戦争と移民とバスタオル 安田浩一・金井真紀

2020.7.24

05沖縄篇2・シゲさんと中乃湯の戦後50年史

 

 

▽金井真紀

 

 

客間に通されたかのような銭湯内

 中乃湯の女湯レポート、一日目。
 わたしが入ったとき、女湯にほかのお客さんはいなかった。これ幸いと一糸まとわぬ姿で立ったりしゃがんだり、沖縄式ユーフルヤー(お風呂屋さん)の内観をじろじろと観察する。脱衣所と浴場が仕切られていないひと続きの空間。真ん中に、楕円形の湯船がひとつ。床は白いタイル敷き、壁やロッカーは水色のペンキで塗られている。東京の銭湯でもよく見かける色使いだけど、どこか感じがちがう……なんだろ。
 たぶん施設っぽさに欠けるのだ。電気風呂もジャグジーも温度計もない。余計なものは一切なくて、こじんまりしていて、なんだかシゲさんちの客間に通されたような「おうち感」があるのだった。そういえばぜんぜん関係ないけど、沖縄の人は家のことを「おうち」と言う。コワモテのおじさんが「おうちに帰る」とか「おうちを建てた」などと口にするのを聞くとキュンとする。
 ……そんなことをつらつら思いながら、湯船に浸かった。地下350メートルから汲まれた柔らかい鉱泉を、値上がりした燃料で焚いたお湯。ありがたい。首の後ろにちゃぷちゃぷ。ほっぺにちゃぷちゃぷ。
 それにしても。シンプルなつくりとはいえ、男湯と女湯の両方を86歳のシゲさんがひとりで管理するのは骨が折れることだろう。
「毎朝7時に起きるさ。まずコンプレッシャアで水をあげて、そのあとマッサージ機で体をほぐして、それから朝ごはん」
 コンプレッサーの語尾を「シャア」と言うシゲさんを思い出し、自然に口元がほころんだ。シゲさんは午後3時前に開店準備が整うと、まずは自らお湯に浸かって湯加減を確かめる。そして閉店後にもう一度、今度は自分の体を休めるためにお湯に浸かるのだと言った。もしかしたら鉱泉に毎日2回ずつ入る、その習慣が元気の秘訣なのかもしれない。
「男湯と女湯と、両方に入ってみるの?」
 とわたしが聞いたら、
「そりゃあ女湯に入るに決まってるさぁ、ハハッ」
 シゲさんはこのユーフルヤーの主人だし、営業時間外のことなのに、それでも男湯に浸かってみようなんてこれっぽっちも考えていない言い方だった。

 

女湯で出会った人たち

 しばらくすると若い女性が入ってきて、どちらからともなく挨拶を交わした。彼女はざっと体を洗ってから湯船に身を沈めた。
「わたし、地元の人間じゃないんです」
 と言うので、
「わたしも!」
 と応じ、お互いにホッとして、どこから来たかの話になる。彼女は岡山の人だった。
「わたし、このあいだまで東京で働いていたんです。でもなんか疲れちゃって。先週やっと東京の部屋を引き払って、岡山の実家に戻ったところ。実家暮らしだとしばらくは旅行とか自由にできなくなるなーと思って、よし! 最後に沖縄に行こう! って」
 思いついて、2週間の予定で遊びにきたのだと言った。旅が終わったら、岡山で再就職先を探すそうだ。人生の節目にひとり旅。うんうん、わかる、とわたしは大きくうなずいた。沖縄ってそういう場所だ。
 ふと気がつくと、洗い場におばちゃんがふたり増えていた。うちなーぐちのおしゃべりは、どうやら「読谷(よみたん)のおばあちゃん」の噂話らしかった。
 わたしは湯船のサイズを目で計測した。このおばちゃんたちが入ってくると、合計4人。ほんの少し窮屈かもしれない。それにもう、指先がふやふやになるほどお湯を堪能した。わたしは湯船を出てちゃちゃっと水をかぶってから「お先に出ますー」と言い、おばちゃんたちに「はいよー」なんて見送られながら、その場を退散した。でも脱衣所とのあいだに仕切りがないから、体を拭いて服を着る最中もお互いに丸見え。なんだか間が悪い。身支度が整って、いよいよ扉を開けるときにもう一度「じゃ、今度こそ本当に出ますー」みたいなヘンテコな挨拶をする羽目になった。

