戦争と移民とバスタオル 安田浩一・金井真紀

2020.5.29

01タイ篇1・旧泰緬鉄道とヒンダット温泉

 

 

▼安田浩一

 

 

ジャングルの秘境・ヒンダット温泉

 その温泉は、ジャングルの中にあった。
 分厚く茂った熱帯雨林の間を縫うように清流が走り、川際に沿ってコンクリートで仕切られた大きめの浴場がふたつ、ぽかんと口を開けている。何の飾り気もない、野趣に富んだ河原の露天風呂だ。
 ヒンダット温泉──タイ中部の街・カンチャナブリからバスに揺られて約3時間。ミャンマー国境近くに位置する天然温泉である。
 頭上で鳥がさえずる。川のせせらぎが響く。樹々が香る。金粉でも振りまいたかのような南国の強い日差しが、温泉場全体を踊るように照らしていた。
 すでに先客たちが弛緩しきった表情で湯に浸かっている。大自然に溶け込んでいる。気持ちいいだろうなあ。一刻も早く汗染みのできたシャツを脱ぎ捨てて、湯の中に飛び込みたくなった。
 さあ、温泉が待っている。湯けむりが呼んでいる。
 極楽は目の前だ。

 

 

 

「死の鉄道」に揺られて

 温泉にたどり着くまで、長い時間を要した。
 金井真紀さんと落ち合ったのは、タイの首都・バンコクだった。チャオプラヤー川西岸、野菜や果物が整然と並べられた市場の脇に位置するバンコク・トンブリー駅から私たちの旅は始まる。
 朝7時50分。同駅始発の列車に乗り込んだ。
 出発を急かすようなホイッスルの甲高い音を合図に、列車はガタンと小さく揺れた。ゆっくり動き出す。ディーゼルエンジンの轟音に気圧されたかのように、窓の外でプラットホームが静かに後ずさりする。定刻通りの出発だ。
 西へ約110キロメートルの距離を3時間かけて、まずはカンチャナブリに向かう。
 家屋が密集する市街地を抜けると、列車は速度を上げた。レールの継ぎ目に合わせて床が軋む。風景が流れた。車内に冷房の設備はない。開け放した窓からエンジン音と一緒に南国の湿った風が踊り込む。
 もう何十年も走りつづけているのであろう古い客車は簡素そのもので、背もたれの高いボックスシートを規則的に並べただけの巨大なかまぼこを連想させた。私たちが乗り込んだ先頭車両には、観光客と思しき欧米人のグループ以外に乗客の姿はない。
 緑の波がうねる農村地帯を列車は行く。
 車窓に額を当てるようにして、のどかな景色を視界に収めた。バナナの木。ヤシの木。マンゴーの木。常夏の陽を浴びた樹木がゆっくりと後方に去っていく。
 ガタン、ガタン、ゴトン。規則的な車輪の響きも心地いい。心が躍る。温泉地に向かっているのだという高揚に身を任せた。

 

 

 私はもともと鉄道が好きだ。内気で引っ込み思案だった子どものころから、列車は、いまある場所から逃れるための希望だった。線橋(こせんきょう)の上から通り過ぎていく列車を眺めているだけで気持ちが落ち着いた。山の向こう側に、海を越えた場所に、トンネルのその先に、知らない町があるのだと想像することで、生きていく理由を見つけることができた。
 おとなになったいまも、それは変わらない。
 車窓からタイの田園風景を眺めているだけで、はしゃぎたくなる。からだを小突くような車体の揺れも、未知の世界へ導く躍動のリズムにも思えた。

 

