おじさん酒場 山田真由美・文 なかむらるみ・絵

2016.9.30

20海苔弁おじさん

アジフライと白鶴[三州屋・銀座]

 

 

 夜ふけに米を炊いた。
 炊きあがったアツアツの飯を底の浅いホーローの箱に薄く広げ、醤油で湿らせた海苔を白い飯が見えなくなるようにかぶせる。その上に、ふたたび白飯を敷き詰め、醤油浸しの海苔をもう1枚。2段重ねの海苔弁だ。おかずはない。純然たる海苔とごはんだけの世界。私は蓋を閉じると満足し、ふとんに潜り込んだ――。

 弁当の必要もないのに、終電帰りに眠気と闘いながら米なぞ炊いたのにはわけがある。酒場のおじさんに、ある思い出を聞いたからだ。

 高級メゾンが並ぶ銀座並木通りのビルの谷間、路地の突き当たりに藍のれんが掛かる大衆割烹「三州屋」。1968年創業、昭和の空気を残した庶民的な酒場は、この界隈では貴重で、銀座で呑もうとなったら、「三州屋!」なのであった。
 ひと仕事を終えた19時すぎ。いつもなら独りでも入れないくらい賑わっているが、台風の影響で荒れた天候が続いたせいか、6人掛けの白木卓は珍しく空席が目立つ。
「何人さんー?」刺身の乗った皿を運んでいる姐さんに聞かれて、人差し指を立てると、入って右側のカウンター席を促された。広い店内を見渡しながらのびのびしたかったが、独りゆえ仕方がない。
「瓶ビールとアジフライ、それと春菊のおひたしください」
 座るなり、愛想笑いひとつしない(そこがいい)黒いブラウスに赤紫の花柄エプロンの姐さんをつかまえて注文を伝えた。三州屋の壁という壁には白短冊の品書きが整然と張り巡らされている。100以上はあろうかという品揃えなのだが、私はつい同じものを頼んでしまう。「鳥豆腐」「アジフライ」(冬には「カキフライ」)「おひたし」(東京らしく品書きの表記は「おしたし」)。昔ながらの酒場では、冒険より安心が心地いいのだ。

 右隣のおじさん3人組は、会社帰りに同僚と一杯コースのようで、熱心に相撲の話をしている。「綱取りを期待していた稀勢の里が初日でいきなり黒星スタートだろ。横綱白鵬はケガで休場しているし、迫力に欠ける場所だよな」「おれは安美錦を応援してるぜ。37歳、最年長で角界に踏みとどまっている意地がいいじゃないか」。卓上にはボトルの芋焼酎と新じゃが唐揚げが数片残っているのみ。ひととおり食べ終え、相撲を肴に呑んでいるようだ。
 賑やかな3人組とは対照的に左隣は独酌おじさん。ウドの酢みそ和え、銀杏、一合徳利が手元に並ぶ。黒いTシャツにコットンパンツ、眼鏡。散髪したてと思しき切りそろえられた襟足が清々しい。映画を観たあとか何かで「一杯呑んで帰るか」と立ち寄ったかのようなラフさが感じられる。小柄で、みっしり密度が高そうな体つきは関取でいったら、舞の海あたりかな。
 両隣とも、自分たちの世界に入っていてこちらに興味を示す気配はない。ゆっくり呑ろう。行きしなに書店で買い求めた文庫本でも読もうかと卓の上に出すと、「海苔弁?」左のおじさんがやにわにつぶやいた。本のタイトル『ひさしぶりの海苔弁』に反応したようだった。週刊文春の連載をまとめた平松洋子さんの近刊だ。
 私は平松さんを食エッセイのアクロバティストだと思っている。たとえば、この本では「なすは肉」だと言って、こうたたみかける。
「しかも猛禽類だ。油は吸うわ、醤油でもトマトの汁でも味噌でもなんでも際限なく吸いこんでわがものにする獰猛っぷりは周知の事実」
 なすから猛禽類! まるでウルトラCの跳躍の如き筆づかいではないか。
 そんな平松洋子談義をおじさんと交わせるかと期待したが、そうではなかった。
「ぼく、自分で海苔弁つくって家で食べるんですよ」
 え? 弁当を、家で?
「ええ。子どもの頃、おふくろがよく作ってくれましてね。アルマイトの弁当箱を開けると、醤油が染みた海苔の匂いがぷんとして食欲が一気に爆発するんです。おかずは、梅干しにウィンナーか鮭が端っこに押し込まれている程度で、基本は黒い海苔に覆われた飯のみ。これが妙に旨い。いつもはおかずが少ないと母親に文句言ってましたが、海苔弁に限っては、おかずなんか要りません。海苔と醤油と米。これだけでじゅうぶん」
 へえ。思い出の味なんですね。
「ときおり、あの味が食べたくなって朝から米を炊いてね、弁当箱に作っておくんですよ。醤油を浸した海苔が飯になじむまで時間がかかりますからね。蓋をして最低でも2時間は置きたい。その間にいい塩梅に海苔が蒸らされ、ふやけて飯と一体になるんです。だから旨い海苔弁食べたさに朝から弁当をこしらえるわけです」
 おじさんは65歳。新卒で入った会社を定年まで勤め上げ、老後は夫婦でのんびりと、と思っていたら、妻からまさかの三行半。いまはアパートにひとり、暮らしている。
「海苔弁は2段に限ります。一度ね、贅沢して3段重ねにしたことがあるんです。ダメですね、ありゃ。海苔が幅を利かせすぎて“やり過ぎ”って感じ。あと、飯と海苔の間に甘塩っぱいカツオ節を挟んだりするのもあるでしょ。あれもいただけないね。海苔弁は、海苔と米だけ。潔くなくっちゃ」
 もう、聞いているそばから唾液が出てきた。いま食べているふっくら身の厚いアジフライのおいしさも霞んでしまいそうだ(ふだんだったら、陶然となっているはずなのですが)。
「きみも醤油派なんだね」
 アジフライのことだ。揚げ物はビールのときはソース、日本酒のときは醤油で食べることが多い。そう説明すると、おじさんは「ぼくは何でも醤油だな」と言って、後ろを通ったエプロン姐さんに手を挙げ、「ぬる燗もうひとつね」と注文した。「あ、こちらも1本つけてください」。私もすかさず頼む。タイミングを逃すと、なかなか姐さんたちはこちらを見てくれないのだ。ここの酒は、壁に飾られている灘の酒、〈上撰白鶴すっきり辛口〉。飲み飽きしないおだやかな旨味が三州屋の酒肴たちに合う。
「ソースは甘ったるくて飯のときはいいけど、酒には合わない」。醤油派のおじさんは、私が箸でつかんだアジフライにちらりと目を向け、「旨いよね、ここのアジフライ。ぼくは青魚は苦手なんだけど、三州屋のアジフライだけは食えるんです。臭くないし、ふわふわ。きっと鮮度がいいんでしょうね」と続ける。
 そのとおり。ふっわふわなのである。もう少ししたらカキフライが始まりますね。私が言うと、おじさんは牡蠣に目がないらしく、「生牡蠣、焼牡蠣、酢がき、牡蠣豆腐、牡蠣飯、牡蠣そば、牡蠣ちぢみ……冬は牡蠣を食べるのに忙しい。毎日でも飽きません。ここのカキフライなんて、ひと冬、10回、いやそれ以上食べていると思う」と嬉しそうに語る。
 海苔弁おじさんは、酒を呑みながら旨いものを食べるのが至上の喜びのようだ。ふだんどこで呑んでいるのか聞いてみると、「最近よく通っているのは、押上のまるい」と即答した。おお、ホルモンの銘酒場。「でも、ぼくの店はみんななくなっちゃったなあ」しみじみ猪口の酒に口をつけた。そして、黒いバッグからノートを取り出すと、ほら、と広げてみせてくれた。蛭子能収のタッチにちょっと似たシュールなイラストで、料理や徳利、割烹着姿の大将や女将さん、のれんなどがスケッチされている。