 

読谷のおばあちゃん

 外に出ると、安田さんとシゲさんが何やら押し問答をしていた。
「ちょちょちょ、シゲさん、ダメですって」
「遠慮せんでよう」
 シゲさんは自販機に小銭を入れようとしており、安田さんが必死に抵抗しているのだった。どうやらシゲさんは、安田さんに湯上がりのジュースを振る舞おうとしているらしい。わたしは慌てて横から安田さんに小銭をパスし、安田さんはそれを自販機の投入口に叩き込み、すんでのところで危機を回避した。シゲさんの心遣いは涙が出るほどありがたいが、危ない危ない。370円の入浴代しか払っていないのに、バナナやら黒糖のお菓子やらを食べさせてもらい、そのうえ缶ジュースまでご馳走になるなんてこと、絶対にできない。
 ベンチでおしゃべりしていると、女湯からさっきのおばちゃん二人組が出てきた。その一人がシゲさんに尋ねる。
「読谷のおばあちゃん、最近来てる?」
 対して、シゲさんはあっけらかんと言った。
「いやぁ、便を漏らして往生したからさ、断った」
 その、読谷村に住むおばあちゃんはずいぶん古い常連客で、最近は娘さんの運転する車で中乃湯に通ってきていたという。
「あの人、わたしと同じ(昭和)8年生(はちねんせい)よ。90余らんけど(90以下だけど)あんな腰曲がってからよ、歩くのもやっとさ。湯池(いけ=湯船の中)じゃないけどさ、流すところ(洗い場)で漏らしてねぇ」
「あらぁ、そうだったんだ。最近会わないと思ったんだぁ」
「うん。仕方ないさ」
 わたしは黙ってその会話を聞いていた。安田さんも横を向いたまま、静かにジュースを飲んでいる。お風呂が好きなわたしたちにも、いつかそんなふうに終わりの日が来るのかもしれない。銭湯も老いる、客も老いる。

 

ライカムの歴史と今

 中乃湯の女湯レポート、二日目。
 初日にシゲさんからさんざんおやつをもらったので、二日目は「手ぶらじゃ行けない」ということになり、「だからって沖縄の人にサーターアンダギーを持っていってもなぁ」と悩み、結局「東京みやげっぽいものを探そう」という謎のミッションを帯びて、ショッピングモールに行ってみることにした。
 わたしは個人経営のお店や小さな路地が好きなので、ふだんは巨大なショッピングモールには極力近づかないようにしている。でも「イオンモール沖縄ライカム」にはかねてより興味を抱いていた。ひとつには安田さんが、
「美ら海水族館なんか行く必要ないよ。ライカムに行けばでっかい水槽があって、ただで魚が見られるんだから」
 と、うそぶいていたためだ。正面玄関を入ってすぐ右に巨大な水槽があり、ナポレオンフィッシュが気持ちよさそうに泳いでいた。
 そしてなによりライカムに関心を寄せていたのは、ここがもともと米軍専用のゴルフ場だった歴史のせいだ。この地区にはかつて比嘉集落があったが、太平洋戦争中に米軍に占領され、収容所などが設置された。1948年に米軍がアワセゴルフ場をつくり、本土復帰後もアメリカ人専用の遊び場でありつづけた。この土地が返還されたのは2010年、じつに62年ぶりのこと。そこにこの、沖縄県最大のショッピングモールが建てられたのだった。現在、240の店舗と9スクリーンを持つ大きな映画館を擁し、駐車場には約4000台が収容できる。ゴルフができそうなくらい広い。って、そりゃそうだ、ゴルフ場だったんだから。
 ライカム(RYCOM)という名称も、米軍に由来する。戦後この地に置かれていた琉球米軍司令部(Ryukyu Command Headquarters)は、その頭文字をとって「ライカム」と通称されていた。だからこの界隈には「ライカム坂」や「ライカム交差点」があり、20199月からは「北中城村字ライカム○番地」と住所にもライカムが取り入れられたというのがおもしろい。アメリカ世(ゆー)の名残であるライカムの名は、いまやすっかり市民のものなのだ。
「で、このライカムのいちばん大事なポイントは」
 と安田さんが説明する。
「米軍のゴルフ場だった頃、ここで雇われていた日本人は38人。だけどショッピングモールになったことで3000人の雇用が生まれた。来場者も年間千数百万人。ものすごい経済効果があるんだよ」
 それはつまり、「沖縄経済は基地に頼っている」「基地反対って言うけど、基地がなくなったら困るのは沖縄県民なんだ」などと巷間ささやかれている思い込みを真っ向から否定するものだ。基地が返還されて、その土地をうまく活用することができれば、基地を抱えているより数段大きな雇用と経済効果を得ることができる。このショッピングモールは、そういう意味で象徴的な場所なのだった。安田さんの話に、わたしとナポレオンフィッシュは深くうなずく。
 さて肝心の、シゲさんへのおみやげ選び。「どうせシゲさんが食べるんじゃないんだ。ベンチでおしゃべりする常連さんたちに配っちゃうんだから」と個包装の焼き菓子を買った。一応、東京に本社がある菓子メーカーのものを。

