●町の中の公園、山の中のコンビニ
前回の散歩から約1か月。
今度は、東急田園都市線の二子玉川駅に、西山くんと集結した。
ここから等々力渓谷を経て東急東横線多摩川駅まで散歩しようという計画である。直線距離にして約5キロ。例によってまっすぐ歩くわけではないので、10キロ近く歩くことになると考えている。
等々力渓谷は、以前から名前は知っていたが、どんな場所か行ったことがない。渓谷というからには自然の川なんだろうと思うが、地図を見ると都会のまっただなかである。
こんな場所に渓谷?
少しは谷になってるのかもしれないが、渓谷は少々大袈裟では? そんな感想を長年持ち続けていた。同じような人は案外いる気がする。
試しにグーグルのストリートビューで見てみても、まわりはびっしりと住宅に囲まれていて、とても渓谷がありそうに思えない。
なので、どんな場所か見てみたい気持ちはあるものの、正直たいしたことはないだろうと考えて、これまで訪ねてこなかった。この機会に、どのぐらい渓谷か、つまりどのぐらい大自然なのか調べてこようと思う。
一般的に、散歩しようとするとき、人は自然のある場所に惹きつけられるものである。自宅周辺を歩くときも森や公園などの緑が濃い方へ向かいがちだ。
それなのに、本連載ではあえて町なかを選んで歩いているのは、自然のなかでは出会わないものに、少しずつ親近感というか、魅力を感じはじめたからで、自然のなかだけを歩けばトレッキングやハイキングの話が書けそうなところを、敢えて町なかを歩いて路上を観察しようと意図しているからである。
町の中の散歩は、自然の森や山の中を歩くのとはだいぶ違う。そこには大自然の崇高さに打たれるとか、森の爽やかな空気に心身がリラックスするとか、それこそレイチェル・カーソンが『センス・オブ・ワンダー』のなかで強調した、地球の美しさ、自然の素晴らしさを感じとることによって、人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性を育むといったような経験があまりない。
自然の中ではそこらじゅうでレイチェル・カーソンのいうセンス・オブ・ワンダーを感じることができる
もちろん空を流れる雲や、用水路の底にゆらめく水草、けなげに咲く路上の花などに神秘を感じることはできる。しかし、
「わたしは、その場所、その瞬間が、なにかいいあらわすことのできない、自然の大きな力に支配されていることをはっきりと感じとりました」(『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン著 上遠恵子訳)
というほどの圧倒的な没入感を感じるのは難しい。
自然の中を歩くのと町の中を歩くのとでは、同じ散歩でも、別の感性を発動させる必要があるのである。
たとえば坂や階段、公園遊具や石仏、路上の植物、暗渠、電線、鉄塔、給水塔、歩道橋、狭い路地、道路標識、変な看板、そしてエアコンのダクトや電気の配管などを見て、レイチェル・カーソンが何か言うところを想像してみてほしい。たぶん何も言わないで黙っているか、もし何か言うとすればこうだろう。
「で?」
地球の歴史や大自然の営みに比較すれば、公園遊具が何ほどのものであろうか。変な看板を見て、自分が何か大きな力に支配されていると感じるだろうか。
そう考えると、町歩きは「センス・オブ・ワンダー」とは違うセンスを必要とし、かつそれを育むのであり、今回の等々力渓谷への散歩は、そこがThe Sense of Wonder(レイチェル・カーソン)が味わえるほどの渓谷かどうか確認しながら、The Sense of Wander(私)を心に携えて町を歩くという、二重の試みなのであった。
しかし二子玉川駅に集合してみると、われわれの前にまたしても例の問題が立ちはだかった。
暑い。
二子玉川、暑い。
前回哲学堂公園まで歩いたのは7月の頭で、今は7月末である。どっちも夏真っ盛りなのであった。
そもそもこんな時期に外を歩こうというのがどうかしているのではないか。
さすがに、そんな根本的な疑念を抱かざるを得ないが、とはいえ西山くんは働き者だから今回も決行するだろうと考え、私は日傘を用意してきた。
男のなかには日傘をさすことに抵抗がある人もいまだ存在するらしい。だが月面を歩くのに宇宙服を着ないと秒で死ぬように、夏の東京を日傘もささないで歩くと、秒とは言わないが半日ぐらいで死ぬのである。前回の目白でも途中喫茶店に避難しなければ死んでいた。日傘は女がさすものなどと益荒男ぶる男は、宇宙服なしで月面に降りてから言ってほしい。
さらに今回は前回の教訓をふまえ、ルートの途中に避難場所をあらかじめ用意しておくことにした。場所の選定を西山くんに任せたところ、喜んで探してくれた。なんでも西山くんはスイーツ好きで、休みの日はよくスイーツを食べに出かけたりするらしい。目白でも避難した喫茶店とは別に、あらかじめ気になる店を調べていたと言い、散歩の後にでもひとりで立ち寄ろうと考えていたそうだ。そんな西山くんなので、今回歩くルートのなかほどにちょうどいい高級スイーツ店を見つけておいてくれたのである。とても心強い。
