暗い時代の人々 森まゆみ

2015.8.20

01斎藤隆夫(上) リベラルな保守主義者

 

 いま政府が憲法九条改正をもくろみ、メディアへは恫喝のような干渉を強め、戦争のできる国への準備を着々と進めている。
 わたしは近代史を勉強する中で、どうして米騒動や小作争議、労働運動が活発化し、大正デモクラシーが花開き、社会運動の組織論をめぐってアナ・ボル論争が起こり、昭和初期には文壇や美術界もナップ(全日本無産者芸術連盟)やコップ(日本プロレタリア文化連盟)が創立されて左翼的傾向を強めたのに、一転、日中戦争・太平洋戦争への道に迷い込んでしまったのか、そのとき人々は何を考えていたのか、どこが引き返せない岐路だったのかを考えてきた。
 大学時代にも、「いまは戦前と似ている」「ワイマール共和国が崩壊したあとのような状況だ」などという人はあったが、わたしはそういうオオカミ少年的な言辞には動かされなかった。しかし小選挙区制導入以来、世論は正確に議席に反映されなくなったのは明確である。第二次安倍内閣の成立以来の特別秘密保護法、TPP関連法、普天間基地の辺野古移転、集団的自衛権、オスプレイ購入など米国に追随する再軍備化を推し進めていることには、こわい、という感情を持っている。
 「こわいなら海外にでも逃げればいい」という向きもあるかもしれないが、わたしは東京に生まれ育ち、東京で雑誌を作ってきたので、なかなかこの首都を捨てられず、自分の命の最後まで見届けたいと思う。そして大正から戦前にかけて、暗い谷間の時期を時代に流されずちいさな灯火を点した人々のことを考えていきたい。今回は少し、遡ってみるために、昭和十一年に軍部の独走を批判して粛軍演説を行った斎藤隆夫の大正を追ってみる。

 斎藤隆夫のことは、昭和十一年五月、帝国議会において粛軍演説をした勇気ある政治家として名前を知っていた。若い人はこの名前で「ゴルゴ13」の漫画家を思い浮かべるようだが、そうではない。明治、大正、戦前、戦後まで生き抜いた政治家である。彼は民政党の議員で、取り立てて左翼だったわけではない。天皇を崇敬し、お国のために役に立ちたいと願っていた。しかし二・二六事件の青年将校たちが「維新」を標榜し、軍部が「革新」と称して暴走しそうなときに、あえて「保守」としてたった一人その手綱を引こうとした。彼は保守派であると同時に近代的なリベラリストでもあった。だからこそ、「維新」「革新」といった華々しい言葉に惑わされることなく、自由主義と立憲主義を「保守」しようとした。元祖「保守リベラル」であろう。大勢に流されず信念を捨てなかった。四年後の昭和十五年にも、「支那事変処理」に関して国会で質問し、問題視され、国会から除名されてしまうのである。
 その斎藤が本郷区向ヶ丘弥生町三番地に住んだことがあると知った。そこは大正の反骨のジャーナリスト宮武外骨が住んだ番地でもある。たしかに彼の自伝『回顧七十年』の序言には「向ヶ丘偶居において」とある。もう少し斎藤のことを知りたいと思った。この序言にしてからが、「自ら顧みて恥ずることあるも、誇るべき何ものもない」といった淡々とした調子で書かれている。それは成功談ではなく「浮つ沈みつ」の七十年を語ったものである。全体としては口語だが、見ゆる、したる、しかるうちに、探せども、といった文語的表現が多用され、また因果関係を示す「から」が多いように感ぜられる。今回は前編として斎藤のような政治家がどのようにして生まれてきたのか、大正デモクラシーの歴史の中で見ていきたい。

斎藤隆夫(さいとう・たかお):1870年、兵庫県に生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業、弁護士となり、渡米してエール大学に学ぶ。1902年以降、衆議院議員当選13回。二・二六事件直後の特別議会で粛軍演説を行い、また1940年2月、日中戦争に関する質問演説を行って大陸政策を批判し、そのため圧倒的多数の投票により議員を除名された。戦後は第一次吉田内閣、片山内閣の国務大臣となる。1949年10月死去、79歳