 

 

 

男の現場で働いてきた元シングルマザー

「あらぁ、またいらっしゃったの」
 明るいシゲさんの声に迎えられ、二日目の中乃湯が始まる。
 この日、女湯で出会い、印象深かったのは髪を茶色く染めた女性だ。湯船で首をコキコキと回していて、目が合うとふっと笑った。
「もう若くないからさ、仕事のあとはゆっくりお風呂に入らないと」
 すっぴんの丸顔、おでことほっぺがツヤツヤして若々しかったが、58歳になるとか。
18ときに産んだ娘は今年40で」
 と言うので、それなら孫もいるのだろうかと想像していると、
「孫ももう大人さ」
 と続けたので「ほぉ……」となった。お孫さんも二十歳を超えているのか。ということは、この人は30代でおばあちゃんになったのか。沖縄は全国でいちばん出生率が高い。未婚率はトップクラスで、失業率ではもうずっと最下位。彼女の話を聴きながら、それらのデータが脳裏をかすめた。だけど途中から気持ちを切り替えた。わたしは「沖縄の女性の典型的な人生」に興味があるのではない。たまたま銭湯で隣り合った人のオリジナルの物語を、掌でそっとすくうのだ。ICレコーダーもノートもないお風呂の中で、わたしはじっと耳を傾けた。
 生まれたのは沖縄本島北部。10代で結婚し、夫婦でコザ(現・沖縄市)に出てきた。子どもを二人産んだ後に、夫と離婚。以来、彼女の言い方を借りれば「男の仕事をしてきた」。
 たとえばゴミの分別の仕事。割れたガラスがベルトコンベアで流れてくる、その前に立って選り分ける。ずっと同じ姿勢だし、重いものを持つので、必ずみんな腰を悪くするらしい。
「まあでも、仕事があるだけマシと思ってさ」
 建設現場で働いたこともある。
「めちゃくちゃきつい。夏場は倒れる人も出るさ。下手したら死ぬよ。あの仕事は人には勧めらない」
 女性だからと軽作業をやらせてくれる親方もいるが、そうすると賃金が安くなる。といって、男と同じ仕事量はこなせない。そのジレンマがつねにあったという。建設現場の仕事をしていた4年間は、家に帰ったらヘトヘトで寝るだけの暮らしだった。
「建設現場はね、歳とったらできなくなるの、男も女も。なかには、ずーっとやってるおじいもいるけどさ、事故になるさ」
「それでやめたんですか」
「うん、やめた。3年くらい前かな」

 

