おじさん酒場 山田真由美・文 なかむらるみ・絵

2016.1.29

13働きながら呑むおじさん

 もつ煮込みと燃える男の酒[いろは・溝口]

 

 

 そのまちのことを知ったのは、『呑めば、都』(筑摩書房)という本がきっかけだった。著者のマイク・モラスキーさんはアメリカ・セントルイス生まれの早稲田大学教授。日本の戦後文化、とりわけ居酒屋文化に精通する、都市論、酒場論の秀英である。
 本書は、東京各地(府中、木場、立川、州崎などマニアックなエリアも多数)の飲み歩き体験をベースに、日本の居酒屋文化を貪欲な好奇心と溢れる酒場愛とで考察した居酒屋論の名著。その冒頭に私は釘付けになった。
 取り上げられているのは、「溝口」。南武線と田園都市線が乗り入れているが、そこは川崎市。「居酒屋の東京」とサブタイトルがあるのに、神奈川県がトップバッターって!? とツッコミを入れたくなったが、そんなことより何より、モラちゃん(尊敬と親しみを込めて私は密かにそう呼ばせていただいております)が描く溝口の「西口商店街」に強い興味を持った。「この商店街ほど戦後闇市時代の〈空気〉がいまだに濃く漂っている場所はめずらしい」のであり、「都心の闇市由来の居酒屋街とはずいぶん違う」とまで書いている。
 私自身、新宿の「思い出横丁」や上野の「アメ横」、野毛など、混沌としたエネルギーが詰まった場に身を浸し呑む酒が好きだが、それらと溝口はどう異なるのか。一度体験してみたいと思っていた。

「時間が止まってるみたいですねぇ」
 同行のるみ画伯がもつ煮込みをつつきながらあたりを見回し、感慨深げに言った。
 溝口西口商店街。私たちは「いろは」という立ち呑み屋にいた。時刻は17時をまわったばかり。客はまばらだ。
 商店街は、強風が吹いたら飛んでしまいそうなバラック然としたトタン屋根の薄暗がりに、居酒屋、古本屋、和菓子店、八百屋などが雑然と並び、通路に平行して隣接する線路を時折南武線が走り抜けていく。灰色のトタンは屋根というよりかろうじて繋がっていると表現したほうが正しい。線路と通路を隔てるのは薄いプラスチックの板塀が途中までで、その先は錆びた金網。失礼ながら、綻びだらけのボロい商店街なのである。時代に取り残されたような闇市感を醸しているのは、そうした整備されないまま残っている空間に加えて、2軒の立ち呑み屋の年季の入った佇まいによるところが大きいように思う。
 ひとつは私たちのいる「いろは」。もうひとつはより駅に近い「かとりや」。ともにこの地で40年以上続く古株だ。もつ焼きをアテに呑ませるのは共通で、どちらも酒欲をそそる香りの煙を絶えずあたりに放っている。私は何度目かの溝口だが、このまちに来たなら「かとりや」→「いろは」、あるいは「いろは」→「かとりや」。要するにハシゴを常としている。ぱっと見、似たような店に見えるかもしれないが、二店は似て非なるもの。楽しみ方も、味わい方も違うのです。


 まず客層。「かとりや」は若干若め。女性もちらほら。電車に乗ってわざわざやってきた風の客も見かける。酒場番組などメディアで紹介されたからかもしれない。一方の「いろは」は、より地元色が強い気がする。男性率が高く年齢層もちと上か。そしてメニューが「かとりや」よりも豊富である。もつ以外にポテトサラダや野菜焼きなどがあり、先日は「今日からの新メニューだよ」と常連さんに勧められ、おでんにありつけた。
 こうした細かい違いに気づいたりするのも、酒場通いのひとつの楽しみなのです。
 しかして今宵は「いろは」から。通路前の焼き台に群がってホッピーを呑み、もつ焼きを喰らうおじさんたち。店と通路を分ける境界線は曖昧だ。みんな通路にはみ出して立っている。そのため、彼らの背中越しにセーラー服の女子高生や、買い物袋からネギをのぞかせた主婦らが足早に通り過ぎていく。
「おじさんたち、通行人がまったく気にならないんですね」
 よくぞ気づいてくれた、るみ氏。そうなのよ。こんなオープンすぎる空間でも、スッと自分の世界に入れる。おじさんってやっぱり酒場の達人だね。独酌で黙々と呑み重ね、泰然自若としているおじさんには、孤高の気高さがある。一生かけても、私はその境地には至れそうにない。

