●過去は思っていた風景と全然違うんじゃないか疑惑
昔の地図を手に街を歩き、現在の街並みと照らし合わせながら、
「ああ、昔ここには大名屋敷があったんだなあ」
「おお、ここはかつて川だったのか」
などと古の風景を想像し、歴史に思いを馳せる人がいる。最近はそのための地図やアプリまであるようで、まれに観光地でもない場所を年配の団体が地図を片手に歩いている光景に出くわすことがある。
なるほど私も、子どもの頃に住んでいた家を見に行って、
「昔ここはだだっ広い空き地だったのに、今ではすっかりマンションが建ち並んでしまって」
とか、
「この用水路、こんなに狭かったっけ?」
とか、
「なんと初めて好きな人に告白した記念すべき電話ボックスがまだある! 世界俺遺産かよ」
なんて言って懐かしがることはあるものの、江戸や明治まで遡って感慨にふけることはない。その場所で大昔に何があろうが、とくに何も感じないのは想像力が貧困なせいだろう。
ここは何々事件があった場所で誰が誰に斬られたとか、かつては合戦場で、多くの死体が浮かんで川の水が真っ赤に染まったと言われても、怖い話のように頭で思うだけで、心はまったく動じない。そんなことより、電話で初告白玉砕事件のほうがよっぽど動揺する。
電話で初告白玉砕事件現場
ましてそれが自分のよく知らない街の歴史ともなるとどうだろう。過去を知ってみたところで、具体的な何かを想像するのは難しいのではないか。
知らない場所なうえに知らない過去ともなると、知らないが倍である。江戸時代ぐらいになると、もはやステレオタイプな時代劇のイメージしか湧いてこないのだった。
さらに白状すれば、私の頭の中では江戸も大阪も博多も同じ街並みになっている。本来そんなはずはないのだが、よく知らないから全部同じで、脳内に時代劇の書割でもあるかのようだ。
古地図を手に散歩をしているような人は、実際のところ、どんなふうに風景を眺めているのだろう。時代劇以上の何かを思い浮かべているのだろうか。
たとえば、坂本龍馬で考えてみよう。
かつてこの場所を坂本龍馬が歩いたかもしれないと知らされて、何を思い浮かべるのか。
坂本龍馬の顔?
まあ顔は浮かぶだろう。そこからどういくか。
坂本龍馬の人生全体をストーリーとして反芻して、その生きざまをなぞるのか。
あるいは鎌倉街道はどうだろう。
ここはかつて鎌倉街道と呼ばれ鎌倉と武蔵の国、上野の国を結ぶ道でしたと聞いて、片側二車線の車道をプリウスが走っているのを見せられたとき、何を思うのか。
鎌倉武士が馬に乗って歩いている姿を思い浮かべられるだろうか。仮に思い浮かべることができたとして、その姿は歴史に照らして正確だろうか。
実際どんな姿だったのか確かめようもないが、たぶんそれはあまり正確ではないだろう。
いったい何が言いたいかというと、過去は自分の知識の範囲でしか思い浮かべることができず、なおかつその知識もおおむね間違っているということである。
われわれが思い浮かべられるのは、せいぜい時代劇のワンカットでしかないのである。
べつに私は古地図好きな人を貶めたくてこんなことを言うのではない。
ここで主張したいのは、過去とはどうしたってそういうものであり、もしそうであるならば、開き直って自由に空想しても罰は当たらないのではないか、ということだ。
思い切ってたがの外れた空想をしたとしても、実際はさらにその上をいっていた可能性もある。もしタイムマシンで過去を見に行くことができたら、きっと誰もが
「思ってたのと全然ちがうやんけ!」
とツッコむんじゃないかと思う。
前置きが長くなった。
今回の散歩は、あえて知らない過去を訪ねてみようと考えている。気になっている場所があるのだ。
吉原である。
江戸の色街であり、時代小説でもよく登場するあの吉原。
気になっていたのは、男たちが柳橋から舟に乗って隅田川を遡り、山谷堀から堤を歩いて吉原に向かったその道筋を、異界への道行きになぞらえたタイモン・スクリーチの論考を読んだからだった(『江戸の大普請 徳川都市計画の詩学』)。
吉原へ通じる道は、男にとってはファンタジー世界だったとタイモン・スクリーチは言う。
当時の吉原は田園地帯の中にポツンとあり、そこへ隅田川からクリークが通じていて、その堤を歩いていくと、その先に異界とも言える歓楽街が待ち受けている。
