山と獣と肉と皮 繁延あづさ

2019.8.16

05ピクニックじゃなくて狩猟なんだから

 

 

 

  “ 一度は事実を目の当たりにしたい” という願いは、あの日達成されたはずだった。けれど、私の狩猟同行は終わらなかった。
 写真を見た家人たちが、「僕らも行きたい」と言い出したのだ。ピクニックじゃないんだからと思いつつ、恐る恐るおじさんにその旨を伝えた。すると、次の週末にちょうど猪が罠にかかった連絡が入った。
「かかっとーけど、くる?」
 そして、家族連れで山に行くというトンチンカンなことになってしまった。

 とりわけ、小さい頃からシートン動物記や椋鳩十を愛読していた長男は、そこに野生の動物がいたというだけで惹きつけられる思いがしたのだろう。本の中と自分の世界が繋がるような感覚はわからなくもない。野生動物に憧れのようなものを抱いていた。野生動物を目の当たりにすれば、動物園では感じられないものがあるだろう。ただし、その動物はすぐに殺される。それが猟なのだ。
 生き物、それも哺乳類が殺されるのを見るのは辛い。それが一般的な感覚だろう。一週間前に感じた息苦しさは、まだ私の中で鮮明だった。どうしても、ほんの一瞬、猪の側になって想像してしまうのだ。あれが自分だったら……、あれが息子だったら……と。その衝動を抑えようとするが、どうにもコントロールしきれないものがある。狩猟同行3年半になる今でも、それは変わらない。この衝動を、《相手の気持ちを考えましょう》という幼い頃から受けてきた教育の賜物などとは思わない。3歳の幼児でも、平気でアリを踏み潰したかと思うと、怪我した猫を見て「かわいそう」と言ったりする。他の動物に感情を寄せる衝動は、程度の差こそあれ、本能的なもののような気がする。
 このとき長男は10歳、次男はまだ8歳。生き物が殺される猟に、連れていっていいのだろうか? 母親として判断に迷った。が、それを判じることもできない自分がいた。いや、「ちょっと待って」と言い出すこともできず、ただ流れに任せてしまっただけかもしれない。ただ、長男が以前言っていた言葉が印象に残っていた。
「野生動物の話にハッピーエンドはない。今まで読んできた本に、幸せな死は一つもなかったよ」
 少なくとも長男にとっては、思いがけないショックはないだろうと思われた。2歳の末っ子については、現場にいてもあまり理解できないだろうと高を括っていた。気がかりだったのは次男だ。彼は絵本でも映画でも、シリアスなものは絶対選ばない性分の子。兄に付いていくタイプだけに、単に調子づいて「行く行く!」と言っているだけのように思えたから。




 そのトンチンカンな日。家族みんなで早起きして、興奮気味に出発した。おじさんの軽トラのあとを追い、一週間前とはちがう山へ。軽トラに合わせて車を停め外に出ようとすると、おじさんがこちらに駆けてきた。
「今日は箱(箱罠)やないけん、車ん中でまっとってえ」
 この言葉で、はしゃいでいた息子たちも緊張した顔つきに変わった。しばらくして戻ったおじさんに “ 出てOK” の合図をもらい、外へと踏み出そうとしたとき、次男が真面目な顔で言った。
「やっぱり車で待っていようかな」
 冷静に考えて怖くなってきたのだろう。彼なりに状況を理解していることに感心した。行かなければならないわけではない。むしろ、行かないほうがいいかもしれないのだ。
「それでもいいよ」
 と返事したが、一人で居残りも心細いらしく、結局一緒に出てきた。末っ子は、主人が抱いていた。




 おじさんのすぐ後を付いていくのは、私と長男。末っ子を抱く主人と次男は、その後ろを歩いた。
「ブッフォ、ブッフォ! グウウウウ」
 目をやると、少し遠くに猪が見えた。
「あそこ、大きい! ほんとに背中の毛が逆立ってる。すごい!」
 長男が叫ぶように言った。本に出てきた猪の姿と重ね合わせているのだろう。
「ほんとだ! あんなに !?
「暴れまわってる!」
 皆の声から興奮が伝わってくる。
「背の毛逆立ってふとか(大きい)猪に見えとるばい。牙があるやろ。オスよ。見ろ、暴れて周りがあんなにほげとるばい」
 おじさんも説明を加えてくれた。“ほげる” とは、九州の方言で【穴があく・えぐれる】というような意味だ。




 一週間前の箱罠で見た猪の姿とは全然ちがった。ロープの届くかぎり猛烈に駆け込む。逃げようとしているというより、むしろ突進してくるように見えた。 “ 猪は慎重な性格で実際は猪突猛進ではない ” とはよく言われる話。けれど、このとき見た猪は、猪突猛進という言葉そのもの。怒り狂う猪の状態こそが “ 猪突猛進 ” という言葉の由来なのだろう。あまりの勢いに、ロープが切れるんじゃないかとドキドキした。離れていても覇気が伝わってくる。あのロープが切れたら何秒でここまで来るだろうか──。そんなことが頭をよぎった瞬間、おじさんが言った。
「じゃあ、また車に戻っとって」
 危険にさらさない、殺すところを子どもには見せないということなのだろう。おじさんの気遣いと判断に救われた気がした。子どもたちは素直に車に戻り、私だけが一部始終を見ていた。猪は予想通り、眉間を叩かれて倒れた。いつもおじさんから聞いていたやり方だった。気絶した状態で首に “ 止め刺し“ をすると、ドボドボっと音を立てるように血があふれ流れ出てきた。動きつづける心臓を想像した。一見残酷だが、このまま意識も戻らぬまま息絶えさせるのが、せめてもの配慮もしくは敬意なのだろう。おじさんは何も言わないけれど。




