おじさん酒場 山田真由美・文 なかむらるみ・絵

2016.2.29

14社章キラリなおじさん

 コンビーフサンドとアオカン[小野屋酒店・日本橋]

 

 

 背広姿の男を好もしく思う女は多い。スーツはいわば制服であり、仕事着。ネクタイを締め背広の袖に腕を通すと、なぜか背筋が伸びるのだと妻ひとり子ひとりのダンディ中年が言っていた。背負っている責任や気合いが着こなしに現れ、男を魅力的にみせるのだと思う。その象徴が背広、というわけだ。フリーランス稼業の自分のまわりには、ネクタイを締めて働く会社員はほとんどいない。好んで向かう酒場のおじさんたちも、キャップにジャンパーのようなラフな格好が圧倒的に多い。だからなのか、酒場で背広が似合うおじさんに出くわすと、こっそり観察してしまう。騒がしい団体や憂さ晴らし風の背広には閉口だが、本日の任務を終え、解き放たれた表情で一杯やっているおじさんはいいものだ。

「背広が似合うおじさんって、なんかいいよね」
 コの字カウンターの向かいで背広にネクタイのおじさん3人が肩を並べて酒を呑んでいる。その様子を盗み見しながら、となりのるみ画伯に打ち明けた。
「わかります〜。私もスーツの男のひと好きです!」
 私たちは出身が伊豆下田と共通しているのだが、このとき判明したもうひとつの共通点、それは、父親が冠婚葬祭ぐらいでしかネクタイを締めない自由人だということだ。
「だから憧れちゃうんですかねぇ」
 珍しくフェミニンな会話で盛り上がっているここはオフィスビルが建ち並ぶ日本橋。その谷間に「なんだか怪しげな角打ちがある」と聞き、やってきたのである。18時をまわり、店舗のシャッターはすでに下りていたが、左手に地下へつながる階段があり、「小野屋」の暖簾。こんなところに? と胸躍らせながら下りていくと、驚いた。

 10人ほど座れる小さなコの字カウンターに4人掛けテーブルがふたつ。酒屋の一角に立って呑ませる角打ちではなく、立派な酒場ではないか。さらに眼に飛び込んできたのは、正面の壁に貼られた筆ペンの品書き短冊。白い紙に流れる墨文字で3段にわたって全40品ほどが密集している。旅の情緒を旅情というなら、酒場の品書きには、酒呑みに対する情け、“酒情”がある。「ししゃも」「もつ煮」「〆さば」「鳥の唐揚げ」「焼きそば」「じゃがキムチ」など、一見酒場の定番が並んでいるように見えるが、その構成からこの店の主の愛情が伝わってくる。魚や珍味でちびちび呑みたい人もいれば、肉っ気の満足感が欲しい人、いや健康のために野菜も食べとかなきゃの人、でもやっぱり仕上げは炭水化物だよね、に落ち着く人……。そんなわがままな酒呑みゴコロをしかとつかむものばかりなのだ。

「わー、全部おいしそう」
 角打ちだし、缶詰と乾き物しかないだろうと思っていたるみ氏は目を輝かせている。しかし、肝心のおじさんがいない。もう賑わっている時間かと思ったら、客はテーブル席に若めのサラリーマンが4人だけだ。日本橋の企業戦士たちは遅くまで残業するのだろうか……。と、一抹の不安がよぎったが、すぐに杞憂となった。
「ソーセージやき」をアテに大瓶のビールを飲み終わる頃。カンカンカンカン。階段を下りる足音とともに、グレーの背広にレジメンタルタイのおじさんがやってきた。私たちと向かいのカウンターの端に座ると、左胸の社章が蛍光灯に反射して光った。前髪に軽いウェーブがかかった太めの吉田栄一風。見たところ50歳前後か。赤いペイズリー柄のバンダナにターコイズブルーのピアスが似合う女将さんに「今日は早いのね」と声をかけられ、「キリがよかったんで早仕舞い」と応えている。彼女のほうがちょいと年長かな。おじさんがおしぼりで手を拭っていると、頼まずとも缶のハイボールとグラス、それに氷セットが置かれた。いつも同じものを頼む客への気配りだろう。あとから知ったが、氷セットは別料金で、缶チューハイやホッピーなどを注文すると、氷の有無を聞いてくれるシステムになっている。
 おじさんは早々にグラスを空にし、野菜炒めとハイボールのおかわりを注文した。仕事モードの頭を缶1本でほぐしてから、じっくりやろうというわけか。ビールでなくハイボール。肉や魚でなく野菜を選ぶあたりは、カロリーを気にしているのかもしれない。
 こちらは肉食である。魅惑的なメニューのなかから「もつ煮」「ネギ玉子やき」と「コンビーフサンド」なるもの、それにホッピーセットをお願いした。

