暗い時代の人々 森まゆみ

2015.9.17

02斎藤隆夫(下) 政治史上、不朽の反軍演説

〈編集部より〉

 森まゆみさんの連載「暗い時代の人々」の第2回「斎藤隆夫・下」(本稿)は9月25日(金)の公開を予定しておりましたが、予定を変更して、本日全文を緊急公開いたします。公開の理由は2015年9月17日現在、国会審議中の安保法案が、十分な審議を尽くさないまま参議院特別委員会で強行採決された(23時00分時点で参議院本会議にて審議中)ことによります。斎藤隆夫は二・二六事件の直後に軍部を批判する「粛軍演説」を行い、また日中戦争の折にもこの戦争に根本的な疑念を呈する「反軍演説」を行ったことにより衆議院議員除名処分を受けた反骨の政治家です。「あき地」編集部は、斎藤隆夫という政治家について書いたこのテクストは、いまこそ広く読まれるべきだと考え、著者の同意を得てここに全文を先行公開いたします。(編集担当:小原央明)

 

森まゆみ「暗い時代の人々」 第2回「斎藤隆夫・下」

 

斎藤隆夫の三つの演説

 

 前回は但馬国出石(いずし)出身の保守リベラル政治家、斎藤隆夫の大正十三年一月の普通選挙法を支持する演説までを追った。彼は戦後の一九四九年に七九歳で長逝したが、それまで一回の落選以外は十三回当選、議員職に三十五年間あった人気政治家であった。これは憲政の神様といわれた尾崎行雄に継ぐ長期議員生活である。
 政治学者伊藤隆氏によれば、彼の武器はその演説のみであった。下原稿を作り、何度も声に出して練習し、当日には頭にすっかり入っており、その言葉の強さは秘書官の作った草稿丸読みの政治家とは違う迫力があった。
 岡本一平が「ネズミの殿様」とニックネームを付けたほどの風采の上がらない小男で、青年時代に肋膜を病んで手術を受けたため、姿勢にもゆがみがあった。しかし声はよかった。後編ではいよいよ、彼の名を不朽のものとしている戦前の演説に向かおう。斎藤には三大演説と呼ばれるものがある。一つは前編で取り上げた普通選挙賛成演説、そして残りの二つが「粛軍演説」「反軍演説」と呼ばれるものである。

斎藤隆夫(さいとう・たかお):1870年、兵庫県に生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業、弁護士となり、渡米してエール大学に学ぶ。1902年以降、衆議院議員当選13回。二・二六事件直後の特別議会で粛軍演説を行い、また1940年2月、日中戦争に関する質問演説を行って大陸政策を批判し、そのため圧倒的多数の投票により議員を除名された。戦後は第一次吉田内閣、片山内閣の国務大臣となる。1949年10月死去、79歳

