川さん曰く、メルカドでは怪物のように大きいピラルクや野生の猿なども売っているということだった。腹を壊していなかったらそういうのも見られたのに、最後の最後でこんなことになってしまって、悲しい。翌日の飛行機でサンタクルスに戻ることになっていた。

 夕暮れの街では、ヘルメットを被らない多くのバイクが(我々もそうだったが)往来を行き来していた。これから夜になるとナイトマーケットが開かれ、初日に見たようにたくさんの屋台が店を開き始める。

 

 最後に、前日に会った夫妻の甥が話をしてくれるというので、会いに行った。彼の家はリベラルタではかなり近代的なつくりで大理石の床にソファが置いてあった。彼の名前はダヴィ・ゲレーロ・メンデス・ハシモトというそうだ。ぼくと同じくらいの歳の、細マッチョという、ちょっとやんちゃしてそうな兄ちゃんだった。

 「ぼく15歳のときにこっちに来て、そのときはまったくスペイン語がしゃべれなくて。日本生まれじゃないんだけど、ちっちゃいときに行って、いつ日本語を覚えたのかもわからないくらい。最近はもう34年しゃべってないのでけっこう日本語しゃべるの苦労するね」と謙遜するが、その謙遜の仕方を含めて完璧であった。神奈川県の平塚に住んでいたそうだ。帰国してからも毎年夏休みになると日本に戻っていたらしい。彼は話のなかでボリビアと日本、どちらの場所にも「帰る」という言葉を使っているのがいいと思った。両親はいまも日本にいるのだという。

 「平塚に家はあるんだけど、いまはそこには住んでなくて、群馬の大泉町ってところに住んでる。そのまえは石垣島に2年住んでてカフェ・レストランかなにかやってました」

 

写真右がダヴィさん。左は友人のアロバロさんだ。

 

 彼はいまはリベラルタに住み、アーモンドの会社を経営している。もともと祖母がアーモンドを収穫していたところの土地を持っているという。祖母の話も少しだけしてくれた。

「僕のおばあちゃんは日本人だったんだけど、ボリビアで生まれたから日本語もしゃべれないし日本のことも知らなかった。70ちょっとで初めて日本に行って、でも、こっちでずっと生まれて暮らしてたから感覚は全然違う。ものの考え方が、例えばこっちの人って日本ではそれはやらないでしょっていうことをやる。遅刻はもちろんだったりとか、あと人を騙したりとか。まぁぼくも被害に遭うこともあるけど。もちろん人によってなんだけど」

 彼は照れ屋なのか、自分の話を始めてもすぐにビジネスの話や政治の話などに変わってしまった。いや単に日本とボリビアのどっちがどうとかなどという話よりも、いまいるところでやっていることに興味があるのだろう。ぼくはそれでいいと思った。

 

  日本人移民の足跡とその子孫を訪ねてきた旅はいったん、この日このリベラルタで終わることになる。サンタクルスからのべ30時間ほどかけ、1400キロ以上の道のりを走ってきたが、飛行機なら2時間しかかからない。

 自分も南米の地で育っていたらどうなっていただろうか、という半ば憧れのような気持ちをきっかけにいろんな人と会ってきたが、「日本人とは/日系人とはなにか」という問いがいつのまにか、遠い外国の地で「日本」のなにかを感じられるとちょっとうれしい、というような安易な満足に変わってしまう瞬間も多々あった。そのことは、自分がいかに自国文化に影響を受けているのか、言い方を変えれば、いかにそれに捉われているかを証明するものでもあったと思う。

 ○○人よりもまず自分は地球人、みたいな言い方があるが、どこで育ちどの言語を獲得しどの地域・国の常識や価値観を元にするかで、人が分類されていくのも事実だ。とすれば、ぼくが出会ってきた日系人たちは、さまざまなレベルで「日本」とかの地との垣根をつなぐ存在と言うことができるのではないか。1世より1世、2世より3世というふうに、世代を追うごとに彼らの「日本人としての意識」の距離は伸びていき、同時に我々「日本人」の鏡となっていく気がする。

 彼らがどんどん現地社会に入っていって、そのことが我々から遠ざかっていくことだとするならば、距離が彼らの可能性であるし、我々がその距離を持ってしても同胞と認めることができるのかという度量が試されるものでもあるからだ。そして同時に同胞とはいったいなんのことか、という問いも生まれる。

 リベラルタに来て、日本人の先祖を持つという人たちにたくさん会った。何人かの人と会話をして感じたのは、なんの意味があるのだろうということだった。ぼくには、彼らを日系人という括りで語ってしまうことは、自分だけが満足する乱暴な方法のように思えた。彼らはぼくたちと同様に日本にルーツを持つ隣人だ。日本という国や文化が諸外国からの影響を受けて形成されてきたように、彼らの要素の一部になっていればそれでいいのだ、と思う。あとは友人になればいい。

 またいつかこの街を訪ねたら、今度はできるだけ友人のようにくだらないことから政治のことまでを話してみたい。街の魅力とか、メルカドの猿とかを、旅行者として楽しんでみたい。

 

 最後に、先ほど書いたリベラルタのダヴィさんの話のなかで、印象に残ったエピソードを紹介して、この連載を終わりにしようと思う。この話にぼくは、「外」からやってきた人が「中」に入っていこうとする瞬間が表現されているように感じた。

 

 「ロシア人のドクターが僕たちの友だちだったんだけど、彼は156歳のときにボリビアに来て、それで大学に行ってお医者さんになったんだけど。その研修で一年間、かならず地方に行かなくちゃいけないってことで彼はリベラルタに来て、すごく驚いたことがあったんだって。ここではどんなに貧しい家族でも、餓え死にとか栄養失調になるとかしないんだと。家族がみんな集まって住んでるからかな。たとえば、ここの家、こっちの家、もう一個の家、もともと全部ひとつの家。ここは僕の家で、となりはおばあちゃん、そのとなりは叔母さん、そ向こうの終わりのブロックまでみんな家族。だからそういう食べ物に困らないっていう習慣があるのかもしれない」

(29・了)

 

本連載は今回で最終回となります。ご愛読ありがとうございました。
加筆修正をおこない、今秋書籍化予定です。