強制労働と虐待

 だが──バンコクから遠く離れていくうちに、なんともいえない居心地の悪さが、胸の中で小さなシミをつくる。拭っても消えることのない黒点が徐々に広がる。じわりじわりと襲ってくる圧迫感の正体は、私たちをカンチャナブリへとつなぐ鉄路の来歴にあった。
 いまはタイ国鉄のナムトック線と呼ばれる路線は、かつての「泰緬鉄道」である。第2次世界大戦中の話だ。インド侵攻作戦を計画する旧日本軍は、タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ鉄道を建設した。総延長415キロメートルに及ぶこの路線こそが、泰緬鉄道だ。
 戦争という特殊な状況、迅速な建設を迫られた日本軍は、20万人を超える労働者を集めた。動員されたのは、オーストラリア兵や英国兵など連合国軍の捕虜と、アジア各国から徴用された「ロームシャ(労務者)」とも呼ばれた労働者である。日本軍は沿線各地に収容所を設けたうえで、これらの人々を強制労働に駆り出したのだ。
 1年数カ月と定められた無茶な工期のために、労働は過酷を極めた。連日、夜を徹した突貫工事が進められた。鉄道は1943年に完成したが、飢えや疲労、伝染病(工事が雨季にかかったため、不衛生な労働環境や労働者の体力低下も相まってマラリア、コレラ、アメーバ赤痢などが大発生した)、日本軍の監督者による虐待で、じつに約1万2,000人の捕虜と数万人(実数不明)のアジア人労働者の命が奪われた。使役する側であった日本軍(朝鮮半島出身者を含む)からも伝染病による死者を出している。
 日本という国家が抱えた暗部である。疑う余地のない戦争犯罪だ。
 だからこそ、タイ国内はもとより英語圏でも、泰緬鉄道(Thai-Burma Railway)ではなく、死の鉄道(Death Railway)と呼ばれることが多い。
 つまり私たちは血塗られた記憶を持つ鉄路に揺られていたのだった。
 車窓に映るのは、どこまでも穏やかで間延びした風景だ。戦争の傷跡などみじんも見ることはできない。だが間違いなく、枕木の下には、一方的に生を断絶された人々の苦痛と無念が埋められている。
 列車は走る。陽に輝く南国の農村を。斃れた人々の上を。
 私たちがカンチャナブリまでの交通手段として、一般的に利用されるバスではなく、あえて本数の少ない鉄道を選んだのは、こうした歴史を直視するためでもあった(もちろん、私の鉄道好きといった理由がないわけじゃない)。

 

日本軍によって整備された鉄道と温泉

「本当にひどいことしたんだよね、日本人は」
 窓から吹き込んでくる風に髪の毛を巻き上げられながら、金井さんがそう漏らした。
 この日まで、金井さんは泰緬鉄道に関係するいくつかの書籍に目を通してきたという。戦争の理不尽が生み出した狂気と悲劇に憤り、命を落とした人々に思いを寄せてきた。泰緬鉄道に関してさほどの知識を持たない私に、さまざまな情報を伝えてくれたのは金井さんだった。さらにタイの温泉地を訪ねると決めたとき、タイ国内にいくつかあった候補地の中から、ジャングルに囲まれたヒンダット温泉を選択したのも金井さんだった。
  “ 南国と温泉 ” という組み合わせに対照の妙を感じたのも事実だ。だが、それ以上に私たちの関心を盛り立てたのは、ヒンダット温泉が鉄道建設を指揮した日本軍によって整備されたという話が残っているからだった。
 カンチャナブリに駐留していた日本兵が、キャンプの設営地を求めてジャングルを歩き回っていた際、溪流沿いに湯が湧き出ている場所を発見した。そこでコンクリート製の湯舟をつくり、湯治場として整備したというのだ。つまりヒンダット温泉は、旧日本軍の保養地だった。
 だから──日本の足跡を、直接に目にしたかった。
 私たちは、日本が引き起こした暗い影を胸の中に従えて列車に飛び乗ったのだ。かつての「加害国」の一員として。

 

犯した過ち

 泰緬鉄道の悲劇は、けっして過去のこととして忘れられてはいない。タイではいま、「死の鉄道」を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録する動きが本格化している。日本軍によっておこなわれた残虐行為をしっかり記憶にとどめるためだ。だが、一応は“親日国 ” と言われるタイとしては、日本に対する一定の配慮も手伝って、ユネスコへの登録申請に、「死の鉄道」なる表現を使うべきかどうか、激しい議論が進められている。
 日本国内でもこれに呼応し、「インフラ設備に尽力した日本」といった美しい物語に収めようとする動きもある。加害と失敗の歴史を美談に塗り替えようとする、いつものアレだ。
 少なくとも「加害」に関係する側が名称のあり方に口を出す問題ではなかろう。鉄道建設で多くの人々が命を落としたのは事実なのだ。技術力を誇示した「日本スゴイ」の物語は成立しない。泰緬鉄道建設は支配と服従の関係によって犠牲者を出した。
 食糧不足による栄養失調で斃れる人がいた。コレラやマラリアで斃れる人がいた。日本軍の私的制裁で斃れる人がいた。鉄道建設に伴う犠牲者は、動員された労働者の約半数ともいわれている。こんなバカげた工事があるだろうか。戦時下の捕虜に対する虐待を禁じたハーグ陸戦法規やジュネーブ俘虜条約にも違反していたことは明白だ(実際、戦後に同法違反で日本側関係者は処罰された)。
 この史実はけっして塗り替えることのできない記憶として、多くの人の胸に刻印されている。私たちはそれを忘れず、犠牲者の無念に寄り添うしかない。
 そもそも泰緬鉄道は地元の人々の利便性を考えてつくられたものではないのだ。あくまでも「侵攻作戦」のひとつだった。日本軍のためにつくられた。
 亡くなった人々からすれば、他国の軍事作戦に協力させられ、過酷な労働を強いられたうえで命を落とす理由など、あるわけがない。これっぽっちもない。
 ガタン、ガタン、ゴトン。「死の鉄道」は進む。足元から伝ってくる響きは、命を賭した者たちによる建設の槌音のようにも聞こえる。