それだけで幸せ

「いまは何やってるんですか?」
「んーと……」
 ほんの一瞬だけ口ごもって、
「ラブホの掃除」
 と答えた。
 ラブホテルは、夏場は冷房が入っている。もうそれだけで天国くらい楽なのだと彼女は言った。この界隈のラブホテルは休憩2時間が2500円という激安設定。安いから、ひっきりなしにお客さんが来る。お客さんが帰ったら掃除人がすぐ出動し、次のお客さんのために大急ぎで部屋を整える。掃除は二人一組でおこなうらしい。
「組む相手がゆるい人だと『疲れたからジュース飲んで一服しましょうねー』なんてこともできるんだけど、真面目な人だとそれができないからね。何時間も動きっぱなしさ」
 彼女は腕を湯船のふちに置いて、そこに頭をもたせかけるような姿勢をしながら話しつづけた。
「ときどき、お風呂の使い方がひどいカップルもいるしよ。あと湯気が結露するさ。それをぜーんぶ拭かなきゃいけないのもたいへんだよう。でもとにかく冷房が効いてるから、それだけで幸せ」
 聴きながら、わたしはそのたくましい二の腕を見ていた。この腕は、何十年も働いてきたのだ。
「あんたの本を書く仕事もたいへんでしょう?」
 と急に振られて、
「ええと、うん、まぁ……」
 モゴモゴと言う。過酷な労働を重ねてきた人を前に、わたしの仕事も大変なんですよなんてとても言えない。かといって、いやぁあなたに比べたら楽な仕事ですよ、と答えるのもはばかられた。逡巡しているうちに、彼女は笑いながら結論を言った。
「どんな仕事も楽じゃないよね。やるしかないさ」
「うん」
 湯からあがって、タイルの上に洗面器を置く。カーンと高い音が天井に響く。外からシゲさんの笑い声が聞こえる。また新しいお客さんが来たようだ。

 

 

 

 

▼安田浩一

 

 

中乃湯の「湯池」に惹かれて

 そう、私たちは二日続けて中乃湯を訪ねた。
 取材のため。いや、それだけじゃない。続けて何度も通いたくなるような居心地の良さが、そこにはあった。
 透き通った海と青空を思わせる開放的な浴室。地中深くで熟成された肌に優しい鉱泉。南海の小島のように鎮座する楕円形の小ぶりな浴槽。そのすべてが「沖縄」を感じさせた。
 湯に浸かる。手足を伸ばす。小さな波紋が浴室の窓から差し込んだ柔らかな陽に照らされる。まるで夕凪に全身が包まれたような気持ちになった。
 中乃湯では浴槽のことを「湯池(いけ)」と呼ぶ。沖縄の “ 銭湯界 ” では、古くからその呼称を用いてきた。
<湯池にタオルなど入れない様する事>
 浴室の壁にも、そんな注意書きが掲げられていた。
 湯池は中国由来の言葉だ。文字通り、熱い湯をたたえた池を意味する。
 なるほど。池だ。心と体を優しく包む熱い池だ。街の中にぽっかり浮かんだオアシスだ。

 

1957年、石垣島からコザへ

 “ 看板娘 のシゲさんは、その湯池を50年間、たったひとりで守ってきた。顔に刻まれた深いしわは、中乃湯の 年輪 でもある。いや、戦前戦後の沖縄を生き抜いた女性の足跡だ。
 シゲさんは1933(昭和8)年、石垣島で生まれた。子ども時代を過ごしたのは島の北西部に位置する川平地区。世界有数の透明度を誇る海と色鮮やかなサンゴ礁に囲まれた川平湾は、島随一の景勝地として知られる。
「あそこの海は最高さあ」
 石垣島の話になると、シゲさんは頬を緩める。
 実家は貧しい農家だった。農耕馬が唯一の財産だった。子ども時代のシゲさんも馬を引いて田んぼ仕事を手伝った。
 地元の洋裁学校に通って縫製の技術を学んだ後、本島のコザ市(現在の沖縄市)に渡ったのは1957年。24歳のときである。言わずと知れた  “ 基地の街 である。
「都会に憧れていたから」
 シゲさんは石垣島を離れた理由をそう話す。サンゴに囲まれた海よりも、人々で賑わう街に惹かれた。また、何よりも仕事がほしかった。働く場がほしかった。産業に乏しい離島で女性が自活することは難しい時代だったのだ。自らが生きるために、両親に少しでも余裕ある暮らしを送ってもらうために、シゲさんは「都会」に渡った。

 

