戦争と移民とバスタオル 安田浩一・金井真紀

2021.3.4

10神奈川/寒川篇1・戦後引揚者とすずらん湯

 

 

▼安田浩一

 

 

その名は「すずらん湯」

 銭湯はなくなっていた──
 すでに廃業したとの情報はネットにも書き込まれていた。実際、電話をかけても通じない。それでも現場を直接目にするまでは、一縷の望みを捨てなかった。何かの間違いであってほしい、ネットの書き込みなんて当てにならないし。そんな気持ちで私と金井さんは足を運んだのだ。
 だが、やはり跡形もなく銭湯は消えていた。
 あるはずの場所に、ない。
 見回しても、見上げても、かがみ込んでも、ないものはない。
 ため息が漏れる。全身から力が抜ける。
 心の中は、湯の抜けた空っぽの浴槽と同じだ。乾いた風が吹き抜ける。
 ただし、この場所がこれからはじまる長い物語の起点となることには気がついていない。私たちはその時点で、先の展開をまったく読めていなかった。
「どうします?」
「ご飯でも食べて帰りましょうか」
 そんな気の抜けたやり取りをしながら、途方に暮れるばかりだった。
 神奈川県のほぼ中央、相模川の下流に位置する寒川町。「湘南」と呼称される地域の一角にありながら、田園風景の広がる落ち着いたたたずまいが特徴の小さな町だ。地元では多少の自嘲も込めて 海のない湘南と口にする人もいる。
 そんな町の中心部、JR相模線「寒川駅」近くの「すずらん湯」こそ、私たちが狙い定めた銭湯だった。
 それにしても、だ。
 なぜ私たちは「すずらん湯」に興味を持つことになったのか。
 実はこの銭湯、寒川が経験した  戦後の事情 によってつくられていた。

 

引揚者と海軍工廠跡の集合住宅

 ことの経緯は次の通りだ。
 敗戦直後、この町に引揚者住宅ができた。引揚者住宅とは文字通り、旧満州(現在の中国東北部)などからの引き揚げ者のために建てられた住宅のことである。
 敗戦時、海外には約629万人の在外邦人がいた。戦争が終わり、日本の占領が解除された外地(朝鮮、満州、樺太など)から、一気に人々が帰国する。
 そこで深刻な事態が発生した。引揚者の住居問題だ。焼け野原となった都市部では、ただでさえ住宅事情は最悪だった。空襲などで家を失った人々が多く、かろうじて罹災を免れた家屋で数家族が身を寄せ合うように生活する光景も珍しくなかった。そんな都市部に次々と引揚者が押し寄せる。
 引揚者のなかには、もともと日本国内での貧困から脱するために外地へ足場を移した人が少なくなかった。いや、外地へ追いやられたといってもよいだろう。この人たちもまた、日本の植民地主義と棄民政策の犠牲者ではある。戦争に巻き込まれ、すべてを失い、着の身着のままの状態で、帰国したのだ。
 もともと国内に土地も資産も持たない人々だ。長きにわたる外地生活で、係累、縁者とのつながりも失っていた。住む家を求めて、引揚者は焼け野原を彷徨うしかない。
 当時の様子をまとめた『引揚者の戦後』島村恭則編(新曜社)には、次のような記述がある。

<住居のない引揚者は、壕舎(防空壕)や橋の下、寺社の軒先、仮小屋などに仮住まいするという状況であった>

 つまり、路上生活を強いられたのである。戦後という時間がはじまったばかりのころ、引揚者の戦争はまだ終わっていなかった。
 さすがに行政もこの問題に対応せざるを得なかった。各地の役所に設けられた引揚援護局が中心となり、急増する引揚者のための住宅確保がはじまる。
 行政が真っ先に目を付けたのは旧日本軍の施設である。なかでも工廠(いわゆる軍需工場)とその関連住宅(社員寮など)は、日本軍解体と同時にもぬけの殻となっていた。住宅として使うにはもってこいの物件だ。住宅不足解決の決め手として、各地の工廠跡地で引揚者住宅の整備が進められた。
 194512月、寒川にも引揚者住宅ができた。
 同地には1943年に操業開始した相模海軍工廠があり、その周囲に建てられた従業員寮がそのまま引揚者住宅に転用されたのだ。

 

