戦争と移民とバスタオル 安田浩一・金井真紀

2021.4.29

12広島/大久野島篇1・うさぎ島の毒ガス工場跡

 


▼安田浩一

 

 

国民休暇村の「小沓の湯」

 風呂の中から瀬戸内海を望む。
 なんと贅沢なことだろう。浴室の大きな窓ガラスの向こう側に広がるのは、瀬戸内の誇る “多島美(たとうび)” だ。鏡のように凪いだ海面に、椀を伏せたような小島がいくつも浮かぶ。
 しかもこの日、この時間帯に、入浴客は他にいなかった。完全に貸し切り状態(金井さんによれば女湯も同じだったという)
 それならそれでいい。思いっきり手足を伸ばし、湯に溶け込む。そう、浸かるというよりも溶けていく感覚。身も心も、これ以上ないほどに弛緩させたまま、その瞬間だけは世間とのつながりを絶つ。そんな“大浴場ひとりぼっち”も、私は嫌いじゃない。
 大久野島(おおくのじま)──。竹原市の忠海(ただのうみ)港から南へ3キロメートルの沖合に浮かぶこの島で唯一の宿泊施設、国民休暇村の「日帰り入浴」を利用した。
 同施設の大浴場「せと温泉」の湯は、その名の通り天然のラドン温泉(単純弱放射能冷鉱泉)だ。男女それぞれにふたつずつ浴室が備えられ、大きめの浴室は「大沓(おおくつ)の湯」、小さめの浴室には「小沓(こくつ)の湯」とネーミングされている。前者は広さが、後者は海を一望できる景観が自慢だという。当然、私は迷うことなく「小沓の湯」を選んだ。せっかく瀬戸内海まで来たのだから、ここでしか目にすることのできない景観を堪能したい。それに小さめとはいっても、おとなが5人くらい同時に入っても手足を広げることのできる広さを持った浴槽なのだ。じゅうぶんに大浴場である。
 空を見上げる。海を感じる。窓から吹き込む潮風に打たれる。
 それだけで心地よかった。無色無臭ではあるけれど、絹のような肌触りを感じさせる湯もからだにやさしかった。
 ちなみに浴室の大小を表す「大沓・小沓」には、言い伝えがある。かつて神功皇后率いる軍船がこのあたりを通過した際、海路安全を願った皇后が大小の沓(履物)を海中に投じた。その際、皇后は大きな沓が漂着した島を大沓島、小さな沓が漂着した島を小沓島と命名したという。それが現在の大久野島と、お隣に位置する小久野島である。
 伝説は想像をかきたてる。海賊がいた。海を舞台とした抗争もあった。そして、歴史の荒波は履物だけではなく、悲劇も苦痛もこの島に引き寄せた。
 そのひとつが「毒ガス」である。

日本最大規模の
毒ガス工場があった島

 前回までの記事で、私たちは寒川(神奈川県)の廃業した銭湯を端緒に、同地における戦時中の毒ガス工場の存在に行き着いた。取材の過程で判明したのは、国内で最大規模の毒ガス工場は、実は大久野島にあったという事実である。
 風呂をテーマに始まった企画ではあるのに、私たちはいつしか毒ガスに導かれていた。
 なぜだろう。たぶん、毒ガスの歴史を紐解くなかで、「日本」が透けて見えたからだと思う。「加害」の歴史を持つこと。それを忘れようとすること。隠ぺいすること。そして歴史を書き換えること。
 そんな流れが見えてくる。歴史の悲鳴が聞こえてくる。
 だから私たちは毒ガス工場のあった大久野島に飛んだ。戦争の罪科を知るために。網膜と心に歴史を刻み込むために。
 島を回り、かつての関係者を訪ね、資料を集めて、そして風呂に入った。
 穏やかな海を眺めながら温泉を堪能した。湯船に溶け込んでからだにラドンを吸収させながら、しかし、意識のどこかは大久野島の歴史に向かっている。結局、洗い流すことはできないものだって、あるんだ。