島ぐるみ闘争と1台のミシン

 当時の沖縄は米国の施政権下に置かれていた。1952428日にサンフランシスコ講和条約が発効され、敗戦国日本は独立を果たしたが、沖縄と奄美は日本から切り離された。日本はこの日を「主権回復の日」としているが、米国に  “ 引き渡された 沖縄では、同日を「屈辱の日」と呼ぶ人は少なくない。
 それから27年間、沖縄が日本復帰するまで、日本国憲法も適用されることなく、すべての統治権が米国にゆだねられた。以後、「本土」から米軍基地が沖縄に移転し、「基地の島」として主権も人権も奪われていくのである。日本が主権を回復したと同時に、沖縄は「屈辱」の歴史を歩むことになった。
 シゲさんがコザで暮らしはじめた時期、沖縄は米軍圧政に抵抗する「島ぐるみ闘争」で揺れていた。一方的に土地を奪って基地をつくり、住民の人権をないがしろにする米軍に向けて、まさに「島ぐるみ」の怒りをぶつけていた。
 だが、シゲさんにとっては「政治」よりも「生きる」ことが大事だった。コザの美容院に職を得て、「見習い」として働いた。
 そのころ、那覇で驚異的な発展を遂げて「奇跡の1マイル」と呼ばれるようになった国際通りでは連日、デモ行進がおこなわれていた。コザもまた市内各所で沖縄教職員会主導のデモや集会が繰り返された。まさに「島ぐるみ」の闘いだった。
 しかしシゲさんはそれに見向きもせず、パーマ液と格闘する日々を過ごした。離島で生まれ育った女性が人生を切り拓いていくには、仕事に打ち込むしかなかったのだ。
 必死で働き、金を貯め、シゲさんが購入したのは1台のミシンだった。
90ドルもした。生まれて初めての高価な買い物だった」と述懐する。
「本土」の大卒初任給の平均が13000円だった時代である。当時の固定相場(1ドルが360円)で計算すれば約32000円。その「高価な買い物」が、必死で働いたシゲさんの成果だった。
 市の中心部、コザ十字路の近くで部屋を借りて洋裁店を開業した。その名も「川平洋裁店」。店名には故郷への思いが反映されている。「生まれた島のことを忘れたくなかった」からだという。それは「自分のため、家族のために働く」というシゲさんの決意でもある。以来、40年間、両親が亡くなるまでシゲさんは石垣島へ仕送りを続けた。

 

ドレスとカネを生んだ洋裁店

 60年代のコザは混とんとしていた。
 戦前までわずか8000人の人口しかない農村だったコザ(戦前は越來村と呼ばれていた)は、この頃、約5万人が住む都市へと飛躍的に発展している。人々を呼び寄せたのは米軍基地の存在だった。
 基地建設に必要な労働者として、あるいは米軍人向けの商業・娯楽サービスに従事するため、沖縄本島はもとより北は奄美から南は与那国にいたるまで、多くの人がコザに集まった。
「騒がしかったよう」
 シゲさんが懐かしそうに振り返る。
 街は米兵の姿であふれかえっていた。各所に米兵相手の飲食店やスーベニア(土産物店)ができた。通りには英語の看板が連なった。夜になるとAサインバーのネオンが妖しい光を発した。

 

 