住民の請願で誕生した銭湯

 さて、ここでようやく銭湯の話に繫がる。
 これまでの連載記事を通して理解いただけていると思うが、私と金井さんは、風呂を通して社会や歴史にまつわるさまざまな問題を考えている。いや、深く考えることはできなくとも、触れてみたいとは思っている。
 そうしたなか、多くの資料を渉猟する過程で発見したのが、寒川の引揚者住宅の住民たちによる「浴場新設請願書」だった。
 これは1950年に町議会に提出された書面で、風呂を持たない住民たちが、町営浴場の開設を請願するものだった。
 これを受けて議会は「町営」ではなく、事業者に建設資金を貸し付ける形で予算化し、5412月、住民待望の銭湯「すずらん湯」が開業したのである。
 そのころ、家庭風呂はまだ普及していなかった。どこの地域にも当たり前のように銭湯が存在した。だが、住民の請願によってつくられた銭湯は珍しい。しかも、請願の主体となったのは引揚者である。
 そこに私たちは戦後の空気を感じた。歴史の断面を見たような気持ちになった。だからこそ、その銭湯が 生きている のであれば、ぜひ触れてみたかった。湯に、浴槽に、ひとつひとつのカランに、そして歴史
に。
 大きな浴槽で、おもいっきり手足を広げ、くつろぎたかったことだろう。戦争のない時代、脅えながら逃げる時代がようやく終わったのだ。引揚者にはきっと、それぞれが苦渋に満ち満ちた物語を持っている。生きのびるために、逃げ切るために、引揚者は混乱の暗闇を駆け抜けてきた。
 ほっと落ち着いたとき、熱い湯に体を沈めたくなる気持ちは痛いほどわかる。だからこそ、人々は議会に願い出た。湯の中でようやく獲得した自由と平和を全身で感じたいと願った。
 念願かなって開業した「すずらん湯」で、人々は暗い思い出を洗い流したはずだ。
 だが、前述したように「すずらん湯」はすでになかった。
 いま、跡地には大手進学塾の瀟洒なビルが建っている。どれだけ想像力を働かせても、そこに銭湯の姿を重ね合わせることはできなかった。もちろん、どれだけ耳を澄ませたところで、浴槽から湯があふれ出す音も、風呂桶が床をこする音も、聞こえてこない。風景は銭湯のあった時代をまるごと洗い流していた。

 

寒川町文書館の導き

 気落ちしたまま、私たちはそれでも残骸のひとつでもないかと、周囲を歩いた。
「すずらん湯」が残した記憶の欠片(かけら)は、近くの質店に落ちていた。
──この近くに銭湯がありましたよね?
 おそるおそる話しかけた私たちに、店主は満面の笑みで応えてくれた。「ええ、すずらん湯のことですね」
 店主によれば、「すずらん湯」は2014年まで営業していたらしい。
「一時期はそれなりに賑わっていましたよ。このあたりで銭湯は珍しかったからねえ」
 番台があり、大きな浴槽があり、壁にはペンキ絵が描かれ、といった普通の銭湯だったが、「やっぱり自宅の風呂に入るよりも気持ちよかった」と述懐する。
 だが、今世紀に入ってからしだいに客足が遠のいた。
 全国どこにでも見ることのできる 銭湯離れ は、家庭風呂の普及だけが原因ではない。露天風呂やサウナ、豪華な休憩所が併設されたスーパー銭湯がブームとなり、人々の関心はそちらに移った。大きな浴槽は生活のために存在するのではなく、娯楽のひとつに位置づけられるようになったのだ。このあたりとて例外ではない。近隣の平塚、茅ヶ崎、藤沢にはいくつものスーパー銭湯がある。
 時代の流れに抗することはできず、「すずらん湯」は、その歴史に終止符を打った。
 ちなみに質店の店主は「すずらん湯」が引揚者の要請で開業した経緯を知らなかった。「へえ、そんなことがあったんですか」と興味深げに問い返すばかりだった。
 無理もない。引揚住宅はすでになく、70年近く前の開業の経緯など、まだ産まれてもいなかった店主が知る由もないだろう。

 かろうじて「すずらん湯」の記憶をすくい上げた私たちが次に向かったのは、寒川町の図書館内に設けられた同町文書館である。
 せめて何かの資料が残っていないだろうか。銭湯がなくなっていても、せっかく同地に足を運んだのだから、あとひとつくらいは土産話がほしい。その程度の期待で文書館を訪ねたのである。
 同館館長の髙木秀彰さんは、すこぶる親切だった。
 相模海軍工廠の成り立ちから、その機能に至るまで、ていねいに資料を広げながら説明してくれた。
 ただし、「すずらん湯」に関係する資料はごくわずかしか残されていなかった。件の「請願書」以外には、開業を報じた町の広報紙があるだけだ。
 1955年1月に発行された「広報さむかわ」。「すずらん湯」開業直後の同紙には、「新装成った寒川町公衆浴場すゝらん湯」の見出しの下、次のような記述を見ることができる。

