戦争と移民とバスタオル 安田浩一・金井真紀

2021.6.3

14広島/大久野島篇3・鬼にされた元毒ガス工場員の決意

 

 

▽金井真紀

 

 

 95歳の語り部

 清く貧しいフリーランスは今日も駅からの道をテクテク歩く。安田さんとわたしは広島県の三原駅を起点に、西へ西へと歩を進めた。国道を越え、住宅街を分け入って、川を渡る。
「藤本さん、元気かな」
「少しでもお話できるといいねぇ」
 そう、この時点ではそんな心配をしていたのだった。大久野島の毒ガス兵器工場で働いていた藤本安馬さんは、今年95歳。
 東京から最初にお電話したとき、同居している娘さんが出て、「父はもう高齢で、耳も遠いし……」とおっしゃった。フリーランスの物書きからの突然の問い合わせに戸惑っている気配もあった。このまま電話が切れたら話はおしまいだ。わたしは慌てて「あの、ではお手紙を書きますので、ご住所を教えてください!」と頼み込んだ。電話のやりとりを隣で聞いていた安田さんの表情に気合が入るのがわかった。「住所さえわかればこっちのもんだ。地球の反対側だって訪ねていくぜ」という記者魂が漂ってきて、ちょっと怖い。
 結局、手紙作戦が奏功した。二度目の電話で、娘さんから「父はデイサービス(通所介護)から4時くらいに戻ってくるんで、そのころいらしてください」とのお返事を得たのだ。藤本さん本人が電話口に出ることはなかった。はたしてお話ができる状態なのか。
「まあ、ひとまず行ってみて、ですね」
「そうそう。大久野島に対するコメントが一言でももらえればいいんだから」
 安田さんとわたしは、沼田川の土手をテクテクと歩いていく。柔らかい春の光に、ホーホケキョ。

 大きな座卓が置かれた和室に通されて待っていると、藤本さんがデイサービスから帰ってきた。動きはゆっくりだが、自力で歩いてきて、すとんと座った。耳に補聴器をつけている。
「こんにちは。今日はお時間をいただき、ありがとうございます」
 というこちらの挨拶には反応せず、安田さんとわたしの顔を交互にじーっと見た。家の中に知らない人がいて、落ち着かないのかも。大きな声で、わかりやすい言い方で、自己紹介をしなければ……と思った矢先、
「新聞を見ていたらね、これ見つけたの」
 藤本さんはそう言うと、新聞の切り抜きを座卓の上に置いた。
「わぁ」
 思わず声が出た。ちょうどそのころ出版された拙著『世界のおすもうさん』(岩波書店)の新聞広告を見つけて、藤本さんはわざわざ切り抜いて取っておいてくれたのだった。
「手紙をくれた金井さんの本だ、とすぐにわかりました」
 思いがけない展開に感激した。と同時に、藤本さんの認知力をわずかにでも不安視したことを恥じ入る。藤本さんはたいへん明晰だった。
 よーし、そうとわかれば、ガンガン聞くぞ!
 安田さんとわたしは勢い込んでICレコーダーのスイッチを押し、ノートを広げた。そこから藤本さんのインタビューは2時間を超えておこなわれたのだった。お年を感じさせない、すばらしい記憶力だった。忘れがたい話がいくつも飛び出した。

 

 

 