 シゲさんがコザで店を構えたのも、そこにビジネスチャンスを見たからだった。石垣島で学んだ洋裁を生かすときがきたのだ。
 じつはその時期、「洋裁」はコザの主要産業のひとつとして成長を遂げていた。おしゃれな米兵は街の「テーラー」で洋服を仕立て、ときに家族のためにドレスを注文した。本国よりも安価に、そしてていねいに仕上げてくれる沖縄女性の縫製技術に人気が集まったのだ。また、上着や帽子に好みの刺しゅうを入れる米兵も少なくなかった。さらに米兵相手のバーで働く女性たちも、競ってドレスを洋裁店に注文した。
 デイゴやイペーの花を思わせる華やかなドレスを着た女性の姿は、基地の街に新たな色彩を加えた。
 シゲさんの「川平洋裁店」は、そうした女性たちを  “ お得意さん として開業直後から繁盛した。
「面白いほど忙しかったねえ。ドル時代だからね、(景気が)よかったわけさ。クリスマス前なんて、一睡もしないでミシンを踏んでたよ」
 カタカタカタ。ミシンの音は昼夜を問わずコザの街角に響いていた。たくましく生きる女たちのために、必死に働く女たちのために、シゲさんは “ 夜の花 を紡いだ。
 ベトナム戦争が激化した時代でもある。コザはベトナムへの出撃拠点だ。戦場での死を意識し、刹那的に生きる米兵も少なくなかった。
「もう生きて帰ってくることもないだろうって、ベトナムへ発つ前に、必要以上に女性たちにお金を払う兵隊さんも多かったよ。仲良くなったお客に誘われて、兵隊さんの車で基地の中に連れていってもらったこともあった。食事もごちそうしてくれたよ。伊勢海老、チキン、ステーキ、そりゃあもう、うんと食べたねえ」
 90ドルで購入した1台のミシンは、ドレスとカネを生み出した。先行投資はあっという間に回収された。生まれて初めて豊かな食卓を目にした。稼いだドル札を石垣島に送りつづけた。
「ただただ、親の喜ぶ顔を想像した」という。

 

コザの白人街と黒人街

 シゲさんの記憶に残るコザは「繁栄」の風景だけではない。
「事件も多かったよ。兵隊さんが暴れている姿も何度も見たねえ」
 気前よくドルをばらまく者もいれば、腕力で女性を屈服させる者もいる。米兵から性暴力を受ける女性が相次いでいた。今も昔も、基地の存在がときに地元女性の尊厳を奪うことに変わりはない。
 特に、シゲさんが住んでいたコザ十字路周辺は、まさに人種の交差点だった。
 近辺にはいくつもの特飲街(米兵相手のバーが連なるエリア)が存在したが、コザ十字路から北は白人街、南は黒人街と区分けされていた。これはトラブルを防ぐことを名目とした、当時のMP司令官による一種の人種隔離政策でもあった。
 なかでも黒人街はコザ随一の歓楽街でもあった。カフェ、レストラン、バー、キャバレーなど、いずれも黒人向けの店が軒を連ねていた。黒人専用の理髪店や洋服店もあった。当時の新聞は「黒人はここで集合離散して一日の部隊の疲れをいやす。この街の一日の息吹は、夕闇せまるころ、色とりどりの灯が軒にともり、息苦しいほどにおしろいの匂う夜の女達が真紅の唇にたばこをくわえて立ち、そして始まる」と書いている。
「真紅の唇」の持ち主のなかには、きっとシゲさんのつくったドレスを身に着けた女性もいたはずだ。
 黒人街にはコザ市内からだけでなく、嘉手納や瑞慶覧、那覇など、全島各地から黒人兵が押し寄せた。タクシーやバスを利用して集団で訪ねる者も少なくなかった。沖縄に赴任した黒人にとって、コザの黒人街は一種の聖域として機能した。
 だがそれは、米兵間の深刻な人種対立が地域に投影された結果でもある。
「あちこちで黒人と白人がケンカしてたさあ。MPが(パトカーの回転灯を)ピカピカさせながら走り回ってね、そりゃあ騒々しかったよ」
 ケンカなどのトラブルは日常茶飯事だったと、シゲさんは言う。
 白人街と黒人街の境界線を無視、あるいは誤って越境 ” すれば、間違いなく “ 侵略行為 ” と認定され、血の雨が降ることとなった。
 物騒な事件や多人数での大乱闘も繰り返された。
 58年には黒人兵がMPの常駐する派出所に手りゅう弾を投げ込むといった事件が発生した。3人のMPが被弾して重傷を負っただけでなく、周囲の民家も損害を被った。また、60年には白人街に “ 越境 ” した約40人の黒人兵が大暴れし、コザ十字路一帯の交通が一時遮断されるといった事件も起きている。

 

黒人街のブッシュマスターズ

 こうした対立の背景には、深刻な人種差別があった。
 米国で人種差別を禁じる公民権法が成立したのは64年だ。それ以前、黒人差別は当然の “ 制度として定着しており、公民権法施行後も、黒人への偏見が消えることはなかった。いや、21世紀のいまでも、無抵抗の黒人が警察官に殺害されているのだ。「Black Lives Matter」なるスローガンさえなかった60年代、苛烈な人種差別がコザの街にも暗い影を落としていた。
 沖縄市役所が編纂する小冊子『KOZA BUNKA BOX』(第3号)は、新聞記事を引用しながら、50年代末の黒人街の様子を次のように記している。