むかしは要塞・毒ガス
いまは温泉・休暇村

 たとえば──湯船の中で「はぁー」と大きく深呼吸したとき、なぜか急に思い出したフレーズがある。1965年、大久野島にできたばかりの国民休暇村が宣伝用に作成したパンフレットの表紙に記載されていたキャッチコピーだ。
<むかしは要塞・毒ガス いまは温泉・休暇村>
 集めた資料の中からこの文言を発見したときは、妙な感覚に襲われた。観光パンフのなかで「毒ガス」の文言だけが浮いていた。
「いまは温泉」と必死に過去を打ち消そうとしているようにも見える。
 それが風呂の中で不意打ちのようによみがえった。
 後に詳述するが、「毒ガス」の歴史はまだ終わったわけではない。いまなお毒ガスによって健康被害を受けた元工場労働者が地域に存在する。ましてやこのパンフレットが作成された当時は、さらに多くの人たちが毒ガス被害の後遺症に苦しんでいた。国による救済が始まったのは70年代に入ってからだ。
 毒ガス工場はすでにない。だが、毒ガスの傷跡は消えていない。
 この島に足を運んで、私たちはそのことを知った。

海賊たちの住処が
毒ガス島になるまで

 大久野島は周囲約4キロメートルの小さな島だ。前述したように宿泊施設としての国民休暇村は存在するが人家はない。つまりは無人島である。休暇村の従業員も、対岸の忠海港から船を利用して通勤する。
 戦国時代までは海賊が居住し、一時はその末裔が暮らしていたこともあった。昭和の初めまでは数世帯が農業や漁業を営んでいたという記録もあるので、大昔から無人島であったわけではない。
 この小さな島に旧軍が着目したのは20世紀初頭に入ってからである。瀬戸内海の中央に位置する大久野島を、軍事的な要衝として利用することを考えた。1901年、日露戦争を目前にして、外国艦隊の侵入を防ぐことを目的に島の要塞化が始まる。22門の大砲が設置され、瀬戸内海に睨みを利かせた。
 そして1927年、陸軍造兵廠は、大久野島に火工廠をつくると発表した。要塞ではなく、軍需工場の島にするのだという。
 地域に繁栄をもたらすものだと多くの人がこの決定を喜んだ。
 当時の地元紙「藝南時報」も、浮かれた記事を掲載している。「陸軍造兵廠の火工廠が忠海町に設置決定」の大見出しを掲げ、「此れで忠海町は愈々浮み上る譚」と続けた。つまり、これで地元の景気が良くなるとはしゃいでいるのだ。原発誘致に沸くかつての田舎町を連想させなくもないが、この提灯記事は毒ガスのことにはまったく触れていない。しかし、その2年後に完成したのはれっきとした毒ガス工場だった。
 海に囲まれた要塞の島。秘密保持には適所であると軍部も考えたのであろう。
 第一次大戦以降、列強各国の軍隊は、化学兵器として毒ガスを戦争に利用してきた。毒ガスは敵を殺すことが主目的ではない。一生にわたって消えることない障がいや苦痛を与えることで、戦力そのものに損害を加える兵器なのだ。場合によっては死ぬこと以上に悲惨な結果を招く。だからこそ1925年のジュネーヴ議定書では、戦争における毒ガス・細菌など化学兵器の使用は禁止されたのだが、日本はこれを批准しなかった。国内外で密かに毒ガスの研究開発を続け、大久野島に製造工場をつくったのである。
 つまり、国際的にも知られたらマズい工場であった。
 いま、私の手元には陸軍参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身)が作成した、1938年の忠海周辺の地図がある。縮尺5万分の1の同地図には、大久野島がない。正確に言えば、大久野島の部分が白く塗りつぶされているのである。
 秘密保持のために地図から消された島。それが戦前、戦中の大久野島だった。

 

1938年の地図(大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部)。大久野島の部分が消されている

 

1947年の地図(内務省地理調査所)。右上に大久野島と小久野島が載っている

 

