山と獣と肉と皮 繁延あづさ

2020.2.14

15人と犬と人

 

「この子(犬)たちに食べさせるためです」

 自分は肉を食べない。できれば動物も殺したくないというみゆきさんに、じゃあなぜ猟をするのかと尋ねて返ってきた言葉がこれだった。まるで、お母さんのような口ぶり。私は「ああ、そうですか」と返事しつつも、またも “ なぜ? ” という疑問が頭をもたげてきた。たしかに筋が通った話のように聞こえる。けれど、それは完全に動物の母親的な発想だ。まるで親鳥が雛に虫を持ち帰るような、母ライオンが狩った獲物を子に食べさせるような。
 みゆきさんの腕のタトゥーが目に入った。犬のイラストが彫ってある。もう片方の腕には “ Kate ”と。ケイトって、隣の小屋にいるグレートデンのことだろう。たしか目も不自由で耳も聞こえない犬だったか。なぜ犬の名を? 名前を彫るほどの存在ってなんなのだろう。触れていい話題なのかどうかもわからず、どうも踏み込めない。

 

 

 私はその後も、ときどき中村さんたちの猟にお邪魔するようになっていた。同じ “ 狩猟 ” とはいえ、おじさんと中村さんとでは猟法も、猟師としての在り方もまったく異なっている。70歳を超えたいまも2日に一度の狩猟を欠かさないおじさんの現役感には圧倒されるものがある。とはいえ、おじさんが本腰を入れて猟師になったのは定年退職後。余生を楽しんでいるわけだ。一方で、私と同世代の中村さんは猟師と猿回しを生業に生きていこうとしている。余生ではない。人生をこれで埋め尽くそうとしている。そんなことができるのか? 私なんかはそう思ってしまうが、中村さんは本気だ。

 

 

 茶畑と耕作放棄地がまだらに織り成された風景を、中村さんの軽トラが登っていく。追いかける私も、風を切ってぐんぐんと高度を上げていくのが気持ちいい。お茶は標高の高い場所で栽培されるため、茶畑はかなり上まで続いている。段々になった茶畑が累々視界に飛び込んでくる。茶摘み作業は手間がかかりそうだが、私はこの昔話に出てくるような風景が好きだ。隠れ里のような静けさがある。この一帯はキリシタン関連の史跡が多いから、実際にそうだったのかもしれない。
 あと数段茶畑が残るというあたりで車を止め、中村さんが荷台のケージを開いて犬を放った。やはり犬たちは、ごく当然というように周囲を嗅ぎながら駆け上っていく。この光景が不思議でたまらない。イルカショーのような合図もなければ、意思疎通する素振りもない。犬たちが自動操縦的に動き出すようすを見ていると、なんだか中村さんの一部のように思えてしまう。かといって、AIロボットのような無機質さとは真逆だ。走る姿には生命力があふれている。

 


 茶畑が尽きたあたりで私たちも車から降りる。猪がいるのは山の中。便利な乗り物は置いて、自分の足で歩くしかない。
 ひとたび山に入ると、犬は獣なのだと実感させられる。縦横無尽に駆け回る姿は圧巻。一方、私は次の足をどこに着地させるか気にして、グラグラしながら歩いている。そりゃそうだ。二本しかない足で、地面から垂直に立って歩いているのだからバカみたいだ。四つの脚で、這うような姿勢の獣たちとはまるでちがう。“ 四つ足 ” とは獣への蔑みを含んだ差別言葉だけれど、自由自在に駆ける姿を見ていると、私はその “ 四つ足 ” が羨ましく思えてくる。あんなふうに山を縦横無尽に駆け回ったら、どんな気分になるだろうかと。急斜面を登るときは、私も犬に倣って這うように進む。地面に顔が近づき、土や落ち葉の匂いが鼻孔を通ってくるのを密かに楽しんでいる。
 犬の鼻にも憧れる。身体の最も先端にある鼻を、さらに突き出すようにして嗅ぐ。受け取った匂いと視線が連動するからだろうか。その目はまるで、匂いやその来し方を見ているかのように宙に向けられている。私には見えないものを見ている。完全に羨望の眼差しだ。
 犬は人と暮らし、人と一緒に狩りをするから “ こちら側 ” という意識だった。けれど、生き物としては完全に “ あちら側 ” であり、他の山の獣たちと変わらない。あますことなく身体の力すべてを発揮させる犬の姿に、そう実感した。

 

 

