今私は、うちの近所の何の変哲もない町をどうやって楽しむかという問題に取り組んでいる。
私の家の周辺は住宅と田畑が混在する地味なところで、名の知れた名所があるわけでもなく、まあ、どこにでもありそうなふつうの町である。その何の変哲もないわが町を、日々無闇に歩き回って、旅情のようなものが引き出せないかと格闘しているのである。もし家の近所で海外旅行のような旅情が引き出せたら、たとえ度重なるパンデミックに襲われたとしても楽しく暮らせそうではないか。
考えてみれば、何の変哲もない町なんてそこらじゅうにある。大きな観光スポットのない地方都市だったり、大都市近郊のニュータウンだったり、失礼ながら読者の家の近所もたいていそうだろう。もし旅行中にそういう町で時間をつぶさなければいけなくなったとしたら、どうやって楽しめばいいだろうか。私の取り組みはその予行演習も兼ねている。
べつに楽しまなくてもいいのではないか、喫茶店にでも入ってやり過ごせばいいのでは? という考えもあろう。だが私は、何の変哲もない町には何の変哲もない町なりの情感のようなものがあると考えているのである。
散歩していると、珍しい形の街灯だったり、ふしぎな形の道路だったり、謎の建造物だったり、異世界風の路地だったり、変なふうに生えた植物だったり、ちょっとおかしな看板みたいなものに出会う。観光ガイドブックに載るようなものではないけれど、そんなとき、
あ、これ、いい感じ。
と一瞬思ったりする。
ときには、それらの風景から旨味のようなものがじわじわと滲みだしているように感じることもある。
だとすれば、それに向き合ってじっくり味わえば、何の変哲もないわが町でもそのうち旅情を感じられるようになるのではあるまいか。いわゆる絶景でもなく、歴史のある街並みもなければ、豊かな自然に囲まれているわけでもない平凡な場所で、ちょっとした旅行気分になれるのではないか。
思えば最近は散歩がブームで、路上でふつうに見られるこれまで注目していなかったものに注目し、それらの写真を撮りためたり、それをSNSにアップしたりして楽しむ人が増えてきている。
そこでは地形だったり、坂や階段だったり、公園遊具や石仏、路上の植物、暗渠、電線、鉄塔、給水塔、歩道橋、狭い路地、道路標識、変な看板、さらにはエアコンのダクトや電気の配管まで、街にあるありとあらゆるものが収集されていて、それはまさしく何の変哲もない町から引き出された、その人なりの隠れた観光スポットと考えることもできそうだ。
「センス・オブ・ワンダー」という言葉がある。
著書『沈黙の春』で地球規模の環境破壊に警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソンが未完の遺作につけたタイトルで、大自然のもつ神秘やふしぎをキャッチする感性のことを表す。カーソンは、嵐の夜に幼い甥を連れて海岸へおりていったときの興奮や、大自然に包まれることの喜びについて書きながら、その言葉を定義している。
センス・オブ・ワンダー
その感覚はとてもよくわかる。私も大自然のなかに身を置くと、強い畏怖の念が呼び覚まされる思いがする。ヒマラヤにトレッキングに行ったときは、目の前にそびえる圧倒的な斜面に超自然的な何かが宿っているような気がしたものだ。
では、海岸やヒマラヤのような自然のなかではなく、うちの近所はどうか。何の変哲もない住宅地であるうちの近所で、そのような感動を得ることはできないだろうか。
カーソンによれば、「センス・オブ・ワンダー」は子どもが生まれつきそなえ持っているもので、《この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです》とのこと。文字通り読めば、人工的なものは毒と言っているように読める。
たしかに、うちの近所の住宅地に、彼女のいう「センス・オブ・ワンダー」はないかもしれない。
それでも公園遊具や電線や変な看板のような路上のいろいろなものが人を惹きつけるなら、そこには何か別のセンスが介在しているにちがいない。
そこで私は、何の変哲もない町に感応できる感性を、センス・オブ・ワンダーと名づけたい。
いっしょやんけ。
とツッコんではならない。カタカナで書けばいっしょだが、アルファベットで書くと違うのである。
The Sense of Wonder(レイチェル・カーソン)
The Sense of Wander(私)
見てもらえばわかる通り、こっちはWander=散歩なのである。
私なりに意訳するなら、散歩で出会う何の変哲もない町の風景に感応するセンス、とでも言おうか。
私はこのセンス・オブ・ワンダーを胸に、自宅周辺から範囲を広げて東京都内の散歩に取り組んでみようと思う。絶景でもなく、歴史のある街並みでもなければ、豊かな自然に囲まれているわけでもない都市でこそ、このセンス・オブ・ワンダーが活きると思うからだ。
なお、混同を避けるため、この新たに命名されたセンス・オブ・ワンダーを表記するときは《センス・オブ・ワンダー》、本来のレイチェル・カーソンのほうは「センス・オブ・ワンダー」と括弧の形で書き分けることにする。
パンデミックで遠出できないときにも実現可能な、遥かなるそこらへんの旅になる予感がする。
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