おじさん酒場 山田真由美・文 なかむらるみ・絵

2015.4.1

05絶景なおじさん

 ハムキャベツとサッポロ黒ラベル[富士屋本店・渋谷]

 

 

 こんな言葉に出会った。
「出会いは絶景である」
 編集者の後藤繁雄氏が10年以上の歳月をかけ、吉本隆明、山田風太郎、淀川長治、水木しげるなど28人の思想家をインタビューした快著『独特老人』。そのなかに収録された、俳人・永田耕衣氏の言葉だ。
 自然を絶景というけれど、ひととの出会いのほうが絶景だと、人間を讃える。
 そして、出会いの絶景によって、ひとは成長する。しかしながら、単に生きているだけでは絶景には出会えない。人生の喜び。何か手応えのある、これこそ人生だと思える何か。そういうものを、求めていなければだめなんだ、永田氏はそう語った。

 そうか。私は合点した。
 なぜ自分が酒場に惹かれるのか。その理由のひとつがここにあると思ったのだ。
 ひととひとの距離が近く、温度のある大衆酒場で出会うおじさんたち。彼らが見せてくれる世界に、私は絶景を感じていた。
 決して絶景が見たいと思って足を運ぶわけではない。何の気なしに入った酒場で、向こうも他意なく、隣り合わせたよしみで声をかけてくれたであろう、おじさんとの会話、酒の呑み方、所作……。そんなありふれた時間のなかに、時折、心に残る風景が広がる瞬間があるのだ。ふと見上げた空に情緒を感じることがあるように。

「瓶ビールとハムキャベツください」
 女友だちとふたり、古びたカウンターに千円札を1枚ずつ置き、ヒゲが立派な店員さんに声をかけた。
 渋谷で随一の大衆立呑酒場「富士屋本店」。17時の開店と同時に、還暦すぎの紳士やミュージシャン風のキャップ青年、会社へノーリターンに違いないサラリーマンなど、さまざまな人種がこの地下酒場へと吸い込まれていく。
 体育館のように開放感ある店内をぐるり囲むのは、店の造りに合わせてジグザグと折れ曲がりながら、なんとか“ロの字”をつなぐカウンター。何十回と通ううちに、早い時間、入ってすぐ右の立ち席は重鎮エリアだと知った。若者の街らしく賑やかな酒呑みが多いなか、古参のご老人たちが静かに、でも愉快そうに憩っている姿を何度も見かけた。

 この日、18時をまわったばかりだというのに、5、60人入る店内はほぼ満杯。入口で店員さんに気づいてもらおうと背伸びをするも、みな忙しく立ち働いていて、女ふたりに気づかない。
 途方に暮れていると、重鎮エリアで呑んでいたおじさんが気をつかって、お仲間たちにちょっと詰めろと合図し、2人分のスペースをあけてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
 お礼を言いながら、みなさんに混ぜてもらう。
「ビールとハムキャベツで750円ね」
 ヒゲの兄貴が言って、カウンターの千円札を取り、250円のお釣りを置いた。
 ここは、キャッシュオンデリバリーの店。20代で初めて訪れたとき、注文の都度、その分の支払いを済ませる明朗会計の潔さに、素晴らしいシステム! と感動したものだ。
 サッポロ黒ラベルの大瓶をぐいっと喉に流し込み、あれ? と思った。
 喉が渇いていたせいだろうか、ビールがとびきりおいしい。
「ウマイ、ウマイなあ、ビール!」
 製造年月を確認すると、瓶に詰めてからひと月も経っていない。道理で。新鮮だからウマイわけだ。

「ビールは瓶に限る。黒ラベル、ウマイよね」
 友人とビールトークに花咲かせていると、重鎮チームのおじさんが声をかけてきた。
 最高気温19度と春めいた日。スプリングコートに明るい色のニットの私たちとは対照的に、おじさんは冬物のダークグリーンの背広にマフラーをつけたまま飲んでいた。
「生ビールもあるのに、瓶を選ぶなんて、ツウだねお姉さんたち」
 嬉しそうに言って、自分のグラスに黒ラベルを勢いよく注いだ。
「きみたち、どっからきたの? よく来るの? ここ」
 好奇心を隠さずに、おじさんは聞いてくる。同色のパンツに革靴。後ろの壁に無造作に置かれたビジネスバッグを見ると、勤め人なのだろう。私鉄の駅前の古びた不動産屋さんで新聞なんか読んでいそうな……要するに、失礼ながら気に留まらないひとだった。
 石垣島出身のおおらかな友人は、おじさんの質問攻めに面倒がらずに愛想よく答えている。私は適当に相づちを打ちながら、皿にてんこ盛りのハムキャベツをつついた。
 キャベツの千切りの上にマヨネーズをたっぷり絞り、キャベツを覆い隠すようにハムを乗せてある。春キャベツの季節だ。ふんわりやわらかいキャベツをハムで巻いて食べる。何の変哲もない酒のアテだが、この軽快さが立ち呑みにふさわしく、いつも何も考えずに自動的に頼んでしまう。

