●十字架型の池と、東京の絶望
おとめ山公園の森にたどりついたのは、さらに歩き出して20分ほど経った頃だった。ここは目白崖線の急斜面がえぐられて小渓谷になった窪地で、最奥で水が湧いている。目白崖線にはこういう窪地がいくつか並んでいるらしい。
驚いたのは、森がこんな都会にあるにしては鬱蒼と深く、まるで深山に来たかのような趣だったことだ。
おとめ山公園
都会で濃い自然に出会うとうれしくなる。とくに今日みたいな日は木陰に入るだけでずいぶん気温が違う。
こんな森がずっと続いてくれれば歩きやすくて助かるのだが、公園はそんなに大きくない。われわれはすぐまた灼熱の住宅地に出て坂を上ったり下ったりしながら、オバケ坂へ向かうのであった。このあたりまさに目白崖線の本領発揮である。
しかしオバケ坂とは何のことだろう。過去に幽霊でも出たのか、それとも化け物じみて急なのだろうか、と考えながら到着。すぐに上りはじめたが、とりたてて特徴がない。何か由来でも書いていないか探したけれど、見つけられなかった。
なんなんだオバケ坂。
期待していたのに、ごくごくふつうの坂じゃないか。後に西山くんが調べたところによると、このあたりの崖(目白崖線)を意味する“バッケ”という言葉がなまったという説があるようだ。オバケ関係なかった。
オバケ坂
ただ左手に野鳥の森公園があって、雰囲気はよかった。おとめ山公園もそうだが、都会の住宅地の横に突然鬱蒼と茂る森というのは、心癒されるものがある。
気を取り直し、そのあと東長谷寺の薬王院を回り込んだら、うさぎとふくろうの車止めがあって、よく出来ていた。これもまた由来は書いていない。が、由来や能書きがどうあれ見た目が面白いかどうかが大切だ、とたしか岡本太郎も言っていて、言ってないかもしれないが、言ったも同然であり、由来のわからないものが次々と現れる展開は面白い。
うさぎとふくろう
この車止めから新目白通り方向へ下りていく階段が、なんだか風情があるなと思ったら、『東京の階段』でも紹介されていた。蛇行しながら70段以上あり、新宿方面の眺めがいいと書いてある。蛇行した長い階段はそれだけで十分魅力的という言葉に共感した。
蛇行した階段の魅力、それはいったい何なのだろう。一歩進むごとに変わっていく景色、この先に何が待っているのだろうという期待感、まっすぐな階段に比べてずっと面白そうな気配を纏わせている。いずれにしても、こういう小さな景色を拾って歩くことが何の変哲もない住宅街を楽しむコツなのだということが、私にもだんだんわかってきた。
それはいいのだけれども、その魅力をじっくり味わう前に、われわれのほうがもう限界に近くなっていた。
ここまで、まるで順調に歩いてきたかのように書いているが、ちっともそんなことはないのである。陽差しが容赦なさすぎるのである。
やはり、冷静に考えて、歩いてる場合ではないのでないか。
そうしてついに新目白通りと聖母坂通りが交わる交差点で、これ以上の続行は無理とわれわれは判断、いったん喫茶店に撤退して今後の対応を協議しようということになった。
「この少し南の下落合駅の近くに喫茶店があります」
と西山くんが検索で見つけ、そこへ命からがら避難したのである。
「4時までここで待機しよう」
喫茶店で冷たいコーヒーを飲んだところで、私は言った。
この時点で下落合駅から撤収という案もなくはなかったが、4時ぐらいになれば少しは陽も傾いて生命の危険に脅かされることはなくなると考えたのである。
地図を見ると、ここから哲学堂公園までは直線距離で2キロぐらいである。普段ならまったくたいしたことのない距離だ。
地図を見ると目白崖線はここから妙正寺川に沿って西へ進み、あるところで急に北へ折れて哲学堂公園へ向かっている。途中崖を上る坂が一の坂から八の坂まで並んでいるのが面白い。だが、私はここから目白崖線を離れ、北西へ向かうつもりだった。
というのも、途中気になる場所があるからだ。東京スリバチ学会会長の皆川典久さんの『東京スリバチの達人 分水嶺東京北部編』という本に、不動谷という出口のない谷があると書かれていたのである。そこは住宅地なのだが、そこだけ狭い範囲が窪んでいるのだという。谷ならば窪んでいても下流側は開けているものだが、ここは山手通りの建設と周囲の宅地造成のために塞がれ、窪地になったのだそうだ。
その、出口のない谷、という言葉に惹かれてしまった。ぜひ見に行きたい。