 昭和二年、立憲民政党の浜口雄幸内閣が成立、斎藤隆夫は内務政務次官に就任。議員になってから十七年が経っていた。浜口は斎藤と同年齢だが、帝国大学法科を出て大蔵省に入った官僚上がりのエリートである。しかし実直謹厳でありながら、ライオン宰相などとニックネームを付けられる人気もあった。軍部の八々艦隊なとの軍備膨張要求をはねのけ、民生重視の軍縮、緊縮財政、金本位制への復帰を目指した。このころは風俗史的には、エログロナンセンスの時代、「大学は出たけれど」の就職難の時代、アナボル論争(アナルコ・サンディカリスムとボルシェビズムとの間の社会運動の方法論を巡る論争)が起こり、左翼団体が次々出来た時代であるが、着々と軍の権力伸張は進んでいた。
 昭和五年にはロンドン海軍軍縮条約で、日本は米に対しての補助軍艦比率69.75パーセントを決められた。これについて浜口首相は「世界平和の確保に貢献する事をえるに至りました」と評価し、協調派の幣原喜重郎外相は「軍事費の節約が実現」「協定内で国防の安固は十分に保障」と説明している。
 これを軍の最高権力者大元帥である天皇の許可を得ないで決めたと攻撃したのは、政友会犬養毅、鳩山一郎らであった。犬養は護憲運動を押し進め、五・一五事件で殺された悲劇の宰相として、鳩山一郎は戦後の保守合同を成し遂げ、日ソ国交を回復した総理大臣として好意を持たれているが、このときの二人の役回りは党利党略とはいえ、まさに政党政治を否定し、軍部の台頭に道を付けるものであった。
 こうした攻撃のなかで、浜口首相は昭和五年十一月十四日、東京駅頭で右翼団体愛国社の佐郷屋留雄(さごや・とめお)に銃撃を受け、翌昭和六年四月、内閣総辞職、浜口も死にいたる。いまも東京駅丸の内駅舎を入ると、「浜口首相遭難現場」には敷石に印が埋め込まれている。斎藤はこの根回しをしない、直情径行な浜口を慕っていたようで、自伝『回顧七十年』でも心からの哀悼の意を表している。日比谷で行われた党葬には二十万人の人が集まった。
 とにかくこの大正末から昭和初期にかけては、政治的激動期というのか、不安定期というのか、毎年のように内閣は総辞職し、最後の元老といわれた西園寺公望が次期首班を推挽するのが常であった。加藤友三郎、加藤高明は在職中に亡くなったし、山本権兵衛は天皇への爆弾事件虎ノ門事件に恐懼(きょうく)して辞職した。田中義一は張作霖爆殺事件の責任者をきちんと処罰しなかった事に天皇が激怒し、その結果、田中は心臓発作を起こして急死した。東京駅頭で狙撃された首相が原敬と浜口雄幸である。原は即死、浜口は半年ほど長らえた。
 第二次若槻礼次郎内閣で民政党議員斎藤は法制局長官に就任した。しかし柳条湖事件の責任を取って若槻内閣が総辞職すると、西園寺は苦慮の末、政友会の犬養毅を首班とする。そして彼は翌年、海軍将校によって「問答無用」といって射殺される。これが五・一五事件、昭和もテロの時代に入ってきた。
 その前の昭和七年二月には、若槻内閣の大蔵大臣として緊縮財政、金本位制復帰を司った井上準之助が血盟団の小沼正によって殺された。これはちょうど選挙演説会にわが住む本郷区(現・文京区)の駒本小学校に来たところをやられたのである。井上は帝大の英法科を出て日銀で高橋是清の教えを受けた俊英であった。さらに三月には三井合名理事長団琢磨が同じく血盟団員菱沼五郎に暗殺された。ひ孫に当たる建築家の団紀彦さんに三井本館の現場を案内していただいた事がある。

「曾祖父は岩倉使節団に従い、そのままマサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ技師でした。東京大学で教え、そこから官僚になり、さらに財界人に転身しました。不況の後でどうにか資材と人材の調達で好況にしようとこの三井本館を建てたのですが、この不況時にこんな贅沢なものを作るとは何ごとだと筋違いの理由で暗殺されています」

 団琢磨の暗殺理由には昭和恐慌の際、ドルを買い占めた事もあるという。

 斎藤隆夫もこんな時代を政治家として生き抜く事が怖くはなかったろうか。
 いや佐郷屋に撃たれてなお「男子の本懐だ」と言い切った浜口雄幸のように、この「ネズミの殿様」も覚悟はしていただろう。政治に死なないまでも、長男の重夫は肋膜を病んで、早稲田在学中に二十二歳で死去した。斎藤の自伝『回顧七十年』の面白さは、こうした政治の東奔西走と同じ重みでもって、愛する家族の生と死を見つめているところである。
 昭和十一年の二月二十六日、「時世に憤慨したと自称する二十余名の陸軍青年将校が、千数百名の下士卒を率いて重臣顕官を襲撃して即死または重傷を負わしめ、恐るべき反乱を起こした」と斎藤は自伝に書いている。これが二・二六事件である。標的となり殺されたのは高橋是清、斎藤実、重症は渡辺錠太郎、重傷は鈴木貫太郎、また岡田啓介首相の身代わりになって妹婿の松尾伝蔵大佐が死亡した。
 筆者の母は昭和四年生まれで、そのとき九段坂上、白百合学園の小学校一年生だった。
「雪の日で、田安門を反乱軍が銃剣を立てて守っていたのを覚えている」そうである。また岡田首相は弔問客であるかのようなモーニングに変装して首相官邸を脱出、駒込蓬莱町眞浄寺にかくまわれた。これはわが地域雑誌「谷根千」に村山文彦さんが投稿してくださった秘話である。
 翌日、首相不在のまま岡田内閣は総辞職、事件を知った天皇は「朕が股肱の老臣を殺戮す。この如き凶暴の将校等、その精神においても何の許すべきものありや」と自ら近衛師団を率いて鎮圧する意志さえ示した。