 斎藤隆夫は明治三年八月八日、兵庫県の小京都、出石(いずし)の生まれである。養父(やぶ)にある作家山田風太郎の記念館に招かれていったとき、主催者が出石でおそばをごちそうしてくれ、城崎の温泉宿まで送り届けてくれた。
 そのとき出石が江戸時代後期のお家騒動、仙石騒動の舞台であり、また明治女学校を開いた木村熊二や巌本善治のふるさとであるとも知った。木村熊二は十七歳で上野の彰義隊に参加した。幕府恩顧の彰義隊は上野寛永寺に立てこもり新政府軍と一戦を構えたが敗れた。木村は賊軍の汚名を着て明治の世をわたることを潔しとせず、アメリカで長く牧師の修行をし、帰って下谷教会を開く。ここに幕臣であった幸田露伴の父などが通った。その下谷教会女子部として谷中初音町に生まれたのが後の明治女学校である。
 この学校は羽仁もと子、相馬黒光、野上弥生子などを輩出し、清水紫琴、荻野吟子、中島湘煙などが関わった。二代目校長となった巌本善治の妻で「小公子」「小公女」などの翻訳で知られる若松賤子も忘れられない名前である。
 以上、あげた人々はみな、明治の世を反藩閥に立脚して生きた。斎藤隆夫という人も明らかにその系譜にある。
 斎藤は出石といっても藩士の子ではない。出石の町中から離れた室埴村(現豊岡市)のかなり土地持ちの農家に生まれた。兄と四人の姉がおり、両親ともに四十代で生まれた末子であったため、家には縛られなかったが、反対に言えば継ぐべき家産もなかった。八歳で福住小学校に入学したが、どういうわけか、卒業前十二、三歳で京都の西本願寺の附属学校である弘教校というところに入っている。
 弘教校があったという西六条東中筋花屋町上ルというところを訪ねてみた。龍谷大学の西である。西本願寺は浄土真宗大谷派、斎藤の家は浄土宗だった。しかしお経を唱えたり、四書を教わるくらいの旧態依然とした教育に失望して村に帰った。そういうところは直情径行だ。明治五年に「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」との学制は発布されたが、それはなかなか徹底しなかった。
 家に帰って牛飼いや田圃の手伝いをする。当時は農耕はすべて人力と牛の力に頼っていた。斎藤は百姓仕事がいやでたまらなかった。それでまた無断で家出をして京都に向かい、仕出屋の配達、駄菓子の製造などに携わった。これは口入れやの周旋する丁稚奉公である。京都に行ったのはふるさとに近い都会であり、前のときの土地勘があったからだろうが、三ヶ月でいやになった。現状に満足しない人なのである。偉いと思うのは、家出をして帰郷した末っ子を、兄や姉、兄嫁、父、母ともにしかることもなく、無事を喜んでくれたというところである。すなわち、この一家は維新後の近代的な立身の道を知らなかったが、子ども、兄弟に対して愛情を持っていたとわかる。家族の愛情は人を支える。
 斎藤は二十歳を過ぎて、今度は東京に出ることにした。京都からは維新後、明治天皇が東京へ行き求心力がなかった。京都大学ができるのは明治三十年。まだ先のことだ。立身しようとすれば東京に行くほかはない。家族はこれを止めなかったが、豊かな旅費も与えなかった。斎藤は一日八里から十里歩いて十八日間で横浜に至った。東京の知識人の家に生まれた人々から見ればかなり遅い出発だ。
 当時は電話も電報もない。東京でただ一人知った人は小学校の同級生であった。彼を訪ねたが不在で、金も尽き、交番で断られた。芝区役所の宿直に金を恵まれ、一宿一飯にありつく。そして薬や洋酒の店に再び丁稚奉公にでる。このように斎藤の立身ははかが行かないが、その不器用なところがいとおしい。同郷の桜井勉の書生となる。桜井は先にあげた木村熊二の兄であるが、徳島県知事に任命されたので、斎藤は徳島までついて行った。こうして勉学の意図は曲折を余儀なくされる。