 1929年から終戦までの間、この島ではイペリットやルイサイトなどのびらん性ガス、さらには青酸ガス、くしゃみ性ガス、催涙性ガスなど約6600トンもの毒ガスが製造されたのである。
 しかも対岸の忠海をはじめ近隣から多くの人がかき集められ、毒ガス製造に従事した。そのなかの多くが毒ガス被害による後遺症に苦しむことにもなった。


「温泉とうさぎ」の陰に隠されたもの

 終戦後は一時期、米軍に接収され、1956年、日本に返還される。
 その後しばらくは廃墟となったままであったが、1963年、国民休暇村がオープンした。全国で6番目に完成した休暇村だ。
 これには地元出身の池田勇人首相(当時)の後押しがあったというのが定説だ。
「いつまでも毒ガス、毒ガス言うのじゃ困る」
 池田がそう漏らしたという噂もまた、地元では定着している。その真偽は不明だが、政治家など一部の人たちにとっては、毒ガスの記憶を払しょくしたいとの思いはあったのだろう。なんといっても秘密裏に進められた毒ガス製造は負の歴史であり、加害の歴史でもある。繁栄することだけが正しいと考える為政者にとっては、荷が重たかったにちがいない。
<むかしは要塞・毒ガス いまは温泉・休暇村>の宣伝文句には、そうした思惑が見て取れよう。
 ここに休暇村ができる直前に島を訪れた人の貴重な記録がある。厚生省(当時)のレンジャー職員として、休暇村建設を任された成田研一さんの回顧録だ。財団法人国立公園協会が発行した書籍『レンジャーの先駆者(パイオニア)たち』に収められた一編だ。
 その一部を以下に引用する。

<大久野島に第一歩を印したあの日、私の目に映ったものは、林立する膨大な数の毒ガス工場の廃墟であった。島の平地という平地は全て、コンクリート造りの堅固な、しかし、窓枠は錆び、鉄筋むき出しの不気味などす黒い建物群に占領されていた。まさに「兵どもが夢の跡」であった>
<島内には至るところに横穴が掘られていた。敵の空襲に備えての防空壕である。花崗岩風化土壌がボロボロ崩れるその横穴の全てに入り、崩壊の危険性がないか、毒ガスが残されていないかなど内部の状況を調査して報告書にまとめた>

 終戦から10数年。大久野島はかつての姿をそのままに「夢の跡」を残していた。
 結局、成田さんなど事業関係者の努力の甲斐あり、防空壕は入り口をふさがれ、荒れ地に芝が植えられ、さらに温泉を掘り当てた。そのうえ、危険な島のイメージを塗り替えたかったのであろう。数羽のうさぎが放たれた。
 現在、うさぎは千羽近くにも数を増やし、もはやうさぎの楽園とも呼ばれるようになった。ネット上で大久野島を検索すれば、上位に位置するのはうさぎ情報ばかりである。竹原市の観光ガイドブックの表紙を飾るのも、真っ白なからだに愛らしい目をした大久野島のうさぎだ。
 戦争と毒ガスの記憶は時代の中で希釈され、いま、大久野島は「うさぎの島」なる異名を持つようになった。
 毒ガス、戦争といった不穏な記憶は隅のほうに追いやられる。まるで厄介者であるかのように。


加害と被害の負の歴史

 私たちを島に案内してくれたのは、地元・竹原市内に住む山内正之さん(77歳)だ。
 山内さんは元高校の社会科教員。定年後は「大久野島の平和と環境を考える会」の設立にかかわり、平和教育の講師や大久野島のガイドなどを務めている。

 