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二・二六事件で永田町を占拠する兵士たち


 昭和十一年五月六日より始まった第六十九議会で斎藤隆夫は七日午後三時すぎより、一時間二十五分の長い演説を行った。「その間満場は粛然として一言の私語を聞かなかった」という。これが彼の有名な「粛軍演説」である。長いものであるが、少しだけ引用したい。

「一体近頃の日本は革新論及び革新運動の流行時代であります。革新を唱えない者は経世家ではない、思想家ではない、愛国者でもなければ憂国者でもないように思われているのでありまするが、然らば進んで何を革新せんとするのであるか、どういう革新を行わんとするのであるかといえば、殆ど茫漠として捕捉することは出来ない」

 当時、革新は左翼でなく、むしろ軍部の標語となっていた。その背後には北一輝ら「国家社会主義者」の理論的支柱がいて、国家改造、昭和維新を唱えていた。斎藤はこのような「革新論」が「思慮浅薄なる一部の人々」を刺激することの危険性を指摘する。そして、当時広田首相の唱えていた「革新政治」というものの具体的な内実について、行政改革、教育改革、裁判権の問題の三つの側面から問いただす。
 しかし彼の主張はそのつぎの軍部に関する質問にあった。
 斎藤は五・一五事件の裁判の公判記録を読み、裁判を傍聴して、被告人の態度は堂々とし、内に顧みてやましいところはないが、「如何にもその思想が単純でありまして、複雑せる国家社会を認識する所の眼界が如何にも狭隘である」と断じた。こうした「純真だが危険」な青年軍人たちの動きに対して、「軍部当局は如何なる処置をとられたかというと、これを闇から闇に葬ってしまって、少しも徹底した処置をとっておられないのであります」
 このように、斎藤は軽いジャブを入れながらも、それを波状攻撃に変えていき、聞く人の印象に残るように言葉を繰り返す。さながらローマの演説家マーク・アントニーか、近くはキューバのカストロも同じ手法を使った。
 昭和六年の三月事件(陸相宇垣一成を担いでのクーデター未遂事件)、十月事件(桜会によるクーデター未遂事件)、これらを軍部が原因を追及し、徹底的な処分をしたならば五・一五事件(犬養首相暗殺事件)は起こらなかったに違いない。また五・一五で裁判官に軍部が圧力を加えなかったら、首相を殺した軍人は軍法会議で軽い禁錮ですみ、不発の爆弾を投じただけの民間被告(橘孝三郎)が終身刑となるような不公平な裁判はなされなかっただろう。このような曖昧模糊な握りつぶしが二・二六事件を生んだのだ、と斎藤は正面切って訴える。

「それは何であるかというと、この事件に関係致しました所の青年将校は二十名であるのであります。公表せられる所の文書によると二十名である、所がこれ以外により以上の軍部首脳者にしてこの事件に関係している者は一人もいないのであらうか。もとより事件に直接関係はしておらぬでありましょう、しかしながら平素これらの青年将校に向かってかかる一種の思想を吹き込むとか、彼らがかかる事件を起こすに当たって、精神上の動機を与えるとか、或いはかかる事件の起こることを暗に予知している、或いは俗にいう所の裏面において糸を引いている、こういう者は一人もなかったのであるか。私の観る所によりまするというと、世間は確かにこれを疑っているのであります」