4時になって喫茶店を出ると、期待通り暑さはかなりましになっていた。夏ぐらいの暑さと言えばいいだろうか。今どきの酷暑とは違い、昔は夏でも平気で外を出歩けたものだ。西山くんと私はやっと生気をとり戻し、こんなことなら4時集合でもよかったと反省した。
西坂を上ると「かば公園」があり、入口と公園内にコンクリートのかばがいた。児童公園にかばは付き物だが、ここのは独特で口から中に入っておしり側に抜けられるようになっており、胎内に内臓の地図が描かれていた。
かば公園のかば
かばの内臓
この遊具で遊ぶ年齢の子どもには難しすぎるのではないか、と思ったが、あとで調べると、このかばはわりとあるタイプのようだ。
児童公園の遊具というのは、もう大人なのでべつに遊びたくはならないが、なんだか気になるものである。派手だしキャラが立っているから、つい目が吸い寄せられるのだろう。ネットを見るとファンもたくさんおり、全国各地のユニークな公園遊具が採集されていて、なかなかハマリ甲斐のある世界に思える。誰も探求してなければ自分がやっていたかもしれない。
山手通りを越えると、問題の不動谷である。何の変哲もない住宅地の中にそれはあった。
三方から下り階段が集まって鍋底のようになっている。残る一方は緩やかな坂で、中心に立つとここが出口のない窪地であることがわかる。先ほどから引用している『東京の階段』でもこの場所を厚く紹介していた。このような場所は都内でもあまり見当たらないそうだ。珍しい環境に遭遇したという、妙な高揚感があると書かれてあった。
この階段の下が谷底になっている
わかる。妙な地形、珍しい風景にはちょっとした感動がある。
写真では全景が撮影できないのでわかりにくいが、私としてはいいものを見た思いであった。私は大雨が降ってここに水が溜まった情景を想像した。排水の配慮はされていると思うが、もし水が溜まったなら道路の形から十字架型の池になるはずである。住宅街のなかに突如十字架が現れたらかっこいいのではないか、キリストの奇跡なんていって話題になるのではないか。
不謹慎な話だが、ふだん陸地である場所が大雨などで水没した風景を見るのが私は好きで、たとえば湖が増水して湖畔の道路が冠水し、そこに白鳥が泳いでいたり、浅瀬だと思って魚が進出してきたりしている映像を見るとわくわくしてしまう。南米アマゾンのジャングルが雨季に水没し、木々の間を魚が悠然と泳ぐ映像を見たときは、テレビに釘付けになったし、アマゾンどころか、近所の交差点の中央部に水たまりができ、その水中で何かがピカピカ点滅しているのを見たときは、興奮のあまりのけぞったぐらいだ。
あの交差点の中心でピカピカ光っているのは何なのだろう。水没したところを見るまではさほど気に留めていなかったが、水中で光るのを見て以来、名前もわからないあれが好きである。
ふだん見慣れた世界が、水没することで非日常、もっといえばファンタジーのような世界になるのがいいのだと思う。
後でふり返ると、この十字架池を夢想したあたりから、私の胸の奥に、東京の散歩も捨てたもんじゃないなという思いがむくむくと湧きあがってきたようである。
というのも、私は関西から東京に移り住んで30年以上になるが、東京の町にあまりいい印象を持っていないのである。東京に来てはじめて社員寮の屋上から景色を眺めたとき、激しい衝撃を受けたからだ。
そこには見わたす限りどこまでもビルとマンションと住宅がびっしりと建ち並んで、無限に続くかと思える巨大平野が広がっていたのである。山影のひとつも見えなかった。
なんて味気ない土地なんだ。
風景の不毛さに慄然とした。
もしかして空気の澄んだ晴れた日であったなら、富士山や丹沢の山々が見えたのかもしれない。だがその日は曇っていたのか霞んでいたのか、それともマンションの陰で見えなかったのか定かでないが、とにかく山が見えなかったことに深く絶望した。
東京の街がどこまで行っても似たような景色のつづく永遠の牢獄に思え、お前の人生はこの先も死ぬまでアスファルトの照り返しで暑いであろう、と宣告されたような気分だった。
以来、私は東京の風景にほとんどなじめないまま過ごしてきたのである。東京こそは、私にとってそこらじゅう何の変哲もない町の代表なのであった。
この連載は月2回の更新です。
次回は2022年9月30日に掲載予定です。