 

クウェー川鉄橋に到着

 私たちは車内で弁当や飲み物を売って回るおばさんから、発泡スチロールの器に盛られた果物を買った。夏みかんにも似たその柑橘は、地元ではソムオーと呼ばれている。皮がきれいに剝がされた大ぶりの身は、背を丸めた芋虫のような形で器の中に横たわっていた。
 口の中に放り込むと、甘みと苦みが同時に広がった。
 暗い記憶を抱えながら、それでも生き延びた鉄路を思った。

 

 

 田畑を横切り、山間を抜け、いくつかの小さな駅を過ぎたころ、列車は徐々にスピードを落としていく。
 昼少し前。列車は息切れしたようなディーゼルの排気音をあげながら、カンチャナブリ駅のプラットホームに滑り込んだ。
 駅の出口を抜けると、緑と陽光に包まれた街並みが広がっていた。
 騒音と排気ガスに満ちあふれた近代都市バンコクとはちがい、たくさんの街路樹が、空気に瑞々しさをあたえている。一気にからだの中が洗浄されたような気持ちになった。高層ビルや大型ショッピングセンターで空が塞がれることもない。澄みわたった青空から惜しみなく陽射しが注がれ、反射光が街路全体を明るく照らしていた。
  “ 泰緬鉄道の街 ” として広く内外に知られ、エラワン国立公園など山岳リゾートへの入り口としても機能しているカンチャナブリの街は観光地らしく、適度に通俗的で、適度に落ち着いたたたずまいを見せていた。
 駅に近い地域には安宿が軒を連ねている。そこに集まる観光客を待ち受けるように、道の両端に、数百円もあれば十分に満腹感を得ることのできる食堂が並んでいた。ちなみに私たちがカンチャナブリで最初に入った食堂で頼んだカオマンガイ(茹で鶏が添えられた米料理)は日本円で150円程度だった。感謝したいのは安価であることではなく、鶏の茹で汁がしっかり溶け込んだ米が、観光客目当ての店でありながら、思いのほかに美味かったことだ。口の中にゆっくりと広がる優しい味は、タイの人々の控えめで、はにかんだような笑顔を思い起こさせた。
 通りには、たくさんの食堂に挟まれるように、マッサージ店やゴーゴーバー(女性の連れ出し可能な、一種の風俗店)が混ざる。バックパッカーのたまり場として知られるバンコクのカオサン通りを、小規模に、そしてやや簡素化したような街並みだった。
 通りを抜けて街のはずれに向かうと、悠々と流れるクウェー・ヤイ川に突き当たる。カンチャナブリでもっとも人が集まる観光スポットだ。
 河川敷の公園に近づくと、大きな橋が視界に飛び込んできた。
 それが「死の鉄道」の象徴的な存在ともいえるクウェー川鉄橋だった。

 

 

 

 

▽金井真紀

 

 