 陸軍上層部の暗躍を白日の下にさらす。そしていまこそ立憲政治家の立ち位置はどうであるべきかを語る。これは飜って政治家たちの弱腰の批判になっている。

「苛(いやしく)も立憲政治家たる者は、国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家の為に公明正大なる所の政治上の争を為すべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てる如きは、立憲政治家として許すべからざることである。況(いわ)んや政治圏外にある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、これは政治家の恥辱であり堕落であり、また実に卑怯千万の振る舞いであるのである」

 国民のなかにある不安と不満、しかし治安維持法などがあって言論の自由がないためにそれを口にすることは出来ない。いずれ国民の忍耐が尽きる日が来るであろう。「もとより軍部当局はこれ位なことは百も千もご承知のことでござりましょうが、近頃の世相を見まするというと、何となくある威力によって国民の自由が弾圧せられるが如き傾向を見るのは、国家の将来にとって何に憂うべきことでありますからして敢えてこの一言を残しておくのであります」
 議場は静かだった。降壇した斎藤には他党からも握手を求める議員が相次いだ。翌日の新聞は粛軍に関する部分の速記を載せ、「舌鋒鋭し」「論旨明快、理路整然」「記念的名演説」「斎藤君こそ今会議の花形」とかき立てた。また「寺内陸相が「ご趣旨には全く同感である」旨を明確に答え、縮軍の決意を披瀝したことによって、斎藤君の論陣は、朝野をひっくるめて一つの大きな国民的感動のなかに持ち込んだ」(『東京朝日』5.14)とも評せられた。代議士の渡辺銕蔵は「おれは今日の演説を聴いただけで代議士になってよかったと思ったよ」と後輩に語り、在留米人メーソンは、自宅を訪問、「米国独立史を飾ったパトリック・ヘンリーの名演説とともに、長く世界の歴史に残るだろう」と賞賛した。尾崎一雄は

〈正しきを践みて怖れず君独り 時に諛(へつら)る人多き世に〉

 という和歌を送ってきた。しかし時代はどんどん悪くなっていく。広田内閣も十ヶ月でつぶれ、続く林銑十郎内閣も短命で、病躯を理由に大命を固辞し続けた公家の近衛文麿が組閣する。しかし軍部に制せられ、政党からは一人ずつが個人の資格で入ったのみ、とうてい近衛公は手腕をふるうことは出来なかった、と斎藤は自伝で回想している。盧溝橋事件が起こり、ここからを日中戦争と呼ぶ。大本営が設置された。

