おじさん酒場 山田真由美・文 なかむらるみ・絵

2016.9.9

19ウルウルなおじさん

〆鯖と刈穂[やくみや・荒木町]

 

 

 ちぇぶちゃん、と私が勝手に呼ぶおじさんがいる。
 荒木町の車力門通りにある和食店「やくみや」で時折顔を合わせる客で、みんなからは「けんちゃん」と呼ばれている。何年も前に初めてお会いしたとき、店にはロシアのアニメキャラクター〈チェブラーシカ〉のカレンダーが掛けられていて、ウルウルのつぶらな瞳に下がり眉、丸顔、ずんぐりとした体つきがカレンダーのなかの人形にそっくりに見えた。その日から私は彼を「ちぇぶちゃん」と呼ぶようになった。
 ファンシーな愛称に反して、ちぇぶちゃんは“漢”なお仕事をしている。ビル建設の現場監督。早朝からヘルメットをかぶり、職人さんたちに指示を出し、作業に手抜かりがないか、計画どおり進んでいるかを確認する。雨が降れば仕事は休み。日が暮れたら、一日めいっぱい労働した疲れを一杯の酒でほぐす。太陽とともに生きる健康さがちぇぶちゃんの空気をつくっていて、「おいしいなあ」「幸せだなあ」と嬉しそうに日本酒をすいすい呑む姿に、こちらまで楽しくなる。酒が入ると、つるりとした頭が見事に真っ赤になり、チェブラーシカから茹でダコに変身するのが、また味わい深い。

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 出会った頃、私は荒木町の近くに住んでいて、会社員だった。勤め人の窮屈さにうんざりしながら、偶然見つけた「やくみや」で過ごすのびやかな時間にどれだけ救われたことか。店主であり料理人のさわちゃんが繰り出す酒肴と、一緒に店に立つソムリエ・利き酒師の女性が選んでくれる酒が息のピッタリ合った夫婦のようにお互いを引き立てあっていて、週に一度、いや二度、三度と通うほど熱を入れていた。
 鎌倉に引っ越し、以前のように足繁くというわけにはいかなくなったが、ふた月に一度は顔を出していたから久しぶり、というわけでもない。それなのに、ブルーの扉を前にすると、いつも特別な想いが溢れる。
 30代の10年をこのまちで過ごした。それも半ばに差し掛かる頃、仕事と、女としての人生とを、少し俯瞰して自分を見つめるようになった。ひとりで酒場に行くようになったのはこの頃からだ。「やくみや」は女性ふたりで営む店。私と同世代だったこともあり、彼女たちとはいろんな話をした。大事なひとたちも連れていった。そんな感慨がどうしても湧いてきてしまうのだ。

 今年、「やくみや」は大きな節目を迎えた。約9年間、開店からともに店を創ってきた女性が辞めることになったのだ。20人は入れる店だったが、カウンター席とそのうしろのボックス席のみの12席とし、メニュー数も絞った。ひとは雇わず、ひとりでやっていくと店主が決めたからだ。40代半ばにして、大きな決断だったと思う。彼女の新しい挑戦に、ひと言「がんばってね」と伝えたい。そう思い、熱気の残る夏の夜に訪れた。
 驚いたことに、集まっていた客たちはここで親しくなった人たちばかりだった。そのなかには、ちぇぶちゃんもいた。いつものように背筋を伸ばし(ぽっちゃり体型なので背中は丸く見えるが彼は姿勢がいいのです)、カウンターの上には一合徳利と、半分ほど箸をつけた〆鯖が乗った小皿が置いてある。
「今日の〆鯖ばいいよ。よく脂がのっていて、ひと晩寝かせてあるから」
 さわちゃんのひと言で決まりだ。それと、ここに来たなら必ず頼む「ぬた」を。季節によって和える食材はいろいろだが、この日は「マグロとわけぎのぬた」。マグロを醤油に軽く漬けておいてから白味噌で和えたわけぎの上にふわりとのせ、てっぺんにも白味噌を添える。味噌には辛子がツンと利いていて、滋味とはまさにこういうものだという逸品。まったりとしたマグロと野菜の歯ごたえに味噌が絡んで日本酒を誘う。「〆鯖は2日目がおいしい」と彼女が言うように、しっとりと落ち着いた上品な舌触り。となりのちぇぶちゃんと「今日の〆鯖、最高ですね」と言い合い、1杯めにいただいていた宮城の酒「日高見」から、彼と同じ秋田の酒「刈穂」にした。心地よい酸が〆鯖によく合う。

