sense of wander 宮田珠己

2022.12.15

09赤塚から高島平(2)

●三番目大仏巡礼

 乗蓮寺にやってきた。東京大仏のあるお寺である。
 東京大仏は、黒々とした御姿で境内の一角に坐しておられた。青銅製の阿弥陀如来坐像で、高さは8・2メートルあるそうだ。

真っ黒な東京大仏

 一時は奈良、鎌倉に次いで日本三大仏のひとつと言われたこともあったようだが、日本三大仏を名乗る仏像は全国各地にあり、青森にも、富山県の高岡にも、大阪生駒の石切神社参道にも、兵庫でも岐阜のほうでも見たことがある。どれも自らの正統性を謳っているが、おしなべてこじつけ感が否めない。最終的にどれが三番目と決まらないのも、それぞれに説得力を欠いているからだろう。今では茨城県の牛久に120メートルもある超巨大仏ができて、規模では奈良や鎌倉も霞んでしまい、日本三大仏などすっかりうやむやになってしまった。

 そもそも三大仏どころか、巨大に思えた奈良の大仏でさえ高さは約15メートルに過ぎないことを思うと、120メートルの牛久大仏は高校生の100メートル競走にウサイン・ボルトが出場したぐらい、いやそれよりもっと、子どものけんかにロシアがT14型戦車出してきたぐらい話が違ってきた印象であり、こうなると奈良よりも低い仏さまはもう大仏とさえ呼べないのではないか。中仏と呼ぶべきでは? などと考えてしまうが、そうはいっても人間よりは大きいので、目の前に立つと東京大仏にはやはり圧倒されたのだった。

 東京大仏の特徴はマットな黒さだ。必要以上にギラついていない黒さがいい。

大仏というだけでユーモラス

 私は以前日本中にある高さ40メートル以上の巨大仏を見て回ったことがある。その後、国東半島にある石造仁王像や、東北地方に散在する人形道祖神も見て回った。神仏というのはつい回ってみたくなる雰囲気を持っている。霊験があらたかだからというよりも、見れば親近感が湧くからではないだろうか。できれば数を決めてスタンプラリー的に回りたくなるのである。東京大仏もこうやって目の前に立つと、また大仏巡りでもしてみようかという思いが胸の底に湧いてくる。
 今度は巨大仏ではなく、日本で三番目の大仏を自称する「三番目大仏」巡りがいいかもしれない。いっそ全国の三番目大仏が互いに連携し、三十三「三番目大仏」などと称して、巡礼コースを作ってくれれば楽しいのにと思ったりする。

 思うに、人には、何かひとつの対象を気に入ると、同じようなものが他にないか探し、それらを全部回ろうと考える癖があるらしい。神仏に限らず、今では坂や階段、公園遊具や暗渠、電線、鉄塔、給水塔、変な看板などを見て回る人が増えたが、そこにはその対象への愛や興味と同じぐらい、もしくはそれ以上に、対象をコレクションする行為への情熱が宿っているなんてこともあるのではないか。
 少なくとも自分にはそんなところがたしかにある。八十八か所とか三十三観音と言われると全部回ってみたくなるのだ。それが階段や公園遊具であれば、すごい階段やレアな遊具を求めて旅をはじめてしまいそうになる。その対象が好きかどうか確かめるより前に、そこにコレクション要素があると知った段階で、食指が動きはじめるのである。

 ただ、コレクションへの情熱が対象への愛や興味を上回っていたとしても、最終的にその対象を選び取ったのには何か理由があるわけで、いったいなぜそれを見て回ろう、写真を撮りためようと思ったのか、なぜ追いかけたのがそれであり別のものでなかったのか、という点にその人なりの関心のありどころが現れると考えられる。
 その意味で巨大仏巡りをした私には、巨大仏を対象に選んだ理由が何かしらあり、それがたとえばタワーでなかった、秘境駅ではなかった理由が何かあると考えるのが自然である。
 ところが、それに関して写真家の大山顕さんが面白い論考を書いていた。

『街角図鑑 街と境界編』(三土たつお編著 実業之日本社)の巻末に書かれた「都市鑑賞とは何か」という一文で、大山さんは団地や工場を長年写真に撮り集めてきた自分は、「好き」や独自の「視点」が根底にあってやっているのではなく、それほどの「熱意」があってやってるわけでもないと述懐している。
 そして都市にある何かをずっと写真に撮りためている鑑賞家の人たちに、なぜそれらの対象物を撮り集めるようになったかときけば、きっかけは思い出せなかったり、誰かの真似だったりするというのだ。

 これには驚いた。もしそうだとすれば、これほど多くの人が街の何かを鑑賞している理由は何なのだろう。それこそコレクション行為への純粋な欲望だろうか。
 ここで思い出したのは、以前国立博物館でカニの研究者に会ったとき、もともとはカニではなくて、昆虫が好きだったと言っていたことだ。昆虫を研究しようと思って気がついたらカニを研究していたというのだ。大人の事情もいろいろあっただろうし、まあ、カニも昆虫に似たようなものと言えなくもないが、とにかく完全に自分が選んだとは言えないけれど、選んだあとはそれ一直線という性質がどうも人間にはあるようである。
 対象の選択が自発的でなくてもいいのであれば、路上で撮り集められるものは無数にある。公園遊具や鉄塔、給水塔、道路標識、変な看板などは比較的わかりやすい対象だが、ビルの壁に使用されている石材とか、落ちているゴミとかを撮り集めている人もいるし、そのほか名前さえはっきりわからない対象物が街や路上にはあふれているので、こうした鑑賞行為は無限に増殖し続けるのかもしれない。

 話を自分に戻すと、私が巨大仏を見て回ったのは自分でそれを選んだからだが、行きがかりで別の何かを見て回っていた可能性もあるということか。
 とはいえ私は好ききらいがはっきりしているほうなので、たとえば誰かにマンホールの写真を集めようと言われたとしても断っただろう。
 ではなぜマンホールより大仏かと考えるに、私の場合は、異形のもの、異界的なもの、周囲と調和していないもの、に自然に目がいくようである。逆にそれがたとえば超レアなものであっても、マンホールにはたぶん心打たれない。
 きっとそれが私の個性であると同時に限界なのにちがいない。異形なもの以外の価値に気づかないという意味で限界である。

 東京大仏は、阿弥陀仏としてはオーソドックスな御姿だが、大仏自体が風景の中では異物であり、地図上でも特異点になっている。つまりわざわざそこにマークがついて名称が掲示されているスポットのことだ。これほどわかりやすい特異点もない。何よりも目立っていると言っても過言ではないぐらいだ。
 大仏がいいのは、おおむね人間の形をしていながら縮尺が周囲と合っていないところだ。これが等身大もしくは小さい仏像だと、芸術的な香りが漂ってくることもあるのだが、人間より大きくなって、街なかに出た途端に、芸術から離れ、ちょっとユーモアが入ってくる。私が巨大仏を好きになったのは、大きければ大きいほど可笑しみが増すように感じたからでもある。

 東京大仏もすでに十分可笑しみをまとっていた。どこもふざけていないのに、ふざけた物件に見えてしまうのは大仏の性なのだ。
 だから大仏があると散歩がなごむ。そこに大仏があると必ず見に行ってしまうのもそのせいだ。
 われわれもいい感じになごやかな気持ちになり、その後近所のそば屋に寄ってランチ休憩をとったのだった。

東京大仏のある乗蓮寺山門

 

この連載は月2回の更新です。
次回は2022年12月30日(金)に掲載予定です。