 私たちは、大久野島へのフェリーの発着所がある忠海港で山内さんと待ち合わせた。
 田舎町の小さな港である。とはいえ、妙に華やかな雰囲気を漂わせているのは、フェリー乗り場が、すでに “うさぎ模様 ” で満ちていたからだ。
 フェリーの券売機が置かれた場所は「うさぎグッズ」であふれた店舗の中にある。写真集、ぬいぐるみ、文具、店内に並ぶ商品のどれもがうさぎだらけ。というか、うさぎ一色。毒ガスの文字はどこにも見当たらなかった。
 まあ、うさぎに罪はない。「かわいいじゃん、これ」などと金井さんと軽口をたたき合っていたときに、山内さんがやってきた。
 挨拶も早々に、山内さんからくぎを刺された。
「メディアの方にはいつもお願いしているんです。大久野島を “うさぎの島 ” とだけいうて伝えるのはやめていただきたいんです」
 うさぎショップのまえで、山内さんは複雑そうな表情を浮かべながら続ける。
「確かにうさぎの姿が目立つ島です。でも、同時に加害と被害の両方を抱えた島でもあるんです」
 穏やかな声の中に切実さが含まれている。どうしても伝えたいのだという山内さんの思いが迫ってくる。
「大久野島でつくられた毒ガス兵器で多くの人が死にました。さらに、毒ガス製造に従事した人は、後遺症という労働災害に苦しんでいます。うさぎと戯れるのはけっこうだし、私だってうさぎをかわいいと思う気持ちは変わらんけども、大久野島は、“うさぎの島 ” としてのみ語られる場所ではないのです」
 加害と被害。島が背負った負の歴史。
 理解しているつもりではいたが、長きにわたって島の歴史を調べ、地元の毒ガス被害者に寄り添って生きてきた山内さんの言葉は重たかった。
 しっかり胸に刻まなければ。そう心に誓ったとき、大久野島に向かうフェリーが桟橋に横付けされた。
 私たちはいよいよ大久野島に向かう。

 

 

 

 

▽金井真紀

 

 

豊かになった寒村

 瀬戸内海は春雨に煙っていた。
濡れたデッキで滑らぬよう慎重に、わたしたちは大久野島行きフェリーに乗り込んだ。島影は目と鼻の先。わずかに4キロメートル、15分の船旅だ。
 船内アナウンスは「うさぎの島」を連呼していたが、わたしと安田さんは厳しい顔つきで山内さんの話に耳を傾けた。わたしたちはうさぎの島に遊びにいくんじゃない、歴史の勉強をしにいくのだ。
「いま乗船したところが忠海、もともとのどかな漁村でした。明治時代に大久野島に砲台が築かれて、対岸の忠海にも軍施設が置かれて、人がようけ来たけえ発展した。日露戦争が終わると、いったん賑わいは消えたんじゃけど……」
 その後、1920年代になって、大日本帝国陸軍は毒ガス兵器の研究開発に着手する。第一次大戦で毒ガス兵器が使われたことを知って、わが国も遅れをとってはならじと考えたのだ。ただし極秘の計画だ。「新しい造兵廠の候補地」という曖昧な呼称で全国35ヶ所が検討され、その中から選ばれたのが大久野島だった。よかったのう! 軍施設ができればまた景気がよくなる、と忠海町の住民は大喜びしたという。当時、大久野島には数戸の家があったが、町長が直々に訪ねて言った。「あんたが引っ越してくれれば忠海町は豊かになる」
 はー。化学工場でも発電所でも基地でも、はなしの構造はいつも似ている。お上肝いりの大規模な施設ができると、寒村は劇的に豊かになる。一度その味を知ったら、後戻りできない。