 さて。「いろは」の呑みスペースは3ブロック。その一。通路にはみ出した焼き台前のカウンター。その二。かつては隣り合う八百屋の倉庫か何かだったのではないかと思しき、4、5坪くらいの空間にランダムに設置された立ち飲みテーブル。その三。7、8人で満席かと思われる店内。私たちは「その二」の片隅に陣取った。ここなら店の全貌が見渡せる。
 おじさんはたいてい一人でふらっと入ってくる。先客に顔見知りを見つけると、「よう」「どうも」とあいさつを交わしているが、一緒に呑み始めるわけでもなく、一定の距離をとりながら、すぐに各々自分の世界に入っていく。個人プレイがみなさんお好みのご様子だ。
 特等席はやはり焼き台前のカウンターだろう。すでに大入り満員。これまた、個性的な面々だこと。作務衣に下駄で骨董店でも営んでいそうなご主人、スキンヘッドにライダーズジャケットの強面、思い出し笑いなのか薄笑いを浮かべたケヴィン・スペイシー似。そこに、みんなから「まっちゃん」と呼ばれている白髪交じりのおじさんが加わった。
 そのおじさんはジャンパー姿でやってきて、奥に入っていったのでトイレかと思いきや、「いろは」の刺繍の入った濃紺の半被に白い前掛け姿で戻ってきた。客ではなくお店の人だったのね。そう合点したところだったのに、あれ、ほかの客たちと肩を並べてカウンターに立った。え、どっち? 私たちの疑問をよそに、まっちゃんは焼き台脇のクーラーボックスから空のグラスに氷をいくつか放り込むと、自分の焼酎ボトルの酒をグラスに注ぎ、当然のように呑み始めた。ボトルには「リボ松」と書かれた謎のパウチが貼られている。そういえば、奥の棚で阪神タイガースのキーホルダーや刺青男性の背中写真が貼られたエッジの効いたボトルをいくつか目にしたが、あれらも店の人たちのキープ酒なのだろうか。
 働きながら呑む。なんと懐の深い酒場なのだろう。
 リボ松おじさんは、グラスを片手に注文をテキパキ捌いている。私たちのテーブルがさみしいのに気づき、「なんか焼く?」と声をかけてくれた。
 煮込みのおかわりと焼き物はコブクロ、カシラを塩でと、ビールをもう1本お願いした。
 すかさず、るみ氏がいつもどおりのおっとりとした口調で聞く。
「おじさん、リボ松ってどういう意味?」
「え、ボトル見たの? リボっつったらリボ払いのリボに決まってるじゃん」
「へーそうなんだ。おじさん借金してるの?」
 天然系の同行者は、ときおり冷や汗もののツッコミをおじさんに繰り出すのだが、またしても。
「しゃ、洒落だよ、シャレ」
 首からかけた栓抜きでビール瓶をあけながら、意外にも取り乱している様子のリボ松さん。焼き台前のおじさんたちが一気に沸く。これだよな、と小指を立てるおじさん。パチンコのやりすぎだろ。そら聞いちゃいけねえぞ。やいのやいの。
 客たちのイジりをなんとかかわしながらも、リボ松印の酒をグビグビ呑み、客に酒や焼き物を運んでいる。

 にぎやかな客をよそに、黙々とカウンターの端で呑んでいたおじいちゃんがずっと気になっていた。空気が動いたと思ったら、器を片手でつかんで煮込みの汁をきれいに飲み干すと、私たちに向かって「お先に」と片手で敬礼のポーズをとって帰っていった。
「これ、すごくおいしい。ゴボウも入ってて具だくさん」
 おかわりするほど画伯も絶賛する煮込みは、さらりとしていて上品。大根、人参、こんにゃく、ネギもたっぷり、栄養満点だ。おじいちゃんが飲み干しちゃうのも納得。ふだんは煮込みに手を伸ばさないモラちゃんも、ここのはおかわりしてしまったそうな。