  軍部が暴走する事を議会で斎藤一人が阻止しようとしたわけではない。例えば広田弘毅内閣時代、昭和十二年一月に政友会の濱田國松代議士と寺内寿一陸相のいわゆる「腹切り問答」もあった。濱田は「軍民一致協力という事を近頃よくいうが、これが憲法政治にはよろしくない思想である」「軍人も国民ではありませんか、国民一致協力の政治とは何故いわないのか」。これに対し、寺内は「軍人に対していささか侮辱されるような感じを致す所のお言葉を承りますが」などと反論したため、浜田は嚙み付いた。「速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら僕が割腹して意味に謝する、なかったら君、割腹せよ」
 七十歳の痩躯の老議員の歯切れのよい言葉に満場は喝采した。この日から浜田には警視庁から護衛がついた。しかし浜田は「殺されたとて仕方あるまい。信念をいっただけだ。ナーニ、人生七十すぎまで行きているのはプレミアムだ」と浜田は飄々(ひょうひょう)としていたという(草柳大蔵『斎藤隆夫かくたたかえり』)
 斎藤の名演説には、第七十三議会における昭和十三年二月二十四日の「国家総動員法に関する質問演説」も上げられるであろう。ここでも斎藤は「憲法上に保証せられておりまする所の日本臣民の権利自由及び財産、一言にして申しまするならば、即ち国民の生存権、これに向かって一大制限を加えんとするものであります」と真っ向から反対し、憲法遵守の姿勢を変えていない。
 安倍内閣が憲法を無視して安保関連法案を強行採決しようとするいま、この斎藤の議会での奮闘は、背筋が寒くなるような迫力をおぼえる。「議会が立法をなし、政府が行政を為す、如何なる場合に当たってもこの条規(憲法の条規)を踏み外すことは出来ない、これを乱る所の一切の行為は許されない」これはいまも有効な抵抗線である。
 斎藤の演説を聞こうと傍聴者はいっぱいになったが、答弁する大臣がなく議会は紛糾した。しかしこの法案は「天皇の非常大権」という「委任立法」という変則的な方法で五月五日にやすやすと通ってしまう。日本軍は戦線を拡大し、昭和十三年十月二十五日、武漢三鎮を占領。このとき、女性作家の林芙美子と吉屋信子がメディアに乗せられて、漢口一番乗りを争った見苦しさは同業として胸に刻まなければならない。この夏、斎藤隆夫は過労のためか、よろめいて柱に頭をぶつけた。すでに六十代の終わりになっていた。このころの斎藤には脅迫状が送られる一方、さらなる演説を期待する声も多く届けられた。
 昭和十四年には第一次近衛内閣が総辞職、平沼騏一郎内閣も泡の如く消えた。本当に短命続きである。ノモンハン事変が起こり、さすがの元老西園寺公望もすでにカードは切り尽くしていた。軍部の推挽で阿部信行という陸軍大将が首相となったが、いま誰もこの名前を覚えていないに違いない。陸軍のなかでは中立で色もなかったが、首相の荷は重すぎ、内政の失敗がたたり、四ヶ月半で早々に総辞職(その後も阿部は翼賛政治会会長、朝鮮総督などを務める)。そして昭和十五年一月十六日、新英米派とされる米内光政内閣が成立。
 その直後の昭和十五年二月二日、七十一歳の斎藤隆夫は二年ぶりに登壇する。「支那事変処理に関する質問演説」いわゆる反軍演説を行った。

「支那事変が勃発しましてからすでに二年有半を過ぎまして、内外の情勢はますます重大を加えているのであります。このときに当たりまして一月十四日、しかも議会開会後におきまして、阿部内閣が辞職して、現内閣が成立し、組閣二週間の後において初めてこの議会に臨まるることに相成ったのであります。総理大臣をはじめとして、閣僚諸君のご苦心を十分にお察しするとともに、国家のために切にご健在を祈る者であります」

「一体支那事変はどうなるものであるか、いつ済むのであるか、いつまで続くものであるか、政府は支那事変を処理すると声明しているが如何にこれを処理せんとするのであるか。国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、この議会を通じて聴くことが出来得ると期待しない者は恐らく一人もないであろうと思う」

「そこでまず第一に我々が支那事変の処理を考うるに当たりましては、寸時も忘れてならぬものがあるのであります。それは何であるか、他のことではない。この事変を遂行するに当たりまして、過去二年有半の長きに亘って我が国家国民が払いたる所の絶大なる犠牲であるのであります。即ちこの間におきまして我が国民が払いたる所の犠牲、即ち遠くは海を越えてかの地に転戦する所の百万、二百万の将兵諸士を初めとして、近くはこれを後援する所の国民か払いたる生命、自由、財産その他一切の犠牲は、この壇上におきまして如何なる人の口舌をもってするも、その万分の一をも尽くすことは出来ないのであります(拍手)」

 支那事変に対する方針とされる近衛声明の各条を斎藤はひとつひとつ突っ込んでいく。また前年十二月の「東亜新秩序当案要旨」は我々実務的政治家には「なかなかこれは難しくて精神講話のように聞こえる」ともいう。さらに「聖戦」批判に踏み込むと議場は騒然となった。

「彼ら(キリスト教の列強)は内にあっては十字架の前に頭を下げておりますけれども、ひとたび国際問題に直面致しますと、キリストの信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、弱肉強食の修羅道に向かって猛進をする。これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。この現実を無視して、ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない」

 飜って、孫文亡き後の蒋介石の重慶政府と日本の傀儡である汪兆銘の新政府との関係を問いただし、新政権は中国の広い国土を統治する力はあるのか。責任を持って国際業務をする力はあるのか。