バス運転手さんの話

 午前8時45分、フェリーは大久野島の桟橋に接岸。下船した観光客は足早に散っていった。
「あそこから国民休暇村のシャトルバスに乗りましょう」
 山内さんに促され、わたしたち3人はバス停へと歩を進め……いた!
「あ」
 わたしが小さく叫ぶと同時に、安田さんの口から「うさ」の2音が漏れた。ベージュ色のずんぐりしたうさぎが、木陰で雨宿りしている。か、かわいい……。日頃、猫を「猫さん」と呼び、パンダを「パンダさん」と呼ぶ安田さんはおそらく、うさぎにも敬称を付けようとしたにちがいない。だが、すんでのところでことばを吞み込んだ。わたしたちは緩んだ表情を山内さんに悟られぬよう、粛々とバスに乗り込んだ。
 バスの運転手さんは、うさぎマークのピンクジャンバーを着た朗らかなおじさんだった。わたしたちのほかに乗客はなく、山内さんと親しげにことばを交わす。
「山内先生が書いた大久野島の本、できたんじゃろ。おれも買いたい思うとるんじゃけど」
「買わんでええよ。1冊あげるわ」
「うちの両親も島に来とったから」
「あー、そうか」
「おふくろは学徒動員で来とって」
 聞くともなしに聞いていたが、運転手さんの「両親も島に来とった」の意味がわかってハッとした。ふたりの会話は続く。
「おふくろはずっと病院にかかっとった」
「特別認定は受けんじゃったか」
「おやじは受けとった。おやじは腕にケロイドがあったよ。中咽頭がんで亡くなって、解剖したら肺がぶよぶよじゃった」
「そうかぁ。島にいた人はみんな」
「ほうじゃ。みんな被害を受けた」
 大久野島の毒ガス工場が開所したのは1929年。徐々に規模が拡大し、5種類の毒ガスを製造する工場群と貯蔵庫、発電所、研究室、医務室など100棟以上の建物が島内に林立した。働いた人は、わかっているだけで6700人。工場は24時間稼働しており、工員たちは毎日船に乗って対岸の忠海から運ばれてきた。仕事が終わるとまた船に乗り、海を渡って家に戻る。
「神奈川県寒川の相模海軍工廠では全国各地から人が集められたようじゃけど、大久野島では工員の大部分が近隣住民でした。女性もいたし、13歳から15歳の子どももいた。島全体が汚染されていたから、ここに通うてた人はみんな目、鼻、喉、気管支、肺、それに皮膚を痛めたんです。もちろん毒をあつかう工場で働いてた人がもっとも重症化したわけじゃけど」
 山内さんの説明を聞きながらバスを降りた。

 

毒ガス実験とうさぎ

「じゃあ、行ってみましょうか」
 傘をさしながら、島内を歩いてめぐる。ホテル、プール、キャンプ場、グラウンド、テニスコート……と目に映るのはレジャー施設が連なる楽しい風景。だが、山内さんが立ち止まって「ここは……」と指さすたび、そこに戦争中の島のようすが浮かび上がってくるのだった。
「この広場には、イペリットの工室がありました。毒性が非常に強くて、事故が起きると人が死ぬ。最初の死者はここから出ました。危険な作業じゃいうことで、ここで働いた人は賃金が6割増じゃった。広場の土を掘り返せば、たぶん汚染された土が出てくるでしょうね」
「あっち側にあったのが、ルイサイトの工室。猛毒のヒ素が使われていました。ヒ素が入ったタンクは今も埋められたまま。腐食したらいつかは流れ出る。地下水に流れ込む。だから現在、大久野島の飲料水は三原から運んどるわけ」

発電場跡で山内さんの説明を聞く安田さん

 