 絶命した猪を道路まで引きずり下ろしたところで、おじさんはまた子どもたちに声をかけてくれた。さっきまで大暴れしていた猪の屍体を目の当たりにして、子どもたちは何も言葉を発さなかった。ただじっくりと見つめていた。少なくとも、虫かごのバッタや蝉が死んでいるのを見るよりも、よほど神妙な様子で見ていたと思う。




「ほれ、そっちにしゃがめ。二人ともピース! ほれ、わいはシャッター押さんば」
 おじさんが子どもたちと私に向かって言った。一瞬意味がわからなかったが、言われた通りに猪のかたわらでピースをする息子たちを見て、おじさんの意図を理解した。いわゆる記念写真を撮らせようと促してくれているのだ。ああそうかとカメラを構えた。が、その瞬間、ものすごい違和感に襲われた。指が震えるほど、シャッターを押すことに躊躇いがあった。正直に言えば、“撮りたくない” と思ったのだ。いや、おじさんが親切心で促してくれているのはわかっている。獲物を前に写真を撮ることは、よくある慣習なのだろう。そうした写真を見たこともある。ただ、獲ったのはおじさんなのだ。息子たちが征服感をあらわすようなポーズをとるのはおかしい。私には強い抵抗感があった。いや、嫌悪感かもしれない。
   とはいえ、他人からみれば、私が撮りたいものと撮りたくないものの差異は小さすぎてわからないだろう。うまく説明もできそうになかった。結局のところ、私は複雑な内心を抱えたまま、予防接種の瞬間のようにキュッと眼をつむりシャッターを切った(この写真は封印!)




 このあと、家人らは迷うことなくおじさんの後につづいた。つまり、解体まで見学をしたというわけだ。残虐な風景にも思えるけれど、一連の流れとして見ているとそういった印象はない。すでに死んでいる猪には、気持ちは寄っていかない。猪側になって想像してしまう衝動も生じなければ、可愛そうという気持ちもおきない。子どもたちも、どちらかと言えば興味津々という目で見ていた。




 みるみる解体されていく様子に、親子で見入っていた。あっという間に頭は切り落とされ、皮が剝がされ、切り分けられていく。そこに大きなアクションはなく、淡々と、ときに道具を替えながら、滑らかに淀みなく動くおじさんの手があるだけ。




「この袋なに?」
 次男が指差しながら尋ねた。
「膀胱よ。おしっこが入っとると。よおけ溜まっとお。あんたらもあっとやろ? 夢中で遊んどって、気ぃついたらおしっこ漏れそうになっとるっさ。こん猪も、そげなふうに必死やったとね」
 何でもない会話のようで、おじさんの言葉は、生きていた猪と私たち人間が近い存在であることを伝えてくれている気がした。私たち親との会話では、こんなやりとりはぜったい生じない。教えられるのとはちがう、会話ならではの伝わり方があったのではないだろうか。




 持ち帰った肉は、その日の夜に食べた。冷凍庫に一週間前のが残っていたが、やはり今日の猪が食べたくて焼肉に。記憶が鮮明なうちに食べたかった。スーパーの肉ではぜったい抱かない感情だ。そして、この猪肉もやっぱりおいしかった。ただしそれは、果実に手を伸ばし、もぎ取って、口に含んだとき感じる “おいしい” とはまるでちがう。そんな素直で単純なものじゃない。 “殺したくない” という感情と、“おいしい” という感情は、どうやっても一直線には繋がりそうにない。それでも、両方の感情は確実に一続きの糸で繋がっているはずだという確信もある。どんなに捩(ね)じれようが、縒(よ)れようが、その糸は切れずに “おいしい” に辿り着く。二度目の狩猟同行で念押しされた実感だった。
   “殺したくない” と “おいしい” 、その感情の間にあるものとは──。幽(かす)かに、何かが見えてきそうな気がした。今は見えなくても、見つづけているうちに何かが見えてくるかもしれない。そんな予感に導かれて、狩猟同行は私のライフワークになっていった。

 


 

 猪の解体が始まったとき、私は最初2歳の娘を抱っこして車の中に残った。一週間前に一度見ていたし、解体は娘には見せないほうがいい気がしたからだ。けれど、窓から猪の頭が落とされていく情景を見ながら、居ても立っても居られなくなり、「ごめんやっぱり撮りたい! 山ちゃん(主人のこと)任せる!」と言って娘を渡し、カメラを持って車から出た。
 そのあと、娘が主人に聞いたらしい。「ママおちごと?」と。それで、彼は「うん。ママ、いのししとりにいったんだよ」と答えたという。それからだ。私が仕事に行く話をしていると、娘が「いのちち、とると?」と尋ねてくるようになった。完全なる勘違いだ。私は猪を撮るのが仕事じゃない。しかも、「撮る」と「獲る」もちがっている。オマケに主人がおもしろがって、「えい! えい! ってとるんだよ」と、私がいないときに妙な入れ知恵をしていて、ずいぶん長いあいだ娘から猟師だと思われていた。

 

 

 

本連載は月2回更新でお届けします。
次回:2019年9月2日(月)掲載予定