ソウル、オトナの社会見学 大瀬留美子

2020.2.13

07ソウル市内に残る朝鮮戦争の傷跡

 

 オトナ(おおきなお友達)の趣味や興味の対象は多様化している。韓国でも鉄道線路跡や戦争遺跡、産業遺産巡りなどは近年注目を集めており、宗教関連の聖地巡りや日本の植民統治にまつわる場所巡りのための案内板やコース説明もだいぶ整備された印象を受ける。「ソウル、オトナの社会見学」も7回目を迎えるが、今回注目するのは弾痕。朝鮮戦争の時のものでソウル市内のあちこちに残っている。
 朝鮮戦争は、1948年に成立した大韓民国(南朝鮮、韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で朝鮮半島主権を巡り、1950年6月25日金日成(キム・イルソン)率いる北朝鮮の奇襲攻撃によって勃発した戦争だ。朝鮮半島全土が戦場と化し、1953年7月27日まで約3年間続いた。南北あわせて犠牲者は400万人とも500万人とも言われている。北緯38度線を休戦ラインとして南北の分断は決定づけられ、現在も休戦状態が継続している。ソウル市内に残っている弾痕の多くは、1950年6月および9月の国連軍及び朝鮮人民軍との戦闘時のものだという。
 2019年はじめ、ソウル市は朝鮮戦争の傷跡が残る場所の発掘と調査を開始した。約3ヶ月間行われ、候補にあがったのは50ヶ所。案内板などを整備する予定だという。それとは別に、弾痕を見て巡る歴史観光コースを作る計画もあるそうだ。

 

 王宮
 ソウル市内には景福宮(キョンボックン)、昌徳宮(チャンドックン)、昌慶宮(チャンギョングン)、徳寿宮(トクスグン)、慶熙宮(キョンヒグン)と合わせて5つの宮殿があり、いずれも人気の観光名所だ。王が政務を行い、生活していた景福宮は朝鮮時代(1392~1910)の正宮として最も規模が大きく、美しい建造物が目を引く。特に宮殿内の池の中に建つ慶会楼(キョンフェル)の美しさは格別だ。慶会楼は国の祝い事があった時宴を催すために造られた二階建ての楼閣で、国宝にも指定されている。1階は広い空間になっており、四角い石柱と円柱合わせて48本の石柱で支えられているのだが、この石柱に弾痕が残っている。

景福宮慶会楼


 また、景福宮をぐるりと囲む塀の東側、観光スポットである三清洞(サムチョンドン)へと続く通りの入口に楼閣のようなものがある。これは東十字閣(トンシプチャガク)といい、元々宮殿内で機能するやぐらだったが、日本統治時代にオリジナルの塀が取り壊されたことによって島のような形で現在残っている。この建造物もよく見てみると弾痕が。周辺の交通量が多いので確認するときは十分注意が必要だ。
 徳寿宮の正殿である中和殿(チュンファジョン)の基壇や、禁川橋(クムチョンギョ)、国立現代美術館徳寿宮館(元は1938年に李王家美術館新館として開館)にも弾痕があるので機会があれば探してみよう。

徳寿宮中和殿



 歴史的建造物
 南大門(ナンデムン)という名称で親しまれている崇礼門(スンレムン)は、李氏朝鮮の首都であった漢陽(ハニャン)を守る城郭の東西南北にある4つの門のうちのひとつ。2008年2月放火による火災で楼閣部分が焼失し、その後復元されたことを覚えている人もいるかもしれない。南大門の復元はこの時だけではなく、1961年から1963年まで修復工事が行われた。朝鮮戦争で崩壊は免れたものの大きく損傷したためである。現在も石の部分に100個以上の弾痕を確認することができる。興仁之門(フンインジムン)こと東大門(トンデムン)もまたしかり。機銃掃射による弾痕が痛々しく残っている。
 戦闘は4大門内、つまり旧市街地で激しかった。現在は名前のみが残る西大門(敦義門〔トニムン〕)エリアに位置する西大門独立公園は、西大門刑務所(ソデムンヒョンムソ)の跡地に造られた公園だ。日本統治時代には多くの独立運動家や民衆が、そして軍事政権時代にも多くの市民が政治犯として投獄された。その西大門刑務所付属建物の外壁におびただしい数の弾痕があり、1000以上あるとも言われ、朝鮮戦争の弾痕がたくさん残る建物として知られている。
 公園の最も南に位置する独立門(トンニンムン)は、1898年清国(中国)から李氏朝鮮の永久独立を願い建てられた門である。そのすぐ近くに石柱のようなものが二本立っているが、これは迎恩門(ヨヌンムン)といい、中国(明および清)の皇帝の使者を迎えるための門で1897年に破壊されたが一部が残った。二つの門には比較的大きな弾痕があり、ほとんど補修してあるが戦闘の激しさを知るのに十分だ。