期待に胸膨らませながら行く道筋は、男たちにとって、現実から虚構の世界へと繫がる通路なのだ。
吉原では、その異界への通路が舟と堤だった。
私は、ファンタジー世界や舟といった単語から、不覚にも東京ディズニーランドの「カリブの海賊」を連想してしまった。
貧困すぎる想像力に自分で呆れる。
しかしその道が「カリブの海賊」的でなかったとは言いきれない。
「カリブの海賊」は陽気な音楽に惑わされるが、よくよく見れば村人にとって凄惨な状況が描かれている。吉原も同じで、売られてきた女性にとっては生涯外に出ることもできない地獄であって、その凄惨な感じが似ているとも言える。
そんな異界への道があった現場に行ってみようと思ったのは、それがステレオタイプな時代劇のイメージを超える風景のような気がしたからだ。
江戸末期から明治にかけて活躍した浮世絵師河鍋暁斎の『東京名所 新吉原日本堤之図』を見たからかもしれない。河鍋暁斎の描く吉原は、私がイメージしていたのとなんだか違っていた。
そこには、六角屋根の尖塔がそびえ、どこか西洋風の建物群が、広い葭の湿原に、そこだけフランスのモン・サン・ミッシェルのように盛り上がっていたのである。
田園地帯にそびえる不夜城。
もしこの絵が本当だったら、きっと夜もそれなりに明るかったはずだから、江戸時代にしてはずいぶん奇異な光景だったにちがいない。
今でこそ田舎の何もない場所にラブホテルやパチンコ屋がギラギラ輝く光景を見ることができるが、江戸時代にもそんな風景があったのだろうか。
河鍋暁斎という人は、絵を盛りがちだったそうだから、実際にはこんな風景はなかったかもしれないけれど、タイモン・スクリーチと河鍋暁斎を合わせてみると、なんだか吉原が、われわれがイメージする過去(時代劇的風景)とかけ離れた異形の場所であったかのように思えてきた。
ひょっとすると、江戸時代は現代人が想像している江戸時代と違う風景だったんじゃないか、時代劇みたいな世界ではなかったんじゃないか。
たぶん現場に行っても何もわかるまいが、ちょっと行ってみたくなったのはそういうわけなのだった。
西山くんとは浅草駅で待ち合わせた。
もし江戸の異界への道を追体験するなら、本来はもっと南の柳橋から歩きはじめるべきかもしれない。かつての吉原へは、柳橋から舟に乗って隅田川を遡り、山谷堀から堤を歩いたのだ。
ただ今回は時間の関係で、隅田川の前半を省略した。
吾妻橋の交差点に出ると、五差路だった。
その一番鋭角的なブロックに東武浅草駅のビルが建っているさまは、ちょっとだけニューヨークのタイムズスクエアのようだった。
まるでニューヨークのような吾妻橋
隅田川の方を見れば、有名な金のうんこビルとスカイツリーが見える。
スカイツリーと広い隅田川
当時の様子を頭に思い浮かべるには、あまりに発展していて、さっぱり何にも関連が見いだせないが、墨田川は江戸と言って思い浮かぶ川幅よりずっと広く、江戸にこんな広い川があったのかと意外の感に打たれた。
浮世絵で見る隅田川はここまで広くなかった気がする。
まさか川が拡大したわけはないから、江戸のイメージは私の脳内でせせこましく改変されているにちがいない。
幕末の写真などを見ても、大名屋敷の壁が高く、道も広く、かつそこに人はまばらにしか歩いていない印象があり、江戸は実は想像よりもデモーニッシュにデカかったんじゃないかと疑われる。
そこから川沿いの公園を遡った。
江戸の男たちが舟で遡った道。
公園にあったエビフライ型の遊具
待乳山の聖天付近で男たちは舟を降り、吉原に向けてクリークを行くのだが、広重の浮世絵を見ると、待乳山(真土山)は、ちょっとしたランドマークで、今よりすいぶん高く見える。その山を回り込んだところに山谷堀がある。
山の陰に回り込んだ先に異界への通路があるのは、なかなか映画的だ。ボートに乗って岸壁を回り込むと、どーんと未知の国が広がるのはファンタジー映画のお約束である。
ただ、現在はクリークは埋め立てられて山谷堀公園になっている。
待乳山聖天にお参りすると、境内の奥に小さな斜行エレベーターがあったのでそれに乗った。階段で下りてもすぐだったが、ボートのかわりに乗ったのである。
待乳山聖天
斜行エレベーター
この連載は月2回の更新です。
次回は2023年3月15日(水)に掲載予定です。