 カンカンカン。また階段を下りてくる音。こちらは前髪ウェーブおじさんと知り合いらしい。「おつかれさん」と声をかけ、となりに腰掛けた。やはりグレーの背広にレジメンタルタイ、そして社章。きれいに調えられた白髪、ボタンダウンシャツに清潔感が漂う。
「よしこちゃん、アオカンちょうだい。あとししゃもね」
 女将さんを名前で呼ぶ。かなり通っている方なのだろう。アオカン(青缶)はアサヒビールの発泡酒、本生アクアブルーであった。その店独特の呼び名や流儀があるのは、酒場の興味深いところ。いまでこそ、ホッピーの焼酎をおかわりするとき「ナカ」、ホッピー自体を「ソト」と呼ぶのが酒飲みの間では一般化しているけど、最初はいったいどこのどなたが言い始めたのだろう。いつか酒場の俗語を研究してみたい、などと考えを巡らせていたら、よしこさんがコンビーフサンドを持ってきてくれた。

「こんなの初めて!」
 差し出された皿に、ふたりで歓声をあげてしまった。だって、サンドウィッチを想像していたら、キュウリ1本をスライスし、コンビーフを挟んだものだったから。もつ煮やネギ玉はやわらかい味つけで、酒のつまみというよりお母さんの晩ご飯の味だわ、とほんわか気分になっていたところに意表を突くビジュアル。ほっこりとは真逆のジャブに痺れていると、よしこさんが「若い男性とか、グループのお客さんに人気なんですよ」と教えてくれる。我々は女ふたりだが、「これでしばらく呑めますね」、言って平然とホッピーのおかわりをつくってくれるるみ氏。いい相棒だ。

「そうだ、これ」とウェーブ氏が先輩にゴルフ雑誌を渡した。「お、サンキュ。80歳で300ヤードだって、すげえな」。表紙を見て驚きの声をあげる。白髪おじさんはどれどれと眼鏡を鼻に下げ、さっそくページを繰っている。
「おんなじ会社のひとですかぁ?」
「え、おれたち? 違うよ。こっちが製紙会社に勤めていて刷り上がったばかりのコレ、たまにもらうんだよ。ゴルフ仲間でね」
 なかむらるみ“記者”の唐突な質問にもかかわらず、白髪おじさんが鼻眼鏡のままの上目遣いで教えてくれる。なんでも、ゴルフ好きの常連が集まり、年に2回、「小野屋杯」を開催しているという。優勝者には、女将さんから小野屋で呑める1万円分の商品券(みな“よしこダラー”と呼ぶらしい)が贈られる(太っ腹!)。「よしこダラーを狙ってるんだけど、みんなうまいんだよなあゴルフ」と鼻眼鏡さん。
「私はなんにもしてないんですよ。お客さんたちが勝手に仲良くなってくれるからありがたいですねぇ」
 楚々と笑うよしこさんは美人だ。彼女に会いたくて通うおじさんは多いだろう。カンカンカンカン。そう思っていたら、次なる役者がやってきた。やっぱりグレーの背広にレジメンタルタイ。おでこが後退しているが、ブルーのシャツに幅広ネクタイがエレガントだ。何より目を引くのは、彼の社章。深紅を基調とした陶製に見えたそれは、七宝焼きなのだという。「このひと、七宝焼きの会社に勤めてるからさ」。ウェーブ氏が教えてくれる。どうりで格調高く見えたわけだ。
「今日も銀座から?」
「そうだよ。いつものシルバーパスでな」
 白髪おじさんの質問に、七宝焼きおじさんがニヤリ。今年70歳になったおじさんは、無料で乗車できるシルバーパスを利用してお勤め先の銀座から自宅とは逆方向のよしこ酒場にバスで通っているのだという。ほかのふたりが「おれたちもこのひとみたいに70になっても酒呑んで、ゴルフに興じたいもんだよ」と羨ましがっている。

「アオカン、ロングね」
 七宝焼きおじさんも発泡酒か。整った身なりからそれなりの暮らしをされているようにも窺えるが、自分で自由になる金はそれほどでもないのかな。いや、むしろあえて安酒を信条としているのかもしれない。
「男一人飲む酒に、美酒やグルメは必要ない。何の気兼ねもなく立ち寄れる酒場なのさ」
 たまたま居合わせた常連同士、発泡酒やコップ酒片手に和やかに呑っている様を見ていたら、語らずともそんな声が私には聞こえてきた。

小野屋酒店 飲食部

東京都中央区日本橋1-14-6
電話:03(3271)3310
営業:17:30〜21:30 無休

日本橋は永代通りの一角。江戸橋1丁目の交差点そばの小さなビルの地下。目印は「ONOYA」の看板。店のシャッターが下りていても臆せず自動ドアを開けると、左に「小野屋」の暖簾。階段を下りていけば、そこは日本橋企業戦士たちのパラダイス。美人女将よしこさんと御年80歳超えのおかあさん(20時30分ごろご登場)がやさしく迎えてくれます。〆サバ480円、あじなめろう480円、ネギチャーシュー500円、ソーセージやき(魚)260円、もつ煮540円、ネギ玉子やき450円、圧巻のコンビーフサンド780円など。ちょいとつまむ系からスタミナ系までメニューは多彩。大ビール550円、清酒340円、宝焼酎320円、ホッピー260円、氷220円、発泡酒(青缶)ロング380円、ハイボール330円など酒屋経営ゆえ缶類豊富。

 

 

(第14回・了)

 

この連載は月1でお届けします。
次回2016年3月15日(火)掲載