 小山の下にうさぎが群れていて、餌のニンジンを持った若い女性たちがキャーキャー言いながら写真を撮っていた。山内さんの右手人差し指は、うさぎを素通りして奥の石垣をさす。
「あっこの山裾に石垣が見えるでしょ。あれは全部、防空壕の入り口です。防空壕の中からいろんなものが出てきて危険なんで、環境省が石垣で蓋をしよったんです」
 山内さんがいなければ、わたしの目にはうさぎしか見えなかっただろう。草むらの向こうに、白い建物がひっそりと建っていた。
「あの建物は当時のまま残っとるんじゃけど、研究室です。東京の新宿にあった陸軍化学研究所の学者がやってきて、毒ガス研究をしよった。あっこでうさぎを200羽以上飼ってたんです。できた毒剤が人を殺せるか確認せにゃいかんいうことで、うさぎの毛を剃って、イペリットやルイサイトを肌に付ける。すると毒薬がバーッと染み込んで、すぐに紫色になって死んでいくんだって。それとか、5メートル四方くらいやったかな、ガラス製のガス室をつくってうさぎを入れて、毒を燃やして煙にしたときにどれだけ殺傷能力があるのか実験したらしい」
 研究室には、毒ガス研究の貴重なデータが蓄積されていた。それらは終戦直後、真っ先に処分されたという。うさぎたちは、どうなったのだろうか。
「うさぎも処分されました。一部を食用にしたいう話もあります」
「今いるうさぎとは関係ないんですか」
「今いるのはヨーロッパの品種だからね、戦時中飼われていたうさぎの末裔ではないですよ」
 国民休暇村ができた後、忠海の小学校で飼っていたうさぎを観光用に持ってきたらしい。はじめは5、6羽だったがだんだん増えて、現在は約千羽。大久野島を訪れるうさぎ派の人は、毒ガスの動物実験に使われたうさぎたちにもぜひ思いを馳せてほしい。

 

秘密厳守と密告

 陸軍は、毒ガス兵器を製造している事実が外に漏れることを極端に恐れていた。大久野島で働くすべての人が最初にやらされたのは、「島の中で見聞きしたことはいっさい他言しない。秘密厳守に反した場合はいかなる厳罰も受ける」という誓約書への署名。もちろん同居している家族に話すことさえ禁じられ、「夢にも見るな」と厳命されたという。
「わたしたちが集めた証言でも、『島に働きにいっとる隣のおじさんの顔が真っ黒になりよった、どうしたんじゃろか』とか『うちのお父ちゃん、夜中にゴホゴホ咳しよるけ、いったい昼間に何をやっとるんじゃろか』とかいうんが、ようけありますよ。まわりは不思議に思うたんじゃけど、当人は何も言えんかったのです」
 と山内さん。大久野島には憲兵が常駐していて、秘密を漏らす者がいないか見張っていたというエピソードがさらに恐ろしい。
「工場の休憩所にも、憲兵がおるんですって。しかも作業服に変装して、聞き耳たてとるんだって。じゃけんねえ、とにかく知らん人がいたら迂闊な話はしなかったって。行き帰りの船だけがホッとできる時間だったらしい。家に戻ったらまた秘密にせにゃならんからね。だけど船の中にひとりでも知らん人がおったら、警戒して話さなかったいう話です」
 島の対岸、忠海の集落にも憲兵がうろついていたらしい。
「大久野島が見える場所は立ち入り禁止でね。写真を撮ったり絵に描いてもダメ。大久野島を見ている人がいたらすぐ通報するようにいう命令が出とったんじゃけ、徹底してます。通報した子は学校で表彰されるんです」
 あぁ、人々に相互監視させる社会。子どものうちからそういう教育。つらい。