 斎藤が東京専門学校(いまの早稲田大学)に入ったのが明治二十四年。明治十四年政変で野に下った大隈重信が小野梓とはかり、高田早苗、天野為之、鳩山和夫、坪内逍遥など東京大学出身者が、官僚養成校である出身校とは違う教育を目指したものであった。筆者も一九七〇年代にこの大学に学び、興味深い授業は藤原保信ゼミ以外になかったが、なにかというと「都の西北」を歌い、「進取の精神」「学の独立」「現世を忘れぬ久遠の理想」は体に刻まれている。斎藤もまた草創期の早稲田の在野精神を心に刻み付けた。学費と生活費で毎月七円でやっていけたという。これを側面援助したのが桜井の紹介した原六郎。同郷の先輩だが、戊辰戦争では鳥取池田藩の覆面部隊の隊長として彰義隊を攻め、維新後はエール大学、ロンドンのキングスカレッジに学び銀行家となった。同郷でも木村熊二とはまったく逆の立場に立った。現在、品川の屋敷あとに原美術館がある。
 斎藤は三年ののち、首席で卒業、弁護士試験の難関(受験者千五百人のうち合格者三十三人)を突破、鳩山和夫事務所のイソ弁(食客)となった。
 鳩山はいまの鳩山由紀夫、邦夫兄弟の曾祖父にあたる。もと美作勝山藩士で、開成学校(いまの東京大学)を卒業、コロンビア大学で学士、エール大学で博士号を取り、当時は東京専門学校校長であった。それと東京帝国大学教授、外務省書記官なども兼務していたと言うからすごい。
 しかし斎藤は鳩山ほど名家の出身でもなく、官学の出身でもなかった。「私立学校出身者が弁護士を開業してもなかなか金は儲からない」。斎藤が早稲田卒業後、エール大学に留学し、政治家を志したのは、この原や鳩山の先例にならったのだろう。

 斎藤がエール大学に入ったのは明治三十四年だから、すでに三十過ぎている。
 英語の習得と資金の調達に時間がかかったためである。前年に兄が亡くなり、家は傾きかけていた。母親もよほど弱って、自分の帰朝まで保ちそうにない。涙を呑んで別れを告げ、法科大学院に留学してみると、講義はさっぱりわからない。一年目は無事に過ぎたが、二年目、肋膜炎で入院、三回の手術を経て、帰国。このときも病院の医療過誤に泣き寝入りせず、論理で談判を重ねている。帰国後もさらに四回、計七回の手術でよくも体が持ちこたえたものだ。
 病癒えた斎藤は弁護士として復活し、弁護士会で活躍し、執筆活動にもいそしむ。この頃、斎藤はこれまで学んだ憲法学や政治学の成果を踏まえて『比較国会論』という本を出している。弁護士業を営みながら、彼の関心は立憲政治にあった。また、明治三十九年には『立憲国民の覚醒』も出版した。その序文は犬養毅が書いている。斎藤は言う。
「立憲政治の下に於いては先ず憲法と云うものがある」。そして「憲法は国を治むる大本を定めたる大法律」であるから、いかなる者も「一歩も憲法を離れて政治を行う能わざるは言を俟(ま)たない」。斎藤の主張を要約しよう。国の大本である憲法には君主(天皇)と政府の役割がはっきりと記されている。君主である天皇でさえも「此憲法の条規に依り之を行う」と帝国憲法第四条に規定されている以上、これを守らねばならない。ならば政府や国会議員は言うまでもない。彼らは必ず誠心誠意をもって憲法を順守し、その精神に従うことを「第一の任務」とせねばならない。
 ここに斎藤の立憲主義思想が明瞭に表れている。いまはほとんど当たり前で死語になってしまったが、この時代は「立憲」という言葉は力のあるキーワードだったのだ。斎藤はこの本の中で「政府の役人等は果して憲法の大精神に基き立憲政治の運用を誤らぬであるか」と問いかけているが、それは当時「立憲政治の運用」を誤るような政治が横行していたからだ。さらに斎藤は、立憲政治がきちんと機能するためには、主権者である国民個々人が立憲意識に目覚め、政治家を適切に監視していかなければならないと書いている。斎藤の筆は極めて冷静だ。そしてこの冷静さを「平時」ばかりではなく「非常時」においても保ち続けたことが、斎藤隆夫という人物のブレのなさだろう。