「そうしてかくのごとき状態が支那に起こるのは何がもとであるかというと、つまり蒋政権を対手にしては一切の和平工作をやらない、即ち一昨年の一月十六日、近衛内閣によって声明せられました所の爾来(じらい)国民政府を対手にせず、これに原因しているものではないかと思うが、政府の所見は如何であるか」

 さらに斎藤は、戦時下の国民に忍耐を強いておきながら、戦時経済の波に乗って莫大な利益を得ている者がいる、と告発する。

「例えば戦争に対する所の国民の犠牲であります。いずれの時にあたりましても戦時に当たって国民の犠牲は、決して公平なるものではないのであります。即ち一方においては戦場において生命を犠牲に供する、或いは戦傷を負う、しからざるまでも悪戦苦闘してあらゆる苦艱に耐える百万、二百万の軍隊がある。またたとえ戦場の外におりましても、戦時経済の打撃を受けて、これまでの職業を失って社会の裏面に蹴落とされる者もどれだけあるか分からない。しかるに一方を見まするというと、この戦時経済の波に乗って所謂殷賑(いんしん)産業なるものが勃興する。或いは「インフレーション」の影響を受けて一攫千金はおろか、実に莫大なる暴利を獲得して、目に余る所の生活状態を曝け出す者もどれだけあるか分からない。(拍手)戦時に当たってはやむを得ないことではありますけれども、政府の局にある者は出来得る限りこの不公平を調節せねばならぬのであります」

「しかるにこの不公平なる所の事実を前におきながら、国民に向かって精神運動をやる。国民に向かって緊張せよ、忍耐せよと迫る。国民は緊張するに相違ない。忍耐するに相違ない。しかしながら国民に向かって犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない。(拍手)これと同時に政府自身においても真剣になり、真面目になって、もって国事に当たらねばならぬのではありませぬか(「ヒヤヒヤ」拍手)

 この演説を反軍演説と称するのはそぐわないような感じがする。斎藤は近衛声明の内実をただし、現実に力を持つ蒋介石の重慶政府を相手にせず、亡命政権を後押しする政府方針は非現実的であり、このままでは戦争は泥沼化し、国民の犠牲は大きくなる一方である、と当然の事を述べたまでだ。
 しかしその勇気を持つ議員は他にいなかった。この演説の後段、全体の三分の二はすぐさま議会議事録から削除され、国民には知らされなかった。またこの演説によって、斎藤は懲罰道義にかけられ、衆議院を除名されるに至る。

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1940年3月7日、衆議院議員を除名された斎藤の名札が議席から取り外された


 昭和十六年十二月八日、遂に日本はアメリカに対し、真珠湾の奇襲によって戦端を切って落とした。斎藤はもう一度選挙に非翼賛候補者として出直し、議席を回復した。得票は19,743票で第一位。この斎藤を毎回国会に送った但馬の人々もエラいものである。斎藤は常々、狭い地域の利益を代表しない、と公言していた。代議士になっても地元には利益誘導をしなかった。田中角栄や荒船清十郎とは真逆の思想である。それでも地元の人々は「先生も命がけで闘っているんだから、わしらも命がけでがんばらんと」といいかわしていたという。しかし軍部の暴走はpoint of no returnまでいってしまった。その後の日本の悲惨な戦争と死者三百二十万、戦争に巻き込まれて死んだ二千万人ともいわれるアジアの人々の命、戦後の占領といまに続くアメリカの属国化についてはいうをまたない。  戦後、斎藤隆夫は吉田・片山内閣で大臣を務め、昭和二十四年、八十歳でなくなった。斎藤隆夫の存在は闇のなかの一すじの光である。代議士はいくら世に時めいても死んですぐに忘れられる。しかし斎藤隆夫の名は歴史の決定的瞬間に揺るがずに行ったいくつもの名演説によって政治史の上に不朽である。しかし私はもっと民衆の暮らしのなかで、斎藤の名を語り継ぎたい。

 

(第2回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2015年10月30日(金)掲載