<寒川町の真ん中に温泉ができました? といつても熱海や伊東のそれとは違います>
<この度寒川町公衆浴場「すづらん湯」が新春を待たずして寒川駅西側に新装なり、去る十二月二十三日から営業開始をしました>※原文ママ
<これで今迄、金二十円也の電車賃を使い、厳寒の夜空をはるゝゝ隣接の茅ヶ崎までセントウに行つておられた人達にとつては、近くて、安くて、しかも新しいのでは、まさに一石二鳥、どんなに喜ばれることでしょう>

 書き手までもが高揚しているような弾んだ記事からは、銭湯への期待が十分に伝わってくる。
 なるほど、「すずらん湯」ができるまで、人々はわざわざ列車に乗って茅ヶ崎の銭湯まで出かけるしかなかった。「厳寒の夜空をはるばる」では、さぞかし帰路は湯冷めしたことであろう。
 ちなみに同記事には初日の客数が350人にものぼったこと、そして開業時の入浴料が15円であったことも記されている。
 当時の物価統計によれば、大卒初任給が約1万円。たばこ(ゴールデンバット)1箱が30円、はがき1枚が5円である。つまりはたばこ半分、はがき3枚分の入浴料だった。現在の物価に反映させても、相当に安価だったことになる。それだけ銭湯は、日常に欠かすことのできない存在だった。

すずらん湯の開業を伝える「広報さむかわ」


 ところで、銭湯開設を請願した人々はいまどうしているのだろうか。
「もう、この町にはいないと思いますよ。そもそも開業当時におとなだった人は、その多くが亡くなっていてもおかしくありませんからねえ」
 髙木さんの説明に、私たちは頷くしかない。そもそも、引揚者住宅もすでにない。
 そして、髙木さんは窓の外を指さした。
「ほら、あそこ。集合住宅が並んでいますよね」
 私たちの視界に数棟の5階建て住宅が飛び込んできた。文書館にほぼ隣接した一角である。
「いまは県営住宅ですが、あの場所に、かつて海軍工廠の従業員寮があったんです」
 ということは……
「そう、戦後の一時期、そこに引揚者住宅がありました」
 窓の外で、県営住宅の白い壁が陽の光を浴びて輝いていた。どうせならこっちにも来なさいと、手招きしているようにも感じた。
 文書館を後にした私たちは当然、迷わず県営住宅に向かったのである。何かの磁力に引っ張られるように。

 

引揚者住宅の影を追って

 5階建ての県営住宅は全部で6棟。敷地内には集会所と小さな公園があった。子ども時代を団地で過ごした私には懐かしい風景だった。
 私たちはここで、引揚者住宅の時代を知っている人を探したかった。
 もちろん望み薄であることはわかっていた。引揚者が、県営住宅に建て替えられた後も住み続けているとは考えにくい。実際は他地域においてはそうした事例もあるらしいが、なんといっても敗戦から75年が経過しているのだ。証言者を見つけることなど困難に決まっている。
 昼間だというのに県営住宅は静まり返っていた。おそらく高齢者の住民が多いからであろう。しんとした気配の中で、私たちが交わす声だけが響いた。歩いている人の姿もほとんどなかった。それでも私たちはときおり人の気を感じると駆け寄り、無遠慮に質問を重ねた。 
 ここに引揚者住宅があったことを知っていますか?
 そのころから住み続けている人を知りませんか?
 みなが一様に首を横に振った。何かを売りつけようとする怪しい二人組だと感じたのか、逃げるように去っていく人もいた。
 夕方になっても手応えゼロ。収穫なし。
 真冬の風が身に染みる。
 銭湯もなければ、引揚者住宅を知る住民もいないじゃないか。
 その日、私たちは空振りの無念を嚙みしめるしかなかった。
 まあ、こんな日もある。仕方がない。まさに「厳寒の夜空をはるばる」の気分を抱えて、その日、私たちは寒川を後にした。

 

 

 

 

▽金井真紀

 

 