 人間にない能力を利用するのが、狩猟に犬を使う理由なのだろう。それはわかる。ただ、ひとたび山に入るとこんなに無力になってしまう人間に、犬がよく従ってくれるものだなと思ってしまう。銃という強い道具を持っているからか? それとも信頼関係か? 中村さんに問うと、

「信頼関係は大きいですね。信頼がなければ、犬は飼い主のいうことはきかなくなります」
「猟犬が人間を襲ったという報道を聞きますけど、あれは人間との関係が原因ということですか?」
「そうです。ただ親しいというのでもないんです。犬に認められる飼い主でないと」

 言われてみれば、中村さんと猟犬たちは “ ペットと飼い主 ” という感じとは少しちがう。可愛がられてもいるし、親しい関係であることは間違いない。ただ、どこか緊張感が漂っている。そう感じるのは、比較対象としてみゆきさんがいるからだと思う。みゆきさんと犬たちとの関係も同じように親しいけれど、中村さんとの間にあるような緊張感は感じられない。この微妙なちがいは、意図的につくりだせるものなのだろうか。

 


 いくつかのポイントを探るも、猪は見つからず。この日最後のポイントに車で向かう途中、中村さんがまた犬を放った。ほどなくして犬たちが一斉に駆け出す。嗅ぎ取った! 中村さんたちの軽トラが犬たちを追ってスピードをあげる。ちょうど茶畑が終わる山との境目に犬が分け入っていった。すばやく車を降りて、エンジンを切る。中村さんが箱から銃を取り出すと同時に、私もカメラを手に持った。静けさを聴くように、耳を澄ます。

「ワン、ワン!」「ギューギュー!」

 みゆきさんが「ウリ坊!」と叫ぶと同時に中村さんが走り出した。私も後を追う。犬と獣の声のするほうへ。ヘンな音だった。あれがウリ坊の声なのか!? 駆けつけると、犬たちが小さなウリ坊に噛みついていた。

 

 

  中村さんはサッとナイフを取り出した。犬たちに離れるよう促しながら、サクッと頸動脈を切る。血がビュッと流れ出た。すばやい。中村さんは犬たちを制しながら、片手でウリ坊の足を摑むと、すぐに軽トラのほうへと歩いていった。私は展開の速さに追いつけないでいた。あっという間の出来事を頭で処理するように、私は横たえられたウリ坊を眺めていた。もう絶命していた。なんて小さいのだろう。でも、憐れみの感情はあまりわかなかった。

 


 おじさんとの猟では、獣と対峙する時間が必ずある。今回は犬たちが先に噛みついており、対峙する場面はなかった。というか、私が犬と猪が出会う瞬間に間に合わなかったのだ。“ 見られなかった ” という気持ちが、見たかったと思っている自分を浮かび上がらせた。生きた姿を見て、死んでいく姿を見るから、憐れみの感情が強まるのかもしれない。さっき感情があまり動かなかったのは、そういうことのような気がした。

 


 この流れでいくなら、きっと銃で撃つときもあっという間だろう。中村さんの猟は、獣をその場にずっととどまらせることができる罠猟とはちがう。しかも、中村さんは見つけたら殺すまでが手早い。犬や中村さんに追いつかなければ、私は彼らの猟を見られない。でも、犬に追いつくことは到底不可能だ。では中村さんについていけば、見られるのだろうか?

「かなり難しいと思います。銃を持って瞬時に判断するから、猟の邪魔にならないように “ ここで待っててください ” と言っちゃいそうですよっぽど良い状況に恵まれたらチャンスはあるかもしれませんが、可能性は低いかな」

 やはり──。残念に思ったけれど、ハッキリ話す中村さんを信頼する気持ちにもなった。私がいることで、中村さんは銃の引き金がひけなくなる可能性がある。万が一誤って、私が怪我をしないようにという配慮もあるだろう。実際にみゆきさんもふだんは待機役だ。
 山では、人の暮らす下界のように《キケン》という標識が出てくるわけでもなければ、誰もが赤信号で止まるようなルールの世界でもない。獣だけでなく、猟師にもいろいろな人がいる。危険を察知できる中村さんに従うしかない。ただ、猟を見られなくても、私は中村さんのところに通いつづけるだろうか? 気持ちが揺れはじめた。
 じつは、中村さんの猟のようすは見ることができる。中村さんが頭部につけているのは、動画撮影のためのカメラ。猟を撮影して、YouTubeなどにアップするためだ。「どんな猟をしているか知ってもらえるし、反応もわかる」と嬉しそうに話してくれた。狩猟に関心を寄せる人は多く、登録数は増えているという。このカメラで中村さんの目線を撮り、みゆきさんのスマホが狩猟中の中村さんを撮影する。ユーチューバーが職業になり得る時代ならでは。つまり、中村さんの猟は、YouTubeに公開されているものであれば誰でも見られるのだ。