14歳で大久野島の養成工に

「わたくし、生まれは192667日。もともと竹原におりましたが、19451227日、ここへ婿養子に来ました。以来、三原に住んでおります」
 藤本さんの一人称は「わたくし」。人生の節目となった日付をよく覚えていて、西暦できっちり言う。「大久野島に行ったのは19414月1日。養成工の2期生として働きました」
 当時14歳。どういう経緯で養成工になったのだろう。
「その前はね、義勇軍になって満州へ行こうと思いました。わたくしのうちは小作百姓。だから自分の土地が持てる暮らしに憧れました」
 満蒙開拓青少年義勇軍の募集がはじまったのは1938年。小学校を卒業した男子を集めて満州に送り、農地開拓に従事させる国策だった。12歳の藤本さんも満州行きを夢見たが、「そんな遠くへ行ったら、家への仕送りができないだろう」と親に反対されて断念したという。10人兄弟の5番目。働いて、家計を助ける必要があった。
「次に、大久野島に行ったらお金をもらいながら勉強ができると誘われた。わし、行くで! と父に言いました。お金に魅力があったんです」
 養成工1年生の日当は75銭。2年生になったら90銭、3年生になったら110銭、卒業したら1円20銭がもらえたという。さらに危険度が高い作業をしたら賃金は6割増し、夜勤をしたら4割増しだった。
「するとね、月に40円ほどになるんです。これは高給ですよ。当時、小学校の校長が35円ほどでしたから」
 もちろん「危険度が高い作業」が意味することは、養成所に入るまで知らされなかった。1年生から3年生まで約200人が忠海駅前の寮に住み、そこから毎日、船で大久野島に通勤する。
「寮ではお米のごはんが出ました。うちでは麦のごはん……いや、麦はまだいいほうで芋を食べていた。それが大久野島で働けば、米が食べられる、魚もある、肉もある。ごちそうですよ」
 銀シャリと高賃金。10代の少年にとって夢のような待遇だった。しかし大久野島に一歩足を踏み入れた瞬間、夢から覚めた。
41日付で入学するため、船に乗って島の桟橋に上がった。途端、異臭ですよ。目が痛い。鼻が痛い。喉が痛い。島へ上がった途端ですよ。これは一般的な薬品工場ではない、とわたくしは思いました」
 びっくりしている藤本さんたちは、そのまま教室に連れていかれた。
「教室に入ったら第一声、『養成工は毒ガスをつくる勉強をする。絶対に他言をしてはならない』と言われました。その場ですぐに誓約書を書かされたんですよ。島で見聞きしたことは、たとえ家族にも一切しゃべらないとね、約束させられた」
 その日から、憲兵に監視される恐怖の生活がはじまった。聞いていて背筋が冷たくなったのは、藤本さんの実家に私服の憲兵がやってきた話だ。憲兵は通りすがりの雑談を装って「おたくの息子さんは、今どこにいますか?」と尋ねたらしい。「大久野島に行ってますよ」と答える家族。「へー、大久野島で何をしているんですか?」と何食わぬ顔でさらに問う私服。「さぁ」と家族は首をひねった。実際、家族は大久野島で何がおこなわれているのか知らなかった。藤本さんが一切漏らさなかったためだ。……セーフ。私服憲兵は帰っていった。もしこうした抜き打ち検査に引っかかったら、スパイとみなされて拘束されたらしい。まるでゲシュタポ。ゾッとする。

 

毒ガス兵器「ルイサイト」をつくる

 藤本さんはA3工室に配属された。現在、ちょうど国民休暇村の宿泊施設が建っているあたり。猛毒ルイサイトを製造する工場だ。
「ルイサイトの原料いうたらね、アセチレンと三塩化ヒ素です。最初にアセチレンガスを発生させる。これはCaC2+3H2OC2H2CaOH2H2Oという工程です」
  化学方程式をすらすらと暗唱した。
「あ、おぼえているんですね」
 安田さんが驚くと、藤本さんは大きな声で言った。
「おぼえてますよ! 鍛えられました。百姓の畑仕事より、化学方程式を勉強するほうがよほどしんどい!」
 CaC2はカーバイトのこと。まず、一斗缶に入ったカーバイトを担いで階段を上り、タンクに放り込む。そして階段を急いで下りてハンドルを回してタンクの中身を攪拌する。上ったり下りたり、汗だくの作業だという。こうして発生するのがC2H2、つまりアセチレンガスだ。
「カーバイトをタンクに放り込むときは、体をこうして(のけぞる姿勢)離さなければいけませんよ。発生するガスをまともに吸い込んだら、とてもじゃないが……苦しくて……
 当時を思い出し、藤本さんの表情は苦しげにゆがむ。聞いているこちらまで苦しい気がして、思わず眉をしかめてしまう。
「次に三塩化ヒ素、つまりAsCl3をつくります。わたくしたちは “白1” と呼んでおりました。白1工室はとても危険な場所で、表しますと6NaClAs2O3+3H2SO4=2AsCl3+3Na2SO43H2Oとなります」
 藤本さんは元素記号を嚙みしめるように、ゆっくりと化学方程式を吐き出した。縦1メートル、横2メートル、深さ35センチほどの箱の中で、スコップを使って岩塩と亜ヒ酸を混ぜる。藤本さんはこの工程を受け持つことが多かった。亜ヒ酸といえば、耳かき1杯が致死量というヒ素の中でも最強の猛毒だ。
「混ぜるときにね、亜ヒ酸の粉が飛ぶんですよ」
 お、恐ろしい……。作業は二人ひと組でおこなう。防毒面をつけて白頭巾をかぶり、ゴム製のエプロン、長靴、手袋を装着することになっていたが、夏場は暑いので防毒面を外し、綿マスクだけで作業したらしい。
「そうすると、粉末がマスクの隙間から入ってくる。マスクも鼻のまわりもピンク色になります。すぐに倒れることはないけれど、だんだん中枢神経が毒に侵されていくんです。平衡感覚がやられる。本人はまっすぐ立っているつもりでも、ゆーらゆらと体が揺れてしまうんです。白1工室で働く者はみんなそうでした」
 ゆーらゆらと揺れながら毒ガスをつくる作業員たち。すごい風景だ。いくら暑くても絶対に防毒面を外しちゃダメだ、と今なら言える。だが当時は作業効率が落ちるくらいなら防毒面を外すのが「正しい判断」だったし、監視員も見て見ぬふりをしたという。
「生産第一、安全第二。人間は消耗品だったんです」