取材の神さまを信じて

「ぼくは無神論者だけど、取材の神さまだけは信じてるの」
 安田さんは、ときどきそんなことを言う。お百姓さんが田の神さまを、漁師さんが水神さまを、おすもうさんが土俵の神さまを信じるように、ジャーナリストは取材の神さまを信仰しているらしい。
「現場に10回足を運んで、10回空振りして、それでもまた行くと11回目にほしい情報に出会える。そういうとき、あぁ取材の神さまはいるなぁと思うわけ」
 ははぁ、安田さんの神さま、けっこう厳しい。執念や粘りをお求めになるようだ。行き当たりばったり、だいたいでオッケーのわたしの神さまとは大違い。これまで安田さんは取材の神さまに鍛えられ、歩き回り、走り回り、靴底を減らす代わりにいくつもの真相にたどり着いてきたのだった。
 だから、前回の取材からひと月ほど経つと安田さんは当然のように言った。
「もう一度、寒川の県営アパートに行ってみよう」
 あの、ほとんど人通りのない団地でもう一度張り込みをしようというのだ。えー、何度トライしたところで、昔を知っている人に会える確率は低そうですけどね、と口から出かかったことばを呑み込んで、
「じゃあグローブを持っていって、キャッチボールしながら人が来るのを待ちましょうか」
 とわたしは提案した。前回、団地の敷地内をひたすらウロウロしているわたしたちは明らかに不審者じみていた。せめて広場でキャッチボールでもしていれば間がもつかもしれない。
 取材ノートとICレコーダー、そしてグローブを鞄に入れて、わたしたちは再び東海道線と相模線を乗り継いだ。湘南は冬晴れだった。

 

自治会長に会う

 穏やかな平日の昼下がり、県営新橋アパートは相変わらず人影もなく、シーンと静まり返っていた。一応、1号棟から6号棟まで巡回してみるが、猫一匹いない。こうなったら片っ端から呼び鈴を押してみようか、と一瞬思ったが、そんな聞き込みの刑事のような行動は最終手段だ。まずは鞄からグローブを出すか。長期戦を覚悟した、そのとき。
 頭上からパーンパーンパーン……と何かを叩く音が降ってきた。見上げると、3号棟の2階のベランダに、干していた布団を取り込もうとするご婦人の姿。わたしは思わず駆け寄って、下から叫んだ。
「すみませーん! ちょっとお聞きしたいことがあるんですー」
 ご婦人は驚きながらも、「じゃあ玄関へどうぞー」と叫び返してくれた。急いで階段を上がって玄関の扉をノックすると、ご婦人の夫と思しき白髪の男性が顔を出してくれた。
「この団地はもともと戦後の引揚者住宅だったと聞いて……その時代のことをご存知の方を探しているんです」
 事情を話すと、「わたしらは数年前に越してきたから昔のことはわからないねぇ。そういうことなら自治会長さんに聞いたらいいかもしれない」と、5号棟の自治会長宅を教えてくれた。安田さんとわたしはいそいそと5号棟へ。


 幸い自治会長さんは在宅していた。歳のころ70前後の女性。茶色く染めた髪を結って、きちんとお化粧もしている。昭和571982)年からここに住み、長く自治会長を務めてきたという。
「自治会長を10年くらいやってね、56年前に一度やめたんだけど、ほかの人だとうまく回らないからと頼まれて、結局また引き受けちゃったの」
 明るく、ちゃきちゃきとした口ぶり。周囲から頼りにされているのだろう。
「ここは昭和53年にいまの鉄筋コンクリート5階建てのアパートになったんだけど、その前は戦争中からあった木造2階建てだったのよ。そこに引揚者の人もいたみたいねぇ」
 引揚者という単語が出てきて、安田さんとわたしは前のめりになる。
「木造のアパートはもうボロボロで、つっかえ棒して住んでたんだって。5階建てが6棟できて、木造のころからの住民は1号棟と2号棟に入ったのよ。でももうみんな亡くなってしまって……」
 そう言ったあと、自治会長さんはハッと顔を上げた。
「あ、一人いるわ」

 

最後の生き証人

「いますか!」
「うんうん。Aさんていってね、もう80を超えていると思うけどお元気よ。木造時代を知るのはあの人しか残っていない。Aさんに聞いたらいいわ。いまの時間、家にいるんじゃないかしら」
「行ってみます!」
 その「最後の生き証人」は、1号棟の5階に住んでいるという。わたしたちは1号棟に急行し、そのまま5階まで一気にのぼった。はぁはぁ、ぜぇぜぇ……エレベーターのないアパートの5階に住むのは大変だ。
「アハハハ、あんたたち若いのに、ハアハア言って」
 ドアを開けて顔を出したAさんはまず、階段をのぼっただけで息を切らせているわたしたちを笑った。
「あたしなんか40年以上この階段を上り下りしてるから、へっちゃらよ。うちの母なんて90過ぎても毎日お買い物に行ってたわよ」
「ひえー、すごいですね」
 Aさんは突然訪問したわたしたちを警戒することもなく、昔の話を聞かせてくれた。その物語には引揚者も出てくれば、すずらん湯も出てきた。まさにほしいと思っていた貴重な証言だった。それどころか、思いもよらないエピソードが飛び出して、わたしと安田さんは思わず顔を見合わせた。
 取材の神さま、ここに降臨せり!