「戦場にかける橋」にて

 かつて、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台となったオーストリアのミラベル庭園に行ったとき、わたしは「ドレミの歌」を口ずさみながらスキップせずにはいられなかった。名シーンを再現するベタな観光客。で、今回は『戦場にかける橋』の舞台、クウェー川鉄橋である。口笛で「クワイ河マーチ」を吹きながら行進を……ううう、とてもそんな気になれなかった。
『戦場にかける橋』は1957年に公開され、アカデミー賞で7部門を制した英米合作の大ヒット映画だ。監督はイギリスの名匠デヴィッド・リーン。第2次大戦中、日本軍の捕虜となったイギリス人兵士らが泰緬鉄道敷設の過酷な労働に従事させられた史実を下敷きにしている。捕虜の人権を無視していばりちらす日本人の大佐(早川雪洲演じるサイトウという男)が、まーあ憎たらしい。で、その拷問にも懐柔にも屈せず、のびのびと振る舞うイギリス人将校ニコルソンがとってもクール。アレック・ギネスはこの役で主演男優賞をもらった。
 映画の中で、鉄道敷設の最大の難関として描かれるのが幅250メートルのクウェー・ヤイ川に橋をかける大工事だ。ふんぞりかえったサイトウの言うことなんて誰も聞かないのだけど、ニコルソンがリーダーシップを発揮するとイギリス人捕虜たちは俄然やる気を出す。クワイ河マーチを口笛で吹きながら意気揚々と行進し、無事に橋の工事を完了させるのだった。
 その場所には、今も橋が残っている。どころか、今も毎日その上を旧泰緬鉄道、現ナムトック支線が通過している。戦後、補強工事を施したとはいえ、当時の橋がそのまま使われているのだ。列車が通るのは1日数回だけで、そのほかの時間帯は橋の上を自由に歩くことができるらしい。というわけで世界の映画ファンも、鉄道ファンも、カンチャナブリ駅で降りたら必ずクウェー川鉄橋を目指すのである。
「橋を列車が通過するタイミングで写真を撮ろう!」
 撮り鉄の血が流れている安田浩一さんも張り切っている。わたしたちは宿で自転車を借りて、鉄橋へ向かった。白茶けた一本道。南国の日差しがジリジリと照りつける。
 クウェー川鉄橋は、のどかな観光地だった。周りにはお土産物屋さんや飲食店が立ち並び、客待ちのトゥクトゥクの中で運転手さんが昼寝をしている。そのゆるい雰囲気の中で、わたしの心は沈んでいった。
 橋の横にある金属のプレートに、この泰緬鉄道の工事で命を落とした人の数が刻まれていた。
「マレーシア 42,000、ビルマ 40,000、イギリス 6,904、インドネシア 2,900、オーストラリア 2,802、ドイツ 2,782……」
 あぁ、ここで日本軍は取り返しのつかないことをしたのだ。暗い気持ちで、その数字を指で撫でる。アジア各地から無理やり連行された「ロームシャ」の死者数が桁ちがいに多い。彼らは食べるものもろくにあたえられず、病気になっても放置された。大量の命が次から次に使い捨てられたのだ。ロームシャの中には、自分が連れてこられた場所がどこなのかさえ知らずに死んでいった人も多かったという。命からがら終戦を迎えることができても、そのあとがまた悲惨だった。連合軍の捕虜たちは解放され、日本軍は引き上げ、ロームシャだけが残された。故郷に帰る金も方法も持たず、縁もゆかりもない土地で一生を終えた元ロームシャも少なくないと聞く。そんな人生ってあるだろうか……。
 プレートのいちばん下の行に、「日本、韓国 1,000」とある。日本と韓国の死者数がまとめてあるのは、韓国は当時日本の植民地だったため。イギリス人捕虜の日記を読むと「コリアンガード」という単語がしょっちゅう出てくる。日本軍は、多くの韓国人兵士に捕虜を監視する役目をやらせたらしい。
 はぁ、とてもじゃないけど、のんきにクワイ河マーチなんて歌ってる場合じゃない。

 

 

 