 

①藤本安馬さんが記録したA3工室の作業手順。アセチレンガスを生成する工程

 

②同上。白1(三塩化ヒ素)をつくる工程

 

③同上。①と②の次段階でルイサイト「黄2号」をつくる工程

 

 岩塩と亜ヒ酸を混合する危険な作業は朝8時にはじまり、10時には終了した。その後、粉は釜へ運ばれ、加熱と冷却を経て「白1(三塩化ヒ素)」となる。それを前述のアセチレンガスに添加し、「黄2号」「きい弾」などと呼ばれるルイサイト兵器が完成するのだった。つまり製造ラインのスケジュール上、藤本さんが担当する混合作業は朝の2時間で完了させる必要があった。

 

大浴場で入浴

「2時間で終わらせるのに必死でした。その代わり10時以降は待機時間。暇ですよ。まずはゆっくり風呂へ入るんです」
 出ました、お風呂! 毒ガス製造に従事した工員は、作業後すぐに皮膚についた汚れを洗い流す必要があった。そのため大久野島には大浴場が完備していた。工場は24時間操業だったので、お風呂も24時間沸いていたという。
「食堂の隣に、大きな風呂がありました。縦が5間(約9メートル)に横が7間(約12メートル)くらいだったでしょうかねぇ。深さも1メートルあって、そりゃもう大きい。体に付いた毒ガスの匂いが落ちるまで洗います。タオルと石鹸は自分持ちでね、寮から持っていくんです」
 朝10時にお風呂を使うのは、作業を終えた藤本さんと同僚のふたりだけ。だからのびのびと湯に浸かることができた。
「飛び込んだり泳いだり、なんでもできましたよ、フフフ。お湯が冷たければスチームを蒸して、熱すぎたら水を足す。その時間帯はわたくしたちしかいませんから、湯加減も好きに変えることができました」
 一方、夕方になると780人の工員が一斉に風呂に入るため、浴場は大混雑だったらしい。緊張を強いられる毒ガス作業が終わり、ホッとするひとときだ。押し合いへし合い湯に浸かりながら、リラックスした会話も飛び交ったことだろう。
「でもね、風呂にも憲兵が紛れ込んでいる可能性がありますから、余計なことは話しません。仕事と関係ないことなら話しても大丈夫。みんな気をつけていましたよ」
 なんと、お風呂の中でも憲兵が目を光らせていたとは。なんなんだ、憲兵。ほんとうに不気味な存在だ。
「風呂から上がると、隣の食堂でコーヒー券を出してね、コーヒーをもらうんです。それが日課でした」

 