 Aさんは幼いころに父親を亡くし、ずっとお母さんとお姉さんと3人暮らしだった。戦時中、お母さんは寒川にあった相模海軍工廠で炊事係の職を得て、女手ひとつで姉妹を育てた。
「この場所は、海軍工廠で働く人たちの従業員寮だったんですよ。だからあたしたちはここに住むことができた。そうそう、そのころは木造2階建て。母はここから海軍工廠まで歩いて通ってました。自転車なんて乗れないわよ、あの時代の人だもの」
 Aさんが小学校に入ったのは1945年。その年の春から夏にかけて、寒川にはしょっちゅう空襲警報が鳴っていた。
B-29に狙われたこともあります。爆弾が落ちてくるのも見ましたよ」
 とりわけよく覚えているのは716日の平塚空襲。2時間で44万発の焼夷弾が投下され、数百の民間人が亡くなった。隣町の寒川にも多くの米軍機が飛来したという。
「うちは近くに鉄塔があったおかげで助かったの。飛行機は鉄塔にぶつかることを恐れて、それより低く飛べなかった。もし低空飛行して爆撃されたら、木造アパートなんてひとたまりもなかったでしょうねぇ。防空壕なんてなかったし」

 

「引揚者さん」がやってきた

 戦後、海軍工廠の跡地は、いくつかの民間工場に払い下げられた。そのひとつ、日東タイヤでお母さんは再雇用され、Aさん一家は戦後も同じ木造アパートに住み続けることができた。
1階に2世帯、2階に2世帯、だからひとつのアパートに4家族が住んでたわけね。3棟ずつ組分けされてて、全部で8組まであったかしらね」
 ということは、全戸が埋まっていたら96家族が住んでいた計算になる。けっこうな規模のアパートだったのだ。
「戦後しばらくして、引揚者の人が来たの」
 引揚者はどんな感じの人たちだったのか。どこから来たのか。満州か、南洋か、それとも……。具体的な答えを求める安田さんとわたしに対して、それまで淀みなく話していたAさんの口調が少し変わった。
「んー。あたしは子どもだったから、よくわからない」
 安田さんが、ゆっくりと質問を繰り返す。
「いま、このアパートに、引揚者やそのご家族は、住んでいますか?」
 Aさんはまた「んー」とつぶやいたのちに、
「いや、あのね、当時からどの方が引揚者さんなのかわかりませんから。見てわかるってものでもないし」
 と答えた。
「ただ大人たちが『あそこのうちは引揚者さんみたいだね』と話してて、あたしはそれを耳にしただけでね」
 歯切れの悪さと「引揚者さん」という言い方に、それ以上しつこく聞くのがためらわれた。

 厚生労働省の統計によると、戦後、海外から引き揚げた軍人・軍属は310万人、民間人は318万人、合計約629万人にのぼる。生まれ故郷に戻ることができる人は限られていた。もともと貧しい村や家の出身で、生き延びるために国策に乗って「外地」へ行った人たちに帰る場所はない。戦後、命からがら引き揚げてきたあとは、また見知らぬ土地にゼロから根を張るしかなかった。
 日本各地で「引揚者差別」があったと聞く。
 戦後の混乱が続いている最中、地縁も血縁もない「引揚者さん」が突如やってきた。土地のことばをしゃべらないよそ者だ。どうやら着の身着のままで、食べるものにも事欠くほど貧しいようだ。みんな、家の物を盗られないように気をつけろ。そんな警戒心が生まれた。いつもどこでもにんげんは、よそ者を怖がって、疑って、差別するのだ。自分もその一味なのだ、とうなだれる。うなだれたのちに、どうにかその差別心をぶん投げたいと、そっと空を見る。
 もちろん、寒川で引揚者に対する明確な差別があったかどうかはわからない。ただ、Aさんの口ぶりは「あの人は引揚者だ」と表立って言うことがはばかられた過去をうかがわせた。遠巻きに噂話はするけど、個別の事情には踏み込まない。それが戦後を生きる「大人たち」の知恵だったのだろうか。