独立門


 石造りの立派な建物に弾痕が残っていることが多い。1925年に京城駅として建てられたソウル駅舎にも弾痕が残っているが、ガラス板で覆われていて弾痕に関する案内板がある。弾痕の説明があるのは珍しい例といえるかもしれない。南大門市場近くにある立派な石造りの建物は、東京駅や日本銀行本店の設計を手がけた建築家辰野金吾の設計で1912年に竣工した朝鮮銀行本店。朝鮮戦争のときに激しく損傷したものの、修復を繰り返して1989年に完全修復された。この建物にも弾痕が残っている。市庁エリア、徳寿宮の近くに建つ重厚な佇まいの建物は1926年築の聖公会ソウル聖堂。韓国の伝統建築の様式も取り入れており独特な建築美が特徴的だ。外壁には朝鮮戦争時の弾痕が多く見られ、朝鮮戦争殉教者の碑もある。また、1987年6月の民主抗争の際、活動家の拠点にもなった。6.10民主化抗争の記念碑もあるので探してみるのもいいだろう。


 銅像・記念碑、墓地など
 ソウル西部の延禧洞(ヨニドン)は高級住宅街として知られる町だ。1950年9月、この町にある山で、ソウル奪回のための「104高地の戦闘」と呼ばれる激しい闘いが繰り広げられた。バスの停留所名にもなっており、戦績碑が住宅街の中にひっそりと立っている。延世大(ヨンセデ)はそこからほど近い新村(シンチョン)にある名門私立大学だが、学校創立に大きく関与したアンダーウッド博士の銅像の台に弾痕がある。なお銅像自体は1955年のもので、実は三代目。1928年に完成した一代目は取り外され、台の上に据えられたのは連載第2回で紹介した第7代朝鮮総督南次郎筆の興亜維新記念塔である。なお、1948年に造られた二代目の銅像は朝鮮戦争時に破壊されなくなった。

延世大アンダーウッド博士の像


 アンダーウッド博士及びその家族も眠っている楊花津(ヤンファジン)外国人宣教師墓地にも、弾痕が生々しく残る墓石が並ぶ。最寄り駅は地下鉄2号、6号線合井(ハプチョン)駅、韓国を愛し骨を埋めることを願った外国人宣教師ら15カ国417名が埋葬されている。大正から昭和時代に福祉活動家として一生を孤児の保育活動に捧げた曾田嘉伊智(そだ・かいち、1867~1962)の墓や幼い子どもたちの無縁仏の墓もあり、また別の歴史を語ってくれる。
 在韓日本人が多く住む龍山(ヨンサン)の二村(イチョン)駅近くの国立中央博物館でも、朝鮮戦争の弾痕を見ることができる。アジア最大級の規模を誇る博物館には国宝約60品、宝物約80品が所蔵されているが、国宝3号「北漢山新羅真興王巡狩碑」は元々ソウル北部に位置する北漢山(プッカンサン)にあったものを持ってきて展示している。この碑の後部に弾痕があるので、後ろに回って見てほしい。

楊花津外国人宣教師墓地


 弾痕のある碑石は南山(ナムサン)の中腹にもある。南山ケーブルカー(ロープウェー)乗り場近くに「漢陽公園」の碑がひっそりと建っている。日本人居留民のために南山に造られた公園の完成記念碑で、李氏朝鮮第26代王、大韓帝国の初代皇帝である高宗(コジョン、1852~1919)の直筆だと伝えられている。おもてには弾痕、裏は刻まれた文字の大部分が削られていてなんと書いてあるかがわからない。
 ただわかるのは、一つの碑はいろいろな歴史を見てきたに違いないということだ。


(第7回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回は2020年2月27日(木)掲載予定です。