人を殺す武器をつくるのが英雄……

 藤本さんは14歳から18歳までの3年半を大久野島のA3工室で過ごした。育ち盛りの肉体をルイサイト工場の毒ガスに晒しつづけたのだ。平衡感覚はなくなり、咳き込むことが多くなり、痰がしょっちゅう絡んだ。風邪をひくと、息が苦しくて死ぬ思いだった。毒ガスの飛沫を浴びて首筋に十数個の水疱ができたこともあった。医務室に行ってもたいした治療はしてもらえず、まして仕事を休むことは許されなかった。
「毒ガスの仕事は、怖かったですか?」
 と安田さんが質問したら、藤本さんは即答した。
「怖くもなんともないですよ。中国に勝つため、中国人を殺すためには、すぐれた武器をつくる必要があったんです。化学方程式をおぼえて、すぐれた武器をつくる。これは英雄ですよ」
 えっ。人を殺す武器をつくるのが英雄……。わたしは藤本さんのことばに面食らった。その隣で、記者魂をたぎらせた安田さんは、むしろ畳み掛けるように次の質問を放った。
「戦争に勝つために毒ガスをつくる、その仕事に誇りを持っていた?」
 藤本さんは、力を込めてうなずいた。
「そうなんです! 中国人を殺すために、毒ガスをつくるのは当たり前!  人を殺すのは当たり前ですよ。それが英雄ですよ。あのころはそういう教育でした。わたくしはその教育を受けました。そして、つくりました。化学方程式をおぼえて……6NaClAs2O3+3H2SO4=2AsCl3+3Na2SO43H2O……
 藤本さんはゆっくり一語ずつ区切りながらルイサイトの化学方程式を唱えた。わたしはうつむいて座卓の木目に視線を当てながら、それを聞いた。人殺しのための方程式を言い終わるまでの時間が、とても長く感じられた。

 

 

 

 

▼安田浩一

 

 

 終戦で広島に戻るまで

 思わず藤本さんの顔を覗き込んだ。
 私は内心うろたえていた。冷静を装いながらも、予期せぬ返答に動揺していた。藤本さんの言葉をどう受け止めればよいのか。
 戦争に勝つため、毒ガスをつくるのは当たり前。英雄なんです──
 力強く言い切った藤本さんの表情に、特段の変化はない。「英雄」という言葉を用いながら、しかし、誇るふうでもない。冷たく突き放した口調のようにも感じた。
 私と金井さんは体を固くして次の言葉を待つ。だが藤本さんは、まるで経でも読むようにふたたび化学方程式を復唱する。
「シーエーシーツー、プラスのエイチツーオー……
 それはきっと、記憶の扉を開くための暗号なのだ。いくつもの扉を抜けて、その先で、藤本さんの真意が見えてくるにちがいない。
 私たちは待つ。扉の前で待つ。そして藤本さんの記憶に付き従う。

 藤本さんが大久野島で毒ガス製造に従事していたのは1944年の9月まで。終戦の約1年前に島を離れ、京都・宇治の火薬工場(造兵廠宇治製造所)に転属した。戦況の悪化は経済悪化を招き、食料品から工業製品まで、日本は深刻な “物不足” に喘いでいた。当然、毒ガスの原料にも事欠くありさまだ。そのうえ米国は、日本がこれ以上戦争で毒ガスを使用するのであれば、米国もまた日本に対して毒ガス攻撃を仕掛けると警告していた。報復攻撃を恐れた陸軍は、44年7月に毒ガス使用中止の指示を出したのである。藤本さんの転属は、そうした動きに沿ったものだった。
 宇治の火薬工場ではダイナマイトなどの製造にかかわった。しかし同年の冬には、そこでも原料が底を尽く。
「毒ガスはつくれない。火薬もつくれない。ニッポンはもうダメじゃと思いましたね」
 やることがないから、工場の屋根に登って昼寝ばかりしていた。ぼんやりと空を眺めているとき、遠くの空を米軍機が横切った。大阪方面で煙が上がった。昼間の空襲である。黒煙が空を焦がす。
「なすすべもない。負けじゃ」
 屋根の上で寝ころびながら、日本の終わりを悟った。
 45815日。工場の中で玉音放送を聞いた。14歳のときから軍需工場の労働者として働きつづけてきた藤本さんの 戦争も終わった。退職金として支給された1300円の現金を握りしめ、「汽車ポッポに乗って」広島の忠海に戻った。

 