<ある黒人兵は沖縄に配属された最初の日、何も知らないで足を踏み入れた黒人街の様子に「ニグロ以外は誰もいないではないか。私は自分の目を疑った」と驚愕する。さらに警ら中のMPに「つべこべ言うなよ黒ん坊。この街ではお前はただの黒ん坊にすぎないんだ」と暴言を浴びせられショックを受ける。その黒人兵はMPに対し「僕は下士官だ。そういう言い方はよせ」と抗議したが、MPはかまわずに「黒ん坊」と侮蔑の言葉を言い続けた>

 白人による差別に対抗するため、黒人街を拠点とした黒人の自警団的組織も誕生した。なかでも最も「戦闘的」と評されたのが、「ブッシュマスターズ」である。黒人兵たちが白人のいない黒人街を「ブッシュ(密林)」と形容していたことがネーミングの由来だ(ちなみに白人至上主義者による「フテンママスターズ」なる組織も県内に存在した)。
 私たちは中乃湯での取材を終えてから、ゲート前通りの「沖縄市戦後文化資料展示館ヒストリート」に立ち寄った。そこでもっとも私の目を引いたのは、60年代に隆盛を誇ったブッシュマスターズの写真である。
 彼らはおそろいの黒いジャンパーを身に着けていた。背中には赤玉パンチをガブ飲みする黒ヒョウが刺しゅうされている。それがブッシュマスターズのシンボルだった。鋭い目をした黒ヒョウは、まさに怒れる黒人の姿そのものだった。安酒の象徴でもあった赤玉パンチをどれだけ飲んだところで、けっして変えることのできない不正義と不平等に黒人は苦しめられていた。
 彼らはその “ 制服 ” で白人に抵抗し、威嚇し、ときに暴力で差別と闘った。そうするしかなかった。一種のストリートギャングだったと評する向きもある。おそらくそうした一面もあったのだろう。だが、構造的、制度的な差別に対して、拳を振り上げ、嚙みつく以外にどんな方法があっただろうか。

 

1970年、コザ暴動

 沖縄には幾重もの差別が積み重なっていた。米軍内における人種差別。米軍による沖縄住民に対する差別。そして「日本」による沖縄差別。繁栄の裏側には圧政と差別に苦しむ人々の姿があり、自由と解放を望む人々の疼くような思いがあった。コザではさまざまな欲望と苦痛が渦巻いていた。
 それが一気に爆発したのが19701220日に起きた、いわゆる「コザ暴動」と呼ばれる事件である。
 きっかけは米兵による交通事故だった。コザ市民が被害者となったこの事故の処理をめぐって近隣住民が抗議したところ、MPが威嚇発砲。これをきっかけに抗議の輪はさらに拡大し、米軍車両などが次々と燃やされた。コザの夜は炎に染まった。
 背景にあるのは米軍支配に対する人々の怒りである。米兵による事件は続発していたが、琉球警察はほとんどの場合、関与することもできず、米兵犯罪者が米軍敷地内に逃げ込んでしまえば、何の手出しもできなかった。暴動が起きる少し前にも県内で米兵が主婦を轢殺する事件が発生したが、犯人は軍事裁判で無罪が決定したばかりだった。
 つまり「コザ暴動」は反米闘争のひとつにも数えられる、市民の抵抗運動、民衆蜂起でもあったのだ。

 