「あっこへ行くんじゃなかった」

 島の南端に慰霊碑が建っていた。
「戦中ここで働いた人は約6700人。うち4500人ほどがすでに鬼籍に入りました。多くの人が死後、献体したんですね。それを広大医学部の先生たちが手弁当で調べた。献体してくれた被害者たちのおかげで毒ガスの後遺症の実態が明らかになったいうことで、この慰霊碑を建てました」
「あぁ、さっきのバスの運転手さんのご両親も死後解剖したって……」
「そうです。あの方のご両親も4500人の中に入っておられる。今ご存命なのは1450人(2020年10月時点)。4500と1450を足しても、6700には足らんでしょう? 名乗りを上げずに亡くなっている人もいるいうこと」
毒ガス被害者の戦後は悲惨だった。
 1950年代、界隈でおかしなデマが流れるようになる。「竹原や三原で、へんな病気が流行しとる」というのだ。ええ大人が昼間から仕事もせんでブラブラしよる。道端に座り込んどるもんもおる――。実際は毒ガスの後遺症で、少し動くだけで息が切れてしまう、夜通し咳が止まらずに眠れない、といった症状に悩まされている人たちがたくさんいたのだった。「怠け者のブラブラ病だ」なんて揶揄されたり、元に戻らない肉体に絶望したりして、自殺する者もいた。
 一方、広島医科大学(現、広島大学医学部)では、血を吐いて死んでいく患者が続出していた。遺体を解剖した医師は、気管深部に腫瘍を発見して驚愕した。どうしたらこんな場所に腫瘍ができるのか。みな、20代から40代の働き盛り。共通するのは「大久野島で働いていた」経歴だった。
「みんな『わしゃ、あっこへ行くんじゃなかった』言うてね、死んでいきよったです。でも戦争中は危ないと思わんじゃった。『みんなが行きよるんじゃけ、大丈夫じゃろ』いう気持ちだったと多くの人が言い残してます」
 山内さんの説明に、静かにうなずく。きっとわたしだって。もし大久野島に勤めていたらそのフレーズを自分に言い聞かせたはずだ。みんなが行くから大丈夫だろう、みんながやっているから安心だ、と。
 大久野島に勤めていたことと病気の因果関係はなかなか証明されなかった。政府にしてみれば、国際条約で使用が禁じられていた毒ガス兵器をつくって健康被害が出たことを内外に知られたくない。一方で、口をつぐむ被害者も多かった。
「原爆の被害と同じで、毒ガスの後遺症は差別の原因になるいう恐れがあったんか思います。それで隠したまま亡くなった方もおられたわけです」 

国に見捨てられた人々

 こういうときの国の対応のショボさは、あらゆる戦後補償の問題でも、また水俣病などの公害病の現場でも再三繰り返されてきたことだ。大久野島の件も聞けば聞くほど「すごいよなー、国って」と、呆れを通り越してむしろ感心してしまう。1954年に国が出してきた「ガス障害者救済のための特別措置要綱」がまずショボい。「毒ガス」をしれっと「ガス」と言い換えた。しかも救済するのは軍属として大久野島で働いた人だけで、徴用工や動員学徒など民間人として働きにいった人は対象から外された。なんでそこで分断するのか、意味がわからない。
 さらにたとえ軍属であっても、申請手続きのハードルがめちゃくちゃ高かった。大久野島で働いていた物的証拠とふたり以上の証言者がいないと申請できなかったというからずっこける。敗戦直後、大久野島で働いていた証拠はすべて焼却しろと命じられて、多くの人は証拠なんて持ってないのに。
 それじゃ困る、生きるための補償をしてくれと再三再四訴えて、やっと民間人として島にいた人も医療費の交付が受けられるようになったのは1975年。軍属との格差が是正されたのはもっと遅く2001年。その間、国に見捨てられたまま亡くなった人がどれだけいただろう。今もなお軍属と民間人では認定率に差があるという。
「広島には原爆の被害者も大勢おられる。彼らに対する被爆者援護法は1994年に成立しました。国の責任で被爆者を総合的に援護するいう法律です。なんでアメリカが落とした原爆で被害を受けた人を救う法律はできて、日本の命令で毒ガスをつくらされた人の援護法ができんのじゃろか。どう考えても納得できんですよ」
 山内さんは慰霊碑に語りかけるように声を絞り出した。
 かたわらに植えられた桜が満開だった。
 その下をうさぎがぴょこたんぴょこたんと横断していく。
 おーい、うさぎよ。
 わたしは心底うんざりして、うさぎに語りかけた(心の中で)。うさぎはいいねぇ。それに比べて人間って本当にいやな生き物だねぇ。うさぎは一瞬止まって、また歩き出す。ぴょこたんぴょこたん。
 しかし、毒ガス兵器があぶり出す人間の恐ろしさの物語にはまだ先があった。この島でつくられた毒ガス兵器は、実際に戦場で使用されたのだ。

(つづく)

 

 

 

(第12回・了)

 

本連載は不定期更新でお届けしています。
次回:5月13日(木)更新予定