30年後の「毒ガス被害者」

 少年時代のもっとも多感な時期を工場の中で過ごした。退職金以外に残ったものは、工場の重労働によって鍛えられた筋肉と、頭の中に刻印された毒ガスの化学方程式だけである。それ以外に何もない。
 だから──戦争に奪われた時間への思いを嚙みしめる余裕などなく、戦後もがむしゃらに働きつづけるしかなかった。
「生きるため」だと藤本さんは言った。「まずは三原の青果市場で日雇い仕事をしました。近くの港に野菜やみかんを積んだ船が着くたびに荷揚げする。そんなことを毎日、やっとった。ミカン箱をつくる工場でも働いた。その後、工場がつぶれて、ようやく見つけた仕事がレーヨン工場。パルプで糸をつくる仕事です」
 結婚もした。子どももできた。レーヨン工場は大手資本だったから、生活も安定した。だが、ひょんなことで毒ガスの記憶がよみがえった。大久野島を出てから実に30年が経過したころである。
48歳でした。集団検診で毒ガスの後遺症を指摘されたんです」
 胸部の気管検査で細胞を抜き取った。診察結果は慢性気管支炎。体が毒ガスに侵されていることが判明したのだ。それまでも、風邪でもないのに咳に苦しめられることはあった。だが、毒ガスの後遺症だとは思わなかった。いや、信じたくなかったのかもしれない。染みついたのは化学方程式だけだと思うことで、戦争の記憶から離れていたのだ。
 95年、藤本さんは毒ガス障がい者に認定された。
 同じ毒ガス被害者たちと一緒に、藤本さんは医療補償などを求める運動の輪に加わる。健康な体を奪ったのは誰だ。毒ガスを体内に押し込んだのは誰だ。何の責任も果たさず、被害者を置き去りにしたまま逃げ切ったのは誰だ。
 藤本さんは声を上げつづけた。

 

大久野島で「鬼」にされた

 そうして毒ガス被害者である自身を意識する中で、もうひとつの思いが頭をもたげてきたという。藤本さんは私たちにこう告げた。
「単なる被害者じゃないんですよ、わたくしは」
 静かな声だった。時間が止まる。私と金井さんは、黙ったまま、藤本さんの顔を見つめた。わずかな沈黙の後に、藤本さんの穏やかな表情が徐々に険しさを増してきた。何かが藤本さんを衝いた。そして、何かが弾けた。静寂が破られた。
 藤本さんはかっと目を開き、怒気を含んだような声を私たちにぶつけたのだ。「わたくしは加害者でもあるんです。わたくしは大久野島で鬼にされたんですよ!」
 先ほどまでの穏やかな表情は消えている。
「わかりますか?」そう問うておきながら、おそらくは同意も答えも求めていない。抑えることのできない感情が、激情が、藤本さんを襲っている。
「大久野島はわたくしを人の面をかぶった鬼にしたんです! 犯罪者に仕立てあげたんです! だからねえ……
 私たちは声を発することができない。本当は目を合わせることも怖かった。だが、視線を逸らすわけにはいかない。私も、金井さんも、ここを訪ねた以上は、しっかり受け止めなければいけないのだ。
「だからねえ、そんなこと、忘れるわけにはいかんでしょう!」
 怒りと怨念と苛立ちが混ざり合ったような叫びだった。その声は、ムチのようなうなりをあげて、私を打った。
 少し前に藤本さんの口から洩れた言葉の意味をようやく紐解くことができた。戦争に勝つため、毒ガスをつくるのは当たり前。英雄なんです──それは呪詛の言葉だった。純朴な少年を鬼に変えた戦争に対する憎しみを表したものだったのだ。
「だからわたくしは忘れない。鬼にされたことを、犯罪者にされたことを、人殺しの道具をつくらされたことを、絶対に忘れない」
 いつまでも化学方程式を忘れないのも、少年時代の強烈な記憶のせいだけではなかった。藤本さんは繰り返す。
「鬼にされたことを忘れないために、化学方程式だって忘れない」
 そうか、そうだったのか。だから藤本さんはいつまでも記憶を手放さないのだ。それが殺人兵器をつくりつづけた、そしてそれを「英雄」だと信じてきた人間の、あるべき責任の取り方だった。少なくとも藤本さんはそうすることで、戦争の罪科と向き合ってきた。
「化学方程式は人殺しの方程式なんです。毒ガスはわたくしの体を蝕んだだけでなく、罪もない中国人を殺した。そのために必要な方程式だった」
 あえて私は訊ねた。
──先ほど、戦争に勝つためには毒ガスをつくるのは当たり前だとおっしゃいました。そこにはどのような意味があるのでしょう。
「わたくしが、中国人は殺されても当然だと思い込むような人間であったということです」
──戦争がそうさせた?
「そうです。戦争が、わたくしたちから人間の気持ちを奪いました。中国で、日本の兵隊は刀で人々の首を切り落とし、毒ガスで苦しめ、そして殺した。わたくしたちがつくった毒ガスが、殺したんです」
 罪の告白をしているというよりも、藤本さんは憤っていた。自分自身に、戦争を仕掛けた国に、毒ガスの製造を仕向けた時代に、戦争そのものに。そのやりきれなさに耐えることから、ときに耐えられないことから、藤本さんの激しい思いと言葉が紡がれていく。
 そうやって、きっと、これまで生きてきたのだ。