 病からの回復後に斎藤は遅い結婚をなし、明治四十五年、前々からの望み通り、故郷但馬から衆議院選挙に打って出る。所属は立憲国民党。当時は車もスピーカーもないので、人力車で走り回った。かろうじて最下位で当選。
 明治末のこの頃、山県有朋、松方正義、西園寺公望など元老と呼ばれる人々が政治を動かし、天皇に上奏し、それによって大命降下、組閣がなされるのが常であった。斎藤が議席を得たのは、軍人桂太郎と元老西園寺公望が政権のキャッチボールをしていた時期である。
 議員となった斎藤は明治天皇死去、陸軍師団増強問題、第一次世界大戦、閥族打破・憲政擁護運動、普通選挙、大正デモクラシー、労働運動や小作人運動、シベリア出兵、米騒動、そして関東大震災と続く大正の激動期を生き抜く。内閣首班は西園寺公望、桂太郎、山本権兵衛、大隈重信、寺内正毅、原敬、高橋是清、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦奎吾、加藤高明とめまぐるしく変わり、政党も離合集散した。大正の十五年間に十の内閣だから、平均一年半もたなかった。このうち原と二人の加藤は在任中に命を落とし、桂は倒閣後に病状が悪化してなくなった。
 斎藤隆夫自伝『回顧七十年』はその国会と政党の転々を語るが、大正時代の政治に詳しくないと、理解しにくい。
 明治の中期まで、維新の勝ち組による藩閥政治であったとすると、長州出身の伊藤博文はこれを近代化しようと考えた。憲法を制定、内閣制度を作り、国会を開設した。そして自ら立憲政友会を組織し、初代総裁となった。
 伊藤についてわたしはかつては日本の大国化を推し進め、ハルビンで安重根に暗殺された、やたら女好きの政治家という印象を持っていたが、調べるほどに美点も見えてくる。足軽上がりの気さくで陽気な人で、あまり特権意識を持っていない。国民の政治参加をもくろみ、「自由自在の権」を提唱した。国際協調をモットーとし、日清戦争にも消極的で、対ロ政策も融和的であった。賄賂を受け取らず、金にはきれいだった。この辺は盟友井上馨とは多いに違う。明治四十二年、伊藤がハルビンで六十八歳で暗殺されたあと、政友会は西園寺、原の手に移る。伊藤は斎藤隆夫より三十歳の年上で、斎藤が議員になったときはすでに暗殺されていた。自伝ではほとんど触れられていないが、伊藤の国際協調路線には学ぶところが多かったのではないか。