「もう記憶がおぼろげなんだけど、まったく思い出せなくなったら寂しいなと思ってね。こうやって時折、曖昧な記憶をたぐり寄せて、記録しているんですよ」
 荒木町にあった老夫婦が営む小料理屋。銀座の三原橋地下街にあった名画座「シネパトス」と、地下街の飲食店たち。芝浦近くの橋のたもとにあったホルモン屋。高田馬場の、カレーとラーメンがうまいショットバー……。
 おじさんの思い出話を聞いていたら、私もその店や人、風景を見たことがあるような気がしてきて、懐かしい気持ちに包まれた。お母さんの海苔弁も、いまはなき酒場で過ごした時間も、きっとおじさんにとって大切な記憶なのだろう。
 床が抜けるくらい膨大な本の山に埋もれて暮らしているという彼は、最近、少しずつ本を処分し始めていると言っていた。「役目を終えた本たち」という表現をして。留めておきたい記憶と、手放していくものたち。
 私たちにとって、いちばん大切なものは、生きているなかで巡り逢った「記憶」なのかもしれない。三州屋の翌日、仕込んでおいた海苔弁を食べながら、そんなことを思った。あのおじさんもいまごろ、本の山に囲まれて海苔弁をつついているだろうか。

大衆割烹三州屋 銀座店

東京都中央区銀座2-3-4
電話:03(3564)2758
営業:11:30〜22:30 日曜休み

銀座2丁目の細い路地のどん突きに「三州屋」の藍のれんが掛かる。通り沿いの〈1丁目店〉は日中、休憩ありだが、こちらは通し営業。昼どきに訪れると、フライや焼き魚で白飯を掻っ込んでいる会社員に混ざって、ご隠居が静かにお銚子を傾けていたりする。壁にびっしりと貼られた白い短冊品書きには、築地から毎朝仕入れる魚介や煮物などのお総菜がずらり。マストは、ぷりぷりの鶏と豆腐がたっぷり入った名物「鳥豆腐」(480円)とフライ各種(650円〜)。イカ、アジ、エビ、イワシの定番に、冬場(11月頃〜)は大粒カキフライが加わる。知る人ぞ知る「鯛かぶと煮・酒蒸し」(550円)は立派なお頭がふたつでお値打ち!

 

 

(第20回・了)

 

この連載は月1でお届けします。
次回2016年11月30日(水)掲載