戦争博物館とウェー川鉄橋

「今から1時間20分後に列車が来るらしいよ」
 鉄道員の詰所に列車の通過時刻を確認しにいった安田さんが戻ってきた。
「それまで、博物館を見てようか」
 橋のたもとにあるJEATH戦争博物館(JはJapan、EはEngland、AはAustralia、TはThailand、HはHollandの頭文字を指す)の門をくぐる。前庭にどーんと日本軍の汽車が置かれていて、いきなり圧倒される。当時、軍用物資を運んでいたという錆だらけの古びた貨車に、妙に新しい日の丸がかけられていて、そのギャップが生々しい。でもそれは序の口。入館料を払って博物館の中に足を踏み入れると、そこはもう生々しいなんてもんじゃなかった!
 薄暗くてひんやりしている展示室は、無人。そこに日本軍の銃、日本軍の刀、日本軍の軍服、日本軍のジープ、飯ごう、水筒、ヘルメット……。
「なんか、背中がぞわぞわしますね」
「うん……」
 日本軍の遺物に、わたしと安田さんの声が吸い込まれていく。
 いちばん怖かったのは、鉄道工事に従事させられている捕虜たちの等身大の人形だった。石膏でできた人形たちは裸同然。肋骨が浮き、足や腕はやせ細り、ヒゲが伸び放題だ。その悲惨な姿で、ある者はツルハシを振り上げ、ある者は石を運んでいる。ううう。捕虜たちのうめき声が聞こえてきそうだ。

 

 

 館内の表示は基本的にタイ語と英語だったが、ところどころに日本語で書かれた展示物があり、それらは自然と目に飛び込んでくる。ある日本語の解説文を読んで、わたしはがっくりとうなだれた。
「1944年11月28日、午後2時過ぎ、空襲警報が出されました。連合軍の飛行機がカンチャナブリ県上空を西へ向けて飛行しているという内容でした。日本軍は数百人の捕虜を集め、橋の上で列を作り連合軍の飛行機に対して歓迎の意を表すために手を振らせようとしました。しかし日本軍の本当の考えは、連合軍の飛行機は捕虜を見て爆撃を止めるだろうというものでした。しかし、そのあてははずれました……」
 ルシアン・エルコラニなる連合軍のパイロットは鉄橋を目がけて正確に爆弾を投下した。そこに人がいるかどうかなんて、ましてそれが同胞かどうかなんて、見分けられない状況だった。数百人の捕虜たちは、友軍によって殺されたのだ。クウェー川は真っ赤に染まったという。なんとむごい話だろう。爆撃に備えて捕虜たちを橋の上に立たせてみようって考えた日本人、鬼か。
 博物館を出ると、空の青さが目にしみた。あまりにも気持ちがどんよりして、もう帰りたいとすら思ったが、いよいよ撮り鉄タイムが近づいてきて安田さんはやる気満々。
「どの位置で列車の通過を待つべきか、悩むなぁ」
 その声に背中を押されて、またクウェー川鉄橋に戻った。
 全長約300メートルの橋の上は、世界中からやってきた観光客で賑わっていた。耳に入ってくるのは英語、ドイツ語、フランス語、中国語……。みんなうれしそうに記念写真を撮っている。線路をまたいでピースサインのご婦人。身を寄せ合って自撮りするカップル。ギターを手に路上ライブをしているタイ人の少女と、それを取り囲むオーストラリア人のグループ。あぁ、なんだか平和っぽい。
 橋の真ん中あたりに、手すりを背にしたおじさん4人組がいた。韓国語で「おれが撮るよ」「いいよ、おれが撮るからみんなそこに並べ」みたいに言い合っていたので、つい言葉をかけた。
「あの、よかったら撮りましょうか」
「おぉ、ありがとう」
 4人が一斉にニコニコしてくれる。そして当然のように、
「日本人ですか」
 と質問された。はい、日本人です。ほんとにもう、なんて言ったらいいのかわからないけど、日本人なんですよ。78年前に日本人がしたことの重さを持て余しているわたしの気持ちを知ってか知らずか、韓国のおじさんたちは「東京から? そうですか」なんてのんきにうなずいている。4人並んだ写真がうまく撮れて、
「カムサハムニダ。よい旅を!」
 よその国の人と明るく話すことができて少しホッとする。
 ゴーーーーー……
 そうこうするうちに、ついに列車がやってきた。線路上を歩いていた人たちは橋の途中の安全地帯に急いで避難して、列車スレスレのところでカメラを構える。安田さんは?  と見ると、背景に川面が入る好位置に陣取って、カメラとスマホを2台持ちしてバシャバシャとシャッターを切っていた。

 

 

 列車はゆっくりと橋を渡り、ジャングルのほうへ消えていった。あとはまた、かんかん照り。カメラをしまった安田さんは、満足げにほほえんだ。
「任務完了」
 さてと。それじゃ自転車を漕いで街に戻りますか。明日はいよいよ温泉だ。

 

(第1回・了)

 

 

本連載は月2回更新でお届けします。
次回:2020年6月12日(金)更新予定