 斎藤は野党である立憲国民党から立憲同志会、そして加藤高明を総裁とする立憲憲政会に加わった。政友会が三井財閥をバックにしているとすれば憲政会は三菱がバックである。加藤高明は岩崎弥太郎の娘磯路を妻としている。
 この中で、明治四十四年の陸軍師団増強問題はのちの斎藤を考える上で重要と思われるので自伝にはないが、一言しておく。日露戦争終結後の明治三十九年(一九〇六)までに十九個の師団ができていたが、陸軍はさらに二個師団の増設を、第二次西園寺内閣に要求した。
 この西園寺という食えないじいさんにもわたしは長らく興味を持っていた。頭は抜群にいい。家柄も清華家で抜群にいい。実家徳大寺家から西園寺家の養子となり、明治天皇の近習、二十歳になるやならずで戊辰戦争に従軍、山陰道鎮撫総督などで転戦、新潟府知事となる。しかしさっさとやめてフランス留学、十年も帰ってこない。この間、パリでモテモテ。もちろん勉強もし、クレマンソー、ガンベッタ、中江兆民などとも交友を広げた。帰国後、ぶらぶら遊んで、東洋自由新聞の社長になったりしたが、政界がこの「過激な貴公子」(クレマンソー)を放っておくわけがない。伊藤に呼び出され、憲法調査に同行、その腹心として、明治二十七年に文部大臣、政友会総裁、枢密院議長などを歴任するが、健康上の不安から辞任することもあった。
 明治四十四年、まさに斎藤が国会に乗り込んだとき、第二次西園寺内閣の上原勇作陸軍大臣は二個師団増強を要求した。しかし西園寺はもともと軍備増強には慎重で、日露戦争後の国家財政の緊縮や行政改革を理由に拒否、認められなかった上原は辞任、陸軍は後継者を出さず、陸海軍大臣は現役武官にかぎることから西園寺内閣は立ち往生して総辞職した。この辺から軍部にたいする文民統制(シビリアンコントロール)は崩れていくのである。
(大正元年十二月)二十一日桂内閣が成立したが、これにより憲政擁護、閥族打破の大運動が起こり、政界は騒然たる有様となった」
 国民党の犬養毅、政友会の尾崎行雄らはこの運動を起こしたことで「憲政の神様」と讃えられることになる。これは「大正デモクラシー」の幕開けとして覚えておこう。二月五日、内閣不信任案を提出する尾崎行雄の趣旨説明とともに。
「彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱え、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如くと唱えてありまするが、其の為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代えて政敵を倒さんとするものではないか」
 ヤジで騒然とする中を大岡育造衆院議長は最後まで尾崎に説明させた。大岡は同郷の桂に退陣を勧告したともいわれ、長州出身だが、弁護士として数々の重要事件を手がけた。谷中墓地に白い清楚な墓がある。
 二月十日、憲政擁護の民衆は上野公園や神田に終結、大規模な大衆行動が起こり、桂内閣は倒れた。これが大正政変である。受験勉強で暗記するのではもったいない。
 斎藤はこの年、オランダのハーグでの万国議員会議に出席のため、七月から十月まで四ヶ月間、ヨーロッパに出張した。行き帰りともシベリア鉄道を使い、見聞を広めてきた。帰国して加藤高明を総裁に押し立て立憲同志会を結成する。これは桂新党とも言われるものであり、斎藤の本来の政治理念とはあいいれないが、無所属議員では実力が発揮できず現実的な選択をしたものだろう。

