おじさん酒場 山田真由美・文 なかむらるみ・絵

2015.11.24

11センセイなおじさん

 きつねラクレットと純米燗酒[シンスケ・湯島]

 

 

 いい酒場には、いい音が響いている。
 活気に満ちた酒場のさんざめきのなかで友人たちと呑む生ビールは最高だ。でも、歳を重ね、賑やかなばかりが酒の愉しみではないと思うようになった。酒を注ぐ音、徳利を置く音、抑制のきいた客と店のひとのやりとり……。落ち着いた静けさのなかで味わう酒は、大人にだけ許されたささやかな贅沢ではないだろうか。

 シュポッ!
 瓶ビールの栓を抜く爽快な音がピンと空気の張り詰めた店内に響いた。何度きいても天下一品、惚れ惚れする。まるで、能の舞台にひとつ打ち鳴らされる小鼓のようだ。軽快な余韻に「さあ呑むぞ」と喉が鳴る。
 湯島駅からほど近い大正14年創業の「シンスケ」。全国の居酒屋を訪ね歩き、その場に流れる空気や人の魅力を、温かな観察眼で精緻にとらえ、装飾を削ぎ落とした文章で綴る太田和彦さん。彼をして、「生涯最後の居酒屋一軒、と言われたら私はここの暖簾をくぐるだろう」と言わしめる名酒場だ。
 私は太田さんの愛読者である。さらに打ち明けると、酒場のあれこれを自分で書くようになってからは、作家太田和彦は我が心の師匠となった。
 そしていま、師匠が惚れ抜く「シンスケ」に座っている。大きな白木一枚板のカウンター。「大人が座る場所」と評されているとおり、それなりの人生経験と分別を身につけ、礼と粋を心得たひとがその魅力を味わえる店だと思う。果たして自分がその域に達しているかどうかは怪しいが、心地よい緊張感に背筋を伸ばし、突き出しの茄子とつくねの煮浸しをつまみながらヱビスビールを呑んでいる。秋の長雨のせいか、まだ口開け5時をまわったばかりと早いせいか、珍しく客はまばらだ。

 シュポッ!
 がっしりした体躯の四代目が栓を抜く音がいっそう高らかにきこえる。
「どうやったらあんな音がでるのかなぁ」
 頬杖をついてうっとりとした表情なのは、相棒るみ画伯。
「彼は音出しに命をかけているんです」
 となりの渋いおじさんが教えてくれる。白いものが混ざった無精髭に枯れた色気が漂う。着古した黒い開襟シャツに黒い綿パンを無造作にロールアップし、くるぶしがのぞいている。外は雨だというのにビルケンシュトックのサンダルだ。私の視線に気づいたおじさんは「(雨にサンダルは)失敗したな」と照れたような目になった。
 はっ、太田和彦さんではありませぬか。大学教授時代の教え子の女性と、久しぶりの酒席だという。
「太田さんがビールを注ぐところが見たいです!」
 大先生を前に物怖じしせずに身を乗り出するみ氏に、「じゃあ、グラスを置いて」と応えてくれる。
 テーブルに置いたグラスに、高い位置から泡を立てながら勢いよくビールを注ぐ。口まで満ちた泡がグラスの半分ぐらいまで落ち着くまで待ち、グラスの縁から泡を崩さないように静かに注ぎ、泡がふっくらと盛り上がったら完成。
「すごい。技ですね」
「ぼくが注ぐビールはおいしいですよ、な?」
「太田ゼミでまず教わったのは、このビールの注ぎ方でしたね」
 卒業後はグラフィックデザイナーとして活躍する聡明美人が微笑む。10年以上昔のセンセイと生徒がシンスケのカウンターで酒を酌み交わしている。なんと豊かな間柄なのだろう。「あかぬけない田舎の女の子が色っぽくなったもんだ」となりの女性に向けるまなざしは、学芸を教え授けてきたひとの、それだった。
 胸があつくなった。ひととひとの温かな営みに出逢える場。それが酒場でもあるのだ。

「さてと」
 あご髭を撫ぜながら、カウンター前に一列に張られた品書きの短冊を吟味する。
「お、もう秋刀魚が出てるね。いちぢくの揚げ出しかあ、うまそうだ」ひととおり眺めやったあと、「ぼくはこのあと酒にするから、刺身の盛り合わせをまずもらって、ゆっくり考えよう」
 ビールで喉を湿らせてから日本酒への流れ。肴は季節の刺身をつまみながら、注文の組み立てを考える。二番目、三番目、四番目、余裕があったらあれも、と。それが太田流の居酒屋作法その一、というところか。
 大間の鮪、明石の蛸、白イカ、秋刀魚酢〆。本日の盛り合わせ。魚はすべて天然の上物だけを扱うというとおり、どれもピンと角が立った切口で、鮪は濁りのない赤、イカは雪のごとく真白、秋刀魚はピカピカに輝いている。見た目も味も別格だ。
「お酒もらおう。本醸を常温で」
「はい。本醸造の常温です」
 四代目がカウンター前の棚にずらり並ぶ名入りの白徳利から1本取り、すっと太田さんの前に置いた。酒はシンスケ特注の秋田「大関」のみと聞いていたが、あの徳利の列には1合の酒がそれぞれすでに満たされ、注文を待っているとは知らなかった。