 

「被害と加害」を語る使命

2004年のことです。初めて中国に行きました。謝罪するためです」
 向かったのは河北省の北坦村。そう、日本軍の毒ガス兵器によって、1000人近くの人が命を落とした場所だ。
「わたくしたちがつくった毒ガスが、村の人たちを殺したんです。虐殺したんです。だからわたくしは頭を下げました。それで許されるとは思わないけど、とにかく虐殺に加担したひとりとして謝りたかった」
 わが子を毒ガスで亡くした女性は、藤本さんの謝罪の言葉を聞きながら泣いていた。両親と兄弟を亡くした男性は、ただ黙ってうつむいていた。「わたくしが毒ガスをつくったんです」。藤本さんはそう言いながら、ただただ頭を下げることしかできなかった。
 すると、村人のひとりが藤本さんに、こう声をかけたという。「鬼になったあなたもまた、被害者のひとりです」
 その温かい言葉は、しかし藤本さんの気持ちを晴らすことはなかった。
「中国に出かけ、被害者や遺族に頭を下げた。だが、それは許してもらいたかったわけじゃない。それもまた、わたくしの罪を自覚するために必要なことだったんです。謝罪したところで、少しも心は軽くならないし、肩の荷が下りたわけでもない。むしろ逆です。被害者の声を聴き、遺族の悲しげな顔を見て、さらに荷物が増えたような気がします」
 責任を果たすべく、藤本さんはいまでも肩の荷を下ろすことなく、走りつづけている。中国から被害者が訪れた際は、一緒になって政府に補償を求め、戦争犯罪は許されないとこぶしを振りあげる。
 藤本さんの戦争は、まだ終わっていなかったのだ。
 消したくとも消えない記憶があり、なんとかそれをやり過ごそうと思ったときに自身の毒ガス被害が判明し、それがきっかけで加害者としての自分を意識した。毒ガス工場の経験が、藤本さんを縛りつづける。逃れることはできない。
「だから語りつづけるしかないんです。被害も、加害も」
 藤本さんもまた「語る」ことを、その責任を自身に課してきた。いまでも、請われればどこにでも足を運び、毒ガスと戦争の罪と恐怖を伝える。
「それがわたくしの任務です。使命です」
 気がつけば、2時間を過ぎていた。毒ガスに体を蝕まれ、がんにも侵されて胃を全摘した95歳の老人は、休むことなく私たちに伝えつづけたのだ。任務として、使命として。
 金井さんが私の横で涙を流していた。被害と加害の重みを自覚しながら戦後を生きてきた藤本さんの人生に触れたことで、抑えてきたものが一気に溢れてきたようだった。
「いつまでも元気でいてください」と、金井さんは震える声を藤本さんに向けた。「そうします」と藤本さんは答えた。
「わたくしが死んだら、毒ガスの証言をする人がいなくなりますから。生き通さなければいけないんです」
 ふたたび、穏やかであたたかい声に戻っていた。
「鬼」にされた「英雄」の、静かな決意だった。

 

 

(最終回・了)

 

長らくのご愛読、誠に有難うございました。
一部加筆のうえ本連載をまとめた単行本が
8月末に亜紀書房より刊行となる予定です。
ご期待ください!