 続く山本権兵衛内閣はシーメンス事件の海軍収賄で辞職、大隈老内閣で斎藤の属する同志会は与党となり、加藤高明は外務大臣となる。次の寺内内閣を斎藤は「閣僚中には一人の政党員なく、純然たる官僚内閣であった」と批判している。そして大正五年十月、加藤高明を総裁にいよいよ憲政会が結成され、一九七人を擁して第一党となった。しかし憲政会が犬養毅の国民党と組んで寺内内閣弾劾をして解散、総選挙となったところ、豈図(あにはか)らんや、政友会圧勝。斎藤は言う。「第一党たる憲政会は第二党に蹴落とされて、これより十年苦節をなめなければならぬことになった、一度作戦を誤ればかくのごときものである」(『回顧七十年』43頁)
 面白いのは同時代の政治家評である。「かの感情強き犬養氏に至りては、憲政会を恨み之を憎むの情は尋常一様ではない」のちに五・一五事件で首相として暗殺される犬養はいまも「憲政の神様」と言われているのだが。「後藤(新平)内務大臣に至りては滔々数千言を費やしているが、その内容は氏一流のずさんなる議論であって感心に価するものはない」。後藤と言えば、現在では台湾や満州経営の手腕、関東大震災後の復興計画、ボーイスカウトの創設など、礼賛に近い評価が主流となっている。斎藤の言はカリスマ化を打ち砕く力を持っている。
 さて、当時の政治家は女性関係が派手だった。伊藤博文はあまりの芸者好きを明治天皇にたしなめられ、松方正義は天皇に何人子どもがいるか問われて答えられなかった(二十六人)。その明治天皇も少なくとも十五人の側室を持っていた。西園寺公望は独身だが公務海外出張に妾を同行させ、睦奥宗光は仙台や新潟で獄にとらわれたときでさえ現地の芸者に子どもを産ませ、桂太郎を弾劾する民衆は愛妾お鯉の家を襲う、といった「英雄色を好む」中にあって、斎藤隆夫は女性に関しては清廉であった。女性の評者に取ってはけっこう気になるところである。斎藤は妻一人を護った。しかし子どもは次々生まれ、次々死んだ。静江、光子、文子、三人の女児を失った悲嘆を斎藤は政治と同じ重さで、自伝に記している。
 大正八年には再びブリュッセルでの万国商事会議出席のため渡欧、ウィッドロー・ウィルソン、ロイド・ジョージなどの政治家の風貌を刻む。
 大正九年、三女を失った悲しみの癒えぬまま、総選挙に臨んだ斎藤は生涯ただ一度の落選を喫する。「これよりしばらく院外者として辛抱せねばならぬ。政治家として世に立つ以上は議席は絶対必要である」と自伝に書いている(『回顧七十年』53p)
 まさに、斎藤が議席を失っているその間にも大きく世界は動いた。
 大正十年の十一月四日、政友会の原敬が東京駅頭で中岡艮一(こんいち)に暗殺される。
 原敬は平民原家の嗣子(しし)となり、爵位を固辞し続けたため平民宰相と人気が高いが、もとは南部藩家老の家柄である。負け組の出身として戊辰五十年祭を行ったときの「戊辰戦役は政権の異同のみ」という一言には好感を抱くが、彼の取った交通、産業、軍備、教育の積極政策は結果、財閥と官僚の権益増大につながり、地方への利益誘導型政治の基本を作ったとも言われる。
 いま東京駅の暗殺現場には六角のマークが床にはめ込まれ、プレートも掲げられている。わたしは『帝都の事件を歩く』(亜紀書房)で中島岳志さんとこの場所を訪れており、詳しいことはそちらを読んでほしい。斎藤は「惜しむべし一代の英傑は大志を抱いて黄泉の客となり、政府および政友会の基礎もここに同様の端を開いた」と評している。
 十一年新春早々には大隈重信、山県有朋死去。二月四日ワシントン軍縮会議で、加藤友三郎首席全権・海軍大臣は米英を5に対し日本は3の軍備計画に署名、海軍は軍艦九隻の建造中止を命令した。加藤は生粋の海軍軍人で日清戦争では丁遠、鎮遠などの清の軍艦を破り、日露戦争でも東郷平八郎、秋山真之とともに戦艦三笠の艦橋に立っていた。
 海外ジャーナリズムは痩せた加藤に「ロウソク」なるあだ名をつけたが、加藤が「五五三艦隊案」をあっさり飲んだので一転、評価が変わったという。加藤は「米国とは日露戦争のような軍事費ではとうてい戦えない。もし戦うとしてもその費用は米国に外債を買ってもらうしかない。結論として日米戦争は不可能。外交手段により戦争を避けることが、目下の情勢において国防の本義なり」といった内容を海軍省に伝達した。そして総理大臣となって約一年二ヶ月の短期間に、主力艦一四隻の廃止など海軍軍縮を進め、シベリア撤兵、協調外交を遂行した。