 居酒屋の達人は、呑むのも食べるのもテンポがよい。ペースについていけない私たちをよそに、「ここの名物だよ」と、きつねラクレットとねぎぬた、いわし岩石揚を追加している。さっさと一合を空にし、「次は純米にしよう。純米を燗で」と細くねじった手ぬぐい鉢巻きに、縞柄の絣半被が決まる三代目ご主人に声をかけた。
「居酒屋ではひとのことなんか考えない。自分が好きなものを好きなペースでやるに尽きる」太田流居酒屋作法その二、かしら。
「ゼミの飲み会でも、各自で、でしたものね」
「そうそう。でも当然こっちが払うでしょ。貧乏教師だったからそこは工夫したね。酒は持ち込みにさせてもらって、最初に焼きそばとか腹にたまるものを食べさせてから呑ませると、あまりカネがかからずに済むと途中で気づいて。ハハハ」
 ご主人がお燗器に浸かる徳利を取り上げ、掌で温度を確認し、布巾で拭って「ほい、純米の燗」。一本、一本、手を抜かず頃合いに気を配り、客のもとへ届けるその仕事ぶりには、何十年とお燗番を務めてきた歴史の重みと信頼がある。
「しんとり菜って、どういうの?」「江戸の伝統野菜のひとつで……」
 酒が進み、緊張もほぐれ、ようやく私の好きな酒場の“音”が耳に届く。店と客の軽妙なやりとり、和やかな笑い声。
 ラクレットチーズを挟んで香ばしく焼いた油揚げに葱を散らしたきつねラクレット。ぬる燗がよく合う。いわしの岩石揚げは、いわしをざっくり叩き、大葉、生姜、葱などの薬味と味噌で味をまとめ、からりと揚げた武骨さのあるひと品。ねぎぬたも、葱だけでどうしてこんなに深みのある味わいになるのだろうと感心する酒肴だ。

 太田さんは資生堂に入社して数年の頃、先輩に連れられ初めてシンスケに入った。余計な飾りのない江戸前の店内では、大人の風格をたたえた常連が静かに呑んでいた。「若造の来るところじゃない」。20代の太田青年はそう察したそうだ。
「でも、敬遠してばかりじゃ大人になれない。こっちが店に追いつくように、ときどき訪れて末席の目立たないところに座っていた。おとなしくきれいに呑むことを心がけ、4、5回通えば、店の主人も覚えてくれる。カウンターに座れるようになるのはずいぶん後だね」
 いまや日本一居酒屋を知る太田さんにも、当然ながら若かりし時代があったのだ。私も20代のとき、背伸びしてシンスケに来たことがあったが、自分があまりにも不似合いで打ちのめされた。
「でも、この店になじめるような年齢を待ち遠しく思うのは大きな楽しみじゃない? ここは、と決めた店に10年、15年と通ううちに常連として迎えられるようになったら大人の仲間入り。そして、その居酒屋が一生つきあえる店となったら、その人の人生は豊かになるよね」
 含蓄ある言葉だなあ。太田流居酒屋作法その三。いや違う。これは居酒屋の醍醐味か、僥倖か。なんだか太田ゼミの生徒になったような気分だ。
「太田さん、今週末、『触れ太鼓』が入りますよ」
 ひと段落した四代目が教えてくれる。
「もう秋場所か。一度ききたいんだよ、あの太鼓。何時頃?」
「7時15分に入ってきますので、7時ぐらいまでにお見えいただければ」
 大相撲の東京本場所のときは湯島町内会で呼んだ触れ太鼓がシンスケにも入り、客前で初日取り組みを読み上げるそうだ。太鼓を叩きながら、「かくりゅう(鶴竜)には〜、いちの〜じょう〜(逸ノ城)」などと呼び出しが声を張る。
 江戸の伝統を守る生粋の東京がここにはある。来年1月の初場所前日は、必ずやシンスケに参ろう。さぞかし風情のある音が鳴り響くに違いない。

シンスケ

東京都文京区湯島3-31-5
電話:03(3832)0469
営業:平日17:00〜21:30(LO) 土曜17:0020:30(LO) 日曜・祝日休

大正14年創業「正一合の店 シンスケ」は、東京を代表する由緒正しき居酒屋。「正一合」とは、酒を正しく1合きちんと量って提供している、との意。その、きっぱりと筋の通った商売気質に、この店の美学があらわれている。2階もあるが、東京らしい粋を存分に味わうには、やはり1階カウンター席。藍染の半纏にハチマキきりりのご主人の様子や、物事を弁えた客たちの呑み方を目の端に置きながら白徳利を傾けるのは、まことに大人時間。ビール中瓶600円、日本酒は両関のみ。本醸造550円(1合)〜。刺身盛り合わせ1人前1500円、ねぎぬた750円、きつねラクレット1000円、いわし岩石揚1000円など、どれも洗練された居酒屋の味。

 

 

(第11回・了)

 

この連載は月1でお届けします。
次回2015年12月22日(火)掲載