山と獣と肉と皮 繁延あづさ

2019.6.20

01ケモノ喰らい Ⅰ


【最期のとき】

 猪が死んでいくのを初めて見たのは、3年前の冬だった。
 朝5時半、枕元のケータイが鳴った。出ると、
「イノシシかかっとっぞー。箱に入っとるけん、くるか?」
という威勢のいい声。私は寝惚けつつも、
「行きます!」
と即答していた。電話を切ったら、急に目が覚めた。 布団から静かに這い出し、寒さに震えながら家族が寝静まる部屋をそっと出た。あわてて身支度して、カメラチェック。フル充電しているバッテリーを探る。大丈夫、行ける。まだ2歳の末っ子が気掛かりだったが、布団に包まって眠る主人に “ごめん、任せる!” と託し、家を飛び出した。細い坂道を駆け下りると、おじさんが軽トラのエンジンをかけて待っていた。おじさんは猟師。私が助手席に飛び乗ると、ルパン三世の車みたいに躍動的に走り出した。
 何年も前から鹿や猪の肉をもらっていた私は、いつしかおじさんの狩猟に同行してみたいと思うようになっていた。けれど、連れていってくれるよう頼んだ矢先、おじさんが猪の牙でやられて大怪我。おじさんは私を同行させることに慎重になった。そうしたなか、たまたま箱罠に猪が入ったと連絡があり、ようやく私を誘ってくれたのだ。《箱罠》とは、野生動物を捕獲するための箱状の罠のこと。檻の中に完全に捕獲されるので危険が少ない。今思えば、初めての同行が箱罠だったからこそ、私は一瞬一瞬を丹念に見られたのかもしれない。




 出発時は真っ暗だったが、移動中に夜が明け、到着した頃には朝日がのぼり始めていた。この頃のおじさんは、まだ銃を使っていなかった。軽トラから下ろしたのは、自作の槍。なんとも原始的な道具だ。仲間と合流すると、おじさんは「例の写真屋さん」と、私を仲間に紹介した。なんとなく、彼氏に「これ、カノジョ」と紹介されるのにも似た恥ずかしさ。とりあえず、どうも、と会釈する。




 おじさん二人が会話しながら現場に向かう様子は、まるで山菜採りにでも行くようなほのぼのさで、私も登山と変わらないような気持ちで後をついていった。朝日が真横から差して、清々しい朝の山だった。すると、
「ブホッ、ブホッ! ガシャン!」
と、荒々しい音がした。声というより、孔から吐き出されるような息の音。一瞬怯みつつ、恐る恐る進んでいくと、山道から少し入った場所で大きな箱が暴れていた。いや、暴れているのは猪なのだけれど、猪と共に飛び上がる様子がそう思わせた。 ガシャンガシャンと響く金属音。その激しさはまさに死に物狂い。




 普段は《括り罠》で猟をするおじさん。括り罠は土に埋め込むなどする罠で、そこに獣が脚を踏み入れるとワイヤーが締まる仕掛け。罠にかかると脚が繋がれた状態になるのだが、箱罠と違って猪の体は剝き出し。おじさんは普段、そうして罠にかかった猪の眉間を鉄パイプで叩き、気絶させ、その状態で解体していくらしい。けれどこの日は箱罠。 鉄パイプで叩こうにも、箱の柵が邪魔でできない。おじさんは槍を構えた。猪は目を剝いて怒(いか)り、馬が嘶(いなな)くように、ヒュギュー、ヒュギュー! と猛々しいを声あげていた。とてつもなく生きている、と思った。
 一秒たりとも動きを止めない猪を見つめながら、おじさんが、
「狙いが定まらんけん、縦にせろ」
と言った。箱を縦にして、動ける範囲を狭めて追い詰める策だ。二人掛かりで箱罠を縦にすると、猪は後がないことを悟ったか、さらに激しく嘶いた。目が怒りに燃えるようなマンガの作画表現があるが、実際に目から怒りがあらわれている気がした。“諦め” というものが微塵も感じられない、迫りくるような生気に圧倒された。と同時に、胸がざわめいた。これほどまでに生きようとしている猪を、これから殺すのだ。“死など絶対に受け入れない” とばかりに、目を剝き、嘶き、怒る、この猪を。私は動揺した。




 そんな私とは対照的に、おじさんは静かに狙いを定めていた。前脚の付け根の辺りを突く。その途端、猪の動きが止まった。声も消えた。そして、ぐらりと傾向き、そのままドサリと転倒。まるで魂が抜け出ていくような光景だった。ほんの 一瞬の出来事だったが、私にはスローモーションのようにハッキリと見えていた。そして、つい先ほどまで “とてつもなく生きている” と感じていた猪が、ごろりと横たわっていた。私は一歩近づいて見下ろした。




