●空想の箱庭と、世紀末マンション
目白通りを渡ると、その先は道路が碁盤の目のように整然となっていてあまり面白くなかった。やはり道はぐねぐね曲がっていてこそ歩き甲斐があるものだ。ここまできたらさっさと哲学堂公園にたどりついてしまおうとスタスタ歩き、途中児童公園でアシカの遊具があったので見物した。
アシカの遊具
二匹のアシカが互いに寄りかかっている。あとで検索すると、同じものがたくさん出てきたから、珍しいわけではないようだ。
そうして5時過ぎぐらいだったろうか、ようやくわれわれは哲学堂公園に到達した。前半はどうなることかと思ったが、無事に生きてたどりつくことができた。熱波で死ななくてほんとうによかった。
そのまま念願の哲学堂公園をゆっくり歩く。
哲学堂公園は明治の終わりから大正のはじめにかけて仏教哲学者の井上円了が建設した精神修養の場で、彫刻や橋や建物にいちいち哲学的な名前がついていて面白い。《唯心庭》《概念橋》《宇宙館》《絶対城》《無尽蔵》《理想橋》など、井上円了がそれらを名付けながら楽しそうにしている光景がありありと頭に浮かんできた。
なんであれ場所に名前をつけるのは楽しいものだ。しかもそれが哲学からの引用となれば、庭と哲学はもともと相性がいいので、いかにも意味ありげな空間をつくり上げることができてたいそう愉快だったろう。
六賢台
四聖堂と宇宙館
理想橋
広場にそびえる六賢台のシルエットもかっこいいし、宇宙館の名前もいいが、私が一番面白かったのは、理外門だ。看板のあたりに門が見当たらず、かろうじて街路樹の添え木のような門ぽいものが見つかった。これが理外門なのだろうか。
理外門の看板
これが理外門?
看板にあった名前の由来が興味深い。
〈哲学を論究し尽くした上は、必ず理外の理の存することを知る故に、本堂の裏門に当る現地をかく名づけている〉
と書いてある。つまり哲学で説明できないことがあると言っているわけで、これだけ壮大にいろいろつくっておいて、今さら何をかいわんやである。自らを全否定しているとも、逃げを打ってるとも見える。一方でそれがまた禅的でもあり、誰かにこの公園を否定されたら、ここに連れてきて煙に巻くつもりだったのではないか? などと邪推することもできる。
場所に意味を重ねて遊ぶ、実はこの公園と同じようなことはわれわれもよくやっていて、テーマパークなどはだいたいそうだし、日本庭園が極楽浄土を表現しているとか、そこまで大きな話でなくても自分の部屋を南国リゾート風にするとか、子どもが横断歩道の両側を海だと空想するとか、何でもない場所を脳内で非日常的世界と結びつけるのは、人間が本質的に持っている嗜好なのだろう。そしてそれはとても楽しい遊びなのだった。空間に空想のレイヤーを重ねることで、束の間現実と異なる世界線を生きるわけである。ジャングルクルーズなんて言ったって人工の池じゃん、とか、あのワニただの人形じゃん、とかそんな野暮な真実どうだっていいのだ。空想するだけで楽しいんだから。
このことは何の変哲もない町を楽しむときのヒントになりそうだ。
考えてみれば、私が今回東京を歩きはじめたのも、そこに地形や、階段、公園遊具などの特異点を見出すことで、それぞれのレイヤーを行ったり来たりすれば楽しめるのではないかという意図があってのことだ。いうなれば東京を自分の好きなものがゴチャゴチャとちりばめられた箱庭として見ようとしているわけで、大きくとらえれば、井上円了にとっての哲学堂公園づくりと似たようなものかもしれない。
散歩によって、頭のなかに自分だけの箱庭をつくっているのである。
ここからさらに一歩踏み込むには、その箱庭を何と結びつけるかを考えればいい。井上円了にとっての哲学に相当するテーマを設定するのだ。
今現実にそれをやっているのは、ポケモンGOだろう。町にポケモンの世界を重ねて、その中を探索する。ポケモンGOは何の変哲もない町の散歩を劇的に変えたのである。さらにそれをもっと進めたのがAR(拡張現実)ということになるだろうか。
私はしかし、そんな未来のIT技術みたいな本格的な話を書いていたつもりはないのだった。ポケモンGOもARもちょっとちがう気がする。たとえばうちの近所に世界地図を重ねて、そこにパリの凱旋門や、カンボジアのアンコールワットをARで出現させたら面白いかもしれないが、そうなるとなんだか寂しい。それはむしろ何の変哲もない町を別のものに完全に塗り替えてしまうことであり、何の変哲もない町を否定し、ARの中に逃げ込むのと同じである。そこではなくて、現実の町と繫がったまま楽しませてほしいと私は思うのである。
こうして私は哲学堂公園を堪能した。まさに最初の散歩にふさわしい終着点であった。
さて今日の目的は達したので、あとは最寄りの駅まで歩くだけだ。
と思っていると、西山くんが
「あの治安の悪そうなところをもう一度見たいです」
と言い、何のことかと思ったら、公園の横を流れる妙正寺川の護岸壁のことだった。壁の中に廊下のような空間があり、その壁に巨大な落書きがたくさん書かれていたのだ。たしかに悪そうな雰囲気である。
妙正寺川の岸壁
あの廊下はいったいなんだろう。対岸に渡ってその廊下を目指したが、そこへ行くには高い柵を乗り越えねばならないようで断念。落書きの主は勝手に柵を乗り越えて侵入したようだ。
たどりつけない廊下の意味ってなんだろうか。あれはいったい何のためにあるのか、と考えていて、私はふとその横に建つマンションの姿に目が釘付けになった。
そのマンションはどこかしら異様な雰囲気があった。なんだか世紀末を思わせるのである。
何が世紀末なのかまじまじと眺めてわかったのは、マンションの1階が空洞になっているところに怪しさが満ち満ちているということであった。
いや、1階ではなく地下と言うべきだろうか。道路より一段低い広場の中に建っていて、建物がゲタをはいたように嵩上げされている。その誰も住んでいない地下部分のがらんどうな光景が世紀末ぽいのである。
それでわかった。このマンションの基礎部分は妙正寺川が増水したときに水を貯める調整池になっているのだ。風景が世紀末ぽいのは、そのときが来れば水没するため、地下がすべて無になっているからだ。そしてあの落書きだらけの廊下はといえば、増水時に水を川からそこへ溢れさせ、このマンション下に誘導するための水路なのだった。治安の悪そうな廊下にはそんな壮大な野望が隠されていたのである。
調整池に建つマンション
私は洪水時に池の中に立ち上がるマンションの姿を想像してみた。世紀末的な凄みも消えて、湖上の宮殿のようなちょっと素敵な眺めになるように思えた。そう考えると、ここもある種の絶景ではないだろうか。哲学堂公園の隣にこんなものがあったとは。
「この周辺は歩くとまだまだ面白い場所がありそうですね」
西山くんが言い、私もふむふむと頷いた。
何事も現場を歩いてみるものなのであった。
今回さんぽした場所
この連載は月2回の更新です。
次回は2022年10月14日に掲載予定です。