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「ヤマダちゃんに会ったら見せようと思って」
 ちぇぶちゃんがおもむろにおしりのポッケから革の財布を取り出すと、丁寧に折りたたまれた小さな新聞の切り抜きを広げた。それは、私が執筆を担当している読売新聞の『ぶらり食記』(毎週土曜夕刊掲載)の記事で、ここ最近の3回分だった。彼がわざわざ財布にしまって持ち歩いている理由がすぐにわかって緊張した。
 それは半年前のこと。やくみやを訪れると、先客にちぇぶちゃんがいた。この日もカウンターの上には一合徳利と〆鯖の皿があった。
 彼は読売新聞をとっていて、『ぶらり食記』を楽しみに読んでいると言った。4人の書き手が自分の足で見つけた「この店の、この味」を紹介する短い食レポートで、私はかれこれ4年、ほぼひと月に一度のペースで書いてきた。料理は、店の雰囲気や作り手の人となりに大きく左右されるもの。だから、その一品の味を伝えるのに、場と人が醸し出す空気感や、作り手の想いを自分なりに大切にしてきた。
「ヤマダちゃんの文章には、指先を通じて読者に伝えられるひとへの愛情が必ずどこか込められているよね。これを読んで何度ウルッときたことか」
 日本酒好きの彼は、たいてい少し燗をつけてじっくり呑っているのだが、酒が進むと、思い出したように、私の書く文章を褒めてくれた。その言葉に、どれだけ励まされたことかしれない。
 この日も、文章の話になった。「読んでるよ」と言ったあと、いつものニコニコ顔が彼から消え、曇った表情になった。チェブラーシカのアニメで見た、いまにも泣き出しそうな茶色い小さな生き物のウルウル眼。
「最近のヤマダちゃんの文章は、サラッとしているというか、すらっと読めちゃうんだけど、とっかかりがないというか、平凡というか……」
 ちぇぶちゃんは気をつかってその言葉は使わずにいてくれたが、明らかに「面白くない」ということだ。私は凍りついた。書き手にとって、読者につまらないと思われる以上に堪えるものはない。
 ちぇぶちゃんに指摘されるまで自覚できなかったが、なんということか、私の内側に「慣れ」が巣くっていたのだ。「こんなものかな」という中途半端さ。そんな停滞を敏感に察知したちぇぶちゃん。そこまで熱心に読んでくれていたことがありがたく、だからこそ恥ずかしくもなった。
「こんなこと言ってごめんよ」
 平身低頭、詫びるちぇぶちゃんに、「むしろ大事なことを指摘してくれてありがとうございます。今日からネジを締め直して取り組みます」と言って別れた。

 それ以来の再会。彼の手元の切り抜きには、赤ペン先生よろしく「good!!」の赤文字が踊っていた。
「僕は嬉しい!」
 やっぱりウルウル眼だったけれど、この間のウルウルとは意味が違っていた。
「僕の知っているヤマダちゃんが戻ってきた!」
 あれから私は表現を徹底的に見直し、頭が沸騰しそうになりながらも自分の言葉で書こうと模索してきた。届いた……。安堵で緊張がほどける。でも、私の文章修業は道半ば。一本一本、ネジを緩めず真剣勝負でいこう。素手で探りながら、自分の文体を見つけていくしかないのだから。
 ちぇぶちゃんと次、ここで会う日まで文章をどれだけ磨けるだろうか。そう思ったら、ふたたび奥歯に力が入った。
「刈穂をもう一杯」
「私にも刈穂、ください」
 私とちぇぶちゃんは同時に注文し、お互いにやりと笑った。

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やくみや

ojisan_19_05東京都新宿区荒木町1-2-2F
電話:03(6318)3421
営業:18:00〜22:00 火曜休み

丸ノ内線四谷三丁目駅から車力門通りの緩やかな坂を下った真ん中あたり。ビルの2階から和やかな灯りがもれる。地中海を思わせるブルーの看板が目印。店主の林佐和さんは、もともと新宿ゴールデン街で同名の店を約4年、営業していた。2007年11月に荒木町に移り、今年で9年目を迎える。日本料理の基礎がしっかりしている佐和さんの手から繰り出される料理は、丁寧にとった出汁がほのかに香るおひたしや揚げ出し、季節によって変わる「ぬた」(あったらぜひお試しを。記憶に残るおいしさです)、包丁技が光る刺身といった純粋な和食から、キーマカレーやエスニックサラダ、焼きそばなんて変わり種もあってバラエティ豊富。生ビールはハートランド、日本ワイン豊富、日本酒も厳選された、食事に寄り添う純米系を中心に。

 

 

(第19回・了)

 

この連載は月1でお届けします。
次回2016年10月31日(月)掲載