 猟の話は今までおじさんから何度も聞いていた。けれど、こんなにあっけなく死んでしまうとは。倒れた猪を凝視し ている私を見て、おじさんが言った。
「心臓に刺さったな」
 心臓を突き刺したことで、即死したらしい。それでも、猛々しく生きている姿が残像のように残 り、ろうそくを吹き消すように命が目の前で消えたことは俄かに信じ難かった。生と死のコントラストが強すぎて、その変化が 急激すぎて、私の頭は追いついていけないでいた。
 おじさんたちが箱から猪を引き出した。仰向けにすると、毛の薄い柔らかそうな腹が露わになった。生きているときには決して見せないその姿に、これは “モノ” であって “生き物” ではないのだと思った。死という状態が、死体という物体に よって示されたような。残像がチラつくのは、忘れないでおきたいからかもしれない。残像は過去、写真のようなもの。
 いつも食べている肉の、その前を知りたかった。そうした漠然とした気持ちだった。でも、よく考えれば、いやよく考えず とも、それは、ただ “死んでいく” 姿があるのではなく、“殺される” 猪と、“殺す” という人間の行為があるわけだ。そうした肉でなければ、私たちは食べられないのだから。
 私たちの先祖が死肉を漁っていたのは遙か昔、初期人類の時代まで。さらに肉を求めヒトになっていったことを考えると、ヒトにとって  “殺す”  と  “食べる”  は分かつことのできないひと続きの行為。そんな当然に今ごろ気づく。




【接続】

 おじさんたちは手早く猪の屍体を箱から出し、道路へと引っ張っていった。道路の端に猪を置き、ナイフで耳の後ろを刺して開くと、鮮やかな牡丹色の肉と白い脂が見えた。見覚えのある、いわゆる “肉” だった。それを見た途端、 おいしそうだと思った。
「ここでまっとってえ」
 おじさんが軽トラを持ってくる間、私は死んだ猪と二人きり(二体きり?)で置き去りにされた。木の葉が 落ちても瞬きひとつしないガラス玉のような瞳を眺めながら、私はぼんやり考えていた。猪が最後に見た景色はどんなだっただろう。おじさんが槍を突き出そうとしたとき、胸がぎゅっと苦しくなる感じがあった。おそらく私は、必死に抵抗する猪を憐れんだのだろう。突き刺す瞬間、私までも息苦しく感じた。それなのに、 チラッと肉が見えただけで、“おいしそう” という喜びに近い感情がわき上がった。なんだか自分が矛盾しているような気がした。







 猪は軽トラの荷台に乗せられ、近くの沢まで運ばれた。絶命から 15 分ほどだろうか。おじさんは慣れた手つきで頭 を切り落とし、近くの木に猪の体を逆さ吊りにした。頭の無い首からは、血が滴り落ちていた。間近で見ているとわからないが、少し離れて見ると山の中という背景も相まって、ふだん目にすることのない、日々の暮らしとはかけ離れた風景だと気づく。もし私の日常でこれに似た風景を見るとしたら、それは現実世界ではなく、映画の中などで見かける残酷シーンだろう。けれど、そうした映像と、この目の前の風景は、ビジュアル的に似ている以外、何ひとつ同じところはない気がした。人に見せるために作られた風景と、人の営みの中でうまれる風景とでは、受け取るものがちがう。自宅から20分の場所にこんな風景があることを、初めて知った。
 おじさんは、バーナーで首からお腹へと炙りはじめた。こんがり毛の焼ける匂いは、食欲が刺激されるいい匂いだった。なぜ炙るのか尋ねると、
「ダニがこっち(自分)に付かんよう、切り開くところの毛を焼くっと。宿主が死んだら、次の宿主を探すやろ」
 なるほど。猪が息絶えて、用がなくなったダニは去るとき。食べ物として肉を切り出すおじさんにとっては、今からが用アリだ。マダニによる感染症もあると聞くから、用心が必要なのだ。




 さて、この身体をどこから切り開いていくのだろう。
 童話『赤ずきん』で猟師が狼のお腹からお婆さんと赤ずきんを助け出すシーン、『狼と7匹の子ヤギ』で、狼のお腹を裂いて子ヤギを助け出し石を詰めるシーン。メルヘンチックなオブラートに包まれていた場面が、まさに皮を剝がされリアル世界に立ち現れてきたような気がした。

 

(第1回・了)

本連載は月2回更新でお届けします。
次回:2019年7月4日(木)掲載予定