そうして準備万端整ったところで、われわれは日傘で太陽光線をはね返しながら、灼熱の二子玉川の町へと繰り出したのである。
駅周辺の商業コンプレックスを抜け、モダンなデッキの上を東のほうへ進むと高層マンションがニョキニョキ生えている場所に出た。何十階建てなのだろうか、とても高い。
私は高いところが大好きだ。高所恐怖症って何それ? ぐらいのもんであるが、高層マンションに住むのは敬遠している。
二子玉川駅前のタワーマンション
だいぶ前に北朝鮮に行ったとき、首都ピョンヤンに建ち並ぶ高層マンションが、夜にまったく灯りが点いていなかった。ガイドに、あれはどうなっているのかと尋ねたところ、電力が足りないので交代で停電させているとの返事。A棟は、午後6時~8時、B棟は午後8時~10時というふうな停電スケジュールが組まれているらしかった。当然電気が来ない間は、エレベーターも動かない。言ってみればエレベーターに時刻表があるようなもので、高層マンションに住むのはローカル線に住むようなものだとそのとき思った。階段で行き来できない高齢者などは部屋でじっとしているしかない。
そうか、高層マンションは停電したら自宅まで階段で帰らないといけないのか。高齢者でなくても、20階とかに住んでいたら帰宅が山登りである。
実際には日本の高層マンションは自家発電するから、そんなに停電しないだろうとは思う。それでもやはり念のためということがある。私が高層マンションには住まないと決めているのはそういうわけである。どうせ私には買えないということもあった。
広い公園に出て左に曲がり、上野毛通りを上りかけたところにまた公園があった。上野毛自然公園といって、ありがたいことに鬱蒼とした森になっていて太陽の光をさえぎってくれた。
散歩をするときはつい公園を目印にしてしまう。地図で見るとたいてい公園は緑色であり、その緑色をつなぐようにルートを設定しがちだ。
そのことは先にも書いたが、これは少々意にそぐわないことである。というのも今回私は、レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」ではなく、散歩の感性であるところの《センス・オブ・ワンダー》を磨き、その真実に迫りたいと冒頭で宣言しているからだ。つまり自然の大きな力に魅了されるのではなく、町歩きの魅力を言葉にしようと考えているわけである。
それがどうだ。さっそく自然公園に立ち寄っていい気持ちになっている。日差しが防げてとても涼しい。この公園は町なかにありながら森が濃く、写真をうまく切り取って見せれば登山中かと思わせることもできるぐらいの空間である。
上野毛自然公園の入り口
町歩きはどうなったのか。これでは当初の志を貫いているとは言えないのではないか。ブルータス、お前もレイチェル派か、とそしられても仕方がない。
しかしそれはこう考えるとどうだろう。もし山の中をトレッキング中に、突然コンビニがあったら寄るだろうかと。どうだ、寄るだろうコンビニ。まず寄らない理由はない。すぐさま立ち寄ってカルピスウォーターとか、ウイダーインゼリーとかを買うに決まっている。それと同じように、町なかを歩いている途中に公園があれば寄ってほっとするわけだ。
自然のなかの文明はオアシスであり、文明のなかの自然もまたオアシスなのだった。
そんなわけで町歩きの途中に自然に立ち寄ることは何の問題もない。
しばらく進むと、今度は上野毛稲荷塚古墳という自然なのか人工物なのか微妙なものが出てきて面食らった。
古墳だって?
全長20数メートルの前方後円墳で、古墳時代前期4世紀後半ぐらいに築造されたものだそうだ。私は関西の出なので、古墳ならたくさん見てきたが、東京のこんな都会の一角に古墳があるとは知らなかった。後で知ることになるのだが、実はこの周辺には野毛古墳群といって多くの古墳が残っているらしい。
上野毛稲荷塚古墳。私有地のため柵越しに垣間見た。
上野毛稲荷塚古墳は、教えられなければ、単なる草むらにしか見えなかったものの、もしこれがもっとはっきりと古墳型をしていたら、古墳のような古くてモコモコしたものが、カクカクした現代の都会に平然と居座っているのは不釣り合いもいいところだから、いい感じの風景になったにちがいない。顔全体が蝶々結びみたいな髪型になってる古代の男性が、突然現代の恋愛ドラマに登場したようなチグハグさが醸し出されたはずだ。
思えば、世界遺産に登録された大阪の百舌鳥・古市の古墳群を見に行ったときも、住宅街のなかに突如現れる古墳がいくつもあって愉快だった。
言われなければ古墳とわからない小さな盛り上がりに過ぎないものもあったが、なかには面白い古墳もあって、丸ごと公園になって上を走り回れたり、高速道路の下の地面が盛り上がっていてそこも古墳だったりした。高架下の古墳は今まで見たなかで一番意外性のある古墳風景だった。日陰で草が生えず、砂場の砂山みたいだった。古墳の主も将来、頭上を巨大なコンクリートの橋桁が通ることになるとは想像もしなかったことだろう。
野毛古墳群にも、ひょっとしたらどこかに奇妙な風景を生み出している古墳があるのかもしれない。
この連載は月2回の更新です。
次回は2022年10月28日(金)に掲載予定です。