 ポテサラも必食です。甘いリンゴやニンジンが入っていて、給食か、はたまたおふくろさんの味。もつ焼きも含めて薄味なところは、武蔵小山の「牛太郎」を彷彿とさせる。
「煮込みは金曜しかないから、お姉さんたちラッキーだね」
 追加で頼んだホッピーセットを手にまっちゃんが教えてくれる。ちゃんと働いているのね、エライ。氷だけが入ったグラスと、ホッピーの瓶。それに得体の知れない茶色い小瓶。聞くと、焼酎だという。へえ。焼酎とホッピーの配合を自分好みに調整できるのはありがたいが、100㎖サイズの小瓶で焼酎とは珍しい。まるで、滋養強壮・栄養ドリンクのように見えるのは、「燃える男の酒」と書かれた勇ましいラベルのせいかな。スクリューキャップのミシン目の部分は切れているので、洗って使い回しているのだろう。日本酒の1合呑みきりサイズのものとか、たまに酒場でこの手の瓶にでくわすと嬉しくなる。小瓶はレトロなデザインや形のものが多く、そのキッチュ感が己のわずかな乙女心をくすぐるのだ。


 キュートな小瓶に、「燃える男の酒」のギャップ。ふたりでしげしげと眺めていたら、「呑めば呑むほどパワーアップ!」とニヤリまっちゃん。中身は安価な甲類焼酎に違いないが、その小瓶の酒をジョッキに注ぎ切ると、たしかに力が漲ってきたような気がする。はい、その気になりやすい単純な女です。


 見渡すと、いつの間にか店内も通路側のカウンターもおじさんたちでいっぱい。テーブルには「燃える男の酒」が何本も空いている。マッチョな気分になった私たちをよそに、おじさんたちはいたってフツー。ま、焼酎だもんね。なんにしても、「燃える男の酒」が次々に飲み干される光景は壮観だ。
 男が弱くなっただの、元気がないだのといわれてだいぶたつけれど、酒場のおじさんたちは今宵も元気に平常運転。しょっちゅう通っているわけではないが、ここ溝口西口商店街の酒場では、上司の愚痴や給料が上がらない不平をネタに陰気な酒を呑むひとなど見たことがない。スカッと爽快。元気ハツラツ。そんなどこかの栄養ドリンクのキャッチコピーを思い起こさせる清々しさがある。
 モラちゃん、私に溝口の素晴らしさを教えてくれてありがとう。にんにく串焼きを食べて勢いづいた私たちは、もう一軒、彼が賞賛する「かとりや」へ向かった。

いろは

神奈川県川崎市高津区溝口2-4-3
電話:044(811)4881
営業:16:00〜23:00 日曜・祝日休

戦後初期、昭和30年代の町並みや文化に興味がある人にとっては、溝口西口商店街は「このまま残ってほしい」と願わずにいられない希少なエリアだろう。「いろは」は商店街の奥に位置し、となりの八百屋の一角と通路に面した焼き台前のカウンターを立ち飲みスペースにしている。元々は八百屋が開業した店とか。通路に平行して南武線の線路が走り、電車が通過するときの地響きをBGMに呑む酒はまさにここだけの味。私はまだ未体験だが、焼き台前のカウンターはベニヤ板をかぶせただけの簡易なもので、手を置いていると電車の振動がビシビシ伝わってくるらしい。いつかその臨場感あふれる「いろは体験」をしてみたいものだ。もつ焼きは1本90円(座る客は100円)で、オススメはおおぶりのコブクロ。金曜限定のもつ煮込み400円、ポテトサラダ、塩辛のほか、冬期のみおでん有り。キリンラガー大600円、生ビール450円、ホッピーセット500円、清酒300円。

 

 

(第13回・了)

 

この連載は月1でお届けします。
次回2016年2月29日(月)掲載