ドルから円に。そして銭湯衰退期へ

 この年、シゲさんは中乃湯を経営している男性と結婚した。
「ここに嫁いだばかり。必死で仕事を覚えている時期だった。暴動? すごかったねえ、車を焼いたりね。夢みたいな話さ。でもね、私はそれどころじゃなかった」
 洋裁店からユーフルヤーに。シゲさん、人生の転換点だった。
 朝早くに起きて水をコンプレッサーで汲み上げる。浴室をていねいに掃除する。風呂を沸かして湯加減を調整する。そして軒先で客を待つ。そんな毎日が始まったばかりだった。
 ユーフルヤー全盛期でもある。いまとはちがい、連日、入浴料の50セント硬貨を握り締めた人でにぎわった。
「そのころはまだ、水道さえ整備されていない地区もあったからねえ、貴重な存在だったよ」
 すぐ目の前でおこなわれていた焼き討ちも、人種間対立も、シゲさんの視界には映り込んでいた。だが、それ以上に「湯池」を満たし、人々に喜んでもらうことが大事だった。それがシゲさんの生き方だった。石垣島を離れ、仕送りを続け、わき目もふらずに働いてきたのは、子ども時代に憧れていた「豊かさ」を手に入れるためだった。
 馬を引いて農作業を手伝っていたときの記憶は懐かしい。シゲさんにとっては忘れることのできない思い出だ。だが、その時代に戻るために働いてきたわけではない。洋裁も、ユーフルヤーも、生き抜くための手段だった。沖縄で激動の空気を呼吸しながら、それでもシゲさんは水を汲み上げ、浴室の床を磨きつづけた。
 72年の「日本復帰」にも何の感慨も抱かなかった。ドルが円に変わった。「入浴料を表示する貼り紙を書き換えなければ」。シゲさんにとって「復帰」の意味はそれだけだった。
 そして「豊かさ」を手に入れることはできたのか。
 私の問いに、シゲさんは「うふふ」と笑うだけだった。
 84年、子どもが小学校6年生のときに夫が亡くなった。以来、たったひとりで中乃湯を切り盛りしている。
「そのころからだねえ、ほとんどの人が家でシャワー使うようになってね。ユーフルヤーがどんどん消えていった」
 全国的に銭湯衰退の時代が始まった。客足は減る一方。それでもシゲさんは中乃湯を守りつづけた。
「もったいないから」
 シゲさんはそう繰り返す。
 最近もコンプレッサーの修理で、貯金の全額を使い切った。月に10万円以上もする燃料費も頭痛のタネだ。
 それでもやめない。
 ドルが乱れ飛ぶ繁栄の時代にもミシンを踏みつづけた。暴動にも復帰にも関心を寄せることなく、風呂を守った。

 

1972年1月15日にコザで行われたキング牧師追悼パレード。暗殺から4年9カ月、キング牧師の誕生日に多くの黒人が集結した。なかには白人の姿も

 

シゲさんの決意と守ってきたもの

 いま、コザの街は落ち着いたたたずまいを見せている。
「寂れたねえ」とシゲさんは苦笑する。ブッシュマスターズが仕切っていた黒人街も、いまや薄暗いシャッター通りだ。
 今年6月12日には、沖縄市の中心部・胡屋で米国の「Black Lives Matter」に連帯する集会が開かれた。黒人が、白人が、米国人と日本人のダブルの若者が、そして普段は米軍基地の建設に反対している地元住民が、一緒に米ミネソタ州で起きた白人警官による黒人男性暴行死事件に抗議の声を上げた。「命どぅ宝(命こそ宝)」と「Black Lives Matter」が同時に叫ばれた。ともに被差別の歴史を抱えた者たちの 連帯 が示された。
 そして基地はいまだ居座っている。事件もある。沖縄は日米両国から、ないがしろにされたままだ。
 それでもシゲさんは湯を沸かす。「湯池」を満たす。何も変わらない。
 今日も午後になるとシゲさんは入り口のベンチに座って客を待つ。
「おばあ、元気か」と客が370円をシゲさんに手渡しする。「あんたこそ、どうなのよ」とシゲさんが返す。
 いつのまにか人が集まる。ゆんたくの輪ができる。茶菓子が回される。
 沖縄の戦後を乗り切り、50年間、変わらぬ日常を繰り返し、たどり着いた先に常連客の笑顔があった。
 石垣島を離れたときの決意は色あせていない。
 シゲさんは時代に流されなかった。そんな余裕などなかった。自分と家族とユーフルヤーを守りつづけた。
 きっと、それが、シゲさんの幸せなんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(第5回・了)

 

本連載は月2回更新でお届けします。
次回:2020年8月15日(金)更新予定