 

工員用の風呂からすずらん湯へ

「あ、そうだ。すずらん湯をおぼえていますか? 駅前にあった銭湯」
 話題を変えると、Aさんは朗らかな表情に戻って、すぐに乗ってきてくれた。
「もちろん!  よく行きましたよ。あの銭湯ができて本当に助かったの」
 Aさんによれば、お風呂がなかった木造アパート時代、裏庭に自前の風呂小屋を設置していた家もあったらしい。
「それができるのは、男手がある家よね。うちは女3人だからお風呂をつくるなんてこと、とてもできなくて。母の職場に “もらい湯 ” をしにいってました」
 戦中は相模海軍工廠の、戦後は日東タイヤの敷地内のお風呂に通った。
「工員さんが入るお風呂だからね、けっこう大きかった。大人たちは『ここは電気風呂なんだ』って言ってましたね。電気で沸かしていたのかしらね」
 女性が入れてもらえる曜日は限られていて、母と姉と3人で手ぬぐいを持って出かけたという。子どもの足だとけっこう遠くて、歩いて帰宅するあいだにすっかり湯冷めしてしまった。近所にはわざわざ電車に乗って茅ヶ崎の銭湯まで通っている人もいて、「寒川に銭湯を!」は多くの町民の悲願だった。
「すずらん湯の開業が町議会で決まったなんて経緯までは知らなかったけどね、できたときはみんなで喜んでねぇ。とにかく毎日開いてるし、きれいだし、近いし、ほんとにありがたかった」
 Aさんは懐かしそうにほほえんだ。
 結局Aさんのお母さんは、日東タイヤの炊事係を定年まで勤め上げた。引揚者住宅を兼ねた木造2階建24棟が、鉄骨5階建6棟からなる県営新橋アパートに建て替えられたのは1978年のこと。各戸に内風呂が付き、Aさん一家がすずらん湯へ行く機会は減った。90歳を過ぎても5階までの階段を元気に上り下りしていたお母さんが亡くなって、すでに10年以上経つという。

 

相模海軍工廠での毒ガス製造

「相模海軍工廠のお風呂の話まで聞けて、よかったです。ありがとうございました」
 ご挨拶してお暇(いとま)しようとしたときだった。
「あそこの海軍工廠では、毒ガスをつくってたのよね」
 Aさんはさらりと言い、安田さんとわたしはアッと顔を見合わせた。毒ガス──それは寒川町史の暗部とつながっているワードだ。太平洋大戦が勃発する15年も前に、戦争での毒ガス使用は国際的に禁じられていた(1925年、ジュネーヴ議定書)。だが、相模海軍工廠では極秘裏に毒ガス製造が行われていたのだ。工廠内では厳しい箝口令が敷かれ、その事実は近隣住民にも徹底的に伏せられていた。
 Aさんのお母さんは、毎日海軍工廠に通って、工員たちの食事をつくっていた。もしや極秘情報を摑んでいたのだろうか。
「なんかね、敷地内のある建物で『あそこは変なにおいがするね』って話があったんですって。それで『あそこは毒ガスつくってるんだよ』なんて噂があったと言ってましたよ。戦後はほら、高砂さんができたでしょ(平塚にあった相模海軍工廠化学実験部の跡地に高砂香料の工場ができた)。それで『あー、今度はいいにおいだねー』なんてみんな言ってね、アハハ。高砂さんの工場のそばを通ると、いつもいいにおいがしたの」
 安田さんが「すごい話だなぁ」とつぶやいた。
 あそこは変なにおいがするね、とはなんて生々しい証言だろう。毒ガスのにおいはどんなにおいなのか。わたしたちは最後の最後に聞いた話に圧倒されながら、黙って5階分の階段を降りた。踊り場から、冬空にくっきりと富士山が見えた。

「ダメ元で、もう一回新橋アパートまで足を運んでよかったですねぇ」
 わたしは、取材の神さまと神さまを信じて進む安田さんを大いに讃えた。諦めなかった者に神はほほえむ。わたしたちは大いに気をよくして、さむかわ中央公園の芝生でキャッチボールをした。

 次回、旧日本軍の毒ガスの歴史をひもとく。
                       

(第10回・了)

 

本連載は不定期更新でお届けしています。
次回:3月25日(木)更新予定