 海軍がそうなら陸軍も、と軍備縮小が国会で可決。山梨半造陸相はこの年だけで五万八千人の将校・兵隊を整理した。これは維新以来右肩上がりに増強されてきた軍備を初めて削る試みであった。そして浮いた予算は装備の近代化と国債償還に充てられた。例えば日露戦争時の夏目漱石などは東京大学講師の給料から製艦費を引かれたりしていたわけだが、そういうこともなくなり、予算はより多く民生に使われた。昭和の孤立とも言える斎藤隆夫の粛軍演説の前に、大正時代にもこうした軍縮の動きは何度もあった、ということを覚えておきたい。
 そういうこの年の三月から七月までは平和記念東京博覧会が上野で開かれ、わたしの聞き書きではこの思い出を話す人が多かった。加藤は任期中に大腸がんに倒れ、歴代首相の中では影が薄いが、こうした軍人がいたことも覚えておきたい。
 大正十二年九月一日、鎌倉の避暑先から帰った斎藤は関東大震災に遭遇、一時は子守りに背負わせた下の二人と避難中にはぐれ、心配するが、さいわい家族はみな無事だった。この年、十二月、第二次山本権兵衛内閣は難波大助による摂政宮暗殺未遂事件の責任を取って総辞職、もっとも西園寺はこんなことで辞職してどうする、と激怒したそうだ。
 翌十三年一月に清浦奎吾(けいご)内閣が成立したが、これは貴族院に軸足を置き、政党を無視した「超然内閣」であったため政友本党、憲政会、革新倶楽部の護憲三派による第二次護憲運動が起こる。このときに衆議院解散、総選挙が行われ、斎藤は議席を回復する。憲政会は第一党となり、加藤高明が首班となった。彼は尾張藩士の子で、初めて東京大学を卒業した新時代の総理であった。イギリス公使や外務大臣を務めた海外通だった。彼が総理である時代、普通選挙法も成立させたが、いっぽう抱き合わせで治安維持法も成立させた。
 普通選挙法と言っても女性はあらかじめ除外されており、なにが「普通」だ、と言いたくなるが、二十五歳以上の男子に納税額に関わらず選挙権を与えるこの法案を通すにあたり、斎藤隆夫は衆議院で一時間五十分の演説をぶった。帝国議会データベースはなにぶん旧漢字旧仮名(しかもカタカナ)で読みにくい。要約してみよう。
「普通選挙を骨子とする選挙法の改正はわが国多年の課題である」「先進国では女子参政権の問題も着々として其の解決を急ぎつつある」「国家の運命を左右するところの国家意志の決定に参与するところの力が即ち選挙権の本質であります」。しかるにいままでこの権利を「一部の有産階級に独占せしめ、彼等少数者の意のままに放任」してきた。
 さらに「普通選挙は国体を破壊するという意見があるが根拠はない」「家長にのみ選挙権を与え個々人には選挙権を与えるべきではない、という議論もあるが、それは憲法の精神に反している」。憲法を見ると、そこには「臣民の権利義務」の規定があるが、その権利義務の主体は「ことごとく臣民個人」であり「家長でもなければ家族でもない」「家長選挙権」などというものは、国家の根本を「家族国体」に置くものであって、わが国の憲法とは「全然矛盾する」ものである。また大選挙区では同士討ちが多く小選挙区ではそれがないというのは誤りである。
 このあたり、現在の有権者の十数パーセントしか投票しなかった党が八割近い議席を占めるという小選挙区制の弊害にも示唆のある意見である。また、ここで国家組織の根本は家族国体にあるのではなく個人にある、と述べていることにも、のちに全体主義化が進む中で粛軍演説を行い、浜田国松と共に『議会主義か・フアツシヨか』を記すことになる斎藤の信念がうかがい知れる。
 斎藤は明治天皇の歌、英国などの例を持ち出し、ノウノウ、ヒヤヒヤはじめ反対党の妨害的ヤジを受けたが、これに動ぜず堂々たる賛成演説を貫徹した。
 平時においても、斎藤が民衆の平等な政治参加を願っていたことはこの普選演説から明らかである。

 

 

(第1回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2015年9月25日(金)掲載