「彼女に最初連れてきてもらって、今日が二度目です」
 質問に友人が答えると、おじさんはネクタイを正すしぐさでマフラーを整え、ますます嬉しそうに「ここはね……」と説明しはじめた。
「有名な俳優とか文化人とかもけっこう来るんだよ。テレビとか雑誌社とか、マスコミの人間も多いね」
「雑誌社」というあたりに年代を感じ、ちょっと微笑ましくなり、
「よくいらっしゃるみたいですね。さっき、女将さんと親しげに話してましたよね」
 私が声をかけると、
「オレかい? オレは昭和46年からこの店、通ってるんだ。18歳だったけどね。え、年齢? そんなのひとつやふたつ、ごまかすさ。ワハハハハ!」
 どこまでも陽気なおじさん。しかし、昭和46年からといったら、44年通っている計算じゃないか。というか、富士屋ってそんな古くからある酒場だったんだ。
「40年以上も……!? おじさん、すごいね」友人が感嘆する。
「創業は明治時代だと聞いたよ。オレは当時大学生でカネなんかなかったからさ、安くて腹いっぱいになって酒が呑める店はありがたかったなあ。40年つってもよ、途中、飲み屋の女に入れあげちゃった時期があってさ。ああいう店はさ、ちょっと座ってウイスキーの水割り1杯呑んで、乾きもんかなんか出る程度で勘定、って言ったら1万円の世界だろ? 大衆酒場とは大違いさ。んでオレも目が覚めて、戻ってきたわけ。やっぱり渋谷は富士屋がいちばん。それっからは、ここひと筋だ」
 ハムキャベツをきれいにさらって食べていたおじさんの前に、鯖の塩焼きが置かれた。どうやら、ほかの重鎮たちはここで顔見知りなだけで、おじさんはひとりらしい。まるで呑み友だちのように屈託なく話しかけてくるのは、彼の酒場スタイルなのだろう。
「ここは大衆酒場だ。みんなで楽しく呑もう」
 おいしそうにビールを飲み、店員とも客とも上機嫌で話すおじさんのペースに、私はいつの間にか引き込まれていた。映画の後半、それまで印象の薄かった脇役が何かのきっかけで急に存在感を増してくる感じ。それに似ていた。

「350円ね」
 富士真奈美似の女将さんが小銭を取ると、「そういえば○○さん、しばらく見ないけど、元気かしらね。週に3度は来てたひとが顔出さないと心配になるのよ」とおじさんに話しかけている。
「ああ、○○さんね……」
 顔見知りの客なのだろう。おじさんは前屈みになって、女将さんと話し込みモードになった。

「おまたせ!」
 遅れてきた友人たちが弾ける笑顔でやってきた。
 瓶ビールを追加し、「カンパイ!」。グラスを合わせる。
 突然かしましくなった私たちに、相変わらずマフラーをつけたままのおじさんが笑う。
「おいおい、何人になるんだ?」
「あ、すみません。これ以上増えないので安心して、おじさん♡」
 石垣島出身の友が愛嬌たっぷりに返すと、ほかの重鎮仲間たちに気をつかっている風を装い、「オレばっかり女性と話していると嫉妬されっからさ」と目尻をさげた。
 友人たちの歓声がおじさんたちの間に広がり、場が桜色に華やいだ。

 途中寄り道はしたけれど、富士屋本店に44年通い詰めている一途なおじさん。
 おじさんとは、きっとまたここで会えるだろう。
 酒場のありふれた風景の一部だと思っていたのに「お先に」と別れを告げるころ、その存在は、私にあの言葉を思い出させていた。
「出会いは絶景である」と。

富士屋本店

東京都渋谷区桜丘2-3 B1 
電話:なし
営業:17:00〜21:00(土曜 〜20:00) 日・祝、第4土曜休

再開発で変わりゆく渋谷にあって、明治時代から続く「富士屋本店」だけは時が止まっている。細い階段を地下へ降りると、まったくの別世界が待っているからお楽しみに。オススメは、ハムキャベツ300円とマカロニサラダ(と表記されたスパサラ)200円。ほか、揚げ物各種、刺身や季節の小鉢など、どれもこれも安くて大盛り、ウマイ! 泣けてきます。瓶ビール大450円、ホッピー200円、宝焼酎(360ml)600円など。