 


 帰ろうとしたとき、メイちゃんを荷台に乗せようとしたみゆきさんが気づいた。

「あれ? メイ出血してる! 」
「このあいだ縫合した傷また開いてるのかな」

 メイちゃんは少し前に猪にやられて怪我を負ったとのこと。みゆきさんが毛の間に傷がないかと後脚を覗き込んで、叫んだ。
「いやちがう! 傷じゃない、生理だ!」
 すると、中村さんは
「わあ〜。メイ、おめでとう! そっか、それで虎鉄がメイの後ろ追ってたのか」

 と言いながら、メイちゃんの身体を嬉しげにポンポン叩いた。私は意味がわからず、なぜ “ おめでとう ” なのかと尋ねた。

「生理がくれば交尾期なんです。雌犬は年に2回あるんですけど、メイはこのあいだの出産後はじめて。つまり、これでまた妊娠できる身体になったってことです」

 中村さんは屈託のない笑顔で答えてくれた。なんだか変な感じがした。こんなふうに喜べることなのか? 動物が妊娠するって、普通は “ 困る” ことなんじゃないか?

 

 

 ペットを飼っている友人が去勢やら避妊手術の話をしていたから、そう思い込んでいた。いや、ペットに限らず、人間にとっても “ 妊娠 ” はセンシティブな問題。育てる義務や責任が生じるから、誰もが両手を上げて喜べるものでもない。そういう一面は実際にあると思う。でも、中村さんの笑顔からはそういう不安や葛藤は微塵も感じられない。考えてみれば、それもそうか。むしろ、常に猟犬を育てつづけなければ猟はできない。猟犬としての血統を継がせていかなければならない。たとえ今すぐでなくとも、妊娠できる身体って大事なことなんだろう。こんなふうに中村さんに喜んでもらえるメイちゃんって、なんだかいいなと思った。
 おじさんの猟は、猟場だけだった。中村さんの猟は生活全体が関わっていて、全部が猟の一部みたいだ。

 

 

 自宅に戻ると、中村さんとみゆきさんはウリ坊の解体準備をはじめた。こんな小さいのでも捌くのか? そう思ったのは、私が猪を “ 人が食べる肉 ” としか見ていないからだった。ここではちがう意味を持っていた。
 腹出しして出てきたのは、見たこともない小さな心臓だった。ウリ坊のサイズから、人間の赤ちゃんもきっと心臓はこれぐらいだろうかと想像し、ふいに胸が痛んだ。ふだん台所で心臓を切りながら、連想することがクセになってしまっている。
 小さな心臓は、さらに小さく切り分けられ、山に入った猟犬たちに与えられた。ご褒美とも儀式ともつかないこの饗応を、犬たちは喜んでいるみたいだった。

 

 

「少なくても餌になりますね」と私が言うと、
「猪を食べさせるのは、これが獲物だと教える意味もあるんです。だから、逆に他の小動物なんかは食べさせない。それを自分が追うべき獲物だと思っちゃうと困るので」

 なるほど。この犬たちは猪を食べている。それが、みゆきさんの言う “ 犬たちのお腹を満たす ” ことでもあると同時に、中村さんの “ 猟犬を育てる ” ことにもなっている。犬たちが心配だから猟についていくというみゆきさんにとっては、中村さんの考えは真逆のベクトルのように思えるけれど、獲物を得るという目的だけはピタリと一致していた。
 それにしても、明るい日差しが降りそそぐ民家の玄関先で、男女ふたりが小さなウリ坊を解体している姿は、ちょっとした異様さを呈していた。このふたりは、なぜこのふたりになったのか。問う言葉が見つからない。

 

 

《よくわからない。だから撮りにいく》
 私にはそれしか能がない。猟犬を使った狩猟については、おじさんの括り罠猟とのちがいもあって新鮮だ。あたらしい発見に満ちている。ただ、中村さんとみゆきさんについては、 “ わかる ” ことがあまりない。いや、そこはわからなくてもいいのかもと思うのだけれど、彼ら自身と彼らの猟が無関係ではない気がして、関心を寄せてしまう。

「おふたりはどこで出会ったんですか?」

 口に出して気づいた。まるで馴れ初めを聞いてるみたい。

 

 

 

(第15回・了)

 

 

本連載は月2回更新でお届けします。